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恥れメロス/今さらながら太宰治

01走れメロス
※太宰 治・作品集『走れメロス』/新潮文庫のカバー表紙と裏表紙の紹介文。

恥れメロス/感想:太宰治・作『走れメロス』
今さらながら太宰治の『走れメロス』を読んだ。この作品は教科書にも採用されているという。僕も国語の教科書で『走れメロス』というタイトルを目にしていたような気もするのだが……「読んだ」という記憶はない。ただ、一般知識として(?)内容については、なんとなく漠然と知っていた。「メロスは何か約束をして、定刻までに到着しなければ、自分の代わりに人質となった親友が処刑される──そんな状況で、メロスは自分の命と引き換えに親友を救うため、満身創痍になりながら、走った」という程度の認識だった。イメージとしては《友情や誠実さをうったえた作品》で、教科書に載るくらいなのだから《崇高な話》なのだろうと思い込んでいた。

教科書に載っていたらしいのに(?)、読んだという印象が残っていないのだから、(僕にとっては)面白い話ではなかったのだろう──そんな思いもあって、長い間、読み返してみよう気にはならなかったのだが、先日、ふと気まぐれを起こして読んでみたところ、やはり共感のもてる作品ではなかった。「ひどい話だなぁ」と言うのが第一印象。有名な作家の有名な作品なのだから、おそらく一般的(?)には評価も高いのだろうが、僕が感じたところを正直に記しておくことにした。
僕の感想を記す前に、まず『走れメロス』のあらすじはというと──、

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メロスは唯一の肉親である妹に結婚式を挙げさせてやるために10里離れたシラクスへ買い出しにやってきた。この市には無二の友人セリヌンティウスが住んでおり、彼のところへも寄るつもりでいた。市に入って活気がないことに気づいたメロスは老爺を捕まえてわけを問う。王様が猜疑心から人を次々に殺していると聞いたメロスは「あきれた王だ。生かしておけぬ」と激怒し、「必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬ」と決意して王城へ向かう。
しかし、メロスはあっさり警戒中の警吏(けいり)に捕縛されてしまう。それでもメロスは暴君ディオニス王に「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳だ」と意見し、王は「人間はもともと私慾の塊だから信じてはならないのだ」と応える。
メロスははりつけにされることになるが、その前に妹に結婚式をあげさせてやるための猶予を3日くれと懇願する。3日後の日没までに必ず戻って刑を受けるというメロスの「約束」を王は信じようとない。メロスは「約束」が本当であることを担保するために、友人セリヌンティウスを身代わりに置いて行くから約束が実行されなければ殺せばいいと王に提案する。王はメロスが死ぬために戻ってくるとは思っていなかったが、「約束」が嘘であったことを証明し「これだから人は信用できない」ということを世の中に知らしめるために、メロスの提案を受け入れる。
メロスは急いで村に帰り、まだ準備ができていないと拒む妹の婚約者を強引に説き伏せて、急きょ結婚式を挙げさせた。そして約束通りシラクスへ戻ろうとするが、川が氾濫して橋が流されていたり、山賊に襲われるなど、アクシデントにみまわれ、期限の日没までに王城にたどり着くのが困難な状況におちいってしまう。精根尽きて一度はあきらめかけたメロスだが、勇気を奮い起こし、走り続けて、セリヌンティウスの処刑が行われようとしていた刑場にかけこんで、ギリギリの間際で執行をくい止める。
友との再会を果たしたメロスは、いちどだけ「約束」をあきらめかけたことがあったことをセリヌンティウスに告白し自分を殴らせ、そのセリヌンティウスも一度だけメロスを疑ったことがあることを告げてメロスに殴らせる。そして2人は抱擁しあう。それを見ていたディオニス王は2人に感化され、自分の考えを改める旨の発言をし、群衆から喝采を浴びる。

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メロスとはなんと軽率&身勝手で自己中心的な迷惑者なのだろう──読みながら、そう感じた。
《友の命を救うために、メロスは自分の死をもいとわず、困難を乗り越えて約束を果たそうとし、勝利した》ということが、誇らしげに語られているが、もともとこの困難はメロス自身が招いたものである。不用意に王城へ乗り込まなければ、こんな騒動は起こらなかった。分別があれば充分に避けられた不幸だ。クライマックスで、ボロボロになりながら走り続けるメロスは自分を《勇者》だと叱咤激励しているが、とんだ《愚者》だ。このエピソードは自ら招いた不幸に飛び込んで活躍してみせるマッチポンプ英雄伝だ──読み終えて、そう感じた。

ツッコミどころは少なからず。物語の展開にそっていえば、まず、老爺ひとりの話から「王が猜疑心のために人を殺す暴君」だと信じ込み、真偽を確かめようともせずに「生かしておけぬ」と決意して王城へ乗り込むという行動が軽率すぎる。
ディオニス王を殺す決意で、無策のまま王城へ乗り込んだメロスは、当然のことながら、あっさり警備に捕まってしまい、逆に自分が処刑されるはめになるのが、なんとも「浅はか」だ。決意した使命の遂行はどうするのか。使命の重さに比べて行動が軽い。

作品の構図としては《性悪説のディオニス王(悪)》vs《性善説のメロス(善)》という対決の図式で、「人間はもともと私慾の塊だから信じてはならないのだ」と説くディオニス王の対極に「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳だ」と主張するメロスが位置づけられている。しかし、「根拠もなしに疑う」ことと「根拠もなしに信じる」ことは同じ。どちらも信憑性の視点を欠いた危険なとらええ方だ。「根拠のない思い込みに支配されて判断する」という点で、ディオニス王とメロスは同類に見えてしまう。

ディオニス王はメロスに「きれいごとを言っていても、はりつけになる時には命乞いをするに決まっている」という旨のことを言い、メロスは「死ぬ覚悟はできている。命乞いなどしない」と返す。メロスは自分には死ぬ覚悟があるが、妹に結婚式を挙げさせてやるために3日だけ猶予が欲しいと要求。自分は必ず戻ってくると「約束」するが、ディオニス王はメロスの言葉を一笑に付す。メロスはムキになり、「死ぬために戻ってきて、自分が正直者であることを王に認めさせてやる」という強い思いにとらわれるようになる。このあたりで、問題意識のピントがズレはじめる。
当初、メロスの怒りの発端は、猜疑心から人々を次々に処刑する(その日も6人殺されたという)暴君を許してはおけぬというところにあったはずだ。不当に人を殺す王を倒すことが「正義」だと信じて王城に乗り込んだのではなかったのか。なのに、ディオニス王に嘘つきだと決めつけられてからは、メロスは「約束」を守って自分が正直者であることを証明することばかりに心を奪われていく。メロスにとっては理不尽な処刑で人々が殺されている問題は、もうどうでもよく、自分の誇りを守ることばかりが頭の中を占めている。社会の正義よりも自分のメンツが大事だという過剰な自意識は、勇者のものではない。真の勇者であれば、自分の体面を汚してでも人の命を守ることを優先して考えるはずだ。しかしメロスは友の命を危険にさらしてまで自分の誇りを知らしめようとしているのが、いやしく見えてしまうのである。

無分別に王を殺しに行ってはりつけにされることになったメロスだが──これは自らの愚かさが招いた結果ともいえる。メロス自身が軽率のツケを払うのは自業自得だが、自分の私用(妹の結婚式)のために、親友を巻き込み、その命を危険にさらす人質にするという提案をメロスの側から王にもちかけるというのも、ひどく身勝手で迷惑な話だとあきれた。作品では「友情」や「信頼」を命がけで守ったメロスを賛美しているが、そんな「友情」や「信頼」などあったものではない。
メロスは自分の都合(3日の猶予の要求)を通すために、迷うことなくセリヌンティウスを身代わりに差し出してしまうが、セリヌンティウスにだって生活や都合があるだろう。自分の都合のことばかり考え、友の都合などおかまいなし。自分の失態で何の落ち度もないセリヌンティウスを巻き込むなど、あってはならないのに平気でそれをしている。自分の都合を通すために友の命を危うくする人質提案を、ためらうどころか自ら進んで持ちかけたメロスはつくづく身勝手て自己中心的な男である。

セリヌンティウスを人質にして解放されたメロスは村へ帰って、その夜に妹の婚約者に会い「あす結婚式を挙げろ」と迫る。仕度ができていない婚約者は当惑し「ブドウの季節まで待ってくれ」と懇願する。前日の夜になって「あす結婚式」と言われても婚約者はもちろんその親族や参列する人たちだって困るだろう。そうした他人の都合などかえりみずにメロスは自分の都合を押し通す。ここでも他者への配慮はみじんもみせず、迷惑を強いるうしろめたさも感じていない。ことが自分の思い通りに運んだことに満足しているだけである。

2日目に妹の結婚式を実現したメロスは3日目に「約束」をはたすべくシラクスへ向かう。しかしアクシデントに見舞われ、「約束」が実現不可能かと思われる事態に陥ってしまうわけだが、厳しい限界状況の中で、自分を「勇者」と叱咤激励するくだりは、自ら招いた(それも何の落ち度もない友人をも巻き込んでの)不幸であるのに、悲劇のヒーローになりきって陶酔しているようにも見える。
いよいよ追いつめられたメロスだが最後の力をふりしぼって、ギリギリのところで「約束」をクリア。王を含む多くの人たちの注目をあびる中でメロスは「名誉」を勝ち取ってみせることができた──この自己顕示的達成感はナルシストのカタルシスのように思えてしまう。

この作品で描かれているメロスの自意識──自己中心性、身勝手さは幼稚さ由来のものではなかろうか。自分の主張を通すために「死んでやる」とムキになるのは、幼稚な我がままに見える。
しかし太宰治は『走れメロス』の中で「誇りのために死ぬことができる」ということを、気高いこととしてアピールしており、それを劇的にみせることに腐心しているように感じる。これがメロスの(太宰治の)やりたかったことなのだろう。そのためのお膳立てにこのストーリーが選ばれた。ナルシストのカタルシスを満足させるための苦労話。しかし、これはメロスが不用意に王城へ乗り込まなければ、起こらなかった騒動だ。分別があれば充分に避けられたはずの騒動だが、「誇りのために死ぬことができる」ことを誇らしげに訴えるために、騒動が必要だったのだろう。

また本来本題とされるべきテーマ=《不当な圧政》問題とはずっとズレたところ(メンツにこだわる自意識次元)で話が進められていたのに、最後にあっさりディオニス王が改心して群衆から喝采を浴びて「めでたしめでたし」というのも、とってつけたようで、ご都合主義を感じる。この王に殺された者たちがそれでむくわれるわけではないだろうに。しかし、作者にとっては、メロスが命をかけて友を救い、名誉を守ったことが大事だったのだろう。

自分を英雄に仕立てるための苦難の状況をみずから作っておいて、その中に身を投じてボロボロになりながら、死ぬ覚悟で自分の勇気や誇りをアピールしてみせる──それが《マッチポンプ英雄伝》という印象につながって、僕は素直に共感することができなかった。

『走れメロス』を読んだ後に、作者はどんな人間だったのかといぶかって、ちょっと調べてみると、太宰治は井伏鱒二に師事していたらしい。これも「会ってくれなければ自殺してやる」と井伏を手紙で脅し、半ば強引に弟子入りしたらしい。実際に太宰治は自殺(愛人と心中)しているわけだが、何度も自殺未遂や心中未遂を繰り返している。最初に自殺未遂を起こした翌年に初めての心中未遂を起こしており、この時は太宰だけが助かって、相手の17歳の娘は死んでいる。最後に心中を遂げた時には、井伏鱒二も心中現場に駆けつけて捜索に参加していたという。さんざん迷惑をかけ恩義のある恩師に対して太宰は遺書で「井伏さんは悪人です」と書き残していたというのだから、ひどい話である。
また、太宰治は芥川賞の選考委員だった佐藤春夫に自分に賞をくれるよう懇願する手紙を出しているが、その中でも受賞できなければ死ぬとほのめかしていたようだ。
「死を持ち出して自己主張する」のは太宰治の常套手段なのか。自意識が高く周囲に迷惑をかけてきた人物像が、作中のメロスの自意識と重なる気がした。「死んで誇りを守らんとするメロス」にも太宰の心理癖のようなものが投影されていたと考えると納得できなくもない。

また、太宰の親友だった作家の檀一雄は『小説 太宰治』という作品の中で、『走れメロス』について触れており、「おそらく私達の熱海行が少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と記しているらしい。太宰と檀が、熱海で放蕩三昧に明け暮れ酒代や宿代の支払いに窮したことがあって、太宰は檀を人質として宿に残し、東京へ借金をしに戻ったという。しかし何日待っても太宰は戻って来ず、しびれを切らした檀は借金取りと上京。太宰は井伏鱒二の家で将棋を指していたという。そこに踏み込んで怒鳴る檀に、太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」と言ったという。人質で待つ身の檀がセリヌンティウスで、待たせる身の太宰がメロスというわけだ。このエピソードは檀一雄が面白おかしく書いたものなのだろうが、太宰治の「友情」や「信頼」に対する認識はその程度のものだったのだろう。『走れメロス』で描かれていた「友情」や「信頼」が空々しく感じられるのも合点がいくところだ。

実際に読んでみる前まで《崇高な話》というイメージがあったために、よけいにギャップを感じることになったのかもしれないが、そんなわけで、僕は『走れメロス』を読んで、メロスの自意識に「これは勇者のものではない」ものを感じて共感することができなかった。しかし、これが太宰治という作家の自意識を投影して書かれた机上の英雄伝だと考えれば、妙に納得できる気もするのである。

以上が僕の率直な感想なのだが、くさしてばかりでは心苦しいので、新潮文庫『走れメロス』の巻末にある奥野健男の解説から『走れメロス』に関しての評価を紹介しておくと──、
「知性と感覚と思想とが結合した日本文学には珍しい格調高い好短編」「古伝説の素朴で強い骨格をいかし、その中に現代人の含羞や自意識を折り込み、友情と信頼をうたいあげた、太宰文学の明るさ、健康さを代表する短編」「希有の才能を感じさせる傑作」と賞讃してある。
また「『走れメロス』は「新潮」昭和15年5月号に発表された。ギリシアのダーモンとフィジアスという古伝説によったシラーの『担保』という詩から題材をとっている。人間の信頼と友情の美しさ、圧政への反抗と正義とが、簡潔な力強い文体で表現されていて、中期の、いや太宰文学の明るい健康的な面を代表する短編である。多くの教科書に採用され、またしばしばラジオなどで朗読され、劇に仕組まれ、太宰の作品の中でもっとも知られている」とも記されてあった。

巻末の解説には収載作品を後押しするという役目もあるのだろうが、世間的には、きっと解説にあるような評価なのだろう。



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コメント

No title
太宰治はそもそも私は嫌いなので、全然平気ですが、走れメロスは太宰の作品の中ではまだましな方だと思います。といってもほかの作品読んでない(走れメロスは教科書で読んだ口)です。他は読み始めですぐ挫折した。
Re: No title
『走れメロス』は奥野健男氏の解説にもあったように、太宰文学の中では「明るさ、健康さを代表する短編」(ましな方?)なのかもしれませんね。古伝説の骨組みを使っているのでアクティブなものになったということもあるのでしょうが、メロスの心理の描かれ方をよく見ると、やっぱり勇者の意識とは違う、太宰の自意識が投影されている気がします。

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