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一切れのパン/最後の一葉@教科書の思い出

『一切れのパン』と『最後の一葉』:教科書の思い出
01最後の一葉

宮沢賢治の『やまなし』など、「どうしてこれが教科書に採用されたのか?」と不思議に感じる昨今。そもそも教科書へ収載する作品の選定基準がよくわからない。本来、(童話を含む)小説は「楽しく読む」べきものだと思うのだが、僕は教科書で読んだ小説を楽しいと感じたことがほとんどない。これは作品が面白くなかったというより、「勉学のまな板の上で調理されること」に抵抗感があったためだろう。授業で取り上げられる作品には「教材となった意義付けを忖度する」読み方が求められているような気がして、窮屈な印象があった。
しかし、そんな僕にも、教科書に取り上げられていながら(?)「面白い!」と感銘を受けた小説が2つある。F・ムンテヤーヌの『一切れのパン』とO・ヘンリーによる『最後の一葉』である。

『一切れのパン』@国語教科書の思い出
『一切れのパン』は中学生時代に国語の教科書で読んだ記憶がある。卒業後、同級生との間でこの作品が話題になったこともある。僕も級友も、タイトルや感銘を受けた内容──最後のセリフなどは覚えていたが、僕は作者が誰だか失念していた。友人はO・ヘンリーの作品だと思っていたようだ。その頃はまだインターネットもなく手軽に検索で確かめることができなかったので、本屋でO・ヘンリーの短編集を手にとり、目次を探して「ないなぁ……」と首をかしげていたこともあった。作者がフランチスク・ムンテヤーヌというルーマニアの作家だったと知ったのはだいぶ後になってからだ。

記憶の中のあらすじをざっと記すと──、
戦時下で、敵国軍に捕えられた主人公が、貨物列車から脱走して飢えと闘いながら自宅に帰り着くまでの話で、主人公は脱走する時にラビという老人からハンカチに包まれた《一切れのパン》を渡される。そのとき、「パンを一切れ持っている」という思いが飢えと闘う勇気となるから、パンはすぐに食べずに持っていることが大切だ・誘惑に負けないようにハンカチに包んだまま持っているようにと諭される。
主人公は飢えと闘いながら、危ういところでラビの忠告を守り、なんとか家に帰りつくことができる。主人公を支えた一切れのパン──しかしハンカチから出て来たのは一片の木切れだった──予想もしなかったラスト・シーンで主人公の口から漏れた「ありがとう、ラビ」の言葉が強く印象に残っている。
ラビからもらった一切れのパンの存在が主人公を支え、帰還をかなえる命綱となったわけだが、そんなパンなど、最初から存在していなかった──パンではなくラビの知恵が主人公を支え、救ったのだという意外性が衝撃的だった。

『最後の一葉』は《よい話(美談)》ではなく《皮肉な話》
『最後の一葉』の方は、確か英語の教科書に載っていたように思う。僕は英語が(も)苦手で、予習も全くしなかったから、授業中に少しずつ明らかになる内容で結末に至るまで、かなり時間をかけて小出しに知っていった気がする。
『一切れのパン』の方は【国語】の教科書に載っていたので(日本語で書かれていたので)、自力で読み進むことができ、ラストのあざやかな意外性に感銘を受けることができたが、『最後の一葉』は内容を細切れに知っていったので、当初あまり関心が持てなかった。ようやくオチの部分にたどりついたところで、「あれ? この作品、おもしろいぞ!」と、やっと気がついた。その後、O・ヘンリーの短編集を買って(日本語訳で)『最後の一葉』を読み直した記憶がある。英語の教科書によってこの傑作に出会えた──という形ではあるけれど、最初から翻訳作品に出会えていれば──全体を通して読んでいれば、第一印象の感銘はもっと大きかったろうに──と残念に思ったものである。

おそらく多くの人が知っているだろうが、『最後の一葉』の概要を記すと──、
共同でアトリエを借りているスーのルームメイト=ジョンジー(ジョアンナ)は重い肺炎を患い、医師から「生きる気力」の有無が生死を分けると言われる。しかし疲弊したジョンジーは、窓から見える壁にはったツタの葉が落ちるようすを眺めているうちに、すべての葉が落ちた時に自分の命も尽きるのだと思い込んでしまう。《葉が全て落ちたとき=ジョンジーの死》という《幻想》にとりつかれた彼女のことを知った階下の老画家くずれ=ベアマンは、バカげた想像だとののしるが、ジョンジーの思い込みを逆手にとって《落葉を阻止する(ツタがはう壁にダミーの葉を描く)》ことで《ジョンジーの死を阻止する》ことを企てる──この意表を突いた着想が素晴らしい。そしてベアマンの思惑通り、ジョンジーは持ち直す。
『一切れのパン』では現実には存在しない一切れのパン(ラビの嘘が)主人公を救ったが、『最後の一葉』では現実には残っていなかった最後の一葉(ベアマンが描いた絵)がジョンジーを救うことになった──《虚構が現実を動かす力になる》といったところに共通の面白さを感じる。
『最後の一葉』の場合は、ジョンジーのネガティブな《幻想(思い込み)》を利用して、逆にポジティプな《現実化》をはかるという工夫がおもしろい。更に──「狙いどおりにジョンジーの運命を変える工作に成功したベアマンだったが、彼自身が予想外の肺炎にかかって死ぬことになる」という《意外性》がダメを押す。運命のある局面を都合良く改変することができたとしても別の局面でツケが回ってくる──そんな《皮肉》を感じさせる《作者のたくらみ》に深い味わいを感じる。
この作品の素晴らしいところは、ジョンジーの命を救った最後の一葉が、実はベアマンが描いた絵であり、雨の中でこれを描いたベアマンが肺炎にかかって死んだことがラスト・シーンで一気に読者に明かされるというみごとな構成にある。鮮やかな幕切れが強い余韻となって読者に感銘を与える。

この作品を何年生の時の教科書で知ったのか、確かめてみようと思って検索してみたが、わからなかった。いくつかのサイトを閲覧していて知ったのだが、『最後の一葉』は小学校の道徳教科書にも収載されていたらしい。そして、この作品について《自己犠牲を描いた作品》という評価があることに驚いた。どうやら《老画家の自己犠牲が若い女性の命を救った話》だとか《長い間世間に認められる絵を描くことができなかった老画家(ベアマン)が、無欲に1人の女性を救うために描いたことで、人生の最後にして最高傑作の絵を描くことができた》というような《美談》として読んだ人も多かったようだ。言われてみれば確かに「そういう解釈」もできなくはないのかもしれないし、どう感じるかは読者の勝手なわけだが……僕がうけた感銘からすれば「作品のおもしろさ(作品の趣旨・趣向)」はそこではないだろう」ということになる。この作品の面白さは《意外性》にあって、《運命の皮肉》を描いた作品だと僕は感じた。『最後の一葉』の本質は《美談(よい話)》ではなく《皮肉な話》である。作品の構造上、O・ヘンリーも、それを意図して書いたのだと思う。

『最後の一葉』の改変版!?
『最後の一葉』の最大の見せ場は、真相が一気に明らかになるラスト・シーン──スーがジョンジーに真相を語る場面で、そこで読者も真相を知らされ、あっと驚くことになるわけだが……ところが、この結末に不満を感じた人もいるらしい。
「スーがジョンジーにわざわざ真相を打ち明ける必要はなかった。知らされたジョンジーには、自分の身代わりになって死んだベアマンのことが生涯の重荷となる」という複雑な思いにとらわれた人もいたようだ。しかしこれは、この作品を《美談》としてとらえている(とらえようとしている)からから生じる「割り切れなさ」だろう。スーが打ち明けようが打ち明けまいが、やがてジョンジーにも(風にも揺れずいつまでも形を変えない)不自然な葉がダミーであることはわかるはずで、階下の老画家がどのような状況で肺炎にかかったのか、耳に入らぬはずはない。ジョンジーが真相を知らずにすむという《きれいごと》の結末は不自然であり不合理なのだ。作品としては、《スーがジョンジーに語ることで読者に真相を、一番インパクトのあるタイミングで明かす》ラストシーンは必然にして、この上ないものである。この作品を《美談》という解釈ではなく、《皮肉》を描いた作品であるととらえれば、きれいに割り切れる、理にかなったみごとな結末といえる。

しかし、実際にこの作品を《美談》として偏向的解釈をしたがる人は多いのかもしれない。絶妙のラストシーンを《きれいごと》──「ジョンジーの身代わりとなってベアマンが死んだこと」をスーがジョンジーに告げない結末に改変した出版物も存在する。PHP文庫の『まんがで蘇るO・ヘンリー傑作選』(監修:齋藤 孝/『最後の一葉』を描いた漫画家は工藤ケン)がそれだ。
改変版マンガのラスト・シーンは、スーの《真相は自分だけの秘密として胸にしまっておく(ジョンジーには隠しておく)》という主旨のモノローグで終わっている。このよけいな「配慮」を持ち込んだおかげで、最大の見せ場であるはずのラスト・シーンの意外性・インパクト・切れは鈍り、効果抜群の余韻に水をさした格好である。
また、ラストシーンに「配慮」を持ってくるために、真相(ベアマンが雨の中で壁に葉を描いていたこと)を前倒しして(?)事前に読者にバラしてしまうという愚行もおかしている。
しかも前述した通り、元気になったジョンジーが真相に気づかぬはずはなく、「スーだけの秘密としておく」という結末は成立しない。改変マンガは、緻密な計算で構築された原作小説を《きれいごと》でまとめようとして台無しにした感がある。そこまで無理して、どうして《美談》にしたがるのだろうか?
小説を読んで、誰がどう感じるかは、その人の自由だ。しかし、それぞれ解釈・感じ方がすべて正しいということにはならない。妥当な評価ばかりでなく、的外れであったり不合理な解釈もけっして少なくない。

『最後の一葉』が小学校の道徳の教科書にも採用されていたと知って、ちょっと気になることがある。この作品が偏向した解釈で選定され、子どもたちにも的外れな解釈をミスリードするような指導が行われているのではないか……という危惧である。
『最後の一葉』が小学道徳の教科書に採用されたのは《自己犠牲の尊さをうったえた美談》という意義付け(解釈)があったのではあるまいか?
そう考えると、《自己犠牲の精神を標榜する作家》である宮沢賢治の作品が教科書に多く採用されている傾向と、同じ軌道上にあるようにも思われる。
小説が教科書に載り、授業でとりあつかわれることになると、生徒は(先生も?)そこに道徳的意義付けをみいだそうとして「忖度する読書」をすることになり、《美談》にミスリードされがちになるのではないか……そんなことがあれば、作品の真の価値を見誤ることになる。
教科書へ収載する小説の選定をする人、現場で子どもたちを指導する教師が、本当に作品の本質を理解しているのか、気になるところである。


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