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宮沢賢治『やまなし』とクラムボン

宮沢賢治・作『やまなし』感想&クラムボンについて
01クラムボン@やまなし

最近、知った宮沢賢治の童話『やまなし』──読んでみて色々と感じるところがあったので記してみたい。

一読して感じたのが《描写が美しく、透明感がある不思議な作品》という印象。本来ならわかりやすく描かれるべき童話(?)なのに、あえて不明確に処理している箇所があって作品をわかりにくくしている。この作品が小学6年の国語教科書に採用されていたというので驚いた。子どもたちには〝趣旨〟を読み解くのが難しかったろう。小学生の教材としては首をかしげたくなる。はたして現場の教師たちはこの教材をきちんと料理することができたのだろうか? 消化不良のまま通り過ぎるケースも決して少なくなかったのではないかと思われる。

根拠については後に述べることにして……ひとことで言えば、『やまなし』は「宮沢賢治の《食物連鎖》に対する関心を表した作品」──というのが僕の感想。
作品の構成は、《小さな谷川の底を写した、二枚の青い幻灯です。》という文章(序文)で始まり、そのあとに2つのパートに分けて、谷川に暮らすカニの一家の日常が淡々と描かれ、そして《私の幻灯は、これでおしまいであります。》という文章(跋文)で締めくくられている。
1つ目のパート【一 五月】では食物連鎖の利己的な一面──魚やカワセミの捕食=《自分が生きるために他者の命を奪う行為》が描かれ、
2つ目のパート【二 十二月】では食物連鎖の利他的な一面──川に落ちたヤマナシの実=《食われることによって他者の命を育み育てる》ことが描かれている。
つまり相反する局面《利己(殺生)⇔利他(献身・恩恵)》を2つのパートに併記することで、作者(宮沢賢治)は、《食物連鎖》を《背反する両極が混在するシステム》としてとらえていたことがうかがえる。
この《食物連鎖》を描いた本編を情緒的な序文と跋文(ばつぶん)ではさむことで、《美しくおだやかに見える景色の中で展開されている自然の不条理》を表現したのだろう。

作品の流れと(僕の)解釈
【一 五月】のパートは次のように始まる。


 二ひきのかにの子供らが、青白い水の底で話していました。
「クラムボンは 笑ったよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
「クラムボンは はねて笑ったよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
 上の方や横の方は、青く暗く鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗いあわが流れていきます。
「クラムボンは 笑っていたよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
「それなら、なぜクラムボンは 笑ったの。」
「知らない。」
 つぶつぶあわが流れていきます。かにの子供らも、ぽつぽつぽつと、続けて五、六つぶあわをはきました。それは、ゆれながら水銀のように光って、ななめに上の方へ上っていきました。


まず、いきなり登場する「クラムボン」がわからない。その後の展開とあわせて考えると、僕にはプランクトンかボウフラのようなものに思われるのだが、賢治は最後まで「クラムボン」の正体をあえて(意図的に)明らかにしていない。
この「クラムボン」について話しているのは〝2匹〟のカニの兄弟だ。同じようなセリフが繰り返されているが、会話の内容からすればセリフも〝2つ〟あれば〝2匹の会話〟として成立する。なのに同じ内容のセリフが繰り返されるのは、カニの兄弟が見ている「クラムボン」が1匹ではなく、あちこちにたくさん散らばっていることを示しているように感じられる(あっちでもこっちでも、同じような光景が見られるので、同じようなセリフの会話が繰り返される)。
前の文章の後は次のように続く──、


 つうと銀の色の腹をひるがえして、一ぴきの魚が頭の上を過ぎていきました。
「クラムボンは 死んだよ。」
「クラムボンは 殺されたよ。」
「クラムボンは 死んでしまったよ・・・・・・。」
「殺されたよ。」
「それなら、なぜ殺された。」
兄さんのかには、その右側の四本の足の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら言いました。
「分からない。」
 魚がまたつうともどって、下の方へ行きました。
「クラムボンは 笑ったよ。」
「笑った。」


魚が通過すると「クラムボン」は殺される──これは魚による捕食が行われたことをさしているのだろう。死んだり殺されたりしたあとに魚が去ると、「クラムボン」はまた笑い始める──死んだり殺されたりした個体がまた笑うはずはないので、やはり「クラムボン」は1匹ではなく、たくさんいて、捕食を免れた個体が(魚が訪れる前と同じように)活動を再開したということなのだろう。

「クラムボン」は魚の餌となる生物で、水面付近にたくさんいるもの──そして「かぷかぷ笑っている」ように見える……という条件から思い浮かんだのが(僕の場合)ミジンコのようなプランクトンやボウフラだった。ミジンコが泳ぐ姿やボウフラが体を曲げ伸ばしする動きは、身をよじって笑っているように見えなくもない。
この後、魚がまた戻って来ると、カニの兄弟たちは次のように話している。


「お魚は、なぜああ行ったり来たりするの。」
弟のかにが、まぶしそうに目を動かしながらたずねました。
「何か悪いことをしてるんだよ。取ってるんだよ。」
「取ってるの。」
「うん。」


「悪いこと」「取っている」というのは「クラムボン」の命を奪っている──捕食のことを指しているのだろう。
そしてこの直後、その魚がいきなり飛び込んできたカワセミに捕食されるシーンが展開され、カニの兄弟たちは何が起こったのかわからず恐ろしさに怯える。
そこへカニの父親がやってきて、兄弟に次のように説明する。


「ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみというんだ。だいじょうぶだ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。」
「お父さん、お魚はどこへ行ったの。」
「魚かい。魚はこわい所へ行った。」
「こわいよ、お父さん。」


食物連鎖を生き物の自然の営みとして描きながら、他者の命を奪う捕食をネガティブなイメージ(「殺す」「悪いこと」、被捕食者を「《こわい所》に連れて行く」)でとらえている。
「クラムボン」が魚に殺される(捕食される)のを見ていたカニの兄弟は《「それなら、なぜ殺された」「分からない」》と話しているが、おそらく作者の賢治自身も、自然界にどうして残酷な殺生が存在しているのか納得できる解答を得られずにいたのではないかと思う。
この世にはそういう「苦」(ままならないこと)があるという、あるがままの姿を淡々と描いた──だから現象についての解釈(賢治の見解)がなく、何が言いたかったのか伝わりにくい難解な作品になっている気もする。

【二 十二月】のパートでは、川に飛び込んで来た恐ろしいカワセミのかわりに、ヤマナシの実が落ちてくる。これはカニたちのエサとなるもので、《他者の命を潤すこと》として描かれている。賢治はこれを好ましく感じ、食物連鎖の利他的な面の象徴として、この実をタイトルにつけたのだろう。

1つ目のパートで描かれていたのは、《自分が生きるために〝他者の命を奪う〟自然現象》であり、賢治はこれをネガティブに描いている。これに対し、2つ目のパートでは、《他者に食われることよって〝他者の命を潤す〟自然現象》が描かれ、これを賢治は献身的・美徳と感じていたことがうかがえる。
前半の《他者の命を奪うこと》と後半の《他者の命を潤すこと》──相反する《害》と《益》・《利己(殺生)》と《利他(献身・恩恵)》(賢治にとっては《悪》と《善》)が自然界には混在している──《食物連鎖》をそんなふうにとらえていた宮沢賢治の世界観を描いたのが『やまなし』だと僕には感じられた。

クラムボンとは何か?/なぜ明確化を避けたのか?
さて、作品の初めに登場する「クラムボン」の謎に戻って……宮沢賢治はあきらかに意図的に正体を隠して書いていると思われ、「クラムボンとは何か?」ということが読者には気になるところだろう。その疑問は当然だが、僕には「賢治はなぜ〝あえて〟その正体を明かさなかったのか?」ということの方が気になった。
僕は「クラムボン」をプランクトンかボウフラのようなものではないかと想像したが……これが当っているかどうかはさておき、具体的な生物の名前(種名)を挙げると、読者はその生物のイメージを当てはめて「クラムボン」のシーンを読むことになる──プランクトンやボウフラなどであれば、一般の人の感覚では「虫けら同然(以下?)」の無価値な存在として認識される危険がある。賢治は魚に食われる被捕食者にも大切な命(価値)があることを描きたかったと思われ、被捕食者の生死について「とるにたらないこと」という既成イメージで読まれることを嫌ったのではないか。そこでピュアな《生命体》として読者にイメージさせるために既成概念を持たない「クラムボン」という呼称を用いたのではないかと想像する。
いずれにしても、物語のテーマ(意味)・構造から考えて「クラムボン」が魚の餌となる生物をイメージして設定されたことは間違いない。《魚がクラムボンを捕食する➡その魚がカワセミに捕食される》──食う・食われるの関係は固定した一方的なものではなく、捕食者が被捕食者にもなっている食物連鎖の構造を示すためには「クラムボン」が魚の被捕食者でなければならないからだ。魚がカワセミに食われるだけでは単なる《弱肉強食》にすぎず、《食物連鎖》を描いたことにはならない。

ただ、僕が想像したプランクトンやボウフラであった場合、発生場所は沼や池というイメージが強く、『やまなし』の舞台となる「小さな谷川」に、はたしてどんな種類がどれほど生息しているものなのか、僕にはよくわからない。
もしかすると、宮沢賢治も魚の被捕食者としてプランクトンやボウフラをイメージしてこの筋立てを考え、舞台として美しく描写できる谷川(〝青い幻灯〟にふさわしいロケーション)を選んだ……ものの、実際には谷川にはモデルとしたプランクトンやボウフラが少なく、代替具体種に適当な生物が思いつかなかったために「クラムボン」という架空の生命体を設定したのかもしれない。
こじつけ的解釈をくわえるなら、「クラムボン」というネーミングも、「プランクトン」「ボウフラ」からの造語だったとしても、さほどおかしくはない気がする。「クラムボン」は「プランクトン」と3音・「ボウフラ」と2音、重なっている。重なっている4音(「ラ」が重複しているので)を並べれて「クラボン」──「ラ」の後に「ボ」を発音するとき、一度口が閉じるので「m」が入ると発音しやすくなる→「クラムボン」……なんて可能性もゼロとは言いきれないだろう。

宮沢賢治の自然観に対する僕の個人的な見解
ところで──、文学的な価値とはまた次元の異なる話なのだが、僕は宮沢賢治の自然の理解について、共感できずにいる。『やまなし』では《食物連鎖》を描きながら、賢治は捕食をネガティブなイメージとしてとらえている。《自分が生きるために他者の命を奪うこと》を賢治は快く思っていない。否定的に捉えていたからこそ、賢治は菜食主義を実践していたのだろう。これが僕には《自然に関心を向けながら、自身の感情(感傷)を投影しているだけで、自然の本質を見ていない》ように感じられるのだ。そのことは、やはり宮沢賢治の作品『よだかの星』に対する感想を述べた記事でも書いている。

実は今回、『やまなし』という作品を僕が知るきっかけになったのは、その『よだかの星』に関する感想記事だった。ここで僕は「作者(賢治)が食物連鎖を否定的に捉えている」という見方を記した。これについて、「賢治も食物連鎖を理解していたと思う」「必ずしも否定的にとらえていない」という意見をいただき、その中に『やまなし』を例に挙げるものがあったのだ。
この点についての僕の考えを補足しておくと、「宮沢賢治も《食物連鎖》を〝知識としては知っていた〟だろう。だからそのシステムが存在することを《否定》はしてはいないが、《捕食》についてはネガティブなイメージでとらえていた」という理解で、(《否定》ではなく)《否定的》という表現を使った。

賢治は、おそらく《自分が生きるために他者の命を奪う(捕食する)》ことを《利己的》としてとらえて忌み、これを仏教で言う「苦」(ままならないこと)と考えていたのではないかと思う。これに対して《自分の身を棄てて他者の命を救済する》ことを《利他的(献身)》と捉え美徳と考えているようにも感じられる。おそらくこれも宗教的な概念が背景にあってのことだろう。

僕の考え方を述べれば──《食物連鎖》というのは自然現象であり、自然の摂理として「正しい」から存在している。これを否定的(ネガティブ)に感じるのは、その感じ方(理解)が「正しくない」からだ。
捕食者も被捕食者(捕食される側)も、《自分が生きるための生命活動》を遂行することが「正しい」。捕食者が捕食することも正しいし、捕食される側が捕食者を恐れたり捕食を逃れようとすることも正しい。両者がそれぞれ《自分が生きるための生命活動》を追求することで生物は進化し発展してきた。《食物連鎖》は生命の基本システムであり動力源でもある。
これを忌むのは《ヒト特有の偏向した感覚》であり、自然への無理解・洞察不足からくる不健全な感傷だと僕は考えている。そうした思いがあって『よだかの星』についての感想を記した。

『よだかの星』について、ここでもう少し書き加えるなら──、
タカがヨタカに「改名をしなければ殺す」と迫ったとき、ヨタカは「タカに殺される自分が、虫を捕食することに罪悪感を覚え、生きることを自ら放棄する」という選択をする。これは作者・賢治の「自己犠牲」や「ヒューマニズム」の考え方が反映したものだろう。しかし生命活動の視点に立てば──、
・タカがヨタカを殺すのは《自分が生きるための生命活動》ではない(誤)
・ヨタカが虫を捕食するのは《自分が生きるための生命活動》である(正)
ヨタカがとるべき正しい選択は、タカの殺生にあらがうことのはずだがそれをせず、一方、自らの捕食を放棄することは間違っているのにそれを選択し、生命活動を放棄する。生命活動の本質に反する賢治の「自己犠牲」や「ヒューマニズム」の考え方は、自然の営みに対する洞察の浅さから生まれた不健全なエセ善意という印象が僕にはある。生物が《自分が生きるための生命活動》を怠ることに美徳はない──というのが僕の考え方だ。

賢治の捕食に対するネガティブなイメージは、おそらく仏教の「殺生」という概念に由来するものだろう。この概念は「生きているうちから、やがて訪れる死をおそれる」という人間特有の感情から生まれたものだろうと僕は考えている。
僕も幼少の頃には、死に対して恐れを抱いたことがあった。「人はなぜ死ぬのか(死なねばならないのか)」ということをずっと真剣考えていた。こんなことで思い惑うのは人間だけだろう。動物が捕食(死)から逃れようとすることは正しい。しかし自然現象である《死》を否定的にとらえることは〝理解に間違い〟がある──そう気づくまでにずいぶん時間がかかった。
この〝理解に間違い〟がどうして生まれるのか・なぜヒトだけが「やがて訪れる《死》をおそれるのか」については【昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?】の中で僕の見解を述べているので、ここでは触れない。
そんなわけで、《自然現象を否定的にとらえるのは、その解釈に間違いがあるからだ》と考えている僕には、自然現象であるところの《捕食》をネガティブに描いている宮沢賢治の自然に対する捉え方については違和感があるのである。



なじめなかった『よだかの星』
昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?
宮沢賢治『どんぐりと山ねこ』感想

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コメント

No title
やまなしは私にとってはさっぱり理解できなかったです。意味は全く理解してなくて、何となく透明感のあり音楽的な感覚だけで読んだ記憶あります。
仰る通り検事は動物を食べることに一種の罪悪と感じていたんでしょうね。それは宗教家としての側面からくるものだと思います。
賢治には科学者として、宗教家として音楽家としての側面がありますから。彼の中での葛藤があるんでしょう。
星谷さんが感じる違和感は理解できました。私の賢治にたいする感情は変わらないです。色々なものすべて含めて好きですから。
そういえば、手塚治虫も、ジャングル大帝で、レオ場動物を襲って食することに対してバッタ牧場など作っていましたね。これも同様な人間的命の重軽の感覚なのかもですね。
私自身は全く生きるために殺生することに抵抗ないです。でも命の重軽の感覚はやっぱりあるかも。絶対ありますね。かわいそうという感覚もあるしね。人間とはそういうものだと思います。
Re: No title
野山で生き物を見ていると捕食シーンに出くわすことがあります。人の感覚として「可哀想」という気持ちにはなりますが、それを否定的(ネガティブ)に感じることは僕にはありません。なので、賢治が『よだかの星』の中でヨタカが捕食に罪悪感を覚えるくだりを読んで違和感を覚えました。

『やまなし』は美しくて透明感がある作品ですね。賢治が自身の宗教的解説をせず(〝趣旨〟を明確に書かず)一歩引いて淡々と描いたことが透明感に繋がったのかもしれません。
〝趣旨〟がわからなくても〝美しさ〟は伝わる──それで国語の教科書に載ったのかもしれませんが、小学生が読み解くには難しい作品だと感じました。

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