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なじめなかった『よだかの星』

宮沢賢治・作『よだかの星』について(感想)

宮沢賢治の作品に『よだかの星』という童話がある。《よだかは、実にみにくい鳥です》という文章で始まるこの作品──内容を簡単にまとめると⬇。
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よだか(ヨタカ)は醜い姿をしていることから、他の鳥たちからさげすまれ、意地悪を受け続けていた。ある日、タカに名前を変えろと迫られ、それは無理だと訴えるが、明後日の朝までにそうしなけれ殺すと脅される。
よだかは、やがてタカに殺される身でありながら虫を食べて(殺して)いる自分に罪悪感を覚え、これを断って「遠くの遠くの空の向こうに行ってしまおう」と決意する。兄弟であるカワセミ(魚を食べる)にも、捕食は生きるのに必要な最低限にとどめるように言って別れを告げる。
よだかは死ぬ覚悟で太陽や星(オリオン・大犬・大熊・鷲)のもとへ行こうとするがいずれにも拒絶され、それでもボロボロになって飛び続け、最後にとうとうカシオピア座の隣の星になることができたのだった。
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『よだかの星』は《悲しく美しい話》として描かれている。そう感じた読者も多かったことだろう。
しかし、僕の第一印象は──「ひどい話だなぁ」だった。文章や構成のことではなく、描かれている内容について──作者の意図・視点について「そりゃないだろう」と感じた。

作品では、他の鳥たちからさげすまれ、理不尽にいじめられる「醜いヨタカ」の悲しみが描かれており、「弱者・しいたげられる者への共感・いたわり」を示しているようにも読める。しかしこれは「ヨタカは醜くて嫌われる存在である」という前提のもとに描かれたものであり、ヨタカの存在をハナから否定する視点で描かれたものだ。作者の無自覚な偏見を感じてしまう。弱者(ヨタカ)をいたわるふりをして、「醜いだけの存在」と決めつけてかかっているのだから、ずいぶんひどい話である。
「ヨタカは、さげすまれて当然の存在なのか?」「鳥が生きるために他の生きものを食べる(殺す)ことは悪いことなのか?(食物連鎖は忌むべきシステムなのか?)」「醜く生まれたものは自殺するしかないと言うのか?」──そう問いただしたくなる。

宮沢賢治を《自然からのメッセージを聞き続けた人》だとか《自然の通訳者》と言う人もいるようだが、それは少々美化した評価だと思う。確かに描写などには「舞台となる土地の自然の雰囲気が伝わる」部分があって個性的な魅力を感じる──自然に接することが好きだったのだろうことは察することができるが、本当に自然の本質に目を向けていたのかは疑わしい。真摯に自然を観ていれば、生物には多様な形態があって、それによって自然界が成立していることが感銘や畏敬の念をもって実感できたはずだ。ならば、ヨタカについても「醜いだけのとりえのない存在」とは別の捉え方ができたろうにと思う。

『よだかの星』は、冒頭から語り手(作者)によって《よだかは、実にみにくい鳥です》と断言され、作中では他の鳥たちにさげすまれる。ヨタカ自身も醜いと卑下している点──《味噌をつけたような顔》や《裂けた口も》も、自然の中では意味を持つ特徴であるはずだ。僕は鳥には詳しくないが、ヨタカの地味な姿は、夜行性のヨタカが日中じっと休んでいるときに、天敵に見つかりにくくする隠蔽擬態の効果があるに違いない。大きく開く口は飛びながら虫を捕食するのに敵しているのだろう。作中で欠点としてあげられている特徴は、自然の次元でみれば《欠点》ではなく《利点》であり、それをヒトの偏狭な尺度で「醜い」としかとらえることができなかった賢治が情けない。自然のメッセージを聞くことができた人なら、「ヒトにはみすぼらしく見えたとしても──」と、ヨタカのとりえやアイデンティティーを自然の立場に立って代弁してやっても良かったのではないか……などと思ってしまう。

また、作中では《自分が生きるために他の生き物を食べる(殺す)》ことへの嫌悪が感じられ、この点も強くひっかかった。生命活動の基本である《食物連鎖》を忌むべきシステムと捉えているようにも感じられる。賢治自身は菜食主義者だったらしいが、もし世の中の生物がみな賢治にならって菜食主義者になったとしたら、生態系は崩壊し、捕食者だけではなく被捕食者の生活も立ち行かなくなってしまう。自然界は食物連鎖という生命の循環によって機能しているわけで、これを否定的にとらえるのは、自然に対する洞察が足りないからではないかと首をかしげたくなる。

こんなことを書くと、『よだかの星』の創作意図はヨタカという鳥の解説ではない/賢治が描きたかったテーマは、別のところにあって、作中に登場する「よだか」は意図するテーマを描くための比喩的記号にすぎないという反論もあるかもしれない。
たしかに童話の中には生き物を比喩的な記号として擬人化した作品も少なくない。『よだかの星』の「よだか」も、(実際の「ヨタカ」そのものではなく)「醜いことを理由に理不尽にいじめられる存在」という設定をあらわす記号にすぎないという見方もあるかもしれない。
しかし本作中には、実際のヨタカを思わせる生態や(当時の?)分類についても触れられており、単なる比喩ではなく実際のヨタカをモデルにしたものだろうことがうかがえる。宮沢賢治は、ヨタカを「醜くてかわいそうな鳥」という認識で描いていたと思われる。
擬人化を使って例えるなら……もし、実際のヨタカが『よだかの星』を読んだとしたら、どう思うだろう? 「僕らの気持ちを代弁してくれてありがとう」と喜ぶだろうか? 《よだかは、実にみにくい鳥です》という失礼な書き出しから一貫してヨタカを醜いだけのとりえのない存在として描き、星になるしかなかったという見解に、「宮沢賢治という人は僕らのことを、そんなふうに見ていたのか」とガッカリするか憤るかではなかろうか。

想像するに──宮沢賢治が《自然から聞き続けたメッセージ》というのは、自然への理解や洞察などではなく、自然の風景に投影した賢治自身の心情に過ぎなかったのではないか。
ヨタカが自分が生きるために虫を食べる(殺す)ことに罪悪感を覚えるというのは、賢治の内に「殺生」という宗教的な偏見(?)があってのことだろう。しかし自然の世界は食物連鎖によって調和しているわけで、これを嫌悪するのは、不健全なセンチメンタリズムという気がしてならない。
あるいは宮沢賢治は、実生活において疎外感にさいなまれていたのではなかろうか?──その個人的な感情が「よだか」に投影されているのではないかという気もする。
ヨタカが周囲のプレッシャーから死を覚悟し、太陽や星のところへ行こうとしたとき、そこからも拒まれてもがく様子は、賢治自身に「自分の居場所がなかなか見つからない焦燥感」にもがき苦しんだ経験があって、そうした心情が投影されたものなのではないか……などと考えてしまう──これは根拠のない僕の想像。しかし、『よだかの星』で描かれているのは《自然のメッセージ》などではなく、明らかに《宮沢賢治の心情の投影》だという気はする。多くの読者は、その《自然に投影された心情》にこそ共感や文学的価値を感じているのだろう。

ただ、僕には「それはヨタカに失礼だろう」「(醜いだけの存在として描かれている)ヨタカが気の毒すぎる」という印象が強くて、この作品には共感できなかった。
生き物のありようは多様で、確かにヒトからみれば、醜い・残酷・おぞましいと感じることもある。そう感じること自体は悪いことではない。ただ、それはあくまでもヒトの側から見た感覚にすぎず、自然の尺度ではないことを自覚するべきだ。その自覚がないまま、ヒトの感覚を普遍化して生き物たちの世界に当てはめ善意を持ち込もうとするのはヒトの思い上がりという気がする。
余談だが……『よだかの星』で感じた善意への《なじめなさ》のようなものは、童話の世界ではしばしば出くわすものだった。これに反発するような気持ちもあって描いた拙作が『チョウのみた夢〜善意の報酬〜』だったりする。

宮沢賢治にはファンが多いから、賞讃する意見はたくさんあるだろう。でも中にはなじめなさを感じた者もいる──ということで、小数派(?)の意見の1つとして僕の感想を記してみたしだい。

宮沢賢治『やまなし』とクラムボン
宮沢賢治『どんぐりと山ねこ』感想


チョウのみた夢〜善意の報酬〜(読み切り童話)
こども心にひっかかった《ひろすけ童話》の【善意】
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コメント

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食物連鎖は・・・。
こんばんは。

「よだかの星」は「銀河鉄道の夜」に出てくる「さそりの灯」と同じテーマの話ですよね。宮沢賢治がよたかの説明を入れたのは、知らない人がいるからでしょう。「よたか=醜い鳥」の設定が話の前提になっていますから。私も実物を見たことはありません。

食物連鎖はグロいシステムだと思います。私たちは家畜の肉を日常的に食べていますが、それらがどのように飼育され、どのようなプロセスを経て食卓に料理として出ているのかを子供には説明しにくいです。

「肉を食べる=殺している」のが現実ですから。感受性の豊かな子供に現実を見せると肉を食べられなくなる子もいるでしょう。(^^;


Re: 食物連鎖は・・・。
「食物連鎖はグロいシステム」と感じるのは《ヒト特有の偏向した感覚》だと僕は考えています。個人としてそう感じることが悪いとは思いませんが、これを否定的にとらえることで、例えば食肉関連の仕事をしている人たちに対して「あの人たちはグロいことをしている」と偏見視するようなことがあれば問題(間違っている)でしょう。
食物連鎖は自然現象であり、自然の摂理として正しいから成立している。これを否定的にとらえるのは、その理解に間違いがあるのだと僕は考えています。
食物連鎖・自然淘汰
こんにちは。

食物連鎖をグロいと感じるのは、食物連鎖はヒトを除く世界に通用する話で、そこにヒトが含まれてはいけないからです。自然淘汰の原則も同様です。ベンガル地方のトラや北極圏に住む大型のクマのようにヒトをエサにする動物がいたら、自然だから当たり前とは言えないでしょう。

ヒトを食物連鎖や自然淘汰の原則にあてはめると、免疫力の弱いヒトは細菌やウイルスで死ぬのが当然になり、自力で生きていけない障害を持つヒトや高齢者は死んで当然という結論になってしまうでしょう。ヒト以外の世界では、そうやって弱い個体が間引きされるのが当然に観察されます。

だから、ヒト以外の世界で当たり前に行われている食物連鎖と自然淘汰をヒト自身にあてはめてみて、ヒトはそれをグロいと感じるのだと思います。

ヒトはヒト以外と区別されないといけません。でないと、家畜とペット以外の動物をいずれ絶滅させてしまうことになるでしょう。「サピエンス全史」の著者ハラリは自然という概念は虚構だと断じていて、ヒトは他の種を絶滅させながら繁栄してきたと書いています。

ヒトは羽毛を取るためだけにトキを絶滅させ、家畜を襲うというだけでニホンオオカミを絶滅させました。ハラリが正しいとは言いませんが、人間が「自然」「自然界」と言うとき、必ずヒトのご都合主義が含まれているように思います。

神の視座から見れば、パンデミックも戦争も強すぎるヒトを間引きするための装置かもしれません。だからと言って見過ごしにはできないでしょう。ある程度文明が進むと少子化によって人口が減少するのも神が用意したシステムなのかもしれませんね。

Re: 食物連鎖・自然淘汰
ブログ記事の内容から離れるので詳しくは書きませんが……、

> 食物連鎖をグロいと感じるのは、食物連鎖はヒトを除く世界に通用する話で、そこにヒトが含まれてはいけないからです。
自然淘汰の原則も同様です。ベンガル地方のトラや北極圏に住む大型のクマのようにヒトをエサにする動物がいたら、自然だから当たり前とは言えないでしょう。

──という解釈は間違っていると思います。ヒトも動物であり自然物です。他の生き物を食べて生きているし食物連鎖は当然適用されています。なぜ動物の中で「ヒトだけ」が「含まれてはいけない」のか理解できません。

食物連鎖は生存競争とリンクしていて、生き物たちはそれぞれの立場で自分たちの種を守り、生存率を高めようとします。ヒトがヒトに危害をくわえる動物を駆除するのは、他の生き物が自分たちを守るために敵と戦うのと同じです。

ヒトがこれだけ繁栄できたのは、社会性概念を確立させて、個次元の競争(弱者切り捨て)をするより、社会次元の安定をはかる方が生存率が高まり、けっきょく個々が得る恩恵の方が大きいという判断&選択ができたからでしょう。他の動物とは違うツールを手に入れただけであって、自然の法則が適用されなくなったわけではありません。

> 神の視座から見れば、パンデミックも戦争も強すぎるヒトを間引きするための装置かもしれません。だからと言って見過ごしにはできないでしょう。ある程度文明が進むと少子化によって人口が減少するのも神が用意したシステムなのかもしれませんね。

《神》と記されているものが、《自然の摂理》に近いのではないかと思います。ヒトはどうあがいても、(他の生き物と同様に)《自然の摂理》の法則から逃れられない。自然現象として成立していることが《自然の摂理》として「正しい」ということで、これを否定的に感じるのは解釈に間違いがあるからだと僕は考えているわけです。

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