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ちょっと怖い話!?かごめかごめ〜座敷童子

ちょっと怖い話『座敷童子と《かごめかごめ》』
最近、座敷童子(ざしきわらし・ざしきぼっこ)について調べたり考えたりしているが、その過程で「かごめかごめ」という子どもの遊びについて触れることがあり、ちょっと怖い(かもしれない?)話が思い浮かんだ。着想の経緯は後に記すことにして、とりあえず「かごめかごめ」で思い浮かんだ怖い話を──。
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座敷童子と《かごめかごめ》 by 星谷 仁

 旧家の行事で久しぶりに顔を合わせた親戚の子どもたちが奥座敷に5人集まっていた。
「かごめかごめ」をしようということになり、ジャンケンで負けた1人が鬼になって部屋のまん中にしゃがんだ。背を丸め顔を両手でおおった鬼のまわりを残った子どもたちがとり囲む。手をつないで輪になった子供たちは「かごめかごめ」を歌いながらまわり始めた。

「かごめかごめ
 籠の中の鳥は いついつ出やる
 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ?」

 歌い終わると同時に、輪になっていた子どもたちはしゃがんで鬼の答を待った。鬼は見ないでうしろにいる子を当てなくてはならない。

「トモコちゃん」鬼が言った。
「はずれ」鬼の横にいたトモコが笑った。すると鬼はうつむいて顔を両手でおおったまま、また言った。「じゃあ、ヒロくん」
「はずしたのに、また答えるなんてずるいぞ」鬼の正面にいたヒロが口をとがらせる。
 しかし、鬼は同じ姿勢で続けざまに「タカシくん」「ケンちゃん」と名をあげる。本人が「違う」「はずれ」と答えると、最後に鬼は「アヤカちゃん」と答え、後ろにいたアヤカが文句を言った。「ずるいよ。5人全員の名前を言えば、当るに決まってるじゃん」
「ちょっと待って!」年長のトモコが気がついた。「5人で遊んでいたのに、囲んでいるのが5人て、どういうこと?」トモコの声は裏返った。「なら、鬼は誰なの!?」
 5人はぎょっとして顔を見合わせた。みんな最初からそこにいたメンバーだった。5人がとり囲んだ中心には……6人目の子の背中があった。

 ……こんなのが、座敷童子(ざしきぼっこ)──かもしれない?


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座敷で遊んでいた親戚どうしの子どもたち。気がつくと人数が1人多い……日常空間に忍び込んでいた異分子に気づく驚き──これはちょっとコワイかもしれない(?)。子どもたちの無邪気な遊び「かごめかごめ」も、見方によっては《異世界の存在を呼び出す儀式&呪文》のような怪しげな雰囲気がなくもない……そう感じるのは僕だけだろうか? 座敷童子が「かごめかごめ」で異世界から召喚された存在だとしたら、その儀式で鬼に当てられたアヤカには、どんな運命が待ちうけているのだろうか!?──などと想像が広がった。

遊んでいる子どもたちが1人増えるという不思議なエピソードは宮沢賢治が1926年に雑誌『月曜』2月号で発表した『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』の中にでてくる。短い作品なのでその部分を引用すると──⬇。


「大道(だいどう)めぐり、大道めぐり」
 一生けん命(めい)、こう叫(さけ)びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつないでまるくなり、ぐるぐるぐるぐる座敷(ざしき)のなかをまわっていました。
 どの子もみんな、そのうちのお振舞(ふるまい)によばれて来たのです。
 ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんでおりました。
 そしたらいつか、十一人になりました。
 ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけおりました。
 そのふえた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出て来て言いました。
 けれどもだれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼっこでないと、一生けん命眼(め)を張(は)って、きちんとすわっておりました。
 こんなのがざしきぼっこです。


この賢治が描いた『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』のエピソードを意識してまとめたのが『座敷童子と《かごめかごめ》』ということになる。
僕が『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』を知ったのは比較的最近のことで、初めてこのエピソードを読んだときは、最初にでてくる「大道(だいどう)めぐり、大道めぐり」というのがわからなかった。調べてみると、どうやら「かごめかごめ」のように子どもたちが手をつないで行う遊びらしい。
「かごめかごめ」なら僕も子どもの頃に遊んだことがあり知っている。懐かしい遊びだが……今ふり返って考えてみると、当時気にとめることもなく歌っていた歌詞も、なんだか不思議で謎めいたもののように思われてくる……。


「かごめかごめ」で座敷童子を召喚!?
「かごめかごめ」は鬼ごっこの目隠し鬼のひとつ──とみることもできるのだろうか。手で目を隠した鬼が自分の後ろに位置した者を当てるゲームだ。まずジャンケンで鬼を決め、しゃがんだ鬼をとり囲んで他の者が手をつないで輪になる。そして鬼を中心に回りながら、「かごめかごめ」を歌う。「後ろの正面だあれ?」という歌い終わりで輪になっていた子どもたちもしゃがみ、鬼は自分の後ろにしゃがんた子を当てる。外れた場合は鬼はそのまま継続し、当った場合は、当てられた者が鬼と交代する。
歌詞は地域によって違いがあるようだが、僕らのところでは次のようなものだった。


 かごめかごめ
 籠の中の鳥は いついつ出やる
 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ?


当時は意識したこともなかったが、この歌詞にはどんな意味があったのだろう? 検索してみると、話をおもしろくするためのこじつけと思われるようなものも含め、諸説でてきて、けっきょくよくわからない。
そこで僕なりに解釈してみると──、

「かごめかごめ」は鬼を囲むところから「囲め囲め(かこめかこめ)」が訛ったものだろう。カ行は言葉の中に出てくると濁りがち。「川(かわ)」や「柿(かき)」「垣(かき)」など、言葉の頭では清音だが言葉の途中では「○○川(がわ)」や「渋柿(がき)」「石垣(がき)」と濁るし、「頃(ころ)」や「米(こめ)」も前に言葉がつくと「今頃(ごろ)」、「もち米(ごめ)」と濁音に変化する。
「籠の中の鳥は」は、(「かこめ」が訛った)「かごめ」の「かご」と「籠」をかけ、「囲まれた鬼」を「籠の中の鳥」にみたてた歌詞なのだろうと想像する。
「いついつ出やる」は「鳥(に見立てた鬼)が、いつになった籠の中から(後ろの子を言い当てて)出られるのか(鬼が交代できるのか)」と鬼をはやす言葉だろう。

この遊びでは、鬼は自分の前にいる子ではなく後ろにいる子を当てる。前にいる子を当てるのであれば、目をおおっている指の間から覗き見をするなどのズルができてしまうので、それができない背後の子を当てることになったのだろう。このため「後ろの正面だあれ?」という歌詞が生まれた。
この「後ろ」と「正面」は本来、正反対の言葉だ。この「あべこべの組み合わせ」に対応しているのが「夜明けの晩に」という「夜明け」と「晩」の正反対の言葉を組み合わせたフレーズではないかと思う。
「鶴と亀が滑った」という部分はよくわからないが、あるいは、節(メロディー)を埋めるために「あべこべ」的──ナンセンス系の「おかしな表現」として、ありがたいイメージのある鶴と亀の滑稽なシーンとして加えられたものではなかろうか……。
今考えると、そんな強引な解釈もできなくはない気がするが……「夜明けの晩」や「後ろの正面」など、シュールで不可解な歌詞も含まれているので、この遊び自体が超現実の扉を開く謎の儀式&呪文のようにも思えてきたりする。そんなイメージが「かごめかごめ」➡「座敷童子の召喚」という着想につながり、冒頭の『座敷童子と《かごめかごめ》』となったわけである。


座敷童子の《ひとり多い…》は創作なのか?
さて、宮沢賢治が描いた『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』だが、これは、岩手県遠野の民俗学研究家・佐々木喜善が蒐集した民話をまとめた小冊子『奥州のザシキワラシの話』(1920年)に対して、賢治の地方の座敷童子は──という形で書かれたものだったらしい。佐々木喜善は、柳田國男に『遠野物語』を提供した民話・伝説・習俗・口承文学の収集家で、『奥州のザシキワラシの話』も、フィクションではなく彼が地道に取材した座敷童子に関する資料集である。それでは賢治の『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』はどうだったのだろう? 《童話》として全集に収められているが、この作品で語られている4つのエピソードには、モデルとなる伝承があったのだろうか……それとも賢治の創作だったのだろうか?

こんなことが気になるのは、僕が子供の頃から抱いていた《座敷童子》のイメージが、賢治の描いたものに近く、一般の(?)民話とはズレているようだと最近になって気がついたからだ。僕が座敷童子を知ったのは、いつ・どんな経緯だったかは覚えていない。ただ、《遊んでいる子供たちがいつのまにか1人増えていて、誰が増えたのか特定できない》という不思議な現象が強く印象に残っている。おそらく宮沢賢治の童話にあるエピソードかその元となる話(があるなら)を誰かから聞いたのだろう。「メンバーは同じ顔ぶれのままで、どうして人数だけが増えるのだろう?」「数が増えているのに誰が加わったかわからないなどということがあるのだろうか?」と幼い頭で考えた記憶がある。だから、僕にとって座敷童子の一番の特徴は《1人増えるが特定できないという不思議な現象》だった。筒井康隆の作品にもこの現象を扱った『座敷ぼっこ』というSF短編があるし、座敷童子についての似たような認識は何度か聞いてきた……だからこの不思議な現象こそが座敷童子の最大の特徴だと長い間思い込んでいた。
ところがあるとき、民話集のたぐいの本で座敷童子について調べてみたところ、期待していたこの特徴がなかなか見つからず、キツネにつままれたような気がした。そして最近になって宮沢賢治の『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』を読んで、《1人増えるが特定できないという不思議な現象》というのは賢治の創作だったのではないか……と考えるようになっていた。

実際に残っている伝承の中に《1人増えるが特定できないという不思議な現象》にあたる話は存在しているのだろうか……それとも、僕が思い込んでいた座敷童子の特徴は都市伝説のようなものだったのだろうか?
そんなことを考えるようになって、賢治が『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』を書くきっかけとなった『奥州のザシキワラシの話』を読んでみたくなった。調べてみると『奥州のザシキワラシの話』は『遠野のザシキワラシとオシラサマ』という本に収録されているらしい。検索してみると隣の市の図書館にこの文庫版があることがわかり、さっそく借りてきた。
01遠野の座敷童子表紙
『遠野のザシキワラシとオシラサマ』(佐々木喜善/中央公論新社/2007年)⬆に収録されていた『奥州のザシキワラシの話』の中に、喜善自身が聞いた話として、こんな事例が記されていた⬇。


(二三)土淵村字本宿にある村の尋常高等小学校に、一時ザシキワラシが出るという評判があった。諸方からわざわざ見に来たものである。児童が運動場で遊んでおると、見知らぬ一人の子供が交って遊んでいたり、また体操の時など、どうしても一つ余計な番号の声がしたという。それを見た者は、常に尋常一年の小さい子供等の組で、それらがそこにおるここにおるなどといっても、他には見えなかったのである。遠野町の小学校からも見に来たが、見た者はやっぱり一年生の子供等ばかりだったそうである。毎日のように出たということである。明治四十五年頃の話である。同校教員高室という人にこのごろただすと、知らぬと言ったがどうした事であろうか。この人はその当時から本校におった人であるのに。(P.20)

体育の時間に整列した生徒が人数確認の「番号」を言っていくのは僕らも経験がある。そのときに実際にいるはずの人数より1つ余計に声がしたという話は興味深い。いつのまにか子供の数がひとり増えているという座敷童子の《プラス1》伝説(?)のわかりやすい一例かもしれない。

《顔ぶれは同じなのに1人増える》という現象は成立し得るのか?
佐々木喜善・著『奥州のザシキワラシの話』の中に、《体操の時など、どうしても一つ余計な番号の声がした》《それを見た者は、常に尋常一年の小さい子供等の組で、それらがそこにおるここにおるなどといっても、他には見えなかったのである》といった不思議な現象を示す話があったのは興味深いが、僕が認識していた座敷童子の特徴や宮沢賢治が描いた座敷童子のエピソードとは微妙にして大きく異なる点がある。《座敷童子が1年生の子には見えた》ということだ。大人にとっては「声はするけど姿は見えない」だけで、その存在が見える1年生には「増えた子を認識できた」ということになる。これでは顔ぶれと人数の不一致(矛盾)は起こらない。見えない大人が数えれば子どもたちは本来の人数であり、座敷童子が見えている1年生が数えれば、座敷童子を含めた数になるので、それぞれカウントに矛盾(不一致)は起こらない。
大人には見えないというのは不思議な話ではあるけれど、謎のインパクトからすれば《人数だけが増え、顔ぶれは変わらない(だから誰が増えたのかわからない)》という方が断然おもしろい。
顔ぶれと人数の不一致(矛盾)こそが、(僕にとっては?)座敷童子最大の謎であり魅力といえるのかもしれない。

宮沢賢治ばかりでなく、筒井康隆も『座敷ぼっこ』という作品でこの現象を扱っていることは先に記したが、実は僕もこの現象を扱った座敷童子作品を2つ発表している。
1つが1990年12月に朝日小学生新聞に掲載した『ざしきぼっこの写真』という読み切り童話だ。概要は──8人で遊んでいた子どもたちが、いつの間にか9人になっていることに気づく。顔ぶれに変わりはないのに頭数だけが増えていて、誰があとから加わった子なのかわからない──座敷童子がまぎれ込んでいるということになり、子供たちはそれが誰なのかつきとめようとする。1人がカメラを持ち出してきて、そこにいる子を1人1人撮っていく。撮り終えるとカウンターは間違いなく9枚を示していた。ざしきぼっこの撮影に成功し、これはスクープだと喜ぶが……現像に出して出来上がってきた写真は8枚──もとからいた子しか写っていなかった。《8人しかいないのに数えると9人》という現象は《8枚しか撮れてないのにカウンターは9枚》だった──ということを確認しただけに終わる。座敷童子を特定しようとするが失敗する話だった。

これに対し、《顔ぶれは同じなのに1人増える》という現象を解き明かす着想を得て描いたのが、1994年12月に朝日小学生新聞に短期連載した『病院跡のざしきぼっこ』だった(掲載時期に合わせて設定を冬に変更している)。この作品では7人だったはずの子どもたちが8人にカウントされる。《1人増えているのに顔ぶれは変わらない/増えた子が誰だか特定できない》という不可解な現象がどうして成立したのか──について、次のような解釈を考えた。
(その状況下では)数をカウントするときに頭の中から「4」という数字が抜け落ちてしまう──そのため「3」の次は(「4」を飛ばして)「5」とカウントされ、7人の子供たちが8人と認識されてしまった──というもの。
屁理屈のように思われるかもしれないが、実際にこの現象が成立することがテレビのスペシャル番組で証明されたことがあった。
病院跡のざしきぼっこ』は朝日小学生新聞で発表する前に個人誌《チャンネルF》第12号(1994年3月9日)に収録しているのだが、同号の作品覚書コラムでこのテレビ特番についても触れている。その頃、マーティン・セント・ジェームスの催眠術ショーがテレビで放送されていて、その中に催眠術をかけたゲストの頭の中からある数を消すというパフォーマンスがあった。ゲストは自分の手の指を数え、11本になってしまったことに驚きとまどう──そんなシーンがあった。これを目にしたとき、僕が考えた座敷童子現象(N個の物がN+1個にカウントされてしまう)の仕組みと同じだと思った。
ちなみに、『病院跡のざしきぼっこ』は同じアイディアで1983年11月に『分校跡の座敷童子』として書いており、1984年3月に某児童文学グループの合評会で朗読したことがあった。そのときは目玉のアイディアである《プラス1にカウントされてしまう仕組み》が聞いている人にはわかりにくかったようで、評判はあまり良くなかった。
面白いアイディアだと思っていた割に反応が悪かったことを残念に思っていたのだが、その10年ほど後にマーティンの特番で僕の考えたのと同じ現象が披露されウケているのを見て、「やっぱりネタとしては面白いんだ」という肯定感と、テレビでウケていた同じネタだったのに僕の作品では、しょっぱかったことに凹む気持ちもあって、複雑な思いでマーティンのパフォーマンスを見ていた記憶がある。


座敷童子現象のをビジュアルに表現するなら──?
子どもの頃から気になっていた座敷童子現象の謎については『病院跡のざしきぼっこ』で成立しうる合理的な解釈をみつけたことで何となく決着したような気分になっていたが、最近、この現象を別の方法で成立させる(成立したように見せる)トリックを思いついて記事にしてみたのが【境内の座敷童子(頭の体操)】だった。
他にも座敷童子現象を成立させる方法は色々ありそうだ……と考え、昔聞いたことがあるクイズ(?)に座敷童子的解釈を持ち込むことができると思い当たって記事にしたのが【ひとり多い!?座敷童子2題】。このとき、「ひとり多い…」という現象をわかりやすくイメージできるように簡単なだまし絵を描いた⬇。

02騙し絵2_1人
(※➡ひとり多い!?座敷童子2題

この騙し絵を描いたあと、座敷童子現象の不思議を文章による「説明」ではなく、ビジュアルでわかりやすく伝えることはできないかと考え、絵の一部を入れ替えることで描かれていた人の数が増えるというトリックアートを作ってみた。
03座敷童子騙し絵10_1説明
(※➡1人増える!?トリックアート&解説

04座敷童子騙し絵15分割線
(※➡1人増える不思議な絵!?座敷童子の紙芝居

こんなのが、僕のイメージする座敷童子⬆。
他にも、この座敷童子現象を成立させる(もしくは成立したように見せる)方法はあるだろう。僕の中では座敷童子ぷちブーム(?)が再燃しているようだ。

トリックアート座敷童子は誰だ!?
人数が増減する騙し絵の簡単な解説

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コメント

No title
宮沢賢治の本を1か月くらい前から図書館で借りていて、そこにざしき童子のはなしがちょうど出てきました。
すごい偶然、と思ってしまいました…
ざしき童子の話は遠野とか、岩手とか、東北のほうに多いのでしょうかね。だとしたらちょっと興味深いです。
ちょっと話はずれますが、宮沢賢治は子供のころ読んだときよりも今のほうがおもしろくかんじます。。。
Re: No title
noriさんも宮沢賢治を読んでいるところでしたか。たしかに子どもより、作者の意図を汲み取る事ができる大人の方が深く理解できる作品が多いかもしれませんね。
僕は『よだかの星』で、「それはヨタカに失礼だろう」と感じ、食物連鎖を否定するかのような感覚にもなじめず、宮沢賢治はほとんど読んでいませんでした。

『ざしき童子のはなし』の4番目(最後)にでてくるエピソードが、佐々木喜善・著『遠野のザシキワラシとオシラサマ』の「ザシキワラシの話 1」の中で紹介されていました。賢治の作品を読んだ佐々木喜善が、自著に紹介するさいに手紙を出したことがきっかけで両者の間には交友もあったらしいです。

喜善が集めた話を読んでいると、正直なところ内容自体は(物語としては)おもしろくないものが多いですが、どうしてそのような話(発想)が生まれたのかというところでは興味深いものを感じます。

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