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『ゼロの焦点』タイトルの意味

謎めいたタイトル『ゼロの焦点』の意味
ゼロの焦点@松竹
邦画『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観た。言わずと知れた松本清張の同タイトル推理小説を映画化した作品。テレビを離脱する以前にWOWOWで放送されたものをDVDに録画していたのだが、それを久々に鑑賞してみたしだい。『ゼロの焦点』は松本清張自身も気に入っていた作品だそうで、これまで何度も映像化されている。僕が観た松竹1961年版は、主人公が夫の殺害現場である断崖絶壁で犯人と対峙し謎解きを語る見せ場(?)が説明的でスマートではない気もしたが……「葬り去りたい過去の秘密を持つ人たち」によって引き起こされた殺人事件という作品の意図(着眼)や筋書きは面白いと感じた。内容は込みいっていて感想を記すには行数を要すし、作品評はすでに多くの人がしていると思うのでここではスルーして……今回は作品の内容についてではなく、タイトルについて取り上げてみたい。

『ゼロの焦点』──このタイトルの意味するものは何?
小説にしろ映画にしろ、この作品を読んだり観たりした人の多くが抱く疑問ではあるまいか?
謎めいたタイトルであっても、読んだ(観た)後に「なるほど!」と合点がいくのが本来ならば理想のタイトルというものだろう。しかし、『ゼロの焦点』に関しては作品を鑑賞したあとにも、そのタイトルの意味するところが釈然としない。作品の内ではきれいに謎解きがなされているけれど、タイトルの謎は残されてままだ……。

有名な作品だし、興味を引くタイトルなので、その由来については明らかにされているだろうと思ってインターネットで検索してみたのだが……ヒットする「解釈」は、どれもピンとこない。『ゼロの焦点』の明確な由来はわからずじまいだった。
松本清張の作品には他にも『波の塔』や『水の炎』など抽象的なタイトルが存在するが、こうした抽象度の高いタイトルについて清張自身が時間稼ぎの苦肉の策(?)だといようなことを語っているそうな。雑誌への連載が決まっていて作品の内容が固まっていない場合──とりあえずタイトルだけは先に決めておかなくてはならない状況(予告号のタイトル〆切は実際の作品の〆切りより早い)で、どのようにも解釈できる抽象的なタイトルにしておけば、作品を考える時間稼ぎができる──ということらしい。
『ゼロの焦点』もそのような曖昧さをもつ「あまり意味の無いタイトル」だったのではないか──というような説(?)もあって、僕が目にした中では、これが一番「そうかもしれないな」と思える解釈だった。

『ゼロの焦点』というタイトルがどのようにして決まったのか、清張自身がどこかで明言していてもよさそうな気もするのだが……僕はその情報を知らない。そこで、僕なりの推理を記してみたい。あくまでも僕の思うところであって、これから述べる解釈が正しいかどうかはわからない。

タイトルの意味を考えるにあたって、『ゼロの焦点』の内容についてチラリと触れておくと──、


主人公は新婚間もない鵜原禎子(久我美子)。夫の鵜原憲一(南原宏治)は見合いで知り合った大手広告会社のエリートサラリーマンで、結婚を機に金沢出張所から東京本社営業部に栄転──二人は東京に新居を構える。結婚して一週間目、憲一は禎子を東京に残して、仕事引き継ぎのため最後の金沢出張に出かける。ところが、憲一はいつまで経っても戻ってこない……というところから事件が展開する。謎の失踪をとげた夫を追って禎子は初めての北陸の地を踏む。夫の足取りを追っていくうちに、憲一は禎子と結婚する以前に、出張先で曽根益三郎という偽名を使って内縁の妻・田沼久子(有馬稲子)と暮らしていたことがわかる。憲一はその虚構の生活を隠蔽・清算をするために曽根益三郎(偽名の自分)の自殺を擬装しようとするが、実際に(憲一が)殺害されてしまっていたのだ……。

ところで、『ゼロの焦点』は連載開始当初のタイトルが『虚線』だったという。こちらは『ゼロの焦点』に比べれば、ちょっとわかるような気がする。「実線」に対する「虚線」という意味だろう。
その人がたどってきた人生の軌跡を「実線」とするならば、偽名を使って生きた虚構の軌跡は「虚線」と言える。鵜原憲一(実名)が禎子と暮らした東京でのくらしを「実線」とするなら、曽根益三郎(偽名)が田沼久子と暮らしていた虚構の軌跡は「虚線」というわけだ。また、禎子がたどった夫の足取り──虚構の人物・曽根益三郎の軌跡を「虚線」とみなすこともできる。
あるいは、実際に確かめられたストーリーを「実線」とするなら、禎子が想像(推理)したストーリーを「虚線」とみることもできるだろう。この「虚線」は展開の中で移ろい違った様相を見せていくことになる。

というように『虚線』というタイトルであれば、観終わった(読み終わった)あとに、「そういう意味だったのか」と思い当たらないでもない。ただ、『虚線』という単体の単語は、タイトルとしては、ちょっと弱い……。
そこで清張は、連載メディアを変更したさいに、もっと気のきいたタイトルに差し替えようと考えたのではないか……。創作をしたことがある人ならわかるだろうが、書き進めている作品タイトルの善し悪し(気に入っているか否か)は創作意欲にも反映する。タイトルなんて作品を書き上げたあとに決めてもよさそうなものだが、とりあえず仮にでもタイトルを決めておかないと気持ちよく書き出せない・書き進めにくい──という人は多いはず。タイトルをつけることによって作品のイメージが明確化し描きやすくなるからだろう。

松本清張の抽象度が高い作品タイトルを見ると『波の塔』『水の炎』『点と線』『壁の眼』『蒼い点描』『砂の器』『球形の荒野』など複数の単語で構成されたものが多い。『虚線』もこれにならって変更するなら……「虚線」をたどって事件の真相に近づいていく禎子の行動は「虚線をフォーカス」することと言えなくもない。「フォーカス」で絞られるのは点であるから、線はなじまない……とすれば「虚線」ならぬ「虚点」だろうか? 「虚点のフォーカス」というような方向でタイトルが検討されたことがあってもおかしくはないだろう。清張の感覚で言えば「フォーカス」より「焦点」がなじむ。しかし「虚点の焦点」では「点」が重複する。そこで「虚点」=「虚しい点」を「ゼロ」に置き換え、「ゼロの焦点」というタイトルに到達したのではないか?
正確なプロセスはわからないが、いずれにしても、タイトルとして見た場合、『ゼロの焦点』の方が『虚線』よりも響きは良いし、謎めいたニュアンスが強まる。読み終わった読者(観終わった観客)にはわかりづらいうらみはあるものの、総合的に判断してキャッチの良い『ゼロの焦点』を採用したのではないか──というのが僕の推理なのだが、真相はどうだったのだろう……。


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