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ファーブル昆虫記の違和感について

あらためてファーブル昆虫記の「なじめなさ」について
『ファーブル昆虫記』を称賛する人は多い。しかし僕にはなじめなかった──そのあたりのとろこをあらためて記してみることにする。
01アオオサムシ
昆虫への興味から『ファーブル昆虫記』を手にとったのは僕が小学生の頃だった。当時は関心のある昆虫のことが書かれているのに、なぜか「なじめない」感覚があって読書に没頭できず、内容についてはほとんど記憶に残らなかった。
最近になって、約半世紀ぶりくらいにファーブル昆虫記を読む機会があったのだが、子どもの頃に感じた「なじめなさ」は、やはりあって「好きな虫について書かれているのに、どうして読むのがストレスになるのか」という、本題とは別のところに関心が向いてしまいがちだった。おそらく小学生のころに読んだ時にも、こうした感覚があって違和感に気をとられて内容があまり頭に入らず、「なじめなさ」だけが記憶に残ったのではないか……という気がする。

ファーブルの昆虫記には文学的な修飾が多く、昆虫を説明するのによく擬人化した比喩が使われている。これが僕の「昆虫(自然物)を見る」という感覚からすると、どうにもなじめないものだった……。
端的に言えば──「自然(昆虫)に目を向けているのに、どうしてそんな(擬人化した)とらえ方しかできないのか」という違和感があって、これが読み進むうえでのフラストレーションとなっている。
たとえばファーブルは狩りをする虫のことを「殺し屋」だとか「暗殺者」などと記し、捕食行動をまるで「殺人」であるかのように表現している。しかし自然物であるところの昆虫の行動は、いってみれば自然現象である。自然の摂理・生命原理にかなったものであるからこそ成立している現象のはずだ。狩りをする虫も狩られる虫も同じ自然の摂理に従って生命活動を実践しているにすぎない。ヒトからみれば残酷に映るシーンであっても、そこにはファーブルが投影する「悪意」など存在しない。昆虫の生態(自然現象)に対し、善・悪といったヒトのローカルな価値観を持ち込み、その枠組みを当てはめて見ようとするファーブルの「とらえ方」に違和感を覚えるのだ。最近読んだ完訳版ではそうした「なじめない」感が顕著だった。
具体的な例として──『完訳 ファーブル昆虫記 第7巻 上』(奥本大三郎・訳/集英社)の第1章「オオヒョウタンゴミムシ/死んだふりをする殺戮者」の冒頭部分はこんなぐあいである⬇。


 戦争を職業とする者は、ほかのことは何もできないものだ。虫たちのなかでは血気盛んで喧嘩好きのオサムシの仲間がいい例である。この虫にいったい何ができるだろうか。何か物を造り出す技能という点ではゼロか、またはほとんどゼロというところだ。
 ほかに何もできないこの虐殺者は、しかし、比類がないほど豪華な、体にぴったりした丈の長い上衣を着ている。黄銅鉱、黄金、青銅の輝きをこの虫はもっているのだ。黒っぽい地味な衣裳をまとっている場合でも、その地色はきらきら輝く紫水晶で縁取られ、鎧のように体にぴたりと合った翅鞘(ししょう)には、鎖状に点々と、凸凹になった彫刻が施されている。
 しかもすらりと引き締まった紡錘形の体は堂々たるもので、オサムシは我々の標本箱の誇りといってもよいが、それは外見だけの話である。これは熱狂的な殺戮者(さつりくしゃ)、それ以外の何ものでもない。この虫にそれ以上のことを求めてはならないのである。(P.11)
 古代の知恵は、力の神ヘラクレスに愚か者の頭を付けて表現している。実際のところ、暴力をふるうだけでは、大した取り柄もないということなのだ。そしてオサムシの場合がまさにそれである。
 地味な虫でも研究の主題(テーマ)をふんだんに与えてくれるのだから、これほど華やかに飾られた虫を見れば、誰でもこれには、書き残しておくだけの値打ちのある、素晴らしいテーマがあると思うであろう。しかし、ほかの連中のはらわたをむさぼり食らうこの恐ろしい奴に、そんなことを期待するのはやめたほうがよい。オサムシにできるのは殺すことだけなのである。(P.12)


自然の摂理に従い、生きるために狩りをしているオサムシも、ファーブルにとっては「殺戮者」であり、文章からは「悪意」が感じられる。
このあとファーブルは、飼育下のオサムシに様々なエサを投入し、《この悪党の仕事ぶり》と称して捕食行動を記している。そしてニジカタビロオサムシにオオクジャクヤママユの巨大な幼虫を与えたときのようすを《殺戮に酔ったオサムシは、喜びに身を震わせながら、無惨な傷口から血をすすっている》と、まるで猟奇殺人鬼の犯行のように綴っている。
色々な昆虫を投入して展開する《惨劇》を紹介した後、オムサシについての記述はこう続く。


 オサムシには一種の刺激臭がある。これは血に飢えた荒々しい体質からくるもので、殺戮に熱中するものはみなこれをもっている。オサムシの仲間は皮膚につくとピリピリする液体を出す。サメハダオサムシは捕まえると酢のような液を出すし、カタビロオサムシに触ると薬品臭い嫌な臭いが指につく。なかにはホソクビゴミムシの仲間のように、爆薬をもっていて、プッとこれを発射して、攻撃してくる相手の顔に火傷を負わせるものもいる。
 腐食剤を蒸留したり、ピクリン酸を発射したり、ダイナマイトで爆撃したりする、闘いにぴったりの乱暴者。こんなオサムシ、ゴミムシの仲間には、殺戮以外の何ができるのか。何もできない。何の技術も、何の腕ももっていないのだ。幼虫さえもがまったく同じことで、成虫と同じ仕事をし、あちらの石の下、こちらの石の下とさまよいながら、何か悪さをしでかしてやろうと機会を窺(うかが)っているのである。(P.17)


オサムシは完全に悪役である。自然現象(昆虫の行動)に悪意を投影させた表現は、文学的ではあるかもしれないが、正しい自然の見方だとは思えない。
ファーブルはオサムシのむごさ・凄惨さを強調しているが、飼育下のオサムシに被害者となる虫を投入して《殺戮》を実行させたのはファーブル自身である。また、ファーブルは昆虫記の中で、観察や実験のために数多くの昆虫を殺している。オサムシが獲物を殺すのは生命活動の一環──「生きるため・種の存続のため」という自然の摂理に則した行為であり、生態系の一部として肯定されるものだが、ファーブルの殺生は「学問的探究心」という人間ローカルな動機であり、いってみればヒトの(ファーブルの)都合である。大義名分はオサムシの方にある。
もちろん僕は科学上の実験を批判するつもりは全くないが、「ヒトの(自分の)都合」で殺生を続けてきたファーブルが、「種の存続をかけた生命活動」を実践している昆虫に悪意を投影し、その営みを「殺戮」などと呼ぶことが僕にはどうも納得できない。踏み込んだ言い方をすれば、自然を見るファーブルのとらえ方には、偏見がある──これがファーブル昆虫記の「なじめなさ」につながっている。


02昆虫記10巻下
『完訳 ファーブル昆虫記 第10巻 下』(奥本大三郎・訳/集英社)の第14章「キンイロオサムシ/"庭師"と呼ばれる虫の食物」では冒頭からオサムシの残虐性をアピールするために屠畜場が引き合いに出されているのだが、その不適切ぶりをフォローする編集側のコメントが本文の前に添えられている。

おことわり 本章では、オサムシの捕食の場面がシカゴの食肉工場(屠畜場)のようすと比較するようなかたちで描写されています。ファーブルは、オサムシの捕食行動を屠畜・肉食を引き合いに出し、その捕食の場を「屠畜場」、餌となる虫を「家畜」に例えています。そのうえでオサムシを「殺し屋」、捕食行動を「殺戮」、「虐殺」などと呼ぶことは、現在の人権意識に照らした場合、食肉処理の仕事と、それに従事する人々に対する差別や偏見を助長する恐れがあり配慮に欠けた表現と言わざるをえません。本書では、『昆虫記』原書が発表された二十世紀初頭の、アメリカの歴史的背景にもとづいて書かれたファーブルの原文を尊重し、そのまま訳出しましたが、今なお多くの人がいわれなき差別に苦しめられているという、社会的に決して見逃すことのできない大きな問題が存在していることを胸にとめ、お読みいただきますようお願いいたします。なお、本章で言及される当時のシカゴの食肉工場の事情についての詳細は訳注「シカゴの大食肉工場」をご覧ください(編集部)。(P.11)

ここでは屠畜場の例えを引き合いに出したことで、人権問題にかかわりかねないことを憂慮した編集部が、人への偏見をフォローしている。しかし昆虫(オサムシ)への偏見については言及されていない。屠畜場に従事している人を「殺戮者」と呼ぶのが不適切であるように、狩りをするオサムシを「殺戮者」と呼ぶのもまた不適切だと思う。
昆虫記の中にはファーブル自身が昆虫に対する表現が不適切であることを認めている箇所もある。『完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下』(奥本大三郎・訳/集英社)第11章「ミツバチハナスガリ/ミツバチの暗殺者」の中に、こんな一節がある。


このハチの恐るべきむさぼり方を観察したとき、その本当の目的がわからなかったので、私は、人殺し、強盗、悪党、死者の追い剥ぎなどと、もっとも人聞きの悪い形容詞を浴びせかけたのであった。無知は常に悪口を生み出す。真実を知らないものはひどく断定的な物言いをし、悪意のある解釈をするものだ。
 事実によって目を開かれたいま、私は急いで自らの非を認めてハナスガリに敬意を表することにしよう。(P.104)


しかし、ファーブルのハナスガリに対する《敬意》も、ひどく人間的な感覚で、《悪意のある解釈》と同次元のもの(《善意への心変わり》)のように見える。結局、偏見を持って自然を見るとらえ方に変わりはなく、実際、この後の巻で、オサムシに対する《悪意のある解釈》が展開されている。

昆虫を含む自然物を見るということは、人間のローカルな感覚・価値観・偏見を離れ、くもりのない澄んだ目で、より根源的な世界の存在を感じること──高い視座でものを見ようとすること──僕はそう考えている。その感覚でいうと、せっかく自然に目を向けているのに擬人化にとらわれた狭い感覚でしかものを見ることができなかったファーブルの文章には、なじめない気がするのだ。



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