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ファーブル昆虫記:ファーブらない昆虫記!?

■ファーブル昆虫記とファーブらない昆虫記
01昆虫記3冊
『ファーブル昆虫記』はとても有名だ。このタイトルを知らない人はいないだろう。図書館へ行くと複数のシリーズや関連本が並べられている。
岩波少年文庫の『ファーブルの昆虫記 上』(大岡 信・編訳)の「まえがき」冒頭には、こんな文章⬇が載っている。


 ある人がわたしに、こんなことをいいました。
「子どものころ『昆虫記』を読んだことがあるかないかで、人間を二つのグループに分類することができると思わないかい?」
 ずいぶんとっぴな意見のようですが、ファーブルの『昆虫記』を知っている人なら、だれでも、この意見に賛成するのではないでしょうか。(P.3)


言わんとすることはわかる気がする。ファーブルの昆虫記に感化された虫屋さんは多いようだし、この本(シリーズ)がきっかけとなって虫屋に入信(?)した人も少なくなさそうだ。そんな人たちにとっては影響力の強い作品だったにちがいない。それほどの作品だったからこそ、色々な出版社から色々なシリーズで出版され続けているのだろう。

僕も子供の頃、昆虫への興味からファーブル昆虫記を手にとった記憶がある。しかしその時は、なじむことができず、内容についてはほどんど覚えていなかった。そんなわけで、ファーブル昆虫記については、長い間「タイトルだけは知っている(内容はほとんど覚えていない)昆虫観察に関する本」という程度の認識でいた。
それが比較的最近──約半世紀ぶりにファーブル昆虫記を(少しだけだが)読む機会があった。図書館へでかけてみると、複数の昆虫記シリーズが置かれている。いくつものシリーズがあるのは、出版社や翻訳家の違い、取り上げる内容や分量(頁数&巻数)の関係、読者の対象年齢の違いなどによるものだろう。特に子どもが読む場合、完訳版は長いし難しい……要約してわかりやすい表現にリライトする必要がある。こうした改編版はファーブルの書いた昆虫記をトリミングしたりリサイズしたものだろう──そう考えていたのだが、手にとってみて驚いた。完訳版をオリジナルに近いものだと考えると、「これは《ファーブルの書いた『昆虫記』》なのだろうか? もはや別のものではないか?」と首をかしげたくなるものが混在していたのだ。

子どもの時に愛読していた『ファーブル昆虫記』が、実はオリジナルとはずいぶん違うものだったとか、Aシリーズを読んだ人と、Bシリーズを読んだ人が『ファーブル昆虫記』について語り合ったら、噛み合なかった……なんてことだって大いにありそうだ。
《子どものころ『昆虫記』を読んだことがあるかないかで、人間を二つのグループに分類することができる》という見方はおもしろいが、その基準となる《子どものころに読んだ『昆虫記』》が、本当にファーブルのものだったのか……どこまでが『ファーブル昆虫記』で、どこからが『ファーブらない昆虫記』(?)なのか……共通認識として成立しうるものなのか……考えてしまった。


■ファーブル昆虫記は自然科学モチーフの文芸作品
僕も比較的最近になって、完訳版(『完訳 ファーブル昆虫記』奥本大三郎・訳/集英社)を少しばかり読んでみたわけなのだが……気づいたことを少し記してみたい。
『ファーブル昆虫記』は、図書館では自然科学の棚に置かれていて、僕もずっと自然科学の本だと思っていたのだが……完訳版を読んで感じたのは《この著作物の本質は文芸作品である》ということだった。ファーブル昆虫記の原題は直訳すると「昆虫学的回想録」(奥本大三郎・訳)もしくは「昆虫学の思い出」(大岡 信・訳)だというから、ファーブル自身も随筆のつもりで観察や考察を記していたのだろう。モチーフは自然科学だが、作品の基本構造は文芸作品というのが正しい評価だと思う。ただ、文芸作品としての価値よりも描かれている自然科学的情報の方が価値が高かったことで、自然科学のカテゴリーに分類されているのだろう。

完訳版を読んでみると『ファーブル昆虫記』の特徴は、《著者(ファーブル)の一人称による独特の語り口で展開される、昆虫観察の顛末》であり、客観的事実として記された昆虫の行動を含め、観察や実験・考察なども、すべて著者(ファーブル)の目を通して描かれている。昆虫にスポットが当たってはいるが、この作品の主人公は昆虫ではなく、それを見つめるファーブルなのだ。随所にファーブルの感性が反映している。

絵画に例えるなら、同じ素材を描いても画家によって完成した作品には違いがあらわれる。それぞれが固有に持つ画家らしさ──《画風》のようなものは文芸にもあって、ファーブルの個性が反映した語り口調の文章は彼の《画風》のようなものといえる。仮にもし他の人が同じような昆虫観察を綴ったとしても『ファーブル昆虫記』のような印象にはならなかったろうし、ファーブル自身がこれを随筆スタイルではなく論文形式で記していたら、ずいぶん違った味わいのものになっていただろう。


■作品の印象形成にかかわる文章スタイル
小説にしろ随筆にしろ、書くべき内容が決まればそのまま書き出せるというものでもない。それをどういうスタイルで書き出すのが描こうとする内容にふさわしいか──構成はもちろんだが、まず「人称」をどうするか……一人称にするか三人称でいくのか──一人称の場合でも「私」「俺」「僕」では印象が異なる。三人称の場合は主人公を誰にすえるか、名前をどうするか……あるいは作品によっては二人称という選択肢も考えられないではない。そして常体で書くか敬体にするか──そうしたことを書き手は考えるものだ。自然に決まる場合もあるし、吟味して決めることもある。読者からすればあまり意識しないことかもしれないが、選択された設定にふさわしい形で文章は書き進められることになるので、表現スタイルの選択は、作品全体の印象形成に少なからず影響を与えることになる(書きやすさにも影響する)。
フランス語のことはわからないが、ファーブルも昆虫記を記す際には、意識的・あるいは無意識的に描くべき作品にふさわしい文章スタイルを選択したはずだ。

ファーブルの昆虫記では、著者(ファーブル)の一人称で語られる文章スタイルが、独特の味をかもしだしていて、ここに文学的味わいがある。文章が上手いとか下手とかいうこととは少し違う──ファーブルの感性があふれる文章に魅力を感じる読者も多いはずだ。じつは僕はこのファーブルの感性──《昆虫の見方》になじむことができなかった。ファーブルは虫を擬人化した例えを多用しているが、「どうしてここで、そんな例え話がでてくるのか」「その例えを虫にあてはめるのは適切ではないだろう」と感じることが多かったのだ。これは僕の個人的な感覚に合わなかったというだけで、作品の善し悪しとは別の次元の話だ。文芸作品としてみた場合、ファーブルの文章スタイル──《画風》ならぬ《文風》が昆虫記の特徴であることは間違いない。


■ファーブルの個性が反映した昆虫記
《文芸作品》には著者の人柄が反映していがちなものだが、完訳版を読むと、「虫を観察する主人公=ファーブル」の人物像・個性が色濃く感じられる。読者は展開する昆虫の生態や実験などを客観的な事実としてではなく「ファーブルが見ている世界」というイメージで思い描いていくことになる。
完訳版を読む以前、僕はファーブルについて漠然と《偉人》のひとりというイメージを持っていた。しかし完訳版を読んでみると、ポジティブな部分だけではなくネカティブな部分も含めて人物像が浮かび上がってきた。
ファーブルは粘り強い観察を続けているが、その集中力・固執力と無関係ではないだろう──頑固で偏屈な側面がのぞく。そして癇癪(かんしゃく)持ちでもあったようだ。完訳版を読むとかなり気難しい人でもあったことがうかがえる。その1つが『完訳 ファーブル昆虫記 第4巻 下』(奥本大三郎・訳/集英社)の第15章「私への反論と、それへの返答/狩りバチの本能についてのまとめ」だ。

02昆虫記4巻下

 少し大がかりな思想が飛び立とうとすると、気難しい連中がすぐに立ち上がって、その翼を折り、さらに傷ついたその思想を踵で踏みにじろうとするものだ。狩りバチが食料を保存するために行う外科手術についての私の発見も、同じ目にあった。
 さまざまな理論を闘わせること、それは勝手である。想像の世界というのは漠然としたもので、そこに各自がそれぞれの観念をもち込むのは自由である。
 しかし確固たる事実には議論の余地がない。ある事実を嘘だと思いたいからと気がせくあまり、他によく調べもせずにその事実を否定するなど、見当違いも甚だしいことである。
 獲物を狩るハチの、まるで解剖学を心得てでもいるかのような本能について、私がこんなにも長いあいだ述べ続けてきたことを、観察の反証をあげて傷つけた人は、私の知るかぎり一人もいないのである。彼らはただ机上の空論で反対しているのだ。まったく嫌になるではないか。(P.209)


第15章「私への反論と、それへの返答/狩りバチの本能についてのまとめ」はこの文章⬆で始まる。ファーブルが発表した内容に対して反論や批判があったらしい。これに苛立っているのがよくわかる。冒頭の文章から、ファーブルは自説に対する異議を《翼を折り、傷つけ、踵で踏みにじる》ことに匹敵する非道な行為だととらえて憤慨していたのがわかる。
新説に対して疑問や反論・批判的な意見が出てくるのは自然なことで、ある意味健全なことだ。ファーブル自身も昆虫記の中で進化論を批判している。しかし、自説に対する批判には腹を立てて、それを傷害・攻撃行為と捉えるのは科学者としてどうなのか……こうしたところにファーブルの偏屈さを感じてしまう。
僕は専門的な知識を持ち合わせていないが、完訳版を読んでいて、「ファーブルが記している観察のすべて正しかった」としても、「その行動や現象についての(ファーブルの)解釈」に疑問を感じることが何度もあった。専門家から見ても「突っ込みどころ」が多かったのではないだろうか? そうした「解釈についての疑問」が指摘されることもあっただろう。これをファーブルは《彼らはただ机上の空論で反対しているのだ》と言っているのではないか? その後に続く《まったく嫌になるではないか》という文章は科学的論考とは関係ない不要な感情表現だ。しかし不機嫌な気持ちを書かずにはいられなかったほどファーブルは怒っていたということなのだろう。
ファーブルは自説に反論するなら「そうでないことを実証」してから言えといわんばかりだが、「ファーブルの主張(解釈)」の整合性を問うのに《観察の反証》は必ずしも必要ない。ファーブルは実証主義だったようだが、《観察の反証》なしに自説に異論を唱える者を許せなかったのかもしれない。「私(ファーブル)が苦労を重ねて到達した考えに、苦労実績もないやつが思いつきで疑問をはさむなどけしからん!」と思っていたのではなかろうか?
この章では、ファーブルが自説の正しさを主張しているが、本来なら「正しさ」を淡々と説いていけば良さそうなものを、自分を批判した人たちへの攻撃的・挑戦的な表現が盛り込まれ、行間から「反感」が伝わってくる。実際に苛立ちながら書いていたことはファーブル自身も記している。


 もうやめよう。こんな話を繰り返してもいらいらしてくるだけだ。私の古い証拠書類の束に、まだ書いていない若干の事実をつけ加えたら、もう充分であろう。(P.227)

ファーブルの怒りっぽく攻撃的な性格は『完訳 ファーブル昆虫記 第5巻 下』の第13章「セミとアリの寓話/セミに対する誤解」でもうかがえる(*)。この章では攻撃対象の寓話作家を罵倒するために「友人の詩」まで引用しているが、訳注によればこの詩もファーブル自身が書いたものだったらしい。インターネット上で見られる「程度の低い悪口の応酬」では、ときに別アカウントで別人を装って暴言を書き込む行為があるが、これと同じようなことではないか……と少々あきれた。立派な著作の中で書くことではなかろうに……怒りを抑制できない性格だったのだろう。

とはいっても──良くも悪くも、こうしたファーブルの強い個性が反映したのが文芸作品としてのファーブル昆虫記の特徴だ。どんなに要約してもファーブルが一人称で語る彼の個性が色濃く反映した《文風》はこの作品に不可欠な特徴だ──と僕は思っている。
ところが、図書館に置かれていたファーブル昆虫記シリーズには、このファーブルカラーもしくはファーブルテイストともいえる《文風》が感じられないものも混在している。
『幼年版 ファーブルこんちゅう記3 かりをするはちの話』(文・小林清之助/絵・たかはしきよし/あすなろ書房)では、地の文に「わたしたち」という一人称がでてくるが、ここにファーブル感はない。観察対象のジガバチやトックリバチの(擬人化された)心の声もでてくるので、昆虫が主人公といった感じもし、視点としては三人称に近い。語り手はあまり前へ出ず、昆虫の行動や状況の説明が、子どもにもわかるように記されている。
ファーブル・エッセンスはかなり薄まった気もするが、昆虫の生態を紹介する本だと考えると、納得できる。出版の趣旨も読者のニーズもきっとそこにあるのだろう。

驚いたのは集英社・刊『ファーブル昆虫記 ジュニア版』シリーズだった。これは同社から出ている『完訳 ファーブル昆虫記』と同じ奥本大三郎氏(フランス文学者・作家・虫屋)が訳と解説をしており、この《ジュニア版》は産経児童出版文化賞を受賞している。
同じ出版社・同じ訳者によるジュニア向け『ファーブル昆虫記』ということで、僕は《完訳版》の子ども向けダイジェスト版の「ファーブルの昆虫記」だと思った。ところが読んでみると、ファーブルの個性的な《文風》はそこにはなく、内容も大胆に改編されていた。
これは、時系列に綴られた「ファーブルの昆虫記」をもとに奥本大三郎が総括し、補足情報や訂正情報、現在の知見などを織り交ぜて、読みやすくわかりやすいように再構成したためだろう。
読み始めた時に、文芸作品としての最大の特徴である《ファーブルの一人称によって語られる》という要素が消え失せていることに驚いた。ファーブルは作中に登場する「ファーブル先生」という三人称に置き換えられており、この作品の語り手はファーブルではなく奥本大三郎氏になっていたのだ。当初はなぜ人称を変更したのかという驚きが強かったが、考えてみればファーブルが執筆していた頃とは違う知見や補足情報などを「ファーブルの視点」で描くことはできない。一々注釈をつけて説明するのは読み手の読書リズムを分断することになるし、子どもにはややこしい。自然な形で補足情報をおりまぜながら展開するには内容の再構成だけではなく、描く視点も変更せざるをえなかった……そういう事情があったのだろうと思い至った。
文章スタイルはファーブルのものではなく、これは奥本大三郎氏の文体なのだろう──そのため、個性的なファーブル感はかなり薄まったが、本として評価するなら、文章・内容ともに《完訳版》よりも《ジュニア版》の方が読みやすくわかりやすい。昆虫に興味を持つ子ども(以上の人)に薦めるとしたら──総合的には《ジュニア版》ということになる。《昆虫の不思議・驚き》をテーマに読むならこちらの方が優れている。
ただ、文芸作品としての味わい・印象はずいぶん違うので、読者がこれを《ファーブルが書いた昆虫記》だと思ってしまうと、違う気がする。
ファーブル昆虫記の中には、ファーブルが生態の研究に目覚めるきっかけとなった「レオン・デュフールが書いたハチの論文」との出会いについて「暖炉の薪とそれを燃え上がらせる火花」の例えで述べられている箇所があって、ここは感動的で印象に残るシーンだった。これは一人称で(ファーブルの言葉で)記されているからこそ伝わってくる感慨であって、三人称の《ジュニア版》では今ひとつ盛り上がりに欠ける印象があった。「一長一短」ならぬ「十長一短」といったところだろうか……。

『ファーブル昆虫記』の本質──文芸作品として見た場合、この作品をファーブル昆虫記たらしめているのは、《ファーブルの(一人称による)独特の語り口》だろう──個人的には「なじめなさ」を感じているが、作品としての本質──文芸的価値はそこにあるのではないかと僕は思っている。ファーブルらしさが色濃く出ているのは完訳版だ。
しかし一方、タイトルにもなっている《昆虫》への興味で読むなら、改編版で(オリジナルより)良いシリーズがある。
テーマ・素材である昆虫(やクモ・サソリ)への興味で読むのか、ファーブルの作品として読むのかによって、ふさわしいシリーズが変わってくる……ファーブル昆虫記には、そんなややこしい面があるように感じている。



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