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昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?

昆虫を見る意義!?
昆虫などの自然物を見ることはヒトにとって大切なことだ──僕はそう考えている。
ヒトは脳で考え、脳化フォーマットされた人工環境に暮らしている。人工物に囲まれた世界にどっぷりひたっていると、偏狭な人間至上主義感覚におちいりやすい。それを是正するためにも自然物に目を向けることが必要だと思う。昆虫は身近な自然の代表で、人工物とは異なる様式で創造されている。一見して完成度も高い──人智を結集しても作り出すことのできない小さな昆虫の中に、この世界を構築している根源的な言語(摂理)の存在を垣間見ることができ、センス・オブ・ワンダーが刺激される。自然の創造物を目の当たりにすることによって、我々がなじんでいる脳化フォーマットが実はローカルな言語(規格)だということに気づかされる。昆虫を見るということには、人間至上主義的感覚を修正する──そんな効果・意義があるのではないかと思う。

昆虫を見るといえば──なみなみならぬ情熱で虫を観察したファーブルの昆虫記が思い浮かぶ。ファーブルは辛抱強い観察を続け、虫の驚くべき生態を色々明らかにしてきた。しかし残念ながら、彼の昆虫記を読んでみるとファーブルの観察眼は人間至上主義を脱却できていないように感じる。ファーブルは昆虫の本能を称賛しているが、これも「下等な虫が高等なヒトも驚くような能力を秘めている」という上から目線が感じられる。
ヒトが特別優れた存在だという考え方は、「人は神に似せて造られた」というキリスト教由来の概念なのかもしれない。ファーブルは昆虫記の中で、(優れた)人間と昆虫を含む他の生き物とを隔てるものとして「《死の観念》を持つか否か」をあげている。

01ファーブル昆虫記7巻上
完訳 ファーブル昆虫記 第7巻 上
(ジャン=アンリ・ファーブル/奥本大三郎・訳/集英社)
第3章 催眠と自殺/虫は死を知っているのか より

 ところで昆虫は、いや、より正しくは、どんな生き物でも、生命には終わりがあるということを予感しているのであろうか。死という、我々には気になってしかたのない問題に、その素朴な頭を悩ませているのだろうか。(P.63)

 人生の最期のときについての不安は、人間の悩みであり、これを有するのは同時に人間の偉大さでもあるのだが、より儚(はかな)い運命をもつ昆虫その他の動物は、この問題で悩むことを免除されている。
 まだ無意識の状態にある幼児と同様、動物は未来のことなんか考えないで、現在を楽しんでいるのである。いずれ来る最期のときという苦い思いを免(まぬが)れて、動物は無知という心地よい平安のうちに生きている。人間だけがその生の短さを予見し、人間だけが最期の眠りのことを思い煩(わずら)い、墓穴のことを思って心を乱されるのだ。(P.63〜P.64)

 ただ、どうしても避けられないこの滅亡について理解するためには、ある程度精神的に成熟していなければならず、それゆえ、死の観念は、かなり遅くなってから心の中に生まれてくるのである。(P.64)

 我々人間ですら幼年時代にはもっていない、この死の観念をもつという格別の栄誉を、昆虫は有しているのであろうか。(P.65)

 人間以外では、いかなる生き物も自分で命を絶つという最後の手段を知ってはいない。なぜなら、そのいずれも死ということを知らないからである。生の苦しみから自分が逃れることができると感じることは、我々人間が他の動物たちより上位にあることの証しとなる、すぐれた特性なのだが、しかし実際には、その可能性を有するからといって実行してしまったら、卑怯者ということになってしまうのだ。(P.81〜P.82)

 死についてはっきり思い描くことができるのは人間だけであり、死後について素晴らしい本能的直感をもつことができるのも人間だけである。(P.84)


ファーブルは「人間は優れているから死を予見し悩むことができる/昆虫を含むその他の動物は、無知であるがゆえに、死を知らず悩むことも無い」と考えていたようだ。
「悩むのは優れているからだ」という解釈は人間至上主義の安直で欺瞞に満ちた発想だ。「悩むのは不完全だから」という発想はないのだろうか? 悩みを知らない昆虫の方が完全だという見方だって、できなくはない。進化の度合いからすればヒトより昆虫が勝っている。
ファーブルは《人間だけがその生の短さを予見し、人間だけが最期の眠りのことを思い煩(わずら)い、墓穴のことを思って心を乱されるのだ》と記しているが、それではなぜヒトだけが死というありふれた自然現象を恐れ、受け入れがたいもののように感じるのか──この根本的な疑問をファーブルはどう考えていたのだろうか?


ヒトはなぜ死を恐れるのか?
ファーブルは《死の観念》について、ヒトでも幼年時代には持てず、かなり遅くなってから心の中に生まれてくると記しているが、僕は子供のころに、このテーマにとらわれていた時期があった。

ある日「(自分も含めて)今生きているヒトはすべて、必ず死ぬ」ということに気がついて、死刑を宣告されたかのような衝撃を受けた。いつ死ぬかはサダカでないがXデーは必ず訪れる。今こうしている時にも処刑日は刻一刻と死に近づいているのだ。泣こうがわめこうがそれを止めたり遅らせたり巻き戻したりすることはできない……今生きている人は全て死に向かって行進し続けているという動かしがたい事実が恐ろしく、子供心に絶望感すら覚えた。
それから「ヒトはどうして死ぬのか?」「ならば、なんのために生きているのか?」「死ぬと《自分》はどうなるのか?」「生きていると感じている自分の心は何なのか?」などについて色々と深刻に考えるようになった。

僕が求めたのは宗教的な答や哲学的な答ではない(それらは死の恐怖から目をそらす欺瞞の解釈に感じられた)。科学とも少し違う。「納得できる合理的な解答」に到達するまで時間はかかったが、自分なりに自力でこの問題を解くことができたと考えている。死に対する漠然とした恐れは、「解答」を得て脳内の再整理をして解消した。

ところで、「死んだあと《自分》はどうなるのか?」という疑問は多くの人が1度は考えたことがあるのではないか。「死後の世界はどんなものか?」と問われれば、今の僕なら「生まれる前と同じ」と答えるだろう。「死んだ後、どうなるの?」という疑問は「生まれる前はどうだった?」と問うのと同等の疑問であり、不毛な発想である。それでは、どうしてこのような不毛な疑問を抱くことになるのか──このあたりに「人が死を恐れる」理由の本質が見え隠れする。

《人間至上主義》というのは──天文で例えるなら《天動説》に似ている。地球に暮らす我々には、太陽や月、その他の星々が地球の周りを回っているように見える。昔の人は、地球は止まっていて、天空の星が動いていると考えていたらしい(天動説)。しかし、星を細かく観察すると、その動きは天動説では説明(理解)することができない。我々が住む地球もまた動いているということ(地動説)に気がついて、それまで解けなかった謎が解決した。
我々は自分を基軸にものを見たり考えたりしがちだ。地球に暮らす我々が地球を不動のものと思い込んだことで、星の動きを説明(理解)できなかったように、生命についても、我々が自分の意識を基軸にこれを考えているうちは正しい解答を得ることが難しいだろう。自分たち(自我意識)を基軸に世界を見るという点において《天動説》と《人間至上主義》はよく似ている。

02宇宙と生命概念図
ヒトは(自分たちがすむ)地球を中心に宇宙を見ていた──これが《天動説(誤り)》で、これでは星の動きを説明(理解)することができない。
また、ヒトは意識の中でしか自分や世界を認知することができない。ゆえにヒトにとっては意識が世界の中心になる。しかしヒトの意識というのは生命活動(主)の中で発生した1機能(従)に過ぎない。従属機能を基軸にすると(天動説のように)説明(理解)できない現象がでてくる。

生命がどのように誕生し進化してきたのか詳しくは知らないが、大ざっぱに言えば、進化の過程で動物が誕生し、覚醒の機能が加わったのだろう。生き物に覚醒モードが加わったことで、エサを探したり摂取したり交配活動をするなど、生命活動に必要なことが効率よく行えるようになった。覚醒は生命活動の発展に必要な機能として誕生したと考えるのが合理的だ。
僕は子供の頃、「ヒト(を含む動物)は、なぜ眠るのだろう?」と考えたことがあったが、これはトンチンカンな発想であった。生物の活動として考えれば、植物のように覚醒しない生物もいるのだから、《睡眠》の意味ではなく《覚醒》の機能がどうして生まれたかを考えるべきだった。
《覚醒》は生命活動に有益な機能だった。しかし覚醒モードでは当然のことながらエネルギーの消費率が高くなる。そこで必要ないときは覚醒モードをOFFにしておくのが効率的だ。この省エネモードが《睡眠》ということになる──そう考えるのが自然だろう。

《覚醒》機能をそなえた動物は少なくないが、その中でさらに《自我意識》を獲得したのがヒトだ。この末端機能によってヒトは自分や周囲の世界を認識できるようになる。そして《意識》の中で自分の存在を知ったヒトは、「考えて」個体の行動を制御することができるようになった。
ヒトはこの最先端(最末端?)の機能を得たことで大繁栄することになったわけだが、《意識》は《生命活動》の末端に帰属する1機能に過ぎない。しかし我々はそこでしか認識したり考えたりすることができないので、つい《意識》が生命活動の中心にあるように錯覚してしまいがちだ。《生命活動》でいえば下位に位置しながら《意識》は上位のようにふるまっている──このねじれ現象が、「《生命活動》としては当たり前の(個体の)《死》」を否定的にとらえてしまう原因になっている。
宇宙の片隅に位置する地球を中心に星が動いているととらえると(天動説)、エラー(星の動きを説明できなくなる)が発生するように、《生命活動》の末端に帰属する《意識》を中心に考えると、ややこしい(きちんと処理できない)問題が発生する……。

当然のことながら《生命活動》は従属機能の《意識》に優先する。生命活動にとって重要なことは継続性──種の存続・発展が最優先事項だ。個体が世代交代を繰り返して種を存続させていくのはごく自然なことで、これは我々の体の中で古い細胞が死に新しい細胞が生まれる新陳代謝のようなものだ。活動を終えた細胞や個体は死んでいく──生命活動としてはごく自然な現象だが、ヒトは(細胞死には問題を感じないのに)個体死を受け入れがたいと感じてしまう……。
それはヒトの《意識》が個体の末端機能に宿っているからだろう。新陳代謝で細胞が死んでも《意識》は継続されるが、個体が死ぬと個体に帰属する《意識》の
継続性は断ち切られる。そのことを知っている《意識》は継続性が損なわれることを嫌って拒否反応を示す──これが【生命活動としては自然な現象なのに、人は死をおそれる】という現象を生む理由なのだろうと僕は考えている。

一方、《意識》の獲得によってヒトは言葉や文字を発明し、個体死による断絶があっても「考え」などの情報を後世に伝える術を開発した。「何かを残したい」という欲求は個体としての死を免れることができないヒトのせめてもの抵抗(継続性への挑戦)なのかもしれない。この作用はヒトに繁栄をもたらした文化の原動力ともいえるし、種の存続にも有利な働きをしているはずだ。
また、「死を恐れる」というヒトの一見不条理な(?)傾向も、「生きることへの執着」という見方をすれば、生存率を高めることに一役買っているのかもしれない。
ヒトが死を恐れるのは《意識》レベルのエラーもしくは拒絶反応のようなものだが、結果としてこれもヒトという種の継続性を強化する方向に働くので、現行の生命システムが成立している──僕はそう考えている。

ファーブルは「ヒトだけが死を恐れる」という現象を認めているが、どうしてなのか、その理由についてはきちんと説明していない(僕の読んだ部分では)。おそらく人間至上主義的な解釈──「ヒトが悩むのは優れているからだ」という先には踏み込んでいないのだろうと思う。
ファーブルは昆虫を見続け、あれだけ詳しく生態を観察しているのに──記されている現象に対する解釈には疑問も多い。それは「見方」に問題があったからだろうと思う。時代的な背景もあったのだろうが、人間至上主義的な──天文に例えるなら天動説的な視点を脱却できなければ、どんなに虫見をしても、理解には限界があるということなのかもしれない。ファーブル昆虫記には擬人化された表現が多く、それが文学的(?)な味わいをかもしだしている気がしないでもないが、僕には人間至上主義的な感覚が垣間見えて、なじむことができなかった。

冒頭、僕は昆虫を見る大切さについて思うところを記したが、僕が言う虫見には、昆虫学的な知識は必要ない。虫の名前など知らなくてもかまわない。虫を見て、人工物にはない自然の不思議を感じることが大切なのだと思う。いわゆるセンス・オブ・ワンダーだ。せっかく虫を見ているのに、ヒトがつけた名前探し(同定)にばかり関心が向くようでは、自然を見たことにはならない。名前はヒトがつけた記号であり、それを知ったところで、その虫のことを知ったことにはならない。昆虫を見るとき、ヒトの言語で読み解こうとするのではなく、むしろそれを排した自然の言語(摂理)を感じることが大事──昆虫学者や虫屋ではない僕は、そんなふうに思っている。



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