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ファーブルと寓話『セミとアリ』

01昆虫記5巻下

前の記事(*)でも触れたファーブル昆虫記だが、小学生の時に読んだ本は子供用にリライトされたものだった。セミの鳴くそばで大砲を撃ってもセミは鳴き続けた──だからセミには音が聞こえない、もしくは耳が恐ろしく遠いというところに疑問を持ったことは覚えているのだが、他にどんなことが書かれていたのか、内容はほとん記憶に無い。本当はどんなことが書かれていたのだろうと気になって完訳版のファーブル昆虫記でセミのことが書かれているところをあらためて読んでみることにした。集英社・刊『完訳 ファーブル昆虫記 第5巻 下』(ジャン=アンリ・ファーブル/奥本大三郎・訳)の第13章〜第17章にセミに関する記事が記されている。
昔読んだリライト版では載っていなかったのか、それとも僕が覚えていなかっただけなのか──セミの生態について知らなかったことが色々記されていて、内容的には興味深く、おもしろかった。しかし、小学生の時に感じた「なじめなさ」はやはりあって、読み進めるのに努力を要した。今回はそのあたりのことについて少し記してみたい。

第13章の「セミとアリの寓話──セミに対する誤解──」から読み始めたのだが、まずは《怒れるファーブル》に驚いてしまった。日本では『アリとキリギリス』として知られているイソップ寓話があるが、これをラ・フォンテーヌという詩人が翻案したものが『セミとアリ』(キリギリス役がセミになっている)で、フランスではよく知られていたらしい。この寓話にファーブルはひどく憤っているのだ。問題の『セミとアリ』を要約すると──、


アリが働いている夏の間、セミは歌って暮らしていた。北風が吹く頃、セミはひもじくなってアリに物乞いに行く。アリは「夏の間歌っていたのだから冬は踊っていればいい」と冷たく拒絶する。

この寓話には不可解なところ──セミとして描かれている虫が挿絵ではキリギリスだったり、本文でもセミのひもじさを表現するのに「ハエやミミズの切れ端ひとつ口にはいらぬ」(実際のセミはそんなものは食わず、木の汁を吸うのに)と記された箇所があったりと、登場人物(登場昆虫)の習性が実態にそぐわないことをファーブルは指摘。どうしてこのような《不可解》が生まれたのか、謎を推理して記している。
良く知られた作品の中に登場する動物が何なのか──というウンチクはひとつの話題になり得るし、一般に信じられているイメージと実態が乖離している場合は読み物として成立し得る。だから、ファーブルが不可解の謎解きを記したことは理解できるのだが……なぜか、彼は憤っている。『セミとアリ』は「登場する虫について知らずに(調べずに)描かれたものだ」という批判めいた暴露は納得できるが、しかしどうしてこんなに怒る必要があるのだろう? ファーブルはセミとアリについての間違ったイメージを広めたとしてラ・フォンテーヌ(翻案者)や寓話作家を執拗にののしっているのだが……その偏屈ぶり(?)には読んでいて、ちょっと引いてしまった。
寓話の意図から察すると「(夏の間)歌ってすごしていた者」の役に「(夏に)鳴く虫」からの発想でセミもしくはキリギリスがキャスティングされたのだろう。いずれにしても寓話としてはさほど不自然ではない配役だ。この寓話が擬人化された作り話であることは誰の目にも明らかだし、この寓話が昆虫の生態を正しく紹介する目的で書かれたものではないことも明白だ。虚構性の高い寓話に描かれている内容が実際の昆虫の習性と違うからといって、ここまでけなす必要は無いだろうに……ファーブルの義憤は理不尽だと感じた読者は僕だけではないはずだ。この章の終わりにある訳注にもファーブルの過剰な憤りについて「大人げない」と記されている。

ファーブルが何に怒っていたかというと、「物乞いをする怠け者のセミ」と「ほどこしを断る働き者のアリ」という構図・レッテルに腹を立てている。実態は反対で、セミがアリに物乞いするなどあり得ず、逆にアリの方が吸汁しているセミのおこぼれを略奪したり、セミを食糧にもしていてタチが悪いのだと、一生懸命セミを弁護(?)している。
つまりファーブルは、寓話に登場した昆虫の「善玉」と「悪玉」が実態とは逆であり、間違ったイメージが世の中に浸透していることに憤っている。

しかし……(寓話の意図とはかけ離れた次元の話だが)そもそも昆虫の生態を観察するときに「善玉」「悪玉」というイメージを当てはめて見ることに僕は違和感を覚える。ファーブル昆虫記を読んで「なじめない」と感じるのは、このファーブルの独善的な捉え方にある。
自然界の生命活動を真摯に観察しようとするなら、昆虫の営みにヒトの善悪感覚を持ち込むのは不遜な気がするのだ。
昆虫の世界では食うものも食われるものも、どちらも同じ自然の法則に従って生命活動をしているわけで、どちらが善でどちらが悪という見方はふさわしくない。生理的な好き嫌いはあったにしても、両者を等価に捉えることが自然観察者の基本ではないかと僕は感じている。だからファーブルの人間的な感覚を観察に持ち込む姿勢に「なじめなさ」を感じるのだ。
一方、昆虫を擬人化して語りかけるようなファーブルの文章が、好きな人には好まれているのだろうという気もしている。



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