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なじめなかったファーブル昆虫記

01昆虫記DVD本

ファーブル昆虫記は小学生の頃に読んだ記憶があるのだが、内容はあまり覚えていない。セミはなぜ鳴くのかについて「セミには音が聞こえていない(もしくは恐ろしく耳が遠い)/セミは生きているよろこびのために歌って(鳴いて)いる」とする結論が納得できなかったのを覚えている。
昆虫に対する興味から手に取ってみたファーブル昆虫記だったが、読み始めてみると、どうもなじめず没頭できなかった。その後、ファーブル昆虫記を称賛する虫屋さんが多いらしいことを知ったが、それでもあらためて読んでみようという気にはなかなかなれずにいた。ところが比較的最近、ちょろっと読む機会があった。ハリサシガメについての情報を探していてファーブル昆虫記の中に同属のセアカクロサシガメの項目があることを知ったからだ。図書館で借りてその章を読んでみたのだが(*)……やっぱり小学生時代に読んだ「なじめなさ」をあらためて感じることとなった。

ちなみに、ハリサシガメの幼虫は全身を土粒でおおい、アリの死骸などをデコレーションするというユニークな特徴を持っている。

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ファーブル昆虫記に出てくるセアカクロサシガメの幼虫も、同様に全身に埃をまとうという似た特徴を持っているらしい。ファーブルがこのユニークな生態をどう解釈したのか期待して読んだのだが……、

幼虫は体から、一種のねっとりした液体を出す。それはおそらくは、幼虫の食物である脂肪に由来するものだろう。体から分泌しているこの鳥黐(とりもち)によって、幼虫自身が別に何かしなくても、移動するたびに触った埃が体にくっつく。サシガメが服を着るのではなくて、体がかってに汚れるのである。この幼虫は塵の球になる。つまり、歩く汚れそのものになるのだ。それは幼虫がべとべとした汗をかくからなのである。(『完訳 ファーブル昆虫記 第8巻 上』第6章より)

──と記されていた。汗腺などない昆虫が、どうして汗をかくのかよくわからないが、ファーブルは特有の(?)「妙な擬人化」で、あっさりと片付けている。これには少々がっかりした。

僕は虫屋ではないが、子供のころはカブトムシやクワガタを捕ったり飼ったりしていた。僕の昆虫に対する興味というのは、人工物とは全く異なる仕様の存在感……いってみれば人間の言語(フォーマット)とは違う言語で創造された世界を実感できるところにあったような気がする(*)。昆虫を通して、彼らが帰属する自然界に興味を覚えたわけだが、そんな昆虫たちの世界がファーブル昆虫記ではひどく人間的な視点で捉えられている……自然(非人工)の世界を描いているのに、その描写や比喩がすこぶる人間的であったところがなじめなかった原因だったように思う。
虫の営みを擬人化した例えで説明している箇所が多く、その比喩が適切でないと感じる部分も少なくない(セアカクロサシガメの幼虫のベタベタを「汗」だと片付けるところなど)。観察した現象の理解(解釈)がファーブルの人間的な(?)予断に傾いたもので(セミが生きているよろこびのために歌うとか)、共感や同意するのが難しい……こうしたことが小学生の時にファーブル昆虫記を読んで感じた「なじめなさ」だったのだろうと思う。
「人智の関与しない昆虫の世界を見ようとしているのに、どうしてそんな世俗的な例えをあてはめようとするのか」「そういう見方で虫を見るのはヘンではないか?」という違和感──強い言い方をすれば抵抗感のようなものがついてまわり読書意欲を減退させる。著者(ファーブル)の虫を見る眼(捉え方)に疑問が生じてしまうと読み続けるのは、しんどくなる。それが、読み返そうという意欲がわかなかった原因だったように思う。
とはいえ、客観的にみれば、僕がげんなりした部分──ファーブル昆虫記の《人間臭い視点で描かれている点》が、きっと好きな人には魅力となって伝わりファンが多いのだろうという気もする。ファーブル昆虫記の原題は直訳すると「昆虫学的回想録」になるそうだが、回想録として読めば文学的表現(?)も作者の味として感じられるのかもしれない。

個人的には読みにくいファーブル昆虫記だが、DVDは持っていたりする。『完訳 ファーブル昆虫記』シリーズの翻訳をされたフランス文学者にして虫屋の奥本大三郎氏が案内役をつとめたテレビ番組を収録したものだ。昆虫の映像見たさで入手したものだが、映像は素晴らしかった。ファーブルが進化論に批判的だったことは、このDVDを観て知った。『ファーブル昆虫記 Vol.2 カリバチとヤママユ 本能の命ずるままに』では、ファーブルが進化論に疑問を呈すところがある。強力な毒牙をもつ危険なクモを完成された技術でしとめるカリバチについて、「昆虫記 第2巻12章より」というスーパーとともに、次のようなナレーションが流れる。


はるか大昔に1匹のカリバチがいて偶然に獲物の神経を傷つけた。そしてそれは危険な戦いを回避させてくれ、幼虫のために新鮮な獲物をもたらしてくれた。蜂はこれは素晴らしいと思い、その傾向を子孫に遺伝子によって伝えるようになったと進化論者は言う。ならば、それ以前のカリバチはどうやって生きてきたのであろう。不慣れな暗殺者がいい加減な仕事をすると彼らは最初の世代で滅びてしまうのである。

ファーブルはこのように進化論者を批判しているが、ならばクモ狩りのカリバチはどのように誕生したというのだろう? ある日いきなりクモ狩りの完成した技術をひっさげて出現したというのだろうか?
完璧に見えるその技術がどのように獲得されていったのか──という疑問・発想は無いのだろうか?

ファーブルが示さなかったカリバチのルーツを無知で素人の僕が想像してみると……、
カリバチの祖先は、やはり狩りをしていたが、現在のように特定のターゲットに対する完成度の高い狩り技術を獲得していなかった……そんな時期があったのではないか。スズメバチやアシナガバチも狩りをし、獲物を肉団子にして幼虫に与えるが、ハンティングの対象となる種類は比較的幅広い。同様にカリバチの祖先も狩りの対象を今ほど限定しておらず、捕えやすい相手(獲物)を中心に狩りが行われていたとする。あるいは色々な種類の獲物を狩る中で獲物を麻酔する技術を獲得し高めていったのかもしれない。そして色々な虫を狩る中で、たまたま毒牙を持つ危険なクモに挑んだものがいて、たまたまその蜂が持っていた技術で、狩りが成立することがあったのかもしれない(針を刺す位置が、そのクモの神経節の位置と合致した?)。中にはクモの毒牙に倒されるものもいたろうが、失敗ケースは残らなかった(淘汰された)だけだ。数あるチャレンジの中で成功したケース(カリバチAと、その攻撃パターンが有効に機能したクモA'の組み合わせ)が子孫に受け継がれたと考えることはできないだろうか?
現在のカリバチの仲間は種類によってエサ(宿主)がかなり限定されているようだが、これはそれぞれのカリバチの体格・ハンティング技術に対応する(カリバチの攻撃ポイントと獲物の急所が一致する?)「うってつけの獲物」にしぼった方が狩りの成功率が高められることから限定化に向かったのではないか──僕なら、そう考える。

また、カリバチは獲物を貯蔵する巣の位置をちゃんと覚えていて獲物を運び込む。位置情報なのかあるいはニオイ情報なのか……何を手がかりにしているのかはわからないが、それを「記憶」する能力があるからこそ、ちゃんと巣に戻ることができるのだろう。
カリバチに、そうした優れた「記憶」の能力があるのであれば、幼虫時代に食った獲物のニオイを覚えていて、成虫になって狩りをするときにそのニオイをたよりに獲物を選定するシステムだってあってよさそうな気がする。母蜂の狩猟技術でしとめることができる獲物──それを食べて無事に育つことができた幼虫が成虫(母蜂)になったときに、母蜂と同じ種類の獲物を選択的に狩るのは《成功例を踏襲する》という意味で理にかなっている。

余談だが……宝石蜂セイボウの仲間は、他のカリバチが作った巣(幼虫用の食糧を貯蔵し卵が産みつけられた部屋)にもぐりこんでカッコウのように托卵するという複雑な生活史を持っている。これも《幼虫時代のニオイ記憶が母蜂を誘う》システムで説明できそうな気がする。麻酔の技術を持たないセイボウの祖先は托卵習性を獲得する以前、生きた宿主に直接卵を産みつけていたとする。あるときセイボウが卵を産みつけた獲物を別のカリバチが狩って巣に運び込むというアクシデントが発生……そしてカリバチの巣の中で孵化したセイボウの幼虫はカリバチの子供を殺し(食べ?)カリバチが幼虫のために貯えた獲物を食って育ったとすれば……。カリバチの巣で安全に育つことができたセイボウ幼虫が成虫(母蜂)となったとき、自分が育った獲物&環境のニオイを記憶しており、それをたよりにカリバチの巣を探し当て、侵入して卵を産むようになった──そんなシナリオも成立しそうな気がする。
もちろんこれまで記した想像は根拠の無い素人の脳内シミュレーションにすぎず、実際にどうだったのかはわからない。ただ、昆虫が複雑な習性を進化の中で獲得していくことは充分あり得ることだと思う。少なくともある日突然、完成された技術を持った昆虫がいきなり現れた──という神がかり的な(?)発想よりは、納得しやすいのではないか。

進化論に対してファーブルがどんなふうに考えていたのか知りたくて、DVD『ファーブル昆虫記 Vol.2 カリバチとヤママユ 本能の命ずるままに』に引用されていた「昆虫記 第2巻12章」を読んでみようと図書館へ行って借りてきた。奥本大三郎氏・訳『完訳 ファーブル昆虫記 第2巻 下』の12章は「ベッコウバチ──クモを捕える狩りバチ──」だったが、どうしたことか、ナレーションで紹介されていた上記の文章は、 完訳のはずの第2巻12章に載っていなかった。

調べてみると、『完訳 ファーブル昆虫記 第1巻 上』にも「第9章 アナバチたちの獲物/進化論に対する批判」という項目があって、これにも興味を覚えたが、運悪くその巻は市内の図書館では貸し出し中。ネットで検索してみると、Wikipediaの【ジャン・アンリ・ファーブル】に「進化論への批判」の項目が出ていた。


ファーブルが行った批判のひとつに狩りバチの例がある。例えば「進化論へのお灸」と題した章がある。ここで彼は進化論を現実から乖離させた概念のお遊びであると非難し、具体的な問題提起として、アナバチの例を挙げている。彼の知る何種かが近縁であることは形態等から明らかであるから、進化論的にはそれらに共通祖先があったことが想定される。しかし現実の種はそれぞれに別な固有の獲物(ある種はコオロギ、別の種はキリギリスモドキ、また別の種はカマキリ類)を狩る。では、それらの祖先はいったい何を狩っていたのか、と問い、もし祖先の中から特定の獲物を狩るものが出たのだとすれば、祖先はそれら全部を獲物の選択肢にしていたことになる、とすれば、多様な獲物を狩れる中から、限られたものしか狩れない者が出てくるのでは、明らかに進化しているものの方が不自由であり、変であると論じる。もし、祖先がある1つの獲物を狩っていたとしても、そこから現在のさまざまな種が出る間には、複数種を狩れる段階があったはずであり、同じ問題を生じる。(※Wikipedia【ジャン・アンリ・ファーブル】より)

先に僕の想像(脳内シミュレーション)を記したが、カリバチの祖先が多様な獲物を狩っていて、その中から、それぞれが得意とする狩猟&麻酔技術と対応種(宿主)をみつけていったのだとすれば、獲物を得意相手に絞った方が、狩り〜子育て(うまく麻酔できた獲物を幼虫が食べて育つ過程まで)の成功率は上がるはずだ。多様な種類をターゲットにすれば、獲物の神経節の位置の違いなどから攻撃ポイントを外したり探すのに手間取って狩りに失敗する確率が高まるだろう。危険な相手であれば返り討ちにあわないとも限らない。

ファーブルが記しているようにカリバチの麻酔技術が高い精度を要するものだとするなら、神経節の位置が違う雑多な獲物にフレキシブルに対応するより、成功実績の高い得意相手にしぼって狩りをした方が成功率は上がるだろう。狩りの対象種が限られてきたのは、進化による《不自由》ではなく《最適化》と見るべきではないか。
また母蜂の技術で狩ることができた獲物で育った子供が、食った虫のニオイを記憶し、母蜂になったときに《成功例》を踏襲すれば、狩りの精度は強化されていくだろう。獲物を絞って《最適化》することは、種の生存率に有利に働くはずだ(もちろん最適化した獲物が衰退すれば一蓮托生のリスクははらんでいる)。

ファーブルはカリバチの「獲物を殺さずに麻酔をする巧みな技術」(幼虫が蛹になるまで獲物を殺さず新鮮さを保つ)や「幼虫が獲物を殺さずに喰い進む順序」(最初は内蔵を包む脂肪層、次に皮膚の内側にある筋肉というふうに生存に重要でない部分から食べていく)などが、みごとに理にかなっていることから、昆虫が生理学を熟知しているかのようだと感嘆しているが、カリバチはそれを理解して行動しているとはとても思えない。たまたま結果として理にかなった行動をとるものが生き残り、そうでないものは残らなかった……ただそれだけのことだったのだろう。現存する現象(生態)は、結果として理にかなっていたから残っているのであり、「うまくできている」のは当然・必然とも言える。

たとえば──、
馬券の換金窓口にやってきた人の所持する馬券が全て当たっていたとする。この人が換金に必要な当たり券だけを持って来たのは理にかなっている。不要となったハズレ券は破棄したのだろう。なのに、彼が持参した券がすべて当っていたことから、「この人は、どうしてレース結果を確実に知り得ることができたのだろう」と考えるのは、おかしなものである。カリバチの巧みな生態を見て「どうしてハチが生理学を熟知しているのだろう」と考えるのは、これと同じ気がする。超能力(予知能力)を持たなくても当たりを引く人はいるし、生理学を知らない虫でも理にかなった行動をとるものはいる。

ファーブルは昆虫を観察して、理解を超えた「うまくできたしくみ」に気づき、その複雑さ・完成度の高さに驚嘆し、これは「進化」で獲得できる領域のものではないと考えたのかもしれない。
確かに昆虫の生態は複雑で、とても偶然&自然選択の結果であるとは思えないほど「うまくできている」と感じることがある。しかし、一見複雑きわまりない生態に見えても、実は1つ1つの進化の行程は意外にシンプルだったりするのかも知れない……というのは、複雑な形をしたドラゴンの折り紙を折って感じたことだ。

04折紙ドラゴン
1枚の正方形の紙から折ったとは、にわかに信じがたい複雑な形をしたドラゴン⬆も、折り方をたどってみれば、1つ1つの行程は意外にシンプルでそう難しいものではなかった。
まるで超自然的な意志でも働いているかのように「うまくできている」昆虫の生態も、自然な進化の積み重ねによって獲得されたものではないか。今は解明できないでいる複雑な生態のルーツにも、きっと合理的なプロセスがあるに違いないと僕は思っている。


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