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新種のセイボウ:景品命名について

新種の命名を景品に客寄せ!?

少し前にマダガスカルで新種のセイボウ(蜂)が見つかったという報道があった。この新種の学名には、国立科学博物館で行われる特別展「昆虫」に来場した者の名前がつけられるという。
国立科学博物館 特別展「昆虫」公式ページによると──、

この昆虫は今後、論文での発表を経て新種として正式に認定されますが、新種昆虫の名前は、論文を書く人が決めることができます。そこで特別展「昆虫」では、この新種に来場者の方のお名前をつけたいと思っています。つまり、あなたのお名前が、この新種の名前(学名)になるのです!論文発表後、新種と認定されれば、そのお名前はこの昆虫の名前として“永遠”に残ることになります。つけるお名前は、原則として当選者ご本人のお名前、もしくは、ご自身の大切な人のお名前をつけて、感謝の気持ちを込めてその方にプレゼントしてもOKです。

新種の昆虫の名前が、こんなふうに決められて良いものか?──と違和感を覚えた。
僕は昆虫学にも分類学も知らない素人だが、新種の発見というのは大変なことだろうという想像はつく。昆虫の研究者は多いだろうが、その中で新種に名前をつけることができた人はわずかだろう。昆虫に取り組む努力・情熱を持ち続けた人の中で幸運に恵まれた人がそのチャンスをつかむことができるのだろう。「新種発見」は命名を含めて発見者・研究者の功績──僕はそんなふうに考えていた。
新種の命名にはその発見者なり研究者の見識・センスが反映される。後世の人が、その昆虫&名前にふれたとき、命名の由来についても興味を持つに違いない。それが発見者や昆虫学に尽力した人の名前であったり、容姿・生態や発見地域を現すものであれば、「なるほど」と納得できるだろう。しかし、学名の由来が、たまたまイベントに来場した、その虫とは何のゆかりも無い人の名前であったと知ったら、どう思うだろう?
「なにそれ?」「宝石のようなとてもキレイな昆虫なのに……もっとふさわしい名前をつけてやることができなかったのか?」というのが自然の感想ではなかろうか。

新種発見&来場者の名前をつける──というのはイベントを盛り上げるためにあらじめ企画されていたものらしい。イベントを成功させようという気概はわかる気もするが、最初から景品命名まで企画していたとすると「宣伝・集客を狙ったあざとい発想」という印象がなくもない。

先の国立科学博物館 特別展「昆虫」公式ページでは昆活マイスター:香川照之氏が次のような文章を寄せている──、

自分の名前を昆虫の名前として永遠に残せるなんて、ロマンがありますよね!昆活マイスターとして、そのロマンをこのキャンペーンで皆さんにお伝えしたいと思います。

該当昆虫とまったく関係ない人が──その虫のことを何も知らない人の名前がつけられることに「ロマン」などあるのだろうか? 「あざとい企画でつけられた何の合理性も無い名前」という汚点を永遠に残すことになりはしないだろうか?
素人の僕にも違和感があったが、やはりこの企画には批判もあったらしい。
今回の件を検索していたところ、このイベントを監修したという方の考えが記されているサイトがあった。
学名の命名権とイベント企画-断虫亭日乗】によると──、

初めてのことは必ず批判を受ける。予想はしていたが、この企画にも反対の声があるようだ。当初はわれわれもそのような批判を恐れて、この企画への参加に逡巡したが、幸い、私の周囲の研究者は好意的な意見ばかりで、欧米での実例を知った上で、分類学の生き残る選択肢として必要という声も少なくなかった。実際のところ、反対の声の多くは「命名を景品みたいに使うべきではない」といった感情的なもので、そこに合理的な理由はまったく見当たらない。

「命名を景品みたいに使うべきではない」というのは感情的なものが含まれるかもしれないが、そのような感情を生むにたる合理性はあるのではないか? この監修者は《反対の声の多くは「命名を景品みたいに使うべきではない」といった感情的なもので、そこに合理的な理由はまったく見当たらない》と記しているが、「命名を景品みたいに使う」ことに合理性があると考えているのだろうか? 「分類学上のあるべき命名(本質性)」と「景品」は違うだろう──という批判はきわめて自然で合理的に思われる。逆に、発見された新種と何の関わりもない人の名前を学術名につけることに、どんな合理性があるというのだろう? この監修者の「合理性」の考え方がよくわからない。
余談だが、この監修者は『昆虫はすごい』の著者なのだろうか? この本を読んだとき、合理的な解釈がなされていないことにフラストレーションを感じていたが……物事のとらえ方・合理的納得などが、僕とは違う人なのかもしれないと改めて感じた。
この監修者も次のように述べている。

生きものが好きな人にとってみれば、学名に自分の名前が残るなんて、一生の思い出に残る夢のある企画だと思う。

自分が研究に携わったり発見した昆虫に自分の名前がつけられれば「一生の思い出に残る」だろう。しかし、その虫について何も知らなかった人が自分の名前が採用されたところで、はたしてそこに感動はあるのだろうか?
また昆虫に興味を持ちはじめた人が、この虫を知ったとき、こんないいかげんな名前のつけ方がされたことをどう感じるだろう?

命名権の活用の正当性(?)について、この監修者は次のように記している。

実はこういった学名の「命名権」のやりとりについては、一見斬新に思えるかもしれないが、欧米では珍しくなくなっている。それが有償であれば、その資金をもとに、研究を行ったり、生息域の保全を進めたりしていることも多い。しかし、おそらくだが、日本ではこれまでにそのような事例はなかった。

「命名権」で得た資金を研究や生息域の保全活動に使うのは「有意義」なことだから「有り」──ということなのだろう。そのような考え方を真っ向から否定するつもりは無い。
しかし「研究」や「保全活動」に必要なの資金は、その目的や重要性を周知し理解を得ることで受けるというのが本筋だと思う。地味で手間がかかる本筋よりも、手っ取り早く「有意義」な成果を得られる手段を安易に選択することを是とする考え方には抵抗がないでもない。

例えば、どこかで大きな災害が起きたとする。死者も多数でるような大惨事。復興のためにはお金がかかる。そんな状況で、「死亡者数予想の賭け」をして売上金を義援金に充てる──といったことが企画されたら、どうだろう。実際に義援金が集まるのなら、それも「有り」と考えるのか?
これは極端な例で、「命名権」とは全く別のハナシだが、「必要な資金を集めるのは、本筋の理解の上で」が基本であり、「有意義」な成果があれば何をしても良いというわけではない──と僕は考えている。
面倒な本筋の努力より、手っ取り早い横道を選ぶようなやり方にはあまり好感が持てない。

今回の景品命名では、手っ取り早い安易な話題づくり──集客に走って、本質を軽んじているのではないか……という印象を受けた。プロともなると結局、そこなのかなぁ……と。テレビは「良い番組作り」より「視聴率のとれる番組作り」に走ったことで質を落としたと僕は考えているが、それに似たような感じがしないでもない。
きっと色々な意見はあるのだろうが、ここで議論するつもりはない。「僕は、こう感じた」という話。


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コメント

No title
こんにちは・・・
景品命名について、そのような企画があることを存じ上げませんでした。

「最大の問題はやはり、この企画の意図・目的がどこにあるのか?」でしょうね!
純粋に、生き物好きの方々の応援となり、夢の後押しとなる。そのことを望まれての企画であれば「う~~~む成る程、そういった考えもありなのかな?」と想えなくもありませんが・・・
景品命名の目的が、ただの(視聴率稼ぎ:来館者稼ぎ)だとしたならば・・・それは、非常に(さもしい考え)だと呆れます!
もしそれが、てっとりばやく且つ安易に稼ぐ方法の一手段だとしたら・・・私は、この企画に対し嫌悪感さえ抱きます。
No title
> 今日も、こっそり自然観察!さん

景品命名の企画は展示会を盛り上げ、昆虫に興味をもってもらうきっかけになれば──という趣旨で出てきたようですが、新種の命名を景品にして集客をはかるということに違和感を覚えました。
新種の名前を決めるのは個人の権限かもしれませんが、その名前はその虫を現す記号としてずっと残り、多くの人がその名前にふれ、共有することになります。発見された新種を現すのにふさわしい命名がどうあるべきか──そうした基本的な視点で考えれば、この企画は《夢のある企画》というより、生き物が好きな人たちにとっては《ヒンシュクを買う企画》なのではないか……という気がしてなりません。

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