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『赤いカブトムシ』読書感想



『赤いカブトムシ』那須正幹・作/かみや しん・絵:感想

最近、某虫屋さんの日記で、『ズッコケ三人組』シリーズで有名な那須正幹氏が昆虫採集をモチーフにした作品を書いていたことを知った。25年も前に発行された本だが、図書館にあったので借りて読んでみたところ、いろいろ思うところがあった。昔、『ズッコケ三人組』シリーズはいくつか読んでいるはずだが……印象の強さで言うと『赤いカブトムシ』の方が断然勝っている。ちょっと複雑な味わいの作品だったので、感想を記しておくことにした(※ネタバレ含む)。

「おもしろかった?」「好きな作品?」と聞かれたら即答に困る作品だ。一言でくくるのは難しいのだが……僕の場合「何度も読み返してみたくなる作品」だったとは言える。
単純に「面白かった」「楽しかった」といえる作品の中には、一度読めばそれで満足──改めて読み返そうとは思わないものも少なくない。
一方、「面白かった」「楽しかった」というには引っかかるものの、この割り切れなさ(もやもや感?)が気になって(それを解消すべく?)何度も読み返してしまう作品というのもある。『赤いカブトムシ』はそんな作品だった。

表紙には「昆虫採集の楽しさをおしえます」と記されているのだが、読み終えて感じるのは「楽しいはずの昆虫採集が……どうして、こんなことに」──という憂鬱な気持ち──それが大方の読者が抱く感想ではないかと思う。
「昆虫採集の楽しさ」が描かれていないとはいわないが、終盤の破滅的な展開の印象があまりに強い。
「昆虫採集にハマった少年──その虫への情念が招いた取り返しのつかない過ち」という点で、へルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』を想起させる。

この作品は次のように始まる──(青文字は本文の引用)。

 南原茂のしゅみが、昆虫採集ときくと、五年一組のクラスメートたちは、たいていまゆをひそめる。
「昆虫採集って、ムシをころしてピンでとめてしまう、あれでしょ。ざんこくだなぁ。」とか、
「昆虫採集は、自然破壊なんだぜ。自然の生き物をたいせつにしよう。」
 はなはだひょうばんがわるい。そのたびに茂は、
「昆虫採集は、理科の勉強になるんだ。昆虫の名まえをしらべたり。きちんと標本にしたり……」
 けっしておもしろ半分にころしているわけじゃないことを、力説する。
 あるいは、
「東京にトンボがいなくなったのは、子どもたちがトンボとりにねっちゅうしたためではない。トンボに無関心なおとなたちが、トンボの住めない町にしてしまったからだ。」
という、有名な昆虫学者のことばを引用して、昆虫採集が、自然破壊につながらないこと、むしろ昆虫にきょうみをもてば、かえって自然をたいせつにする心がやしなわれるのだと、反論してきた。
 もっとも、茂のしゃべっていることは、みんな伸一郎兄ちゃんの受け売りだった。
 伸一郎兄ちゃんは、いま高校二年生だけど、中学のころから昆虫採集にねっちゅうして、いまでは、五百種類ものチョウの標本をあつめている。
 茂の昆虫採集も、じつは伸一郎兄ちゃんのえいきょうなのだ。


この物語は、昆虫採集に対する偏見的風潮(?)に対して、主人公・茂が受け売りの知識で弁明するエピソードからスタートする。いきなり昆虫採集に対するアンチテーゼが提示された形だ。
茂が昆虫採集を始めたのは2年生の頃。兄の手ほどきをうけながら昆虫について学び、夏休みには30種類のチョウの標本を作って学校に持って行くが(自由研究?)、それを見た担任は、おざなりに褒めた後に、こんなことを言う──、

「でも、チョウチョは、生きているときのほうが、もっとすてきよねえ。来年は、花にとまっているところをスケッチしたら、どうかしら。」

言外に茂の努力(昆虫採集)を否定する発言だ。「イヤな先生だなぁ……でも、こんな(昆虫採集に無理解な)先生は、いそうだなぁ」と感じ、茂が不憫になってしまった。4年生の時にも似たような事があり、5年生になると担任が「虫が苦手」だというので、茂は夏休みの自由研究に標本を学校に持って行くのをためらっていた。

先生やクラスメートには評判が悪い昆虫採集──そうした偏見的風潮(?)・アンチテーゼに対し、茂は(作者は)この物語の中で、どのように昆虫採集の意義や楽しさを説いていくのだろう?──読者の中にはそんな視点(テーマ)が示されたのではないかと思う。僕も茂の巻き返しに期待しながら読み進んだ。

茂は兄・伸一郎の指導を受けながら昆虫の生態や捕り方、標本の作り方を学んでいく。知らなかったが、作者の那須正幹氏も虫屋だったらしく、実体験に基づいているためだろう、描かれる世界には実感があって内容も充実している。
最初は兄を真似てチョウを採っていた茂だが、甲虫類を集めるようになって、昆虫採集がさらに楽しくなり、地道な活動を続けて行く。

物語が大きく動き出すのは5年生の夏休み最後の日──茂は鮮やかな赤色のオスのカブトムシを発見する。見たことも聞いたことも無い「赤いカブトムシ」……これが新種なら大発見だ。虫に発見した茂の名前がつくかもしれない──そんな夢が広がり期待が高まる。珍しい赤いカブトムシは兄の伸一郎を通して高校の生物部の先生(昆虫の専門家)へ、新種の可能性があるということで大学の研究室へと渡って詳しく調べられることになる。そしてこの件で、茂が通う小学校には新聞記者が取材にやって来た。

赤いカブトムシの発見者ということで、茂は担任とともに校長室で新聞記者のインタビューを受ける。担任は実は茂の標本を1度も見たことがない「虫が苦手」な先生なのだが……「教師としても、子どもたちが自然に興味を持つ事は喜ばしいことなので、できるだけ応援しています」などと答え、校長先生に至っては「南原くんの大発見も、(児童の個性を伸ばすことをモットーとする)我が校の教育の成果でしょうな」と学校の手柄であるかのように大喜び。
茂はたちまち有名人になって、それまで「残酷だ」「自然破壊だ」と言っていたクラスメートたちも手のひらを返したように茂を賞賛し始める。

昆虫採集に批判的だった先生やクラスメートたちの「鼻を明かした」感もある展開だが、彼等が茂に対する評価を一転させたのは、「昆虫採集の意義」をきちんと理解したからではないだろう。単に「新聞に載るなんてスゴイなぁ!」というレベルの賞賛であって、いい加減さを感じる部分でもある。冒頭のアンチテーゼが解消したわけではないだろうことを考えると、手放しで喜べず、スッキリしないものが残る。
こうして「赤いカブトムシの発見」で、クラスメートたちの茂を見る目は変わったが、一方、茂の中でも、昆虫採集へのとりくみに変化が生まれる。

結局、茂が発見した赤いカブトムシは、(ふつうの)カブトムシの色彩変異個体ということに落ち着く。しかし、「あと1、2頭、せめてメスが採集できたら、新種として登録できると思う」という専門家の言葉に茂は「新種・ナンバラベニカブト(?)」への期待をつないでいた。6年生の夏になると、これまでのような活動スタイルを捨て、赤いカブトムシに絞って、発見場所へ通うようになる。自分以外の者に発見をさらわれることを怖れ、半ば強迫観念にかられたように2匹目の赤いカブトムシの出現を待ち続ける。

しかし見つかるのは普通のカブトムシばかり……。成果が得られないまま夏休みも終わろうとしていたとき、茂はふとした思いつきで、普通のカブトムシに赤いラッカーを吹き付けて、本物の赤いカブトムシの標本と比べてみた。一見そっくりに仕上がったニセの赤いカブトムシを眺めているうちに、もしこの赤いオスとメスのカブトムシを大学の先生に見せたら……と「ナンバラベニカブト」の誕生を想像する。もちろん、そんなインチキが通用するはずかないことは茂にもわかっていたが、塗装カブトムシの出来映えが良かったので、兄の伸一郎をからかってやろうと思い立つ。塾から帰った伸一郎に「赤いカブトムシを捕まえた」と話すと、狙いどおり兄を驚かすことはできた。が、これで新種として発表できると舞い上がった伸一郎は、茂が種明かしをする前に生物部の先生に電話をかけ報告してしまう。予想外の急展開と、喜んでくれている兄の姿を見て、茂は本当のことを切り出せなくなってしまうのだった。
兄は喜び勇んでニセの赤いカブトムシを先生に見せに行ってしまい……当然、インチキはバレることになる。

「おまえ、自分のやったこと、わかっているのか。」
 兄ちゃんのひくい声が、茂の耳をうつ。
「あんなイカサマが、とおると思ったのか。」
 兄ちゃんの声が、だんだん高くなってきた。
「おれが、先生のまえで、どれだけはずかしい思いしたか、おまえ、わかるのかよ。」
 兄ちゃんが、ふいに立ちあがったと思ったら、右手が大きくうごいた。茂のほっぺたに、するどい痛みがはしった。
「どうしたのよ。」
 母さんがびっくりした顔つきで、おくからでてきた。
「どうも、こうもあるもんか。こいつ、ふつうのカブトムシに、赤いラッカーをぬって、ごまかしてたんだ。」

(中略)

「それじゃあ、茂が去年つかまえた、あの赤いカブトムシも、あれも、おまえが色をぬったっていうの。」
 母さんが、おろおろしたような声をあげた。
「ちがうよ。あれは、ほんとの赤いカブトムシだったんだ。あれは、色をぬったんじゃないよ。」
 茂は、ひっしでさけんだ。
「ふん、わかるもんか。いいか、茂。おまえがこれから、どんなめずらしい昆虫をつかまえたって、もう、だれも信じちゃあくれないからな。兄ちゃんだって、ぜったい信じないから、そのつもりでいろよ。」


伸一郎が怒るのも無理はないだろう。そのつもりは無かったとしても、茂のやったことは「捏造」だ。兄への裏切り行為でもある。これまでめんどうをみ、応援してきた弟が、まさか新種発見の手柄欲しさに「捏造」に手を染めるとは……赤いカブトムシが偽物だと知った時の兄の心情は察するに余りある。

新種発見の夢にとりつかれ、道をあやまって、それまで地道に築いてきた功績や信頼まで失ってしまう……この重い展開に、脳裏に浮かんだのは、世間を騒がした研究不正事件やスクープ捏造事件の問題だった。

注目され期待されていた研究者や記者が、都合の良い成果を急ぐあまりに、データを捏造して取りつくろってしまう……そんな研究不正やスクープ捏造は、これまで度々報道されてきた。研究者や記者は一時脚光を浴びるが……やがて不正が発覚して、栄光から転落。一転して厳しい批判にさらされる──そんなことが世の中では時々起こる。
「どうして、そんなバカなこと(捏造)をしてしまったのか」と、いつも思うのだが、捏造は必ずしも最初から詐欺的意図を持って仕組まれるものでもないようだ。ちょっとした過ちを適切に正す機会を失ってしまったことから後戻りできなくなって誤った道を突き進むしかなくなるケースも少ないのではないかと思っている。
茂の場合は、兄が偽物の赤いカブトムシを持って行く前に本当のことを打ち明けていれば、こんな大げさな事にはならなかった。なのに、過ちを正す機会を逸してしまったことで捏造事件へと転落して行くはめになった。

敬愛する兄に激しく叱責され、いたたまれなくなって家を飛び出した茂は、去年赤いカブトムシをみつけた木のところにやってきていた。そして後悔にさいなまれ失意のどん底にいるときに、まさかの赤いカブトムシを目にしたのだった。

 地上から二メートルくらいの幹に、あざやかな赤い色をした生き物が三つ、たがいにあたまをつきあわせてとまっていた。中の一つは、りっぱなつのをもち、あとの二つは、つののないあたまを木の皮にこすりつけるようにしている。
 まぎれもない、あの赤いカブトムシだった。
 あざやかな、赤いからだを、おしげもなく昼間の太陽にさらしながら、三頭のカブトムシは、クヌギの幹の上を、じりじりとうごきまわっている。その高さは、茂が、ちょっと背のびをすれば、とどきそうでもあり、そうでないようでもあった。


──という文章で、この物語は終わる。
なんと皮肉なタイミングでの発見だろうか。探し求めていた時には見つけることができなかった、(新種登録に必要な追加分の)赤いカブトムシが、《おまえがこれから、どんなめずらしい昆虫をつかまえたって、もう、だれも信じちゃあくれないからな》と兄に言い渡された直後に現れるとは……。

いったい、この赤いカブトムシはどうなるのだろう?(捕獲され新種誕生となるのか?) 茂はどうするのだろう?(待ちわびたチャンスをものできたのだろうか?)──読者としては気になるところだが、そうした思いをシャットアウトするかのように物語は終わっている。
なんとも唐突感のある幕切れだが、おそらくこれは「目の前の栄光──手が届きそうで届かなかった(?)夢」を象徴するシーンとして意図したものだろう。

さて、それではこの物語を読み終えた読者の心には何が残るだろう?
「茂にとって昆虫採集とは何だったのか?」──という「もやもや感」ではないだろうか。
昆虫採集にハマったがために、こんな破滅的な結末を迎えることになってしまったわけだから、「昆虫採集の楽しさをおしえます」という表紙の文章とはかけ離れた印象を抱くはずだ。

また僕はこの物語を「周囲の偏見に対して、茂が昆虫採集の意義をどう説いていくのだろう」と思って(期待して)読んでいたので、冒頭のアンチテーゼに対する答えが描かれないまま終わってしまったことにも唐突感を覚えた。
「昆虫採集の意義」については冒頭の「受け売り」発言と、「あとがき」の最後に作者の言葉として簡単に触れられているだけ──《作品の中でも書いたように、子どもが虫を捕りすぎるために、自然界から虫がいなくなるとは、まず考えられないことなのです。むしろ子ども時代、昆虫採集を楽しむことで、かえって自然に関心をもち、ほんとうの意味の自然保護の心を育てるのではないでしょうか》。このテーマに関しては消化不良の感が否めない。

僕の心にひっかかったのは、新種発見の夢を追うようになってから、茂の昆虫採集が変わっていったことだ。赤いカブトムシに出会い、新種発見の夢に胸をおどらせる茂だったが、その夢を追い続けていくうちに、それは執念へと変容していき、楽しかった昆虫採集が、焦りや失望・切迫感をともなうものに変質していく……。当初、胸をときめかせた赤いカブトムシは疫病神だったのか?
もちろん、昆虫採集をしていて未知の昆虫を見つけたら、夢中になるのは判る。昆虫少年なら誰でもそうなるだろう。新種発見に限らず、これまで知られていなかった知見をスクープしたいという野望(大志?)を抱くこともあるだろう。それは悪いことではない。ただ、一心不乱に夢を追い、のめり込んでいくとき、夢に溺れてしまうこともある──《情念》のはかなさ・危うさのようなものを感じないでもない。

終盤の展開で、僕は、過去にあった研究不正事件やスクープ捏造の報道を思い浮かべたが、「一途な情念の落とし穴」とでも言ったらいいだろうか?──そんなテーマを内包している物語でもあるように感じた。
「情念がらみの、悔やんでも悔やみきれない過ち」を描いたという点では味わい深いところがなくもないのだが……本作ではそのあたりのテーマには踏み込んでいない点に物足りなさを感じている。

終盤のあやまちを機に、茂が自分の昆虫採集を見つめなおし、その意義や目的を茂なりに見いだすところまで描けていれば、読後感も変わっていたのではないかという気がする。意図したわけではないが捏造という大きな過ちを犯してしまったのだから、内省的な掘り下げや総括があって良かったのではないか。


ところで、この物語はどのように発想されたのだろう?
発端は、表紙にあった通り、「昆虫採集の楽しさをおしえます」というコンセプトで描くつもりでいたのではないかという気がする。作者が虫屋であったことを考えると、昆虫採集に批判的な風潮が出てきたことに対して、「昆虫採集とはどんなものか」その楽しさや意義を伝える作品を描きたいと言う気持ちはあったに違いない。実際、捏造事件の前までは、昆虫採集の様子がいきいきと描かれていて読んでいてもおもしろい。

しかし、昆虫採集のノウハウを列挙するだけでは、物語としては弱い。そこで昆虫少年が憧れがちな「新種発見」をからめたストーリーを考えたのではないだろうか。
といっても、あっさり新種が見つかってめでたしめでたしでは盛り上がりに欠ける。何か読者の予想を超える意外な展開や、葛藤が発生するエピソードはないかと頭をひねり、「夢が実現する直前の捏造事件」という着想を得たのではないか……主人公にその気はなかったのだが……ちょっとした悪戯が捏造に発展してしまったという展開。これなら意外性もあるし緊迫感が生まれる──着想としては悪くない。
本当のところは作者にしかわからないことだが、本作のストーリーはそんな形でできあがったのではないかと想像する。


かみや しん氏による挿絵については──、作中に登場する昆虫はもちろん、本文に書かれていない昆虫採集の道具や使い方なども描かれていて、「雰囲気」をよく伝えている。
が……描かれた昆虫の中で、ルリボシカミキリには不可解な点があった。この本を紹介していた某虫屋さんの日記で指摘されていたことだが──美しいブルーが魅力のルリボシカミキリに、なぜか、「ねずみ色」とわざわざ記されているのだ。


某虫屋さんは(退色した)古い標本を見て描いたのだろうと推察していたが、本になるまで作者は挿絵を見ていなかったのだろう(画家さんが古い標本を見て描き、編集者もルリボシカミキリの本当の色を知らないまま本が作られた?)。
もしも、ルリボシカミキリがねずみ色であったなら……「青色のルリボシカミキリ」を見つけた者は「赤いカブトムシ」を見つけた茂のようにハイテンションになるのではなかろうか……そんなことを想像してしまった。
僕が読んだ本は初版だったのだが、重版になった時点で修正されているのだろうか? 検索してみると『赤いカブトムシ』は2007年に見山博氏の挿絵で版を変えて出版されている。そこにルリボシカミキリの挿絵があるかどうかは知らないが、「ねずみ色のルリボシカミキリ」は無いはずだ。


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コメント

No title
星谷仁 讃江

「赤いカブトムシ」を読ませていただきました
幼いころ、母方の祖母に読んでもらった絵本の
一寸法師を今でも懐かしく思い出します。
幼児体験というものは
大切ですね。

らく画きにがお絵和尚より
No title
> らく画きにがお絵和尚の日記さん

どもの頃の記憶は意外に残っていたりしますね。
だから、子どもの頃に遊んで色々な体験をすることは貴重だと思っています。
『赤いカブトムシ』は読者対象が「小学中級から」となっていますが、単に「おもしろい」という作品よりも、むしろ印象に残る作品だと思います。
No title
「ズッコケ三人組」の題名は何度も耳にしたことがあります。
私の子供も、数冊読んだようです。が、私は、一度も読んでいません。
「赤いカブトムシ」・・・星谷さんの巧みなストーリーの紹介のお陰で、おおよその流れがつかめました。
・・・もしかすると・・・
最後のシーンで「軽い気持ちだったとは言え、捏造ともとれる行為を行った後の、あまりにも大きな代償を示すことで、昆虫採集と言うものを、より神聖?なものとして表現したかった・・・?」ともとれるのかな?・・・
と、作者さん贔屓な見方をしてしまいました。
只、おっしゃる通り、担任や周りの生徒さん方の鼻をあかした・・・そのくだりは、昆虫採集の良さを訴えるものとは、少々異なるのでは!・・・と想いました。
No title
> 今日も、こっそり自然観察!さん

ちょっと複雑な読後感の作品だったので、読んだことが無い人にも、どんな感じか伝わるように、詳しめに記してみました。

「取り返しのつかないことをしてしまった……」感は、中学の国語の教科書にも載ったという(僕は教科書で読んだ記憶はないのですが)へルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』に通じるものがありました。

本人にそのつもりはなかったものの……「捏造」の代償は大きいですね。それさえなければ、最後のシーンは主人公にとって、まったく違う瞬間だったろうに……そう思うと、色々考えてしまいます。
No title
赤ではないですが、茶色い固体は多いかもしれませんね。光線の具合で赤く見えたのでこういう物語が出来たのか?
昆虫などは詳しくは分かりませんが鳥でも色の固体違いはあって、特に最近はハイブリッドの多いカモなどでは新種?と思うのもありますね。
わたしはよく公園や山に行きますが大人の方が大きな網を持っているのを見ると??と思うようになりました。先日間違ってカメムシを指でつぶしてしましい、暫く申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。星谷さんおブログを拝見すると生き物に対する愛情を感じますよ。ナイス!
No title
> 四季の風さん

赤っぽいカブトムシはいますね。だからこの物語を読んで、ちょっとまぎらわしい印象はありました。作品の中では鮮やかな赤ということになっています。

僕は虫屋ではないので、基本的には撮るだけで、採集や標本作りはしませんが、手間をかけて調べ、標本を作り、管理している虫屋さんに一目置いています。
撮るだけの人がお手軽に参考にしている昆虫に関する情報のほとんどは虫屋さんの地道な活動によってもたらされたものでしょう。
この作品の冒頭で記されているように昆虫採集に対して良くないイメージを持つ人は増えているかもしれませんが……虫屋さんにもっと敬意を払ってもいいのではないか、という気はしています。
No title
2007年6月1日発行の『赤いカブトムシ』を図書館で見てきました。21頁にヨスジハナカミキリと並んでルリボシカミキリの絵がありました。そこでは『青色』と訂正されていましたよ。ちなみにヨスジは『黄色』でした。スマホで撮った写真をここに張れないのが残念です。
No title
> タケクンさん

見山博さんの挿絵の方ですね。見山さんは愛媛大学農学部で昆虫学を専攻されていたそうですから、この作品の挿絵を描くのにふさわしい画家さんだったのでしょうね。ルリボシカミキリは青色が魅力的なので、そこはしっかり押さえておこうという意図もあったのかも?

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