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虫はなぜ毛嫌いされるのか?

昆虫はなぜ毛嫌いされるのか?
~好きな理由・嫌いな理由~Part2~

昆虫は人によって好き嫌いがかなり分かれる存在だ。同じ昆虫に魅かれる人もいれば嫌悪する人もいる。飛行機に乗ってわざわざ採り(撮り)に行く人もいれば、写真で見るのもおぞましいという人もいる。この差は何によって生まれるのだろう?
よく「子どもの時は平気で(昆虫に)触ることができたのに、大人になってダメになった」という話を聞く。これが逆に「子どもの頃ダメだったものを大人になって克服した」というのなら解るのだが……「子どもの時は平気だったものが、大人になってダメになる」という現象は、どう理解したら良いのだろう?

「昆虫に魅せられるのはナゼか?」というのは興味の一つで、前の記事(*)に示したが、逆に「虫が毛嫌いされるのはナゼか?」というテーマも気になるところ。

《昆虫に対する嫌悪感は「未知なるモノ」への不安に起因している》のではなかろうか──僕はそう考えている。というのも、僕には次のような体験があるからだ。
子どもの頃、ドングリ拾いにハマったことがあった。宝探しの感覚でドングリを見つけてはポケットへ。家へ持ち帰ると机の引き出しに貯めこんだ。あるとき、ポケットに手を入れて「!?」と思った。ポケットの奥底に「ぷにゅん」と触れる軟らかいものがある……。何だろうと思ってつまみ出してみると、ウジのような小さなイモムシだった──しかも生きて動いている。
予想もしなかった謎のウジ様幼虫!?!──得体の知れない侵略者(!?)がポケットというプライベート空間から出現したことに激しく動揺した。傷に貼ったガーゼを剥がしたらウジムシが湧いていた──みたいな衝撃。そのときの嫌悪感は忘れられない。
ドングリを溜め込んだ机の引き出しを開けてみると、宝物だったドングリには無惨に穴があき……引き出しの底には、ポケットに潜んでいたのと同じおぞましい侵略虫たちの姿が……。「楽しかったドングリ集め」が脳内で大暴落──コレクションを全て捨て、ドングリ拾いもきっぱりやめた。それ以来このドングリから出てきた幼虫にはずっと嫌悪感を抱いてきた。
このおぞましい謎のイモムシの正体が判明したのはそれから20年以上たってからのこと。虫見を始め、よく出会うシギゾウムシやチョッキリの幼虫であることを知った。「なんだ、こいつらの幼虫だったのか」と判ってみるとイメージは一転──嫌悪感は解消し、むしろ親しみすら感じる存在に変わった。
出会ったときは「わけのわからない未知なるモノ」ということで「不気味」に感じ嫌悪感を抱いたが、正体を知ったことで「わけのわからない未知なるモノ(=不気味)」ではなくなり、嫌悪感も解消されたということなのだろう。

虫の中には毒を持ち、刺したり噛んだりする危険にものもいるし、病原体を媒介するものもいる。ヒトにとって有害なものを嫌悪するのは理にかなっている。無害な種類であっても、十把一絡げ(じっぱひとからげ)の「同類感」から虫全体を嫌悪するような傾向はあるのかもしれない。
無害なものもふくめ、(とりあえず?)虫全体を嫌悪しがちな現象は、もしかするとベイツ型擬態のようなもの? 毒を持つ種類に似たベイツ型擬態の昆虫は多いが、捕食者の鳥だって実は完全に騙されているわけではなく(擬態昆虫を擬態元の昆虫と錯誤しているわけではなくても)、共通する特徴に「同類感」を覚えることで嫌悪を引き起こし、それが忌避効果につながっている──なんてことも、あるいはあるのかもしれない?

「ヘビの中には毒を持つ種類がいる」ということで(とりあえず)「ヘビ全体を嫌悪する」傾向がある──というのは、危機管理的には防衛本能としてあってもよさそうな気がする。同様に「虫の中には有害種がいる」ことから「虫全般を嫌悪する」傾向がある──と考えれば、納得できなくもない。
漠然と十把一絡げ(じっぱひとからげ)で昆虫やヘビをみているうちは、こうした嫌悪が引き起こされがちなのかもしれないが、その生き物の正体を個別にしっかりイメージできる程度に意識化できれば(得体の知れないモノでなくなれば)、僕のシギゾウムシやチョッキリの幼虫に対するイメージが変わったように、必要の無い嫌悪は解消されるのではないか……そんな気がする。

ヘビを引き合いに出したついでに記しておくと……僕は小学6年生の頃にヘビに興味を持った。「手も足も爪も吸盤もないのに、自由に木を登ったりできるなんて、すごいことではないか?」──ヘビのユニークにしてあっぱれな特徴に感心してヘビを見に行ったり関連本を読むようになった。飼育してみたいと思うほどに惚れ込んだヘビだったが……興味を持つ以前は、他の多くの人と同じように「気味悪い生きもの」のカテゴリーに入っていたような気もする。これも「ドングリから湧いた謎の幼虫」と同じで、知識が無いときには「わけのわからない未知なるモノ」として「嫌悪」カテゴリーに振り分けられていたものが、どんな生き物なのかを知ることで「嫌悪」が解消し、「未知なるモノ」が「不思議で興味深い存在」に変わったのだろう。

こうした経験から、僕は《怖れる必要の無い生き物を怖れるのは、無知からくる不安》だと考えるようになった。その生き物が無害だと知った上で、まだ怖いと感じることがあるとすれば、ベイツ型擬態の影を引きずっているか、「無害情報を仕入れた後の脳内再整理がきちんとなされていない」からではないかと考えている。

ちょっと昆虫の話からそれるが……「怖れ」について、個人的な経験を記すと……僕は小学校に上がる前、「ヒトは必ず死ぬ」ということを知って「死」に対して激しい恐怖を覚えた時期がある。「ヒトはどうして死ぬのか・死なねばならないのか?」「死んだらどうなるのか?」「やがて死ぬのになぜ生まれてきたのか?」「死ぬと判っているのに、なぜ生きるのか?」等々、就学前に真剣に考えていた。これらのテーマは以後もずっと僕の関心事の柱のひとつだった。
ヒトが死ぬのはこの世の必然──この現象が真理であることは間違いない。しかし、それを受け入れがたいと感じるのはなぜだろう? 真理を受け入れられなかったり解せないのは、自分の受け止め方──認識や理解が間違っていることになる。そう感じて、このテーマについてはずいぶん深く考えた。僕が求める解答は宗教的なものでも哲学的なものでもなく、自然科学ともまた少し違ったものだったが、時間をかけて正解にたどり着いた──つもりでいる。いずれにしても、自分なりの理解ができてからは、「死」に対する「怖れ」は解消した。
「死」は必ず訪れる真理だが、一方、それを怖れる人が多いというのも事実だろう。ヒトはどうして「死」を怖れるのか──ということについては、「死」を簡単に受け入れる者より、「死」を怖れて「生」に執着する者の方が生存率が高くなる──生存率の高い者の遺伝子が受け継がれやすく「死を怖れる」資質が濃縮・固定したのだろうと単純に考えている。

「ヒトは必ず死ぬ」ということは子どもにもわかる。それを知って就学前の僕は「怖れ」にとらわれたが、よく考え正しく理解できるようになると(脳内の再整理が完了すると)それは解消した。
そんなこともあって、「不要な怖れを抱くのは、きちんと理解(脳内整理)されていないからだ」と考えるようになった。逆に(基本的には?)「理解が進めば不要な怖れは解消する」と考えている。だから、「子どもの時は平気で(昆虫に)触ることができたのに、大人になってダメになった」という現象がよくわからなかった。

不思議なのは、昆虫に対して理解が深いはずの虫屋さんの中に、イモムシ・毛虫などの特定の虫が苦手という人が少なからずいることだ。それも、その毛嫌いっぷりが尋常でなかったりする。いわゆる生理的な快・不快は誰にだってあるだろうが、昆虫さんの「苦手な虫の嫌いっぷり」は、ちょっと度を超えている感じがして──虫のことを熟知しているのに(無害だと解っている)虫を不必要に怖れるのが不思議でならない。

虫屋としても知られる養老孟司氏はゲジが大嫌いだそうだ。その苦手っぷりを記した養老氏のエッセイを読んだことがあるが、実害(咬害)のあるムカデよりも、基本的に無害なゲシの方が苦手だというのだから解らない……。

養老氏は自己の好き嫌いの感覚は、生理的な振り分けのようなものと捉えているらしい。「ものすごく好きなもの」を選別する脳は同様に(?)「ものすごく嫌いなもの」を一定量選別するようにできている──というようなことが件のエッセイには書かれていたように思う。それまで苦手だったものがある日苦手で無くなるということはあるが、そのぶん新たに苦手なものができてくる──何か明確な基準があって苦手になるのではなく、脳の生理的機能によってたまたま(?)苦手カテゴリーに振り分けられているにすぎないという考えらしい(僕の解釈)。

《好(快)⇔嫌(不快)》のカテゴライズは明確な基準にもとづくものではなく、生理的なバランス配分──という解釈は、ちょっと説得力がある。
「子どもの時は平気で触ることができたのに、大人になってダメになった」という変化も、「明確な基準」によるものではなく、選別対象が(たまたま?)変わっただけ──と解釈すれば、納得できなくもない。

似た構図(?)として免疫システムが思い浮かんだ。
免疫は寄生虫やバイ菌などから自己を守るシステムだが、これが過剰に働き暴走するとアレルギーをひきおこす。清潔志向が高い先進国でアレルギーが多いのは、免疫システムが本来向かうはずの寄生虫やバイ菌などが少なくなったため──という考え方がある。本来撃退すべき寄生虫やバイ菌などを失ったために、その攻撃対象を無害な食べ物や自己に振り向けてしまう──ということらしい。免疫システムに攻撃対象を選出するバランス配分のような仕組みがあるとすれば、攻撃対象カテゴリーを埋めるために(本来の攻撃対象がなければ)代替ターゲットが選択されてしまうという現象も理解できる。

「好きな虫」と「嫌いな虫」がいるのは、脳の生理的なバランス配分──養老氏の場合はゾウムシが《好(快)》に、ゲジが《嫌(不快)》に振り分けられた──そうなんだから、しかたない──といった認識のようだ(と僕は解釈した)。
虫屋さんは虫が好きだが「なぜ虫が好きなのか?」(あるいは「なぜ(例外的に)嫌いなのか?」)といったことには、あまり関心が無いのかもしれない。
虫屋でない僕には虫に対する反応──《好(快)⇔嫌(不快)》がどうして生まれるのか、気になる。生理的なバランス配分であったとしても、それでは何によって振り分けられるのか──と考えてしまう。

僕にとって最大の(?)謎は「子どもの時は平気で(昆虫に)触ることができたのに、大人になってダメになった」という話。僕自身には経験が無いので、どんな感覚なのかよくわからない。
「正しい理解が進めば(無害の虫への)嫌悪は解消する」はずだというのが僕の考えだが、昆虫への理解は子どものときより成長してからの方が深まっているはず……なのに、知識としては無害とわかっていながら、どうして嫌悪するるようになるのだろう……。

今考えている仮説(?)を記すと──、
虫に対する理解(知識)自体は子どもの頃とさして変わっていないが、大人になるにつれ《ヒトの言語(ヒトの脳が理解しやすいフォーマット)》化が進み、相対的に《自然界を構築している言語》で描かれたものへの違和感を強くして、「得体の知れぬもの」感が高まり、それを怖れ嫌悪するようになるのではないか?──というもの。昆虫はヒトからみると「異形」感が強いのかもしれない。

ヒトが制御・管理しやすい人工物の中で暮らし、《ヒトの言語》で物事を測ることにすっかり慣れてしまうと、《ヒトの言語》の管理下にない(フォーマットの違う)自然物は「異物」と見なされてしまうことがあるのではないか?
《ヒトの言語》化が過度に進むことで、《自然物》を「異物」とみなすようになり、排除したがるようになる──とすれば、これは良いことではないだろう。人工環境で暮らし《ヒトの言語》の中に生きていても、生物としてのヒトは《自然物》だ。それなのに《自然物》を異物と見なし排除したがるという状況は、ある種の自己否定・自己矛盾──免疫に例えれば、自己の細胞を異物と見なし攻撃するような過敏反応状態のようなものではないかという気もする。

昆虫に対する《好(快)⇔嫌(不快)》は個人差も大きい。それがどうして生まれるのか──本当のところはまだよくわからない。しかし虫見をしていると、ついそんなこともあれこれ考えてしまうのである。


*昆虫の何に魅かれるのか?

https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-708.html

■エッセイ・雑記 ~メニュー~
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コメント

No title
小学生時代は、大の昆虫好きでした。が、中学に入学と同時に、昆虫に対する興味関心は一切なくなってしまいました。
7年前に虫ブログを始めるまでは、時々「あの頃の、昆虫への情熱はいったい何だったのだろう?」と、思い出すことさえありました。
・・・その疑問に対する、自分なりの答えは(新たな情報)でした。
目新しい制服に身を包み、大きく美しい校舎に通い、クラブ活動に興じる・・・
そんな、目新しい情報(経験)は、私の脳内から、昆虫を追いやってしまいました。
・・・以降、芋虫・毛虫を毛嫌いすることはなくとも、再び、昆虫に対して興味関心を示すことはありませんでした。
「昆虫よりも、もっと、私の心を惹きつける関心事・情報(元から昆虫に大して関心の無かった人には、昆虫は危険で気持ち悪い生き物としての情報)が増えたから・・・かな?」と、想い返す時があります。
No title
> 今日も、こっそり自然観察!さん

昆虫に限らず興味の対象が変わることは、よくありますね。虫屋さんの中にも追いかける対象がチョウからカミキリに変わったりと変化することはあるようですし。

以前、「(昆虫が)子どもの時は平気だったのに、大人になってダメになる」現象について、虫嫌いの親など影響(嫌悪情報の学習)をあげている記事を読んだことがありますが、僕は懐疑的に感じました。親の影響を強く受けるのはむしろ幼い頃のはず。親の影響で子どもが虫嫌いになることはあると思いますが、子どものときに平気だったものが、後に嫌いになるのは不自然です。
また「子どもの頃に平気」だったのであれば、その実体験の情報の方が伝聞の嫌悪情報より優先されるでしょうから、大人になって(嫌悪情報の学習によって)苦手になるというのは、ちょっと考えにくい気がするのです。
No title
私の場合、子供の頃は特に、虫が好きというわけではなかったです。
花の写真をよく撮るようになって、植物を見ていると必然的に虫も眼に入るようになり、興味を持つようになりました。「これは何だろう?」から始まって、仔細に観察すれば、その精緻な美しさに感動するし、生態などを知ると、ますます面白くなりますね。ただ私はさほどの凝り性ではないので、あまり深く調べることもなく、雑学程度の知識で満足してしまうのですが。
昔、知人の若い生物学者が「人間の無知や恐れが、ある種の生物を絶滅の危機に追いやっている」と言った事が、忘れられません。
No title
> 胡蝶の夢さん

僕も子どもの頃は(他の子と同じように遊びで虫とりはしましたが)特別に昆虫に関心があったというわけではありません。ドングリから出てきた幼虫の正体も知りませんでしたし。
30代後半で、当時飼っていたフェレットを散歩させているときに出会う虫が有害か無害か等、調べ始めたのがきっかけて虫を調べるようになり昆虫に関心を持つようになりました。
おっしゃる通り、知れば知る程昆虫はおもしろくなりますね。
「人間の無知や恐れが、ある種の生物を絶滅の危機に追いやっている」というのは判る気がします。知っていれば避けられるはずのトラブルを招いてしまうこともあるし……無知の代償は高くつくことがありますね。
No title
私は子供の頃苦手な虫はいませんでした。
身近にいる虫は何でも触ることができました。
ですが、小学校に入った頃、大人や周りの友達が虫が嫌いとか怖いとか言っているのを聞いて、自分も苦手な虫がいないと変かな?と思うようになり、じゃあ、クモが苦手ってことにしようと思ったところから本当にクモが苦手になりました。
今は庭仕事という仕事柄クモにはよく出会うので怖くはありませんが、それでも大きめのクモはこのんで触る気にはなれません。
それよりも、クモ嫌いで一番困るのは毛ガニを食べる時にクモっぽいと思った瞬間です(笑)
No title
> ジョブ6さん

自分で苦手候補を決めるというのも珍しいですね(笑)。
クモに関しては苦手という人も多いのではないでしょうか。僕も怖いとは思いませんが、どちらかというとクモは苦手な部類かも。子どもの頃、カブトムシをとりに行って、よくクモの巣にゴールインしたので嫌な印象が植え付けられた気もします。
でも、ビジョオニグモのような人面系のクモを見つけると喜んでカメラを向けたりしています。

僕はウデムシの画像を見て、「食ったらカニの味がしそうだ……」なんて思ったことがあります。
No title
自分は蠅の幼虫が大の苦手ですが、同じフォルムをしたチョッキ理だとか、ゾウムシの幼虫、アリの幼虫などは全然大丈夫なので、そこが謎なんですね。
蠅は汚物にいるイメージが高いから(逆に知っているから)怖いのかもしれませんね。
小学生時代は虫好きだったのに中学校に上がると虫嫌いが圧倒的に増えるのは分かります。
他のコメントも見させていただきましたが、確かに何も知らないとスケールがなくて漠然としたイメージでしかとらえられないのだろうなと感じました。
確かに昆虫は知らない人から見たら気持ち悪いのかもしれませんが、自分は、逆にスポーツに打ち込む同級生のほうがよく分からないので所詮、その程度のことかもしれませんね。
ナイス!です
No title
> タイコウッチさん

なるほど! 「蠅は汚物にいるイメージが高いから(逆に知っているから)怖いのかも」というのは説得力がありますね。
嫌悪すべき(汚い)物と(知識で)結びつくことでウジも嫌悪する──というのはありそうだと思いました。
でもこのケース──病原体を媒介する衛生害虫を嫌悪することは、ヒトにとって益になりますから、無害な虫を嫌悪するのとは違って意味があるように思います。

僕がよく判らないのは、嫌悪する必要がまったくないないと判っている虫を、それでも度を超して嫌悪するヒトがいることです。
昆虫は見る人とによってずいぶん感じ方が違うのが不思議ですね。

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