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語彙と表現力



※「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(新約聖書>ヨハネによる福音書:1-1)」


少し前に昆虫を数えるときは「匹」か「頭」か……助数詞について思うところを記したが(*)、日本語は言葉が多くてややこしいなぁ……と思うことがある。しかし、こうした語彙の豊富さが表現力の豊かさにつながっている考える向きもあるだろう。
語彙と表現力について、少しばかり思うところを記してみたい。



言葉がイメージを作り分類を生む

若者の会話などで使われるボキャブラリーの乏しさ→表現力の低さ・幼稚化を指摘する声はずいぶん昔からあったように思う。語彙が少ないことが幼稚化へ向かわせるのか、幼稚化がボキャブラリーの貧困さにつながるのか……因果関係はともかく、相関関係はありそうな気がする。

言葉はイメージを明確化する。言葉が増えれば、それに対応するイメージも分化し多様化する──僕はそう考えている。
例えば、リアルな現実を舞台とした小説に対して、架空の世界を描いた小説あるいは現実には起こりえない物語を「空想物語」とすれば──「空想物語」というカテゴリーができる。そしてさらに「おとぎ話」「メルヘン」「ファンタジー」「ナンセンス・テール」「SF」など呼び方が増えるとイメージの分化が進み、カテゴリーが増える。

試しにちょっと脳内シミュレーションをしてみるなら……昆虫好きの人たちの呼び方について、「虫屋」「昆虫マニア」「昆虫オタク」「虫キチ」「虫バカ」「昆虫コレクター」等々、色々な呼称を考えてみる。その時点で定義などなくても、それぞれの呼称に対するイメージの分化が進み、言葉の数だけカテゴリーが増える。「○□さんは《昆虫オタク》だが《虫屋》とは言えないな」──というような分類・差別化が自然となされることになるだろう。定義は言葉の後付けでできてくる。

よく「《チョウ》と《ガ》の違い」が話題なっているのを見かける。しかし実態はと言えば、蝶と蛾は形態で明確に分けられるものではないという。にもかかわらず、人が特徴で分けたがるのは、《チョウ》と《ガ》という2つの言葉を持ったからだろう。こうしたチョウ目を区別する言葉がない国では、それらを区別しないという。
形態的に明確な違いがないのに、違う呼び名(言葉)があることでイメージが分けられているものでは、他にも「《タカ》と《ワシ》」「《クジラ》と《イルカ》」「《カンガルー》と《ワラビー》」などが思い浮かぶ。

こうした例から判るように実態に即して言葉が生まれるとは限らない。呼び名があれば、実態のありようとは別に、ヒトの脳みそは、その《言葉》に該当するイメージの形成・カテゴライズ(分類)を自動的に行ってしまう(そうして意識化=認識する)。
はじめに言葉ありき──ヒトの意識の中では、実態よりも言葉のイメージ・カテゴライズが優先されがちだ。

新約聖書には「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」という一節がある。全てのものは神のことばによって創造されたという内容を記した『ヨハネによる福音書』の冒頭部分(第1章第1節)だ。《創造》すなわちイメージを生み出すツールとして《言葉》を捉えていたのかな……という気がしないでもない。僕はクリスチャンではないので、この解釈が宗教的に正しい理解かどうかはわからないが……《言葉》がイメージを生み出し、その存在を意識化させ、確固たるものとする──そうした面をもつことは確かだろう。

「進化」や「擬態」も、その言葉が発明(?)されたことで、その概念が確立し浸透することになったのではないかという気がしている。

そういったことを考えると、ボキャブラリーの豊富さ──語彙の多様性とイメージの分化の度合いは相関関係がある──といえるのは確かだと思う。



語彙の多さと表現力の豊かさ

ただ、ボキャブラリーの豊富さが表現力の豊かさだとは単純には思わない。

語彙の多さを誇るかのような使い方をする人がいるが、普通に使われている使用頻度の高い単語でも伝わるところを、わざわざ使用頻度の低い(認知率の低い)単語を選んで使っている場合は、ただ単に「気取っている」だけで、わざわざ他者に伝わりにくくしているのだから、むしろ表現力としては程度が低いと感じることもある。
難しい表現を難しい言葉で記すのはむしろ安易ともいえる。難しい表現を平易な言葉でより多くの人に判りやすく伝える能力・感覚が表現力なのだと思う。

例えていえば語彙はクレヨンの色数のようなものだ。12色のクレヨンより25色のクレヨンの方が、多彩であることは確かだ。ただ、12色のクレヨンで描いた子の絵が25色のクレヨンを使って描いた子の絵より劣っているかと言えば、そんなことはない。水墨画が水彩画より劣っていることにはならない。表現力は色数とは別のものである。

単語をたくさん知っていること・難しい単語をたくさん使えることは、クレヨンの色数を多く持っているということに相当する。しかしそれは「既製品」であり、たやすく借り物に頼り・既製品の数を求めることで表現の多彩さをカバーしようというのは、むしろ表現能力の低い人のやることだという気さえする。
少ない色数のクレヨンでも、工夫して独自の絵を描くことができる──それが表現力だろう。

童話を書き始める人の中には「大人の小説は難しいが、童話なら容易そうだ」と考える人が少なからずいるようだ。しかし、様々なジャンルの小説を書いているプロの作家は、一般の小説より童話は難しいという。難しい言葉・表現が使えず、平易でわかりやすい表現が求められるからだ。もちろん、それぞれのジャンルに相応の難しさがあるのだろうが……童話では、使える言葉が制限されることで、よりわかりやすく適切な表現力が求められる──という理解はもっともだと思う。

語彙の豊富さを求めること(クレヨンの色数を増やすこと)が、表現の豊富さに直結するという考え方はけっこうありがちな気もする。しかし、安易に既製品の色数の多さに頼るのは、その人が独自の表現努力を怠っていることだと言えなくもない。
難しい言葉を知っていても、それがどういう意味・ニュアンスをもっているのか、適切に説明──他の言葉に置き換えて表現できなければ、本当に理解してその言葉を使いこなしているとは言えないだろう。
他の言葉ではうまく説明できないから、既成の難解な言葉を使っているのであれば、表現能力はむしろ低いということになる。
言葉の最も重要なところは、言わんとすることが他者に的確に伝えられるかどうかだ。他の人があまり使わないような(他者が知らない)言葉を駆使できることに優越感を覚える人もいなくはない気がするが……そういう人を見ると、語彙の豊富さがそのまま表現力の豊かさではないということを感じる。

ボキャブラリーの豊富さと表現力は比例するかのように思われがちな気がするが……ちょっと思うところを記してみたしだい。

ちなみに、冒頭のコント(画像)はアリとマルウンカ幼虫によるもの。


*昆虫は「1匹」or「1頭」?…助数詞について

https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-530.html

■エッセイ・雑記 ~メニュー~
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-130.html

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コメント

No title
専門用語を使わず、初心者に分かり易く伝える事の難しさを「写真用語」で実感してます。平易な言葉で説明する事は、改めて自身の勉強にもなってます(笑)
No title
> skittoさん

専門的な分野の話になると、どうしても便宜的に専門用語を使いがちになるということはあるでしょうね。
でも、専門的な用語をわかりやすく説明できる人は、ちゃんと理解ができている人なんだろうという気もします。

ちょっと違うかも知れませんが……全く知らない人に教えるということでは、昔、邪道で覚えた宙返りなどを他の者に教える時、「運動の理解」がきちんとできていることが大前提だと言うことを実感しました。
No title
こんにちは・・・
・・・考えさせられました(あらゆる面で!)

言葉の説明、専門用語の説明について!
「その言葉の意味は当然知ってるでしょ!?」から始めていいのか?
「その言葉の意味の説明から始めるべきなのか?」

文章の繋がりの中で、自分の言いたいことを如何に上手く他者に伝える事が出来るか?
手持ちの語録からでも、伝えられる事、伝え方の方法をもっともっと考えて行けたらな!と、想い感じました・・・☆
No title
> 今日も、こっそり自然観察!さん

助数詞のことを記したときに、語彙のバリエーションが多いことの意味についても頭にあったのですが……テーマが煩雑になるので、割愛した部分を分けて記してみました。
日本語・それを含む言葉・それを運用する脳みその働き──など、関連して思うことも、まだ色々あるのですが……。

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