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こども心にひっかかった《ひろすけ童話》の【善意】




最近、ふとしたことから『泣いた赤おに』(浜田廣介/ポプラポケット文庫)を借りて読んだ。日本児童文学の草分け的存在である浜田広介(濱田廣介:はまだひろすけ)の童話集で、表題作を含め15編の作品が収録されている。このうち『りゅうの目のなみだ』『泣いた赤おに』『五ひきのヤモリ』は子どもの時分に読んだり聞いたりした記憶がある。実は当時、これらの作品に対して必ずしも共感が持てたわけではない。漠然とした「納得できない感」が残ったものもあれば、印象が薄かったものもある。
今回、長い年月を隔て子どもの頃に接した童話をあらためて読み返してみたわけだが……すっかり忘れていた当時の記憶がよみがえった。そして子供心に漠然と感じていたモヤモヤ(?)の正体が、今になってようやく理解できた気がする。そのあたりのことを記してみたい。

僕の感想の前に、この本の解説(廣介童話の善意とはなにか/西本鶏介)の中に、廣介が自分の作品について語った記述があったので、まずその一部を──。
《わたくしは、自分の作る童話において、いつも善意にもとづいて、その行動がとられることをねらいとした》(『童話文学と人生』昭和44年・集英社)
廣介自身がそう述べているというのだから、《ひろすけ童話》が【善意】をテーマに書かれてきたことは間違いのないところだろう。
それをふまえた上で、作品集『泣いた赤おに』についての僕の感想を記してみたい。

ひろすけ童話の【善意】とは《「悲しさ・寂しさ」からの救済》

収録作品を一読して感じたのは、作者は「悲しい話・寂しい話」が好きな人なのだな……ということ。「好き」というと語弊があるかもしれないが、「悲しさ・寂しさ」に対する反応──共感が特に強い人のように感じられる。おそらくこれは幼年期からずっと持ち続けていた感受性で、これが《ひろすけ童話》の核になっているのだと思う。小さなもの・弱いもの・普段かえりみられることがないようなものを素材にした作品が多いのは、「悲しさ・寂しさ」に執着する傾向と無縁ではないだろう。廣介が(特に子ども時代に)物語にふれたときに「悲しい話・寂しい話」がより強く彼の心をとらえたのではないか。もしかすると幼少期にトラウマの域に達するような「悲しみ」の体験があったのかもしれない。「悲しさ・寂しさ」は深く彼の心に刺さった──それで、彼は「悲しさ・寂しさ」に打ちひしがれた心を救済する話を考える(求める)ようになったのではないか。
《「悲しさ・寂しさ」からの救済》に必要なアイテムとして、廣介は(彼のいうところの)【善意】にたどり着いたのかも知れない。献身的な思いやり・相手をいたわる気持ち──【善意】こそが「悲しさ・寂しさ」を癒す救いになる──そんな思いをもって廣介は童話づくりをしていたのではないか。
浜田廣介という作家の人物像について僕は知識を持ち合わせていないが、今回読んだ作品群から、そんな印象を受けた。
収録作品には個別に色々感想もあるが……とりあえず今回は僕自身が子どもの頃に接していた3作品について記してみたいと思う。

印象が薄かったのにフラストレーションが残った『りゅうの目のなみだ』




『りゅうの目のなみだ』は、僕が子どものころ絵本のようなものが家にあったのだと思う。添えられていた挿絵は漠然と覚えているのだが、どんな話だったのか……内容(ストーリー)については印象が薄く思い出せないでいた。ただ、この作品に対して漠然としたフラストレーションを感じていたのは覚えている。
今回、『りゅうの目のなみだ』を読み返してみて、いちいち「そうそう、こういう話だった!」と当時の記憶が鮮明に蘇った。

まず、どうして内容について印象が薄かったのか──についてだが、この作品の興味の中心がどこにあるのか──つまり面白さがどこにあるのか、子どもだった僕にはよくわからなかった──ということにつきる。作者の廣介にしてみれば【善意】という明確なテーマがあったのだろうが、子どもの読者は「おもしろさ」を追ってストーリーを読む。この作品については「いったい、どこがおもしろいのだろう?」という感じだった。つかみどころのない話だったためにストーリーは記憶に残らず、合点の行かない気持ちだけが残った……ということなのだろう。

『りゅうの目のなみだ』の概要はこうだ──。
《舞台はどこか「南のほう」にある国。そこにはおそろしい龍がいて、人々はみな龍をひどく恐れている。そこに風変わりな心やさしい子が現れる。その子は、皆から恐れられている龍をかわいそうだと言い、友達になりたいと考える。そして誕生日が近づいたある日、龍を招待するために龍に会いに行く。
それまで人から嫌われ続けてきた龍は、独りで自分を訪ねてきた人間の子に驚き戸惑うが、この無垢な子どもの優しい言葉に感動し涙を流す。
龍は長いあいだ人間から忌み嫌われ続けてきたことでひねくれ、人を恨むようになっていた──しかし訪ねてきた子の思いやり触れ、あらためようと決意する。
龍の目からあふれる感動の涙は川になり、龍はその子が溺れないように背中に乗せて川を渡る。そして──、
「わたしは、このまま船になろう。そうして、やさしい子どもたちを、たくさんたくさんのせてやろう。あたらしい、よい世のなかにしてやろう」そう言って、龍は船に姿を変える。
「風変わりな子」としてその子を異端視していた村人たちだったが、その子が立派な船に乗って帰ってくる姿を見て感嘆する──という結末》

まず、舞台がよくわからない(イメージが描けない)。龍を恐れている人々のことが綴られていくが、うわさの羅列で肝心の龍はなかなか登場しない──冒頭から退屈な展開につき合わされる感があった。村人たちの「賢者が現れて龍を退治してくれまいか」というようなうわさ話も実感がなく共感はできない。期待の龍が登場しないまま、主人公と思われる《龍を恐れない子ども》が登場する。「すると、この子が《龍退治の賢者》になる話なのか?」と期待すると、そうでもない。その後の展開で、何の葛藤もなく《子ども》はあっさり龍と友達(?)になり、どうやらそれで「めでたし、めでたし」ということらしい……。「そりゃ、ないだろう」「いったいどこがおもしろいのか」というのが、子どもの頃の僕が感じた不完全燃焼感・フラストレーションだった。子ども心にそう感じたのも無理からぬことだと思う。

作者が「思いやり(善意)の大切さ」を説いていることは漠然と感じていた。しかし、話はちっとも面白くない。『りゅうの目のなみだ』という興味をそそるタイトル──恐ろしいイメージのある龍と涙という意外な組み合わせに、どんな面白い話が展開されるのかと期待をさせておきながら、内容は「これかよ」というもの……。おいしそうなパッケージに包まれていたお菓子──と思って口にしたら、まずい薬だった……みたいな、なんだか「ズルイ」という印象もないではなかった。

僕が子どもの時に感じたモヤモヤ感を今、代弁するとすれば──、
「主人公の子が、友達になりたいと願い訪ねて行ったのは【(生きた)龍】であって、【船】なんかではない。わざわざでかけ、ようやく本物の龍に出会えたというのに、その龍が目の前で船になってしまったら、この子は決して喜ばない」──ということだ。
なのに物語では龍が船になって「めでたしめでたし」のような扱いになっている。これは作者の都合であって、主人公に感情移入して読みすすんできた者(読者)としては納得できない。船なんぞは人が作れるものであって、人智の及ばぬ存在であるべき伝説の龍がそんな人の道具と化してしまうなんてガッカリだ。いったい龍に会いにきた子の気持ちや龍のアイデンティティはどうなっているのか。

作者は《【善意】を描く》という崇高な理念に心を奪われて、龍という存在の意味や意義・価値にはまるで頓着がない。わざわざ龍に会いにきた子(に感情移入する読者)の気持ちだって置き去りにしている──廣介にとって作中のキャラクターは、【善意】を語るための単なる駒・道具にすぎなかったのだろう。【龍】というポテンシャルの高い素材も、この作品では「人から恐れられているもの」という【記号】にすぎず、主人公の子も「優しく・思いやりのある子」という【記号】でしかない。彼らに対する「ないがしろ感」「軽んじられている感」が、子ども心に不満だったのだと思う。
読者には【善意(思いやる心)】を説きながら、作者は作中のキャラクターたちに充分な思いやりを注いでいない──言っている事とやっている事が違うんじゃないか?──というような、なんだかちょっと「ずるい」感じがないでもなかった。
もちろん、子どもの頃にこのように明確に考えたわけではないが、当時の読後の漠然としたフラストレーションの理由は、こうしたところにあったように思う。

今回読み返して新たに感じた事をいえば──、
このストーリーで「龍が船になる」という結末の物語にするのであれば、主人公の子が暮らす村に何らかの懸案を早い段階で提起しておき、その懸案がラストの「船」の出現によって解決する──という形になるよう伏線として用意しておくべきだったのではなかったか……ということ。そうすれば、龍が船に変わった「意味(価値)」がしっかり印象づけられたのではないかと思う。
作者がもう少し読者のこと──読者がどう読むか・読者の意識をどう誘導するかに気を配っていれば(思いやりがあれば)、また違ったものになったのではないか……という気がしないでもない。

納得できなかった『泣いた赤おに』の【善意】

『りゅうの目のなみだ』が内容を覚えていなかったのに対し、『泣いた赤おに』に関してはその内容をきちんと覚えていた。それだけ「わかりやすいストーリー」だったのだろう。しかし……ストーリーはわかりやすかったものの……この作品にも子どもの時分に漠然とした「納得できない感」のようなものを感じていた記憶がある。

『泣いた赤おに』のあらすじはこうだ──、
《主人公は心の優しい赤鬼。赤鬼は人間と友達になりたいと考え、お茶やお菓子を用意して人間を招こうとするがうまくいかない。赤鬼の気持ちを知った友人の青鬼は、赤鬼の願いを叶えるために策を考える。青鬼が(人の)村を襲撃し、頃合いをみはからって赤鬼が現れて青鬼を撃退する──村人を守る芝居をすれば、人間たちも赤鬼のことを良く思うようになるだろうというもの。作戦は実行されるが、その最中に青鬼は思わぬ怪我を負ってしまう。青鬼のおかげで赤鬼は人間と親しくなることができるが、悪役をひきうけた青鬼はそのまま赤鬼の前から姿を消す──という話》

赤鬼のために悪役を引き受けた青鬼の友情・自己犠牲の精神・思いやり・優しさ──こうした【善意】を描くことを意図した作品だったのだろう。
しかし、この作品についても子ども時分に読んで何か「腑に落ちない感」を覚えていた。
子ども心にひっかかっていた部分は、大人になって読み返してみると明白だ。

《仲良くなりたい相手(村の人)をだまして親しくなろうと図ることに良心は痛まないのか?》ということだ。本当に仲良くなるために大事なのは地道に信頼関係を築くことだろう。親しくなりたい相手をだまして接近しようなどというくわだては、本来構築すべき信頼関係をハナから否定する不誠実な行為だ。

たとえば僕に好きな女性ができたとする。親しくなりたいがなかなかうまくいかない……そんなときに《男友達を使って女性を襲う芝居をさせ、偶然通りかかったフリをして彼女を救出し、偽の信頼を得ようとする》──そんな詐欺師のようなことができるだろうか? 赤鬼たちがとった行動はこれと同じことだ。親しくなりたい相手を本当に大事に思い尊重する気持ちがあったなら、そんな卑劣なことは出来ないはずだ。相手をだましてでも仲良くなりたいというのは、ただの身勝手・エゴにすぎない。いってみれば、それはストーカーのエゴと同じであって、(相手を思いやり尊重する)愛ではない。
「騙された」村人たちだって真相を知ったら傷つき嫌な気分になるだろう。嘘の上に成り立つ友愛に疑問はないのだろうか? バレなきゃ何をやっても良いということにはならない。
これはハッキリいって【善意】に反する行いだ。
《わたくしは、自分の作る童話において、いつも善意にもとづいて、その行動がとられることをねらいとした》と述べた廣介の立派な理念はいかほどのものだったのか?──ということになる。

これがもし【善意】をテーマとする作品でなければ、《ずるい作戦》も「嘘も方便」あるいは「とんち」的な機転としてあまり問題にならないような書き方もできたのかもしれない。しかし【善意】をテーゼとする《ひろすけ童話》においては、どうしても看過できない。

廣介が提唱する【善意】にそってこのスートーリーを考えるなら──、
最初に「お茶やお菓子」で人と仲良くなろうとして失敗したとき、《本当の信頼関係を結ぶために大事なことは何か?》《本当の友情とは何か?》というテーマを考え、「手っとり早く、モノでつって仲良くなろうという考えが間違っていた」と気づき反省するのが、あるべき展開だったのではないだろうか。《青鬼の思いやりや献身的な友情》を描きたかったのはわかる。しかし、自分のいいたい事にだけ気をとられ視野狭窄におちいり作中の行為の不誠実さに気がつかなかったのはうかつだとしか言いようがない。【善意】を説く作品の中では致命的なミス(破綻)だと僕は思う。

これは例えてみれば、「毛皮のためにキツネを殺すな!──と訴えている人が豪華なキツネのファーコートを着ていた」とか「自然保護をうったえるイベントの会場が自然林を伐採して作られていた」みたいなものだ。主張主の信頼性が疑われる。

『泣いた赤おに』が【善意】を説いているらしいことは子供心にも感じていたが、それだけに(?)この話にはすんなり受け入れがたいものがある……当時漠然と感じていた「納得できない感」はこのあたりに由来するものだったろう。

まぶたを閉じる『五ひきのヤモリ』

実は今回《ひろすけ童話》を読み返すきっかけとなったのは『五ひきのヤモリ』だった。
少し前にある方のブログで、ヤモリに関した次のような記事(要約)があった。

《戦前。静岡県のある家で改修工事が行なわれ、壁板を剥がしたところ、1匹のメスのヤモリが背中を釘でうちつけられているのが生きたまま見つかった。前年の新築工事のさいに運悪く壁板と一緒に打ち付けられてしまったものらしい。1年間どうやって生きていられたのかというと──オスのヤモリがエサを運んでいたことがわかり、ヤモリの夫婦愛が感動を呼んで新聞記事になったり、記録映画として全国の学校で教育用に巡回放映されたらしい》

このブロガーさんは実際にあったエピソードとして認識していたようだが……似た話を僕は子どもの頃に聞いたことがある。浜田廣介の童話『五ひきのヤモリ』がそれだ。問題のブログと『五ひきのヤモリ』とは違っている部分もあるが(童話では、釘に打たれたのはオスのヤモリで、発見されるまでに要した期間は10年)、この童話が実話と誤認されて記されていた可能性が高い。
そう考えて、久しぶりに『五ひきのヤモリ』を読み返して確かめてみようという気になったわけである。調べてみると、『五ひきのヤモリ』が書かれたのは昭和3年だが、この童話には下敷きがあったらしい。江戸時代に出版された諸国見聞録『煙霞綺談』という本中からヒントを得て書いたと廣介自身が述べているという。

『煙霞綺談』について調べてみると、安永2年(西暦1773年)に西村白烏(にしむらはくう)が発表した本らしい。「綺談」は巧みに作られた、おもしろい話のことだから、「世にも奇妙な話」のようなニュアンスのものだったのだろう。
『煙霞綺談』のヤモリのエピソードを要約すると──、

《宝暦12年(1762年)の春、遠江金谷(現在の静岡県榛原郡金谷町)の民家の雨よけ板を25年ぶりに取り替えることになり、古い板を外してみると釘に刺し通されたヤモリが生きたままみつかり、人々を驚かせる。その状態でどうやって25年間も生きながらえてこられたのか!?──調べてみると板に通った痕跡がみつかり、つがいのヤモリがエサを運んでいたらしかった》

という話になっている。つまりオリジナルでは、《釘に体を刺し貫かれて動きがとれない状態で25年も生きていたヤモリが見つかった》という世にも奇妙な出来事がメインに描かれ、その謎解きとして《つがいのヤモリがエサを運んでいたらしい》という意外な結末でまとめている。推理小説風に言えば、一見不可能に思われるミステリーが提示され、最後に謎解きがある──といった形だ。

一方、廣介の『五ひきのヤモリ』では、釘に打たれる直前からヤモリの視点で描かれており、『煙霞綺談』とは趣きがだいぶ異なっている。推理小説でいうなら犯人や犯行が冒頭で明かされる倒叙推理(刑事コロンボ方式)といったスタイルだ。
おそらく廣介は『煙霞綺談』のエピソードを読んで、《ミステリー》や《謎解き》的な面白さよりも、「誰も知らぬところで、ひっそりと暮らしていたヤモリ夫婦に突然おとずれた悲劇」という「設定」に興味を感じたのだと思う。
廣介が好む、小さく弱いものの「悲しい話・寂しい話」として捉えたのだろう。

『五ひきのヤモリ』の概要は──、
《ある家のあらかべと板の間に夫婦のヤモリが住んでいた。2匹にとっては「このうえなもないたのしい世界」だったのだが──ある日、この家の住人(人間)がずれていた羽目板を直すために打った釘に、オスのヤモリは体をつらぬかれてしまう。命はとりとめたものの、動くことができなくなったオスにメスはエサを運び、献身的に支える。やがてメスは3つの卵を産み、そこから3匹の子どもが孵る。子ヤモリたちが大きくなると、そのうち2匹の兄弟は父ヤモリを自由にする方法を探して旅に出る。2匹は10年後疲れ果てて帰ってくるが、探していた「方法」はみつからなかった。ただ、旅に出て5年目に出会ったガマが「5年待てば自由になれる」と占っていた。兄弟ヤモリたちが帰ったのが、予言されていた年だった。10年間なにも変化がなく、ガマの予言もにわかに信じがたい状況の中で……突然、ヤモリを貫いていた釘ごと羽目板が外される。家の住人が痛んだ羽目板を交換するために剥がしたのだった。その住人は釘に貫かれて生きているヤモリと逃げずにそばにいる4匹のヤモリに気がつき、何があったのか──ヤモリの家族愛を察知。大声で(人間の)家族を呼び集めるというところで物語は終わっている》

『五ひきのヤモリ』は今回再読した作品の中で一番おもしろかった。突然の悲劇で自由を奪われたヤモリがどうなるのか──興味の焦点がハッキリしている。ヤモリには解決できそうにないような問題が、いったいどんな決着をみせるのかという期待も高まる。「ガマの謎めいた予言」のアイディアも面白いし、その予言通りに解決する意外性と必然性をかねた結末もよくできていると感じた。

ただ、僕が子どもの頃この作品に接した時には、そのおもしろさが理解できなかったのか、ストーリーはほとんど覚えていなかった。
子ども心に残っていたのは、「ひどく残酷な話」というイメージだった。「釘に貫かれて自由を奪われて生き続けるヤモリ」があわれで痛々しく、絶望的に思われて、その印象ばかりが強い。当然、「このヤモリはどうなるのか?」と気にして展開を追っていただろうと思うのだが、『五ひきのヤモリ』ではヤモリが釘から自由になるシーンは描かれていない。羽目板をはずした人間に発見されるシーンで終わっているため、おそらく「このヤモリはどうなるのか?」という疑問が解決されないまま終わってしまった──と認識してしまったのだろうと思う。大人が読めば「ガマの予言」どおりの年にそれまでなかったことが起こったのだから、当然「予言通り」にヤモリは自由になれたのだろうと想像することができるが、幼年読者には「ヤモリが助かるシーン」までしっかり確認できるように描かれていないと、きちんと納得・安心できないかもしれない。

『煙霞綺談』のエピソードをヒントに、廣介はヤモリを擬人化して、夫婦愛・家族愛の【善意】を描いたわけだが……廣介がこのエピソードで関心を示したのは、あくまでも《小さく弱いものに突然ふってわいた悲劇》という「設定」であって、実在する(モデルの)「ヤモリ」ではなかった──ヤモリを主人公にした話であるのに、ヤモリについてあまり頓着していないことは作品からうかがえる。
『五ひきのヤモリ』の中には、《》で囲った次のような記述が出てくる。

《だれでも知っているように、ヤモリは、外のあかるい光をおそれます》

ヤモリは夜行性だが、別に光を嫌うわけではない。春や秋などには日中日光浴する姿もよく見られる。

《おすのヤモリは、まぶたがおもくなってきました》
《ねむるにしても、ヤモリでしたから、四つのあしの五本の指を、そのまま板につかまらせ、まぶたを、そっと、とじさえすれば、それでよいのでありました》

ヤモリの仲間は可動式のまぶたを持っていない。したがって「目を閉じる」ことはできない。例外的にペットとして飼われる外国産のヒョウモントカゲモドキなどのトカゲモドキ科はヤモリの仲間であるにもかかわらずトカゲのような可動式のまぶたを持っているが、『五ひきのヤモリ』の舞台はおそらく日本だろうと思われ、登場するヤモリたちはニホンヤモリだろう。まぶたを開閉することはできない。





《めすのヤモリは、たまごを三つ産みました》

ヤモリが1回に産む卵の数は2つ。『五ひきのヤモリ』ではなぜ「3つ」としたのかよくわからない。読み進んでも「3つ」にした必然性は見いだせず(物語上、2つでもかまわなかった)、廣介が単に知らなかっただけ……という気がしないでもない。

つまり廣介はこの作品のモデルであるヤモリについて、ちゃんと観察したこともなければ書く前に調べる事もしていなかった──ということだろう。
作中のヤモリはしっかり擬人化されているが、実際のヤモリについては関心がなかった……「ヤモリ」もまた廣介の【善意】を描くための道具──「小さく弱い存在」という【記号】に過ぎなかったということなのだろう。






今回、何十年かぶりに《ひろすけ童話》を読み返してみたわけだが、あらためて感じたことは、廣介のいう【善意】とは、ものごと謙虚に見つめ「人はどうどうあるべきか」を考えるという前向きなものではなく、もっと個人的な感傷にひたって描かれた内向きなものだったのではないか……ということだ。
廣介にとっては、彼の内面に抱えた「悲しさ・寂しさ」を投影した世界が《ひろすけ童話》であり、その「悲しさ・寂しさ」を癒してくれるものが(彼のいう)【善意】だったのではないか?
子ども心に漠然と感じ、ひっかかっていた事などを、今ふり返ってみての個人的雑感である。


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コメント

No title
こんばんは。
・・・秋の夜長に、この記事を愉しく、興味深く読ませて頂きました・・・
私は、幼少の頃から読書を好んでするタイプでもなく(むしろ、めんどくさくて嫌いで敬遠する)タイプでしたので・・・
上の三作品に関して、全く記憶がない愚か者でございます。
(強いて言うなら、「泣いた赤おに」の題名を覚えてる程度です)
ですので、星谷さんの「本読みの深さ」に!「虫に対する深い観察力・洞察力・考察力」と同じものを感じて、感動致しました。

私は、「りゅうの目のなみだ」では主人公が自発的に龍の気持ちを(思いやり)行う行動、龍が、頼まれたわけでもないのに(自分が船に成ってあげたら皆が助かり喜ぶであろう」と思ったのでは?と言う龍の(気持ち)
「泣いた赤おに」では、青鬼が赤鬼の気持ちを(想い)、作戦を練る(気持ち)・・・
それら(思いやり)(気持ち)(想い)を「善意?」と表すべきかどうかはさておき!・・・温かいものを感じ、心がほっこりしてるところです・・・☆
No title
《ひろすけ童話》は有名ですしファンも多いですね。
こっそりさんのような感じ方をする人が多いのではないかと思います。
それは廣介が意図したところでもあったはずです。

作者の意図したところをきちんと読み取る──というのが正しい読み方・読解力であるなら、「温かいものを感じ、心がほっこり」するのが正解で、僕の読み方は「×」あるいは「△」ということになるのでしょう。

「国語」の読解力評価(?)から外れた感想だという事は自覚したうえで、こんな感じ方をした子どももいた──ということを記してみたしだいです。
No title
ひろすけ童話って、独自の世界観ですね。
ずっと昔から語り継がれてきた、伝説や昔話などは
どうしてこういう展開になるの?というものが多いですが
創作でも、じっくり読むとツッコミどころが満載だったりするのですね。
星谷さんのツッコミに、うんうんとうなずいてしまいます。
泣いた赤おには、最後のシーンで、赤鬼にもらい泣きするかんじで
悲しくなったのを覚えています。
でも、そういう悲しい結末にするのかどうかは作者のさじ加減ひとつなので
そういう結末にする作者が一番残酷なのでは… みたいな気持ちがありました(^ ^;
No title
ご訪問ありがとうございました。
長い記事、大変楽しんで読ませていただきました。
有名な作品はピンとこなかった…変な子供なので自分も少し似てるかもしれません。現在、図書館でもひろすけ童話はあまり扱いが無いようです。
我が家にある、ひろすけ童話を再読してみようと思いました
No title
>>noriさん

《ひろすけ童話》──独特の味わいがありますね。叙情的で優しさを感じさせる内容・表現なので、素直な読者は廣介の意図した部分をそのまま受け止めるのでしょうが……この作者が構築した作品世界をそのまま受け入れて良いものか……という感じを今回読み直して受けました。子どもの頃に読んだときの漠然とした違和感・抵抗感は、これだったんだなぁ……と改めて自覚できました。

「そういう結末にする作者が一番残酷なのでは…」という感覚はよく解ります。
廣介はたぶん自分の内にトラウマのように(?)抱えた「悲しさ・寂しさ」を童話という形にして追体験(再体験)することで、それと対峙し乗り越え、納得・安心を得たくて、あえて残酷な話を書いたのではないかという気もします。
心に不安を抱えた子どもが、(不安を投影しうる)オバケや妖怪なのどコワイ話を好むのと同じ構図ですね(たぶん)。
No title
>>sirowanさん

《ひろすけ童話》は有名ですし、ファンも多いと思いますが、「ピンとこない」と感じていた読者も少なからずいたのではないかと思います。
「子どもが望む物語」というよりは、「大人が子どもに読ませたい童話」という部分で支持が高かったのではないか……という気もします。

僕も今回、読み返してみようと近くの図書館に行ったところ、なんと廣介の作品集は置いてありませんでした。司書さんに調べてもらったら隣町の図書館にならあるというので、隣町まで行って借りてきたしだいです。

流行り廃りのありそうなライトノベルが書棚を占めて、《ひろすけ童話》が無いというのも、図書館としてはどうなんだろうか……と、そんなことも感じました。
No title
僕が、幼少の頃わが家にも「泣いた赤鬼」の絵本がありました。しかし幼少の僕からしても、この物語はだらだらと長く退屈な印象を受けました。浜田広介氏の作品ならば丁度同じ絵本にオマケ的に併録されていた「みみずくとおつきさま」の方が小品ながらも強いインパクトを受けました。
満月の下、仔モグラたちの和やかな学校ごっこの場面が一転、荒くれたイタチの登場で緊迫した暴力シーンとなり、そのイタチが颯爽と登場した正義感溢れるミミズクに成敗され大団円という変化に富み、かつ無駄のないストーリー展開。(おそらくクレパスで描いたと思われる)温かみのある挿し絵~美しい満月やモグラと言うよりむしろ、ペンギンの様な仔モグラたちのかわいさ~も相まって今でも出来れば同じ絵本でまた読んでみたいと思える佳作だと思います。
またここに登場する仔モグラをいたぶりながらもらミミズクにはいとも呆気なく成敗されたイタチは、弱いヤツほど自分より弱いヤツを苦しめるが、自分より強い者には為す術を知らないと言う事を如実に表現しており、秀逸な描写であると思います。
No title
> 柿太郎さん

浜田広介の童話は子ども感覚で描かれたというよりは大人の感傷で(こどもに読ませたい・こうあってほしいという大人の目線で)描かれた作品という気がします。
『みみずくとおつきさま』は記憶にないのですが……ひろすけ童話なら、ありそうですね。僕は好きになれそうにありませんが。
自然から学ぶことは多いです。その自然を素材にしながら、広介が食物連鎖の意味の深さを捉えることができず、それを暴力・善悪として捉えている時点で共感が持てそうにありません。自然が構築したシステム(自然のありよう)は広介の善意よりも深い。本当に善意がある人ならイタチを悪者として描くことに疑問はなかったのか……という気もします。内容ではなくこうしたキャスティングを安易に持ち込める感覚に洞察の甘さを感じます。こうした童話は少なくない気もしますが、これに反発する気持ちもあって、こんな作品を描いたこともありました↓。
『チョウのみた夢~善意の報酬~』
http://blogs.yahoo.co.jp/ho4ta214/20482452.html
No title
〉星谷さん
そう言われてみれば、星谷さんのおっしゃる通りかもしれませんね。事実、僕も幼少の頃はイタチより仔モグラの方がお利口さんぶっている様で好きになれませんでした。前のコメントの様な事が言えるのも、やはり大人になった今だからこそなのでしょうか?
何か矛盾した事を言ってしまってすいません…。
No title
> 柿太郎さん

ひろすけ童話を広介の意図した通りに読み取った読者もきっと多かったことと思います(ひろすけ童話は教材としても使われていますし)。

ただ、広介が作品を描くために登場させた鬼・龍・動物などは皆、広介の感傷を描くための「単なる記号」でしかなく、素材そのものをちゃんと見ようはとしていない──その点に僕はフラストレーションを覚えます。
広介が記号化して扱った素材には、広介が描こうとした感傷(彼の言う「善意」)よりも、もっと深いテーマがあったろうに……そう思ってしまうのです。

子どもの頃に読んだ作品を大人になって読み返してみると、また違った感想が持てるかもしれませんね。
No title
>星谷さん
僕は、みみずくとおつきさま」のラストシーンがこの様な物であっても良かったかとも思います。
~ミミズクが駆けつけた時、既に時遅く仔モグラたちはイタチに悉く喰われた後だった…。学校ごっこの場に無残に散らばる仔モグラたちの亡骸を目にしたミミズクは復讐の鬼となり、仔モグラで満腹となり上機嫌で棲みかに帰る途中のイタチを急襲。見事仔モグラたちの仇を討つ~
と言う物です。この方が自然の厳しさとミミズクの仔モグラたちへの思い入れがよりリアルに現れているとも思えますが、やはり童話としてはヘビー過ぎて良くないでしょうか…?
No title
> 柿太郎さん

作品をどう読み、何を感じるかは人それぞれですし、僕は『みみずくとおつきさま』を読んでいないので、作品自体の評価はできませんが……広介が生きものたちを素材にして、自然の摂理(真理)ともいえる食物連鎖(弱肉強食)を否定的ないじめの構図として捉えていることに残念感を覚えます。
イタチは生きるために小動物を捕食します。ミミズクも同様です。広介はイタチをこらしめるために天敵のミミズクを設定したのでしょうが、そういった意味ではミミズクの方が凶暴といえるかもしれません。
柿太郎さんの解釈では、これは復讐劇ということになりますが、生きものたちは生きるために食べているのであり、これを「いじめ」や「復讐」という構図で捉えることに違和感を覚えます。自然の摂理の奥深さを見ずに人の狭い感傷でとらえた構図なのではないか……と感じてしまうのです。
No title
>星谷さん
シビアながらも的確なご返事、ありがとうございます。

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