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わかる気がしないでもない「しゃべらぬ若者」

*話し方マニュアル本大ヒットの陰に「しゃべらぬ若者」の存在
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130623-00000007-pseven-life
を読んで感じたこと。

わかる気がしないでもない「しゃべらぬ若者」

職場で雑談をしない若者が増えているという記事(*)を読んだ。商談中、雑談もせずに沈黙を守っていた部下に青ざめた上司の話や、現場までの移動中、雑談に応じようとしない部下に困惑する上司の愚痴などが紹介されている。
今、ビジネス書として「話し方マニュアル本」が売れているそうで、それにからめての記事だったが、そうした需給とは別に、「しゃべらぬ若者」が増えた──というのは、わかる気がしないでもない。
《話すのが苦手》とか《カッコつけて寡黙を装っている》というわけでもないだろう。

《人が一緒にいればコミュニケーションをとるのが自然》と考える人にとっては《人といるのにコミュニケーションがとれない(とらない)》という状況は、不自然でぎこちない《好ましくない状況》なのだろう。同席者間に流れる沈黙を堪え難いものと感じる【感覚】が《顔を突き合わせているのにしゃべらぬ》ことに平気でいられる若者──“新人類”に対する驚き・あきれ・苛立ちにつながるのだろう。

こうした“新人類”が増えているのだとすると、背景には携帯電話やスマートフォンの普及があるのではないかと僕は考えている。
携帯電話の普及によって《「人と会っているのに、その場にいない人と平気で話す」人》が増えた。つまり、《その場にいる人とのコミュニケーションを断絶することが平気な人》が増えた──あるいはそうしたスタイルが常習化することで《その場にいる人とのコミュニケーション断絶》に感覚が馴らされ鈍感になっていった部分もあるだろう。

小さな子供と散歩中の母親や、犬を散歩させている飼い主さんが、子供や犬の前で《その場にいない人と話す(コミュニケーションをとる)》という姿をあちこちで見かけるようになった頃から、僕にはこの行為が、子供や犬の性格やコミュニケーション形成に悪影響を及ぼすのではないか……という漠然とした危惧を抱き続けてきた。

物心つく前の幼児や犬は、親や飼い主の意識を自分に向けておきたい──それを確認することによって信頼感や安心感を獲得していくのだと思う。
理屈ではなく感覚として親や飼い主との【つながり(コミュニケーション)】を実感している彼らにとって《自分が意識を向けているのに(相手にも向けてほしいのに)、相手が自分以外のところへ注意を向けている》のはすぐ感じ取れるはずだ。

ある程度分別できる年頃ならば、理屈で「(親が)他の人と話す」状況・必要性を理解・納得できるだろうが、幼児や犬など【感覚】としてコミュニケーションをとらえている者には《心のキャッチボール》がしばしば中断することは、不安や不満につながりやすいのではないか。
これは、雑談ができない(顔を突き合わせているのにしゃべらぬ)“新人類”に対して上司が感じる不満や苛立ちと同じ次元のものと言えるのではないかと思う。
こうした状況が常態化した環境で育てば「不満や苛立ち」に対する耐性が生まれ、《その場にいる人とのコミュニケーション断絶》を苦痛と思わない──それが当たり前という【感覚】が育っても不思議は無いだろう。そういう【感覚】の人にとっては《場をつなぐ》ための雑談など必要のないものだ。

昔だったら、人と会っているときに、目の前にいる人を無視してその場にいない人と話をするのは《その場の人に失礼》という【感覚】があったのではないかと思う。
そう考えてあらためてふり返ってみると……僕らの世代にも似たような状況・世代間ギャップがあったのではないか……と思いあたることがあった。テレビの普及による一家団欒の浸食である。
テレビが普及した頃、子供がテレビに夢中になることで、その場にいる家族間でのコミュニケーションが希薄になるという現象はあったのではないか。
当時は《夕食時にはテレビをつけない(見てはいけない)》というルールを強いていた家庭も少なくなかったように思う。これは《一家団欒が浸食されること(食卓にそろった家族を無視して他に注意を向けること/同席者間のコミュニケーションが断絶すること)を良しとしない》という感覚がスタンダードだったからだろう。

それがテレビを見るのがあたりまえとなり、今ではむしろ《(テレビを見ていれば)家族の間の会話の断絶に気を使わずにすむ》という理由で、コミュニケーション不全をカバーするためにテレビを利用している家庭もあるのではないか……という気さえする。
であるなら、《同席者間のコミュニケーション》の崩壊はテレビの普及の頃から始まっていたのかもしれない。

テレビの場合は、その場にいる者が同じ画面を見ることができるため、むしろ話題を共有できるという側面もあったかもしれない。しかし携帯電話の場合は基本的には個人通信だから、同席者とのコミュニケーション断絶度はテレビよりも格段に大きい。

携帯電話の普及で《その場にいる人とのコミュニケーション断絶度》は進み、そうした状況に不安や危機感を覚えない【感覚】が培われたことが、「しゃべらぬ若者」が増えた理由の一つではないかと僕は考える。

さらに言えば、その場にいる人と《無理矢理その場しのぎの雑談をしなきゃならないこと》をむしろ苦痛に感じる人もいるのではないか。
こうした【感覚】の持ち主なら、「自分が嫌なことは、相手だって嫌だろう」と考え《無駄な雑談はしないほうが(先方も)ラクなはず》──という配慮から黙っていることだって考えられる。

同席しながらしゃべらないことに違和感や苦痛を感じ《しゃべらぬ若者》を《非常識》ととらえるのは元来の(?)【感覚】であって、今後“新人類”【感覚】が増え続けて行けば、《しゃべらぬ若者》に対する不満や苛立ちと同じように《雑談がウザイ上司》などと語られることも増えてくるかもしれない。

※2013年7月2日加筆

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コメント

No title
今までも短縮系の言葉おおいですが
最近は行きつくとこまでいって
短縮できないくらいの言葉多いですね~~
それも短縮するのか??って
コミュニケーション能力皆無なわかもの。
No title
言葉や文章を単純化する一方、ギャル文字のように入力にわざわざ手間のかかる(読むのにも手間がかかる?)コトをして……自分たちのローカルな記号化を好む傾向があるのかもしれませんね。
ローカルなコミュニケーションに傾く事で、一般的なコミュニケーションとのギャップを生んでいるような気がしないでもありません。

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