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スポーツ指導

キャッチボールの会話から

先日の日記【逆上がり】の時と同様に、以前やはり虫見をしているときのこと。キャッチボールをしている親子の会話が耳に入ってきた。
「どうしてボールから目をそらすんだ!」と叱責する父親らしき声。どうやら子供がまだ未熟なようで、うまくキャッチできないらしい。

少年野球などで大人(監督orコーチ?)が子供(選手)を叱責する場面は時々みかけるが、運動技術についてのミスやできないことを叱責するのは適切な指導なのだろうか。

スポーツの場合、気を抜くとケガにつながることもあるから、そういった部分での引き締めが必要な部分はあるだろう。しかし、生徒(選手)の技術的なミスを叱責するというのはどうかと思う。
プロの選手であれば、失敗すれば、観客からヤジや叱責がとぶのはしかたがない……だが、練習途上にある選手のミスを指導者がとがめるというのは、ちょっと違う気がする。

このところ高校の強豪バスケット部の生徒が顧問からの体罰を受けて自殺したという報道が続いている。練習試合でミスをした生徒の顔面を顧問が平手で叩いていたという。顧問は「強いチームにするためには体罰は必要」と考えていたらしい。
あらためて「体罰」が問題になっているが……「体罰」以前に──暴力を伴うか否かとは別に、ミスを「叱責」で指導するということ自体、僕には感覚が理解できない。
「叱る」のは「悪いこと」をしたときであって、指導者が練習や試合の中でのミスを当然のように叱責することには違和感を覚える。彼らにとって「ミス」は「悪いこと」なのだろうか? ましてや体罰の対象になるという感覚にはとうていついて行けない。

冒頭のキャッチボールの件でいえば、キャッチボールするときには「ボールから目を離さない」というのが基本だから、それができていないことに対して「どうしてボールから目をそらすんだ!」という叱責となったのだろう。しかし、まだ不慣れな子供が「自分に向かって体験した事の無いスピードで飛んでくる物体(ボール)」から思わず顔をそむけてしまうというのは自然な反応ではないのか。
頭では「ボールから目を離してはいけない」とわかっていても、いざ実際にやってみたら、それが(頭の中に描いていたイメージ通り)できなかった……。とすれば、そこには予想していなかった何らかの理由があるはずで、その原因を認識する事からスータトするのが「運動を理解する」ための筋道というものではないだろうか?

「逆上がり」でも、やろうとしているイメージが実現できなかったときには、「できなかった理由」を知り理解することが解決の前提となる。「失敗」したときに(指導者に)必要なのは「理解」の手助けであり「叱責」ではない。

キャッチボールに不慣れな者が「(飛んできたボールに対して)恐怖(危険)を感じて、大事な目や顔を傷つけまいと反射的に逃れようとする」のは「生体の防衛システムとして正常な反応」であることを認識し、それをふまえた上で「キャッチボールは動物としての人間にとって、非日常的な運動」「(最初のうちは)ボールから目をはなさないということ自体が難しい」という「克服課題」があることを意識することが、まず大事なのだと思う。克服すべき課題がわかれば、もっとゆるやかなボールでスピードになれるようにするなど、攻略対策もたてられる。

ボールをキャッチしそこねた子に対して「どうしてボールから目をそらすんだ!」と出来なかったことをとがめるではなく、「最初のうちは、それで当然」と、なぜ出来なかったのか原因を教えるのが適切な指導なのではないかと感じた。

スポーツの技術の習得は、思い描いた運動のイメージと実際に行ったさいに生じるギャップを「運動の理解」を深めることで埋めていく作業だと僕は解釈している。「失敗」を手掛かりに「できない原因」を考え、イメージを修正して再トライをする──このくり返しで正しい答え(技術の習得)に到達するというのが本来のあるべき形だと僕は考えている。

スポーツの技術の習得や上達は子供(選手)の主体的な「運動の理解」(と努力)によって得られるべきものであって、強権的な指導者の「調教」で叩き込まれるべきものではない。

しかし実際はスポーツ強豪チームの指導者には「調教型」が少なくないらしい。個々の選手の主体性にまかせて試行錯誤につき合うよりも、指導者が持っている勝つためのノウハウを強引にでも叩き込んだ方が短期間で実績につなげやすいからだろう。
指導者は体罰や激しい叱責によって生徒(選手)を服従させ支配下において、管理しやすい状態を構築したうえで「勝つため」に必要な「調教」を行う。
結果を望むのであれば、指導する側のみならず指導される側にもそれに従った方が楽(指導者に服従する事で選手の側で試行錯誤する手間が省ける)という暗黙の了解があるのかもしれない。

確かにそうした熱血指導によって実力を伸ばす選手、成績を上げるチームはあるだろう。しかし、その熱血指導になじめず競技を離れる才能のある選手も決して少なくはないはずだ。
熱血指導は目に見える結果(実績)によって評価されているが、目に見えないところでより多くの才能をつぶしてきた──僕はそう思っている。

熱血指導のもとで実績を残した選手は評価され、次世代の指導者になる公算が強い。そうなれば「自分を強く育てた」実績のある指導方針(強権的な調教)が正当化され受け継がれる可能性が高い。
本来「正しい指導」で実力を伸ばすことができたはずの人材と育成環境は駆逐され、理不尽な強健指導に「根性で耐える」選手が生き残ってその悪循環を引き継いでいく──これがスポーツ界の現状ではないかという気がしないでもない。

そんな事を考えていたとき、この記事を読んだ。

■桑田真澄さん「体罰で技術向上しない」

(読売新聞 - 01月13日 12:23)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130113-00000361-yom-soci

桑田真澄氏自身は体罰を受けていたそうだが──、

>「体罰で技術が向上することはない。絶対に反対だ」と訴えている。

──とのこと。
彼がいつからそう考えるようになったのかは判らないが、選手時代にこうした考えを抱いた者の多くは体罰指導の環境の中で競技を続けようとは思わなかっただろう。
「強いチームにするためには体罰は必要」と考える指導者のもとで、どれだけの才能が失われて行ったか……その損失は、決して少なくないはずだ。
改めてそう感じた。

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