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総括なき多鑑賞

僕は映画も小説もあまり多くは鑑賞していない。
ひとつ作品を鑑賞したあとには、その作品をふり返って「どうだったか?」をじっくり考える。創作をするようになってからは「作品」としての「出来映え」はどうだったのか──どこがどう良くて、ダメなところはなぜダメだったのか。問題があるとすればどこか、どうすれば良かったのか?──等々、あれこれ検証することが増えた。そうしたプロセスを経て自分なりの「総括」をする。「総括」までがセットで一区切りという思いがあるので「作品鑑賞は骨が折れる」という感覚があって、なかなか次から次へと気軽に作品鑑賞ができなかったりする。

作品を観て(読んで)単に「好き・嫌い」を言うだけなら簡単だが、真面目に総括し正しい評価を求めようとすれば、それなりに労力も時間もかかる。観(読み)終えた作品の「総括(評価)」に何日もかかる事もないではない。
しかし「けじめ」をつけずに投げ出したり、次の作品へ進むことは、気持ちが悪くてできない。トイレで大きな用を足した後、尻を拭かずに出て行くような──そんな気がするのである。

自分がそういうタチなので、ましてや映画ファン・小説好きな人たちは皆「しっかり作品を鑑賞しているハズ」と信じていた。だから映画をたくさん観ている人、小説をたくさん読んでいる人たちは作品に対する造詣も、当然深いものだとばかり思い込んでいた。

ところが、そうした人たちと具体的な作品の話をしてみると、まともに作品を語る事ができない「空っぽ」の人が少なからずいたりする。
「あなたが好きだと言う映画に対するあなたの感想・意見は、たったそれだけ?」と驚くことが何度かあった。
作品の周辺情報──スタッフや役者、撮影中のエピソード、作者にまつわる逸話や受賞歴などの知識・雑学はどんどん出てくるものの、肝心の「作品について、あなたはどう感じ、どう評価したのか」という点についてまともな意見がまったく出てこない人もいる。
結局、作品に関するうんちくは他者由来の借りもの情報ばかり。自分の意見はいずこ?──「この人は、ちゃんと作品を観て(読んで)きたのだろうか?」といぶかしく思う事もあったりする。

そうしたことがあって「総括なき多読・多鑑賞をする人が存在する」ことに気がついた。総括なしで(平気で?)いられることが、節操のない多読・多鑑賞を可能にする──ともいえるのかもしれない。
鑑賞した作品の評価もないがしろに次々と読み(観)あさることにどんな意味があるのだろう?
「権威付け(ハク付け)」のため「数をこなす」ことが目的となっているのだろうか?
名作・話題作・受賞作などを数多く鑑賞しているという実績をつくることで、文化・芸術方面の造詣を装っているのではないか?(自身への欺瞞も含めて)
個別の作品について、まともな感想を語ることができないのに、制覇した(?)作品の数ばかりを誇らしげに語る人をみると、そう疑いたくもなってしまう。

そうしたブログや日記を目にすると「鑑賞した作品の数を自慢するより、個別の作品についての自身の思いや評価を語るべきではないのか?」と、つい思ってしまう。
それを記したのが──、


●作品批評で評価されるもの
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-220.html

だったのだが、これについて次のようなコメントをいただいた。

> 「感想文」は好きにやればいい・・くらいの扱いでいいんじゃないですか。
> 評論はしょせん好きか、嫌いか・・・というものです。

先の記事でもことわっているが、《もちろん、個人が鑑賞した作品を自分の好みで評価することは悪いことではない。それは自然なことで、それ自体を否定するつもりはない》──これをふまえた上で、公の場(web上)で作品を批評しているファンに対して──、
《ブログなどで作品を論じるのであれば、それなりにブログ主の見識のようなものを示してほしい──と閲覧者が望むのも無理からぬことだと思う》と記しているのだ。

「評論はしょせん好きか、嫌いか・・・というものです」というコメントについては受け入れがたいものがある。
作品は読み手の「好きか嫌いか」(人によって異なる主観的基準)で測るしかないのだろうか?
そんなことはない。作品としての出来・不出来(完成度)をあるていど客観的に測ることは可能であり、そうした判断基準こそが評論では物差しとなるべきだと思う。

映画にしろ小説にしろ、作品は構造物だ──僕はそう考えている。
テーマ・人物・エピソード・場面・ストーリーなど、作品の構成要素が互いに効率的に機能するように無理なく無駄なく配置・構築されているか──構造物として「理にかなったつくり」になっているか否かをみて作品の善し悪しは判断されるべきである。この評価基準は個人的な好みとは別の次元の物差しである。

論文には【査読】というシステムがある。学術論文誌・専門誌に投稿された原稿は、著者とは別の同分野の専門家が事前にチェックする過程があり、その評価内容によって掲載の可否が決定されるわけだ。
「小説の評価」というのは「論文の査読」にあたるのではないか──ちょっと比喩的な例えかもしれないが、そんな気がしないでもない。
論文とは無縁の僕は査読をしたこともされたこともないが、査読による評価というものは「なんとなく良い」「なんとなく嫌い」といった気分や好き嫌いで決めてよいものではないだろう。
論旨が明確か、論脈がしっかりしているか、わかりにくかったり不明な点はないか、矛盾は無いか、不足はないか──論文のテーマや着眼の面白さとは別に「論文としての体を成しているかどうか」が問われるはずだ。
査読者の好みとは別のところで評価される。

小説や映画も同じである。
テーマやアイディアが面白いからといって、あるいは出演している俳優が好きだからといって、だからその作品がよくできている事にはならない。
芸術作品も「作品としての体を成しているかどうか」が客観的に判断・評価されるべきだ。

小説や映画の評価を《しょせん、好きか・嫌いか》──この基準で測れば良いというのであれば、作品の優劣や賞などを決めるさいに選考委員など置かずに、対象層の読者・視聴者に候補作を読ませ(観せ)、好き嫌いの投票をさせて、サンプリングで決めればいい。

しかし、そうした「好みの集計」をもとに作品の評価・優劣を決めていくようなことをくり返して行けば、制作される作品の面白さは「最大公約数」的な方向に誘導され、作品の質は徐々に低下して行くことになるだろう。
視聴率を追い続けることで番組の質を低下させてきたテレビの世界と同じようなことになりかねない。

たとえば1975年に発表された曲『およげ!たいやきくん』は大ヒットした。Wikipediaによれば《オリコン史上初のシングルチャート初登場1位・11週連続1位となり、現在までにオリコン調べで450万枚以上(オリコンにカウントされない売り上げを含めると、実際は500万枚以上ともいわれる)のレコード・CDを売り上げている。日本におけるシングル盤の売上記録としては未だに破られていない(2012年1月現在)》そうだ。
人気投票ではダントツと言える『およげ!たいやきくん』だが、この曲を支持した人たちに「あなたの一番好きな曲は?」と尋ねれば、おそらく大半の人が別に「もっと好きな曲」のタイトルをあげるのではないかと思う。ただ、そのタイトルは人それぞれだろう。「最も好きな作品」は「そこそこ好きな作品(最大公約数的作品)」ほど収斂しない。
「好き・嫌い=好みの投票」を基準にすれば、多くの人にとっての「マイベスト作品」は「そこそこ好きな作品」より低ランクに位置づけられてしまう。これでは本当に面白い(良い)作品が正当な評価を受けることができない。

作品づくりにおいては、より面白いものをより高い完成度で作ろうとする姿勢・気概が大切で、最初から最大公約数を目指すような姿勢は不適切だと思う(作品の質の低下につながる)。
最近の映画は映像技術は素晴らしいが、ドラマの質は落ちてきている感じがしないでもない──それは製作資金を出す側が、客の何割かが「素晴らしい」と絶賛する作品より、大部分が「まあまあ(観るに値するレベル)」と感じる最大公約数的作品を求めがち(作品としての質の高さより観客動員数を求める)だという事情も反映しているのではないか……などと、そんな危惧を感じないでもない。

作品本来の価値は「好き嫌い」の集計で判断すべきものではないし、観客動員数や発行部数で測れるものでもないと思う。
ついでにいえぱ、映画ファン・小説愛読家の価値も、どれだけ多く観たか・読んだかの集計ではないだろう。

僕の好きな邦画に『12人の優しい日本人』というのがある。シリアスな洋画『十二人の怒れる男』を意識して作られたと思われる、ちょっとコミカルでよく練られた法廷物である。
12人の陪審員(法の素人)が殺人事件の有罪か無罪かの判断をめぐって迷走する(?)ありさまを描いた傑作なのだが、その中に、こんなシーンがある。
「無罪」を支持する陪審員にその理由が問われる場面で、気の弱そうな主婦が──、
「……理由がないとダメなんですか?」「なんとなくそんな気がするんです」と答え「有罪」支持者から激しく問い詰められて鼻血がタラーン。
人の良さそうなオジサンは「無罪の理由……フィーリングかなぁ」と答えてあきれられる……。
かと思えば独身OL風の女性が「私は論理的観点から考えてみました」とメモを読み上げるものの、その内容は事件の経緯をまとめただけ。法廷で見聞きした情報の寄せ集めに過ぎず、彼女自身の考えはどこにもない……。

なんともたよりない陪審員たちの言動にたびたび笑わされてしまったが、これは映画や小説を語る人たちにも当てはまる。
作品を評価するのに、理由も無く「なんとなく」好きか嫌いかで判断したり、「フィーリング」で決めてみたり、あるいは借りもの情報を拾いあつめただけで、自分の意見が述べられていなかったり──「いるよなぁ」と思ってしまう。

映画の個人評価なら、それぞれ好き勝手にやっても実害は無いようなものの……本当に映画や小説が好きで、作品について語りたいというのなら、他者にも理解できるように(何がどう良かったのか、どこがどうして悪かったのか具体的に)きちんと考えを整理し「総括」してみてはどうか……と注文を付けたくなってしまうこともある。


●映画『七人の侍』の巧みさ
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-110.html

●映画『生きる』について
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-111.html

●映画『ゼブラーマン』感想
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

●橋本忍氏の脚本観
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-112.html

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コメント

No title
私は読書感想文が苦手です。それは、課題の本が決められていて、期待される内容が見えるような気がするからです。また、星谷さんのおっしゃるように、「なんか好きだから」ということでは、本当の意味でその本を読んだことになっていないから、よけいに課題図書にたいしてはあまり書きたくないのかもしれないと記事をよんで気がつきました。おかげで私の夏休みの宿題はいつも自分の意見をまとめたもの(意見文)です。
No title
課題図書の読書感想文は「期待される内容が見えるような気がする」というのはわかる気がします。何か模範的な解答が用意されていてそれに近いものが求められている──そう感じる洞察力はサスガだなぁと感じました。
「感想文を書くための読書」というのが、そもそも自由な読書とは違う感じがしますね。
「意見文」というのは「感想文」よりずっと面白そうだなと思いました。

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