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人はなぜ宝くじを買うのか

宝くじは買い手に極端に不利な賭けだ。当選額は大きいかもしれないが、それを引き当てる人はごくわずか。外れる人が圧倒的に多い。確率的に考えたら「当たり」を得るには平均、倍以上の投資額が必要となる。
お買い得ならぬ「お買い損」は明白なのに買い求める人が多い。不思議なことだ。

僕は子どもの頃から「道理(合理性)」をものさしに物事を考えてきた。
自分が感じたり当たり前だと思い込んでいる事が本当に正しいのか非常に不安を覚えた時期があって(※)、こうした強迫観念ともいえる不安から価値観を立て直す手がかりになったのが「道理(合理性)」だったわけである。

ただ、人の行動は必ずしも「道理」で測れるとは限らない。少なくともそう感じる事が世の中にはままある。
「ギャンブル」もその1つで、客観的に考えて損をする確率が多い賭けにどうして乗っかる人が多いのか、長い間僕には疑問だった。

競馬やパチンコのように、自分の推理や技能をある程度反映できるものであるなら「遊び」として参加し楽しむ要素が入り込む余地があるのかもしれない。しかし宝くじになるとこれは個人の技能が入り込む余地のない完全な「確率」の世界のことである。もし宝くじを全て買い占める事ができたとしても、還って来る額(当たりの総額)は5割にも満たない。
そんな損(不利)な賭けがどうして成立するのか(なぜ買う人がいるのか)?

「買わなきゃ、当たらない」──と、宝くじを買う人はよく言う。
「買わなきゃハズレない」というのが「道理」のはずだ。そうは考えないのだろうか?
「夢を買う」という人もいる。
不利な賭けにのっかって勝つ事を期待するのは身勝手というか虫の良い話であり、僕の「道理」では説明がつかない……。
「地球人は何を考えているのかわからん」──そう思っていた時期がしばらくあった。

しかし、「人の心とは何か」という問題を自分なりに考えて行くうちに、あるとき解答らしきものにたどりつくことができた(つもりでいる)。
一見不合理な「性質」が、いったいなぜ生まれてきたのかと思いをめぐらし……他の生物同様「進化」の中で生存率を高める要素として機能したからではないかと考えるに至ったからだ。

「自分に明らかに不利な賭けでも、自分が勝利できると思える」という「性質」は言い換えれば「逆境においても(客観状況よりかなり甘い)希望的観測を持ち続けることができる」──ということだろう。
こうした欺瞞が実は「生き残る活力」につながっているのではないか。

例えば人が危機的な状況に置かれたとき──、
「(合理的に考えて)逆境を正しく認識し、とても助かりそうにないとあきらめる人」と「(不合理でも)希望的観測を持ち続け、生き延びようと努力し続ける人」が、いた場合、後者の方が生命力を発揮するだろうし、生存率も高まるはずだ。
「道理」を度外視し「自分だけは大丈夫(つきがある)」と信じて頑張れる性格遺伝子(?)が世代を重ねる中で濃縮して固定化したのではないかと考えるようになった。
一見「非道理」に見えても、それがあることで生存率を高めるものなら、進化の中でシステムとして固定していくのは理解できないことでもない。

元々、生命の危機が迫っときに最後まであがくという本能的な(生存率を高める反応)システムは、人が「道理(理性)」を獲得する以前からあったものだろう。それは比較的新しく獲得した「道理(理性)」のシステムよりも強固で優位に働くことで、時に「道理」を曲げた形で意識(現状認識)化される──それが根拠無く「自分だけはラッキー」と思える感覚の背景にあるような気がする。

この考えに至って、ギャンブルが成立するのは人の本質(本能?)に根ざしたものだからだろうと受け止められるようになった。

「逆境の中でも、決してあきらめず、希望を持ち続けて頑張る」という考え方を人が持てることも、逆境にある人に根拠の無いエールを送れることも、「不利な賭けでも自分は勝てる」と信じることができるギャンブル心理と重なるものが根っこ(本質)にあるからではないかという気もする。

人は「道理」を理解できるようになったことで多くの他者と共通認識(判断)を持つ事ができ、これによって社会性(ルール)を強化し、生物として繁栄することができた──と僕は考えている。
ただ、「生存率を高めるシステム」は「道理」に優先して「採用」され続けてきたのだろう。
そう考えると、世の中の「道理」に反した理不尽な出来事も(許せるかどうかは別にして)あるていど説明できる気がする。

※僕は宇宙の常識人!?

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