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ダンゴムシの心?

ダンゴムシに心はあるのか



という本を読んだ。
タイトルがちょっと面白い。
「ダンゴムシに心はあると思うか?」と尋ねられたら、僕なら「う~ん、【心】の定義によるんじゃない?」と答えるだろう。

「心」については僕も物心がついた頃から関心があった。そのころからずっと考え続けてきたテーマである。ちゃんと勉強した事は無いけれど、「心」については我流で独自の考え方を構築してきたつもりだ。いわゆる心理学的な理解ではなく、「心」を進化の中で獲得した1つのシステムとしてとらえる概念であって、一見不合理に見える人の心理や行動を合理的に解く考え方である。

そんな僕も「ダンゴムシに心はあるのか」と真剣に考えた事はなかった。だから、「ダンゴムシに心はある」と考えている著者が「心」をどうとらえ、どう定義しているのか──そのあたりに興味を覚えたわけである。

ダンゴムシを使った様々な実験──特に交替性転向(T字通路を連続した迷路では、左右交互に曲がり続ける)などはおもしろかったが、主題の「心」の定義や、それを確かめる実験の評価については、いささか疑問が残った。

では、著者・森山 徹氏が考える「心」の定義とはいかなるものか?
森山氏は主観的には「心」は「内なるわたくし」であり、客観的には「その(内なるわたくしの)気配」を察することで「心」を感じる事ができると考えた。
「内なるわたくし」はふだん外からはみえない「隠れた活動部位」の存在であり、それは「抑制された行動」である。
この(心が)抑制していた行動は、思いがけない局面に遭遇した時に表に出てしてしまうことがあり、それが「未知の状況」における「心の働きの現前」であると著者は考えを進めた。

そこでダンゴムシに「未知の状況」を与え、「予想外の行動を発現」させることで、ダンゴムシにも「心」があることを確かめる──というのが本書の内容である。

観察者は、観察対象を未知の状況に遭遇させ、予想外の行動を観察することで、その心の存在を確かめることができます。(『ダンゴムシに心はあるのか』P.159)

以前、量子論で心を説いた仮説(?)があったが(かいつまんでいうと、素粒子の不確定性がその個体の行動決定に関与し、そこに心・自己が発生するという理論)、その説を知った時は「着眼はおもしろいけど、飛躍に過ぎる」と感じた。
森山説は、それに比べると、さほど突飛ではないけれど、説得力が今ひとつという気がする。

本書では「石の心」についても触れている箇所がある。森山説をもってすると、無生物にも「心がある」とみなすことが可能だと著者自身が語っている。
それは「心」なのだろうか?──そんな基本的な疑問が、ずっとついてまわった。
無生物にまで心があるとみなす「心の定義」というのは正しいのだろうか……。

また、「未知の状況」と「予想外の行動を発現」の関係がわかりにくく、僕にはすんなり理解できなかった。そして「未知」や「予想外」は、被験者(ダンゴムシ)にとってのそれというより、観察者の主観(思い込みや解釈)に過ぎないのではないだろうかと、そのあたりにも疑問を感じた。

実際に、ダンゴムシ実験の結果について、(ド素人ながら)僕には著者の解説とは全く違う解釈をしたところがいくつもあった。



一例をあげれば、「環状通路実験」(↑)──水を張った堀に囲まれたリング状の通路に障害物を配し、そこにダンゴムシを置いて行動を観察する実験では、ダンゴムシは通路の外周に近い部分を歩く(水を張った堀に阻まれるため)ようになるが、行けども行けども水に行く手を遮られるという「未知の状況」に置かれたダンゴムシは障害物に「乗り上がる」という「予想外の行動を発現」した──故にダンゴムシには「心」がある──と森山氏は解説している。

次第に通路中央部の障害物へ「乗り上がる」という行動を発現しだしたのです。個体は障害物をしっかりつかみ、数秒間滞在します。また、アンテナを盛んに、そして大きく旋回させます。
 この乗り上がり行動は、さしあたっては、何かの役に立つようには見えません。なぜわざわざ障害物に乗り上がったのでしょうか。初めてこの行動を見ときの率直な感想は「わけがわからん。でも、何だか意味深長だなあ」でした。しかし、それでこそ、実験成功です。このように、観察者である私たちが理由を見いだせない行動こそ、「予想外の行動」なのですから。(P.123~P.124)


僕にはこの実験結果──ダンゴムシのとった行動は、しごく当然ことのように思われた。
リング状の通路に放たれたダンゴムシは「その場から離れようとして歩き回る」が、行く手が水をはった堀で阻まれるため、結果として外周にそって(交替性転向でジグザクしながらも)歩かされる形となるのは当然だろう。
しかしそうした行動をくり返していても、通路から逃れるルートはみつからない。現行行動ではその場から離れることができないことは生体フィードバック(?)で確認できるだろうから、それを受けて、やがて出力に変化(修正)がおきる──行動可能性範囲が広がり、障害物に「乗り上がる」行動がみられるようになったではないか……僕ならそう解釈する。

著者は「この乗り上がり行動は、さしあたっては、何かの役に立つようには見えません」とあたかも無意味な行動であるかのように書いており、さらに──、

野外で小さな石に出合うたびにそれへ乗り上がっていては、移動がままなりません。また、悠長にその上でアンテナを振り回すことは、捕食者の標的になるだけです。(P.129)

とし、むしろダンゴムシにとって不利益な意味不明行為に走ったことから「(通常では抑制されている)予想外の行動」があったと解釈している。

しかし「乗り上がり行動」を「さしあたっては、何かの役に立つようには見えない」というのは「障害物に登ってもダンゴムシが通路の外へ逃げることができない」とわかっている観察者だから言える事であって、視力の弱いダンゴムシにしてみれば、その行動が役に立つかどうかは登ってみるまでわからない。
平面上に歩いていたのでは通路から逃げ出せないことを学習したダンゴムシが、立体方向へ脱出ルートを求めて障害物に登ったとも考えられる。登って触角をさかんに振っていたというから、その先に伝って脱出できる足場を探していたと考えるのが自然な気がする。これも自律的な運動(行動)だが、これをもって「心」があるとするのは飛躍というものだろう。

「この乗り上がり行動」は森山氏にとっては「予想外の行動」だったかもしれないが、別の観察者では「想定内の行動」かもしれない。同一の実験結果から2人の観察者が別の結論(「心」の有無の確認)を引き出すことがあるとすれば、どちらの結論を信じたら良いのだろう?
森山説では「心」を認める基準──「予想外の行動」が、観察者によって変わる主観的な物差しである点に(科学的実験としては)問題があるように感じる。

さて、森山氏の実験に戻って──森山氏は「乗り上がり行動」を観察し、これが「学習」ではなく「心の発現」であるとしている。その根拠として「心はうつろう」ことあげている。

もし、乗り上がり行動がいわゆる学習によって獲得されたならば、その出現率は次第に増加し、そしてある一定の値に保たれるでしょう。しかし、そのような単純な学習は、心を持たないようにプログラムされた機械が得意とするところです。
 一方、現実のダンゴムシは心を持っています。したがって、乗り上がり行動の発現率は、初めは確かに増加するのですが、その後は減少と増加を、「意味深長に」続けました。それは、まさしく「心のうつろいの証」なのです。(P.131~P.132)


「乗り上がり行動」の最初の増加は学習だろう。しかし、それをくり返しても、そこに脱出ルートが見つからないということを学習すれば、その後減少に転じる事は自然に思える。
森山氏は「乗り上がり行動」を「さしあたっては、何かの役に立つようには見えない」と記しているが、ダンゴムシも「乗り上がり行動」をくり返すうちに、その行動が「役に立たない(脱出できない)」ことを「学習」したのだろう。

学習の記憶がどれだけ持続するのかわからないが、「乗り上がり行動」が減少すれば、「乗り上がり行動が役に立たない」と学習した事を忘れ、ふたたび「乗り上がり行動」を始める──こうしたことがくり返されて「減少と増加をくり返す」ことになるのではないだろうか?

もし、「乗り上がり行動」で脱出ルートをみつけることができたなら、「乗り上がり行動」は増加したまま減少することがなかったのではないだろうか?

他にも、実験結果の解説については、別の解釈があるのではないかと首をひねる場面があった。
僕はド素人なので、僕の側の理解不足が原因でそう感じるのかもしれないが……「別解釈」を否定するには、まだ色々な実験が必要な気がした。

この研究もまだ道半ば──ということなのかもしれない。

はたしてダンゴムシにも心はあるのか……僕自身はこの問いに明確には答えられない(定義による)。
しかし「心はある」と感じたり考える人がいてもおかしくはない。
僕が考える「心」でいうなら、「(人形などの)心が無いもの」にも「心があるかのように反応(錯誤)してしまう」──それが「心」である。

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