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映画『生きる』について

黒澤明監督映画『生きる』(1952年東宝)について
※ネタバレあり

変化の無い日々をただ生きているというだけの役人が、自分が余命わずかな末期ガンであることを知って、急に生きる意味や目的を見いだそうと悶え奮闘する──という話。

「<死>に直面して初めて<生>を意識する」──こういうシチュエーションがまず作者の頭の中にあって、その大前提の中で構想が練られていったのだろう。
しかしながら『生きる』には、この基本設定の処理に重大な不備がある──僕にはそう思え、この作品をあまり高く評価できずにいる。

「主人公は余生わずかな末期癌」──その設定は、まあいい。問題なのは主人公がどのようにその「事実」を知ったかだ。
映画の中で志村喬演じる市役所・生活課の渡辺課長が「自分は余命半年の胃癌である」と知るのは、病院待合室でのたあいもない患者間の会話から──それだけである。
話し好きのオヤジから「こういう症状が出て、医者にこう言われたら、手の付けられない胃ガンだ」という話をきかされ、それが自分の症状と一致していたことから、余命少ない「事実」を知る──という形だ。

しかし病院の待合室で交わされるそのテの会話にはヨタ話も多い。責任や専門知識のある医師の説明・診断(胃潰瘍)を否定し、無責任なオヤジのヨタ話(胃癌)をすんなり信じて、主人公がこの重大なシチュエーションを「事実」と認めてしまうというのは、いささか無理がある(根拠が薄い)。
待合室での会話は「末期ガンを疑う」きっかけにはなっても、それを確定する材料にはなり得ない。むしろ「癌であって欲しくない」という気持ちが働き、癌を否定する材料・可能性を探ろうとするのが患者の自然な心理ではないだろうか。
そんな大事な事を確かめることなく鵜呑みにし「思い込み」だけで主人公が人生を投げ打つ行為に出るという展開はなんとも説得力に欠く。

本来なら渡辺課長は「疑い」が芽生えた時点で、自分の病気が本当に胃癌なのか、本当に手の施しようが無い状態なのか、他の医者の見立てはどうなのか、末期癌だとしたら果たして余命はどのくらいなのか、病状の進行はどういう経緯をたどるのか、進行をいくらかでも遅らすことは出来ないものか──それらについて確かめようとするはずである(脚本の必然性としては「確かめなければならない」)。

にもかかわらず、このシチュエーションを成立させるために必要な手続き──主人公が「確かめる」プロセスを飛ばして「思い込み」のみで物語は展開して行く。
その点が腑に落ちなかったので、僕は「渡辺課長の<胃癌>は、実は思い込みだった」というトリックがしかけられているのではないか?──そんな可能性を想像した。

ふり返ってみると、映画冒頭では、胃のレントゲン写真が画面に大写しになりナレーションで説明があった。
「これは、この物語の主人公の胃袋である。
 噴門部には胃癌の徴候がみえるが、本人はまだそれを知らない。」
(渡辺課長が胃癌だとは言っていない)
そして画面が変わって志村喬演じる渡辺課長が映る──それで、てっきり胃癌のレントゲン写真は渡辺課長のものかと思わされてしまっていたが、実はそれはミスリード(誘導)で、実は別人のものだった──そんな展開の可能性も考えられる。

後にもう一度映画を観なおしてみたら、渡辺課長のシーンで、
「これがこの物語の主人公である。」
とナレーションが入っていた。しかし「胃癌のレントゲン写真=渡辺課長のもの」とハッキリ言ってはいない。疑ってかかれば「そしてこれが、この物語の、もうひとりの主人公である」なんて後になって別の人物が出てこないとも限らない(小説の場合、一人称で書かれたものは主人公が一人だが、映画の場合視点は移動するので主人公が一人と決められないものも多い)。

さて映画の展開だが、担当医に「胃潰瘍」と告げられた渡辺課長が帰ったあと、医師らがタバコをふかしながら胃のレントゲン写真を眺め、余命半年だと話すシーンがある。
渡辺課長が帰った後のシーンだから観客には医師が見ていたレントゲン写真が渡辺課長のものであるかのように見えるが、実はそのシーンで医師が見ていたレントゲン写真は別の患者のものだった──という可能性だって無いではない。
そこで思い当たったのが、渡辺課長と同じ頃に診察を受けていた「待合室のおしやべりオヤジ」だった。胃癌のレントゲン写真が彼のものだったとしたら?
おしゃべりオヤジは渡辺課長に話しかけてきたとき「胃ですか? 私も胃が悪くてね」と口火をきっている。おしゃべりオヤジも胃を患っていると伏線を張っているのだから、レントゲンの主がおしゃべりオヤジであってもいいはずだ。

癌だと思い込んでいた人(渡辺課長)が、実は医師の言った通りただの胃潰瘍に過ぎず、他人に対して癌の心配・おせっかい・哀れみをかけていた人(おしゃべりオヤジ)が実は自覚症状のない癌だった──という皮肉で意外性のある構図だったとしたら……これは作品としては面白いし、あってもおかしくない展開だ。
そういう計算で書かれていたのであれば「腑に落ちなかった不備」の説明もつく──そう予想しながら展開を見守っていたのだが……。

しかし、渡辺課長はあっさり死んでしまい、胃癌であった事が判明する。

と、なると──展開の中で感じていた不備の説明がつかなくなる。
渡辺課長は、待合室のおしゃべりオヤジの講釈だけで(病名・病状・余命に関して何も確かめる事もせず)残り少ない命であると「思い込んでいた」ことになり、これは(トリックのためのしかけではいのだから)、単なる不備だったという事になる。
これは作品にとって重要な部分であるだけに看過できないキズだと僕には感じられた。

脚本家は「それが事実」という頭で書いているからその前提でさっさと先に進めてしまったのかもしれないが、主人公の立場からすれば「胃癌」は「疑い」の段階にすぎない。それをろくに確かめようとせずに受け入れてしまうのは「作者のご都合主義」的ミスだろう。このあたりのツメの甘さがもったいない。

主人公が生死に関わる重大な点について「きちんと確認しない」のは無頓着だし、その割には「死が近いと知った(思い込んだ)ことでのあわてっぷり」が大げさ過ぎてわざとらしい(※志村喬の演技がわざとらしいのではなく、脚本上の行動がわざとらしい。志村喬の演技はむしろ脚本のわざとらしさを帳消しにするくらいの迫力があった)。

余談だが僕の同人誌時代の仲間にもガンで余命3ヶ月~1年と宣告された男がいた。
まだ若いし妻も子もいたのに……宣告通り逝ってしまった。
彼はその宣告を受けてから亡くなるまでの事をブログに書き残している。淡々とした内容だが、僕は『生きる』よりも彼のブログの方に強く感ずるものがあった。

彼のブログを読んでいたので、『生きる』の渡辺課長の行動は、(良くない意味での)作り物──という印象がぬぐえなかった。
「余命短い事」が主人公にとって(作品にとって)重大ならば、ここはきちんと「確かめる」プロセスを押さえておくべきだったと思う。


また、それとは別にこの作品で気になったのは前半と後半(渡辺課長が死んだ後)で、作品の軸がいくらかブレたかのような印象を受けることだ。
前半では渡辺課長の「<死>を前に、必死に<生きる>意味を模索とする」──個人レベルの死生観がテーマになっているが、後半、渡辺課長が死んだ後は、ちょっと社会派的次元のテーマと渡辺課長がどんな気持ちで公園実現に執着したかの謎解き的なテーマへと興味の軸がスライドしてしまった感がある。
この設定で描くことができる、これはこれで興味深いテーマだったので盛り込んだのだろうが、作品の流れからいうと、ちょっと統一感を欠き、こなれていない印象がある。
それまで登場した人物・展開されたエピソード等を見直し、再利用してテーマの統合をはかるまとめ方ができれば、全体の印象はもっと統一感のあるものになったのではないか。そんな気がしないでもない。

前半(渡辺課長が生きているパート)で出てきた部下の女性(退屈な職場に耐えきれず退職してオモチャ工場に転職する)は、かなり重要な役所だったのに、後半(渡辺課長が死んだ後のパート)はでてこない。
中盤で彼女は新しい職場で作っているウサギのオモチャを渡辺課長に見せ、こんなものでも作っていると楽しいと話す。そのとき彼女の口から出た「課長さんも何か作ってみたら?」という一言が、渡辺課長に<生きる意味>を見いだすきっかけを与える。
そうした重要な役所(彼女)だったのに、後半(渡辺課長が死んだ後)でてこないのは、ちょっと物足りなさを感じた。もう少し彼女を後半の展開にからませることはできなかったものか? 起用のしたかによっては前半と後半で分離した印象の緩和する役割を持たせる事ができたかもしれない。

例えば、渡辺課長が執念で完成させた公園(<生きる意味>)で、数年後あそんでいる子供たちの中に見覚えのあるウサギのオモチャを持っている子がいて、その母親が映ると、渡辺課長に<生きる意味>を示唆した彼女だったとか……そんなシーンがあっても印象がしまって余韻が残せたのではないかと思う。


批判的な事ばかり挙げるのも心苦しいので、この作品で「うまい」と感じた点についても最後に少し触れておく。

前半部での、元・部下の女性の使い方はうまかった。
先の短い生気のない渡辺課長と若くて生気にあふれた元・部下の女性の対比が、描くべき心情をうまく演出している。
小説家に連れて行かれた歓楽街のシーンでも、華やかな喧騒の中に渡辺課長を置くことで絶望的な孤独や空しさをかえって際立たせることに成功していたと思う。
そしてこの歓楽街に繰り出した時に新調した派手な帽子が小道具として所々で上手く使われていた。

渡辺課長の息子夫婦や職場の同僚達の「誤解」の作り方が上手いく、渡辺課長の孤独をさらに際立たせるアクシデントの作り方はさすがだと思った。
その「誤解」(元・部下の女性を渡辺課長の愛人だと邪推し、胃癌発覚後の自暴自棄行為の原因はこの愛人にあると思い込む)を自然に手際良く示す小道具として、新しい帽子がうまく利用されているのには感心した。

志村喬の迫真の演技と、画づくりというのだろうか──人の配置や構図・アングルなど、映像は素晴らしかったと思う。


『生きる』は黒澤映画の中でも評価が高いようで、この作品を好きだという人も多い。
描かれたテーマ・シチュエーションに強く心を動かされた人は多いに違いない──それは判るし、そうした感動で作品を評価したり、好き嫌いで映画を鑑賞する事は間違った事ではないと思う。
ただ作品のつくり=完成度から見た場合、同じ監督の『七人の侍』には及ばない──というのが僕の評価である。

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