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映画『七人の侍』の巧みさ

黒澤明監督映画『七人の侍』(1954年東宝)について
※ネタバレあり

野武士の襲撃を度々受け、搾取される貧しい百姓たち。切羽詰まった彼らが村を守るためにとった奇策は「侍を用心棒に雇う」ことだった──。

この基本設定は判りやすく、意外性もあって面白い。
このシチュエーションを得た事で、制作者は手応えを感じたに違いない。

ちなみに、このこのアイディアは全くの創作ではなく、ヒントがあったらしい。
昔の侍がどう暮らしていたのかを調べているうちに、宿を借り飯を食わせてもらう代わりにガードマンのようなことをした──という事がわかり、それが『七人の侍』の着想に繋がったそうだ。

さて、この着想から「腕のたつ用心棒侍を何人か集め、野武士の軍団と闘わせる」──この設定に展開するのは自然な流れだったろう。
ここまでは、誰でも考えつくし、これだけでも普通の(?)活劇映画は撮れただろう。

しかし、このシチュエーション、構図としては(頭の中で考えるぶんには)判りやすくて面白いが、実際に具体的な物語として成立させるのは意外に難しかったに違いない。話を成立させるためにはどうしても解決しなければならない問題がでてくるからだ。このあたりを説得力のある展開で見せ場として描くことができた脚本の素晴らしさが『七人の侍』の成功に繋がったのだと思う。

作品成立のために解決しなければならない問題とは──、
「貧しい百姓が、どうして侍を雇うことができたか?」

宿と飯の代わりにガードマンをするのと、生死をかけた合戦に挑むというのではわけが違う。
名誉にもならず、出世の足しにもならないリスクの大きな合戦に、「飯を食わせる」というだけで参戦する侍がいるものか?
かといって百姓たちを裕福に設定し大金で侍をやとった──という形になったのではいただけない。観客の心情的にはやはり、貧しい百姓たちと無欲な侍たちの必死の合戦であってこそ盛り上がれる。

ドラマの設定としては百姓たちは貧しい方が望ましい……しかし、その設定を採れば、貧しい百姓たちが侍を雇う事など絵空事になってしまう……。
こうしたジレンマが生じるため、この設定を(リアルな次元で)成立させるのは意外に困難だったはずだ。

それなら雇われる侍を減らすか?
一人だけなら、なんとか恩義因縁のエピソードをこしらえて用心棒にすることはできなくもないだろう。しかし、一人の侍が相手できる敵の規模を考えると、敵側も減らさねばならなくなりスケールダウンが余儀なくさせる。一人で40人もの野武士をやっつけるとなると、これはもうリアリティの問題で嘘っぽくなる。
(ちなみに黒澤明映画『用心棒』では一人の侍が、多くの敵を倒す為に、敵の軍団を2つ用意しそれをけしかけて共食いさせるというアイディアを使っている。これもうまい)

黒澤明はこの作品を作るにあたって「西部劇に負けないようなものを」という意図があったそうだが、それならやはり侍は単独ではなく、魅力的な複数の剣豪を結集させ、スケールの大きな、娯楽性の高いものにしたかっただろう。
となれば、【7人もの侍が、どういういきさつで貧乏百姓に雇われることになるか(そんなことが可能かどうか/それを自然に描けるか)】──この問題をクリアできるかどうかがストーリー化に際して最大の難関だったろうと想像する。

このあたりの処理を「本来ならあり得ない話だけど作り物だから」とテキトーにやっつけてチャンバラ活劇にすることはできたはずだ。しかし、それではこれほどの名作にはならなかったろう。

この難関を『七人の侍』は実にうまく処理していて、その手腕に感心した。単に合理的な説明付けに成功したというだけではなく、この難関の過程を大変面白い見せ場として描いているのだ。クライマックスの合戦のシーンももちろん見せ場だが、この侍集めの過程に魅力を感じた観客も多かったはずだ。


作品冒頭、野武士の一軍が村を見下ろし、「麦が実った頃にまた来べえ」と去って行く。それを隠れて聞いていた百姓がいてあわてて村に戻る。やがて野武士の襲撃が必至と知ってうろたえる百姓たち。野武士の略奪を許せば生活が立ち行かなくなる。かといって野武士たちと闘って百姓たちに勝ち目は無い。対策をめぐって紛糾するが、村の長の決定で侍を雇うことになる。果たして百姓に雇われる侍などいるものかという疑問の声も上がるが村の長(じさま)が一喝。
「腹の減った侍さがすだよ。腹が減りゃあ熊だって山を下りるだ」
この作品の中では一言でうまく状況を言いあらわし、観客を納得させる名セリフが随所にでてくる。こうした短いセリフにも脚本の魅力を感じる。

百姓たちは侍さがしに町に降りるが……当然の事ながらうまくいかない。仲間割れが起きたりする。そんな百姓たちの不安な状況を上手く描いているのが粗末な小屋での雨宿りシーンだ。
「おう、侍みつかったか? 安くて強くて物好きなのがよ」粗野な連中=人足が小屋に戻って来るなり百姓たちにをからかうシーンがある。
これは百姓たちの侍探しがうまくいってない事を端的に物語る場面だ。が、実は人足らを登場させた意図(意味)はそれだけではない。後の物語をスムーズに展開する為に彼らは必要不可欠な演出要素となっている。映画の中での存在感としては、ほんのちょっとした脇役っぽい印象しかないが、人足にはこの作品を成立させるために不可欠な重要な役割が持たされていて、この起用の仕方が大変に巧い。

人足らが登場するシーン──「おう、侍みつかったか? 安くて強くて物好きなのがよ」と百姓をからかう場面では、百姓たちの侍探しがうまくいってない事を観客に印象づけると同時に人足連中が百姓たちの事情を知っている=両者の間にコミュニケーションがあったということをさりげなく表している。
表面上は百姓たちをバカにし、からかっているように見えるが、その言動には貧しさを共感できるが故のやり場のない怒り・不満が(後のエピソードから)感じられる。
この雨宿りシーンでは人足連中と、彼らに刀を抜いて袋叩きにあった弱い侍(飯食いたさに用心棒に立候補するが、とても頼りにならない)や饅頭売りのエピソードがおもしろおかしく描かれている。

侍探しが上手く行かず、村へ帰りたいと泣き言を漏らす百姓・与平(左卜全)に人足が悪態をつく。「帰れ帰れ、饅頭も買えない奴が侍買おうたって無理だい」──このセリフも笑えるが、状況を的確にあらわしている。
シリアスな物語の中に、ときおり折り込まれる笑い。これには観客の緊張をほぐしたり作品にメリハリをつける効果がある。いくらシリアスな話でも緊張だけでは単調になってしまい長い話はもたない。ときおり笑いなどを入れる事で登場人物に立体感を演出したり、怒り・悲しみなどとのギャップを際立たせる効果も演出できるわけだ。

そして面白いエピソードで観客を和ませながら、ここでは人足連中が「侍をビビらすほどケンカは強い」という事を観客にインプットする役目も果たしている。
「ケンカに強い人足」の情報イメージは、後に「この人足連中たちでもまったく歯が立たない恐ろしく強い侍がいる」──という形で菊千代の箔付け(?)演出として利用されている──つまり伏線としての意味あいも持たされている。
この人足のエピソードを設ける事で、観客は実力を知らされていない菊千代が再登場したときに「見た目だけでなく強さも型破り」というイメージををすんなり受け入れることができるわけである。


さて、百姓たちの味方となる最初の侍にして侍チームのリーダーとなるのが勘兵衛(志村喬)。
マゲを切る侍──なんとも興味をそそる登場のさせかたが上手い。
誰でも「侍がなんでそんなことを?」と注目する。その理由とは──子供を人質にとって立てこもった盗賊がおり、これ退治する為に髪を剃って僧侶に扮装したわけだが……人助けの為にためらわずマゲを切るという行為は侍の見栄にこだわらず、正義感があって勇敢な人物であることをわかりやすく示している。一瞬で盗賊を倒し子供を救出した手腕から、頭も腕も切れることがわかる。侍チームのリーダーにふさわしい人物である事を表現したうまいエピソードだ。

この勘兵衛の登場シーンで、勝四郎(木村功)と菊千代(三船敏郎)も登場するのだが、この絡め方も手際が良い。
『七人の侍』が成功した秘訣の一つは侍チームを剣豪だけで構成したのではなく、勝四郎のような見習い的なキャラクター、百姓出身のはみだし・落ちこぼれ的な菊千代などを加えたことにもあっただろう。勝四郎のような未熟な侍が加わる事で勘兵衛との格差を浮き彫り描け、またこの2人を設定した事で侍と百姓たちとをつなぐうまいエピソードを随所に盛り込むことが可能となった。

勘兵衛の登場シーンで、その活躍を目の当たりにした勝四郎、菊千代、百姓たちは驚き心を打たれる。
この三者を同時に登場させ、絡めた所がミソだ。
若い勝四郎は勘兵衛に門弟にしてくれと頼み込むが、当然勘兵衛は断る──この2人だけなら、ここで両者は気まずく別れて終わるところだ(それが自然)。ところがそこに菊千代がからんで勝四郎と険悪な雰囲気になることで、勘兵衛は無用なケンカを避けるために勝四郎を連れて(菊千代から引き離すために)歩き出す──本来なら気まずく別れたはずの勘兵衛と勝四郎が肩を並べて歩くことになる──この自然な展開がまた上手い。映画を観ている観客は自然な流れとして気にとめないだろうが、このあたりを自然に(観客が気にとめないようにさりげなく)処理するというのは見せ場を感動的に描くよりも技量を要す。物語づくりでは盛り上がるシーンを盛り上げるより、その舞台をいかに自然に組み上げるかが難しい。

さて、こうして共に歩き出した勘兵衛と勝四郎の前に、百姓の利吉(土屋嘉男)が土下座して「お願いがありますだ!」──勘兵衛と勝四郎は一緒に百姓たちの事情を聞くことになる。

人格者の勘兵衛とはいえ、ここですんなり百姓たちの依頼(飯を食わせるかわりに野武士40人を退治してくれという無茶な話)を請けていたら、ただのお人好しという印象が強かっただろう。いくら人格者であっても、ここはまず断るのが常識だ。そして当然の展開として勘兵衛は一度断る。ここでも、もし勘兵衛と百姓たちだけの出会いであったらなら別れておしまい──物語は成立しない。

そこで勝四郎と人足たちの存在が意味をもってくる。一部始終を見ていた人足は勘兵衛が断って去ろうとするのを見て、百姓たちに「とっとと首くくっちまえ。その方が楽だぜ」と悪態をつく。それを見かねた勝四郎が「口をつつしめ! お前らには百姓の苦渋がわからんのか!」とたしなめる。これも自然な展開だ。しかし人足は「わかってねえのはお前さんたちよ。判ってたら助けてやったらいいじやないか!」と反撃。若い勝四郎はカッとなって刀に手をかけ、勘兵衛が止めに入る。しかし人足の悪態は止まらない。百姓が用意していた飯を差し出し、「これはお前さんたちに食わせる飯だが、この抜け作どもはヒエを食っているんだ。こいつらにしてみれば精一杯のことをしているんだ」と百姓たちを代弁して侍批判。
勝四郎と人足たちの間に割って入った勘兵衛は「わかった。もうわめくな」。そう言って人足の差し出した飯を受け取り「この飯、おろそかには食わんぞ」と百姓たちの申し出をあらためて請けたのだった。

若い勝四郎と人足たちのケンカから展開したこの承諾のエピソード──本来だったら百姓たちの頼みは断られて当然の場面なのだが、人足と勝四郎をからめることによって「成立」に転じさせた流れは実にスムーズでみごとだ。人足も勝四郎もこの作品が成立する為に不可欠な重要な働きをしている。
この場面は、(勘兵衛に断られて)一度絶望した百姓たちに一筋の希望の光がさすという感動的なシーンだが(絶望の直後に希望を描く事でその落差が感動を演出)、それまで憎まれ口をたたいていた人足たちが「口は悪いが実は根はいい奴」ということが発覚し、そういった意味でも心を打つシーンでもある。

その後は勘兵衛が中心となって侍集めをすることになるわけだが、目をつけた浪人の腕を試すエピソードが面白い。勘兵衛は勝四郎に剣がわりの薪を持たせ、小屋の入り口に身を隠して(呼び入れた)浪人が入ってきたときに打ち込めと命ずる。

最初に試された浪人はみごとに勝四郎の攻撃をかわすが、怒って勘兵衛を問いただす。野武士相手の合戦があると聞いて乗り気を示すが、それが出世とはかかわりのない合戦と知って失望し去って行く。
次に試されたのが五郎兵衛(稲葉義男)だったが、彼は小屋に入る前に勝四郎の殺気(?)に気づき笑って「ご冗談を」。こうした反応の差でキャラクターと実力をうまく表現している。形としてはこの2パターンでも充分成立するわけだが、さらにこのパターンは菊千代にも試される。
先の人足が「すごく強い侍を見つけた」と連れてきたのが菊千代だったのだが、酔って再登場した菊千代はみごとに一撃をくらってしまう──三段オチのようでこのあたりも面白い。また最初に「打ち込め」と命じられたときは戸惑いを見せていた勝四郎が、3度目(菊千代のとき)は調子に乗って自分から「例の奴を試してみましょうか」と言い出すのが面白い。
勝四郎の一撃をまともに頭部にくらった菊千代は一瞬うずくまったものの、すぐに立ち上がる。菊千代の並外れた頑丈さが示される場面でもあった。

勘兵衛が陣頭指揮をとって侍集めは順調に進むが、あまりすんなり事が運んだのでは物語としては面白くない。意外なところでピンチを迎える──そんなエピソードがあった方が話は締まる。
『七人の侍』では、勘兵衛が侍を集めている間、与平(左卜全)が米を盗まれてしまうというエピソードがある。百姓にとっては侍をつなぎとめておくために無くてはならないものだ。利吉は村へ取りに行くと言うが、戻ってくるまでの間、侍に食わせる米が無い。とほうにくれる百姓たちのピンチを救ったのは勝四郎だった。
勘兵衛と共に仕事をしたい勝四郎にしてみれば、この話が流れてしまっては困る──そんな思いもあったろう。こっそり米を買う金を百姓たちに与える。
村へ立つ前に勘兵衛は「子供を連れて行くわけにはいかん」と勝四郎を一度はメンバーから外すが、百姓たちの「ぜひ、あのお方も」と申し出をきっかけに再考することになる。百姓たちにしてみれば、こっそり米代を出してくれた勝四郎を外すのは忍びなかったはずで、こうしたエピソードの織り交ぜ方が上手い。
勝四郎を加えた時点でメンバーは6人。当初7人の予定だったがこの6人で村へ立つ事になり、菊千代が勝手についていく。この段階では菊千代は侍たちに仲間と認めてもらえていなかった。

当初の予定より1名足りない6名編成だったが、なんとか侍チームは実現した。普通ならこれですぐに野武士との闘いに話を展開したくなるところだが、侍が村に到着した時にちょっとしたトラブルが起こる。百姓を守る為にわざわざやってきてくれた侍たち──本来なら歓迎して向かい入れるべきなのに村人たちは侍を恐れて隠れてしまう。村人が侍を警戒するいきさつについてもそれまでの中でうまく描かれており(ネガティブ思考の万造がいやがる娘の髪を切る)そのあたりもうまいところなのだが──百姓たちがそんな状態ではとても村を守る事などできない。
雇う百姓と雇われる侍との間にはもともと信頼関係があったわけではないから、こうした事態も起こり得よう。むしろ見ず知らずの侍を最初から歓迎する方が嘘くさいというものだ。
侍チームは野武士と闘う以前に前途多難な事態に直面する──こうした物語をリアルに見せ観客の心をつかむ状況の作り方が上手い。
そして、この状況を打破したのが菊千代だった。すりこぎを叩き、板木を打ったように響かせ、百姓達の野武士への恐怖をかき立てる事で、侍たちへの求心力を呼び覚ます。かなり乱暴な行為だが、これは菊千代意外の侍には決してできない行動だ。そして菊千代のこの奇行によって初めて村人と侍の間が縮まる。
平八が「これで七人そろいましたな」。初めて菊千代が侍チームの仲間として認められ「七人の侍」が結成されたエピソードでもある。

こうした巧みに練られたエピソードによって、「百姓が腕のたつ用心棒侍を何人か集め、野武士の軍団と闘わせる」──という難しい設定がクリアされ、むしろ作品を盛り上げる効果として昇華されている。

『七人の侍』にはこの後も見所がたくさんあるが、盛り上がったシーンも去ることながら、このシチュエージョンをリアルさをもって成立させるに至った展開の手腕こそ称賛に値する──と僕は評価している。


余談だが、僕は『七人の侍』については傑作だと位置づけているが、黒澤明監督作品の全てを良いと評価しているわけではない。

『七人の侍』に感動し、期待を持って他の黒澤映画もいくつか観たが……まず感じたのは「意外にも(?)作品によって(完成度の)落差が大きい」ということだった。
黒澤映画を全て観たわけではないが、中には「制作の意図は判るが、無理がある。もっと工夫のしようがあったのではないか」と感じたものもある。
作品によって「面白さ」にバラツキが出るのはしかたないが、「完成度」にバラツキがあるのは技量の問題だろう。
黒澤作品にはプロの「こだわり」のようなものは確かに感じるが、一方素人臭さのようなものも同時に見え隠れする気がする。

他の黒澤作品をいくつか観ているうちに、『七人の侍』が傑作になったのは当時のスタッフの能力・努力・執念などがたまたまラッキーな方向に転がって結実した──というのが本当のところではないかと考えるようになった。同じメンバーを揃えてもう一度同じレベルの作品を作ってみろといってもできないハズだ。

『七人の侍』は当初の予定を大幅に上回る規模のものになり、撮影の中断が検討された事もあったというが、そもそも本当にプロフェッショナルな技量をもった脚本スタッフなら、当初想定した規模に収まる範囲で作品づくりができた(した)はずだ。
にもかかわらず予定を大幅に上回る規模になってしまったのは、「こだわり」を持ちつつ素人っぽい作り方で激走したからに違いない。その結果が、たまたますべて上手い方向に結実し、できあがった映画は傑作となった──ということなのだろう。

『七人の侍』はそういった意味でも希有な傑作──僕はそんな風に考えている。


※字数制限のため2回に分載していたものを統合
(投稿時5000字だった字数制限が20000字に変更された)

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