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久しぶりに『ジュラシック・パーク』を観て

~印象的な演出とさりげない演出~
※『ジュラシック・パーク』(1993年 スティーヴン・スピルバーグ:監督)
 ネタバレあり

初めて『ジュラシック・パーク』を観たときの感想

【躍動感あふれる恐竜は大迫力!!】チャンネルF☆通信 第2号(1993.8.20)
 去る8月9日、話題の映画『ジュラシック・パーク』を見た。ここ数年(もしかしたら十年以上?)、映画はビデオ化されたものをレンタルで観るというのか常になっており、商業映画を劇場に足を運んで観るというのは本当に久々であった。
 動く恐竜をデカイ画面で見たい──というのが、その動機だったのだか、期待した恐竜の映像に関しては素晴らしいできであった。最新の映像技術と刷新された学術的見解によって描かれた恐竜の躍動感は、斬新であり、かつリアルであった。
 ストーリーに関しては、さして期待はなかったので、失望は感じなかった。琥珀に閉じ込められた蚊から採集した血液から恐竜のクローンを再生する──というアイディアは面白いが、これは小説のアイディアというよりは、生物学のアイディアだろう。そのヒントとなる研究はすでに行われている。
 ストーリー的には、特に面白味のある作品ではないのだが、演出がうまく、その点でこの作品は成功していると言えるだろう。見どころの恐竜シーンをいかにドラマチックに見せるか──という計算が充分ねられており、ここが、あわただしく怪獣を登場させて興ざめをさそう『ゴジラVSモスラ』のリメイク版とは大いに違うところであった。
 一例をあげればティラノサウルスが出現するシーンでは、嵐の中、テストツアーに参加した主人公らを乗せた車がストップ。ライトも消えて緊張感を高める状況をつくりあげている。闇の中、激しい風雨の音にまじってかすかに聞こえる地響き(足音)。水の入ったコップに広がる小さな波紋が、とてつもなく巨大な生き物が近づいてくることを予感させる……。そして、ツアー中、姿を見せなかったティラノサウルスの餌として用意されたヤギがいつの間にか消えている──こういった観客の緊迫感を心理的にたかめる<溜め>があって、突如、猛り狂うティラノサウルスは登場する。緊張のせきをきって戦慄が疾る展開である。このあとのたたみかけるような展開も見事で、こうした工夫がハイテク映像をより効果的に演出する効果をあげている。
 ともすると金のかけ方の差が迫力の差を生むと思われがちだが、こういった演出・心理効果は金をかけずにできる分野である。ハリウッド映画に比べ、製作費に制約のある邦画が、一番追求しなくてはならないはずの演出面が、全くもってお粗末なことが邦画のレベルの低さの一因でもある。
 人物設定・人間ドラマの要素としては、子ども嫌いの古生物学者が子どもと共に限界状況を切り抜けるうちに、子どもとの関係に心を開く、といった、スタンダードなテーマを盛り込み、また、巨大な恐竜パークの創設者が実は昔、ノミのサーカスを興行していて、インチキ興行で客をもてなしながら、いつか<本物>を見せたいと思い続けてきた──という人物であったという設定なども、人間の心の陰影を感じさせ、人物像に厚みを加えていたように感じた。
 ねがわくは、物語としての要素でもう一工夫あれば……という気もしないではない。
 物語の中では、古代の蚊から採集した恐竜の血からDNA解析をした際、欠けていた情報を両生類のDNAで補った──という設定になっており、両生類のDNAで補ったことにより、恐竜を現在の世界によみがえらせることに成功したという設定になっている。
 再生した恐竜は人為的操作で作られた雌だけがパーク内に放され、恐竜の管理がはかられている──しかし、両生類のDNAを組み込んだために雌だけの恐竜の中に雄が出現し、フィールド内での自然繁殖が確認されるというアイディアが用意されており、つまり両生類のDNAのくだりは、この展開の伏線になっている。
 両生類のDNAを組み込んだことによって、恐竜の雌の中から雄が出現するといった設定には、やや無理を感じるが、必然性を有する意外性の工夫として評価するならば、この設定をもっと有効に使って欲しかった気はする。
 映画の中ではフィールド内での自然繁殖が確認されたことで、自然の営みを人為的に操作・管理しきれるものではない──という提言がなされるにとどまっているが、せっかくそのような設定を設けたのであれば、その設定──フィールド内での自然繁殖が、事件に直接絡む展開を用意すべきだったのではないかと思うのである。
 例えば、巨大な恐竜がフィールドの外へ出ないように張りめぐらされた高電圧フェンスのすきまから、自然孵化した小さな子恐竜は抜け出すことができ、フィールド外で成長。そしてフィールド外の管理施設・職員を襲ったことでパークの管理システムが崩壊してパニックが起こる──というような展開にすれば、設定はより重要性をまし、より活きるはずである。
 そういった難もないわけではないが、全体的な印象は面白い映画であり、また観てみたいと思わせる映画であった。
(以上、個人コピー紙に記した映画感想)

最近、あらためて『ジュラシック・パーク』を観ての感想

躍動感のある恐竜シーンはどれも素晴らしかったが、一番をあげるとすればティラノサウルス出現のシーンだろう。巨大な怪物をいきなり出すのではなく、コップの中の微かな波紋で「見えない恐怖がせまってくる」のを予感させる演出が印象的だ。
コップの中のかすかな変化に注目を集め、観客の感度レベル(?)を高めておいてヤギの消失で不安をあおる。そして盛り上がった緊張を一気に爆発させる展開へとなだれ込む展開がみごとだ。
小さなコップと巨大な恐竜のギャップ、「静」から「動」への変化。この大きな対比がインパクトをより際立たせているわけだ。




印象的なシーンは初めて観たときと同じだが、改めて見直すことで「上手い」と気づいたシーンがある。
テストツアーの車の中で、イアン・マルコム博士がエリー・サトラー博士にカオス理論について説明する場面だ。マルコム博士は車内のコップを手にとり水滴を使ってそれを説明するのだが……実は最初に見た時は「なんでこんな説明の仕方なのか? もう少し的確な例はなかったのだろうか?」とチラっと感じていた。だが、特におかしな展開でもないので、そのままスルー。興味はどんどん先に進んで行くのであまり印象に残らないエピソードだった。

だが、これは先に述べた「最も印象的なシーン(ティラノサウルス登場)」を成立させるための重要な布石だったのだ。「コップの中の微かな波紋」はスピルバーグが使いたかったこだわりのシーンだったに違いない。実際にその効果は抜群だった。

しかしもし、ティラノサウルス登場のシーンでいきなり水の入ったコップが登場していたら、不自然さを感じる観客もいたかもしれない。動く(揺れる)車の中にどうして水入りのコップがあるのか?──唐突に感じ「演出のための小道具として無理矢理作ったな」とバレてしまい「わざとらしさ(=作り手のご都合主義)」がせっかくの緊張感に水をさしてしまう危険がある。

そこで監督(あるいは原作者?)は、「元から車内に水の入ったコップはあった」と観客の記憶に刷り込み無意識的に(?)納得させる方法を考えた。事前にカオス理論の説明で「水の入ったコップ」を登場させておき、車内に水の入ったコップがあることをそれとなく示して観客にインプットさせる狙いである。あとで考えれば、どうして車内に水の入ったコップがあるのか、ちょっとフシギな気もするが、監督は「カオス理論」の説明をするふりをして(観客の注意をカオス理論の説明に向けさせる事で)、コップがそこにあることを意識させずに(疑問を抱かせず)認識させるというテクニックを使っていたわけだ。これはマジックで使われるレッドへリングとかミスディレクションと呼ばれる手法だ。
本来の狙いは「水の入ったコップを提示する」ことにあるのだが、揺れる車内に水入りコップがあることを不自然に思われないよう、観客の注意は別の目的(レッドへリング=猟犬の嗅覚をまぎらわし誤誘導するために使われた薫製鰊)であるところの「カオス理論の説明」に誘導しておく。こうして、まんまと仕込みを済ませてしまったわけである。




観客の意識に残るのは「チラノサウルス登場のシーン」のような見せ場だ。
こうした【印象に残るシーン】を効果的にみせるための演出というのは誰でも考える。しかし、それを自然に見せるために【さりげない(むしろ印象に残さないように仕組まれた)シーン】で不自然に感じさせないための工夫や計算・処理がなされていることも多い。

ともすると【印象に残るシーン】ばかりが評価・評論の対象に成りがちだが、作品のリアリティやクオリティを支えるのはむしろ【さりげないシーン】にある──と僕は考えている。

※文中挿入画像を使用するためWikiモードで作成
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コメント

No title
『ジュラシック・シック』パークはTVの洋画劇場で観ただけですので大画面の劇場程の迫力はありませんでした。

単純に楽しむSF映画が大好きな私ですので、登場する恐竜達がいかにリアルで本物に近いか、人間が危険に直面した時の恐怖感などのスリルと迫力がどれだけ感じられるかな-?等の期待に胸はドキドキで作品を観ていました。
正直ストーリーにはあまり期待していませんでした^^
でも恐竜への夢はこの歳に成っても持っています。。。
このタイプの映画は大好きです^^結果は「ああ…面白かった^^」です。
でも 劇場で観たかったですね-(^^)
No title
『ジュラシック・パーク』は単純に楽しめる作品ですね。
(単純に楽しめる作品を作る事が一番難しいかも)
特に初めて観たときには恐竜の映像の迫力には圧倒されました。

映像技術的なクオリティでいえば(ノウハウが蓄積した分)、その後に作られた続編・続々編の方が高いのではないかと思いますが、僕はこの第一作の方が好きです。

ストーリーや演出はうまくできていれば、観客は自然に感情移入でき「すんなり観られた」ということになりますが(ストーリーが面白かったと思える作品は技巧的に優れた仕掛けが用意されている)、その点で不備があると「イマイチ盛り上がらなかった」「シラけた」という印象になりがちです。

最近の映画は映像技術的クオリティは高くなったはずなのに逆に盛り上がれない作品が多いように思います。

逆に映像技術は今とは比べようもないですが、昔の映画『失われた世界』なんかも好きだったりします。

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