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《大好き》が一転《不愉快》に!?@読書

子ども時代「大好き」だった作品が一転「酷く不愉快」に!?
ユニークな読書感想系ブログ【ねえねえ フォーマット】の『魔法の時間です』という記事に「へえ!?」と思うことが記されていた。
《子供の頃に何度も何度も読み返した大好きな本を再読したら、酷く不愉快な内容で絶望した》というもの。僕はその作品を読んでいないので想像するのが難しいが、「そういうことがあるのか……」と、ちょっと不思議に感じた。
「子どもの時は平気でさわれた虫が、大人になったらダメになった」という話は時々聞くが、それと似たような現象なのだろうか?
僕には子どもの頃に好きだった作品を嫌悪したり、大人になって虫が嫌いになったという経験はないので、そういった感覚がピンとこない。

僕の場合、子どもの頃に好きだったものは、大人になってもおおむね好きだ。子どもの頃には漠然と抱いていた好感が、大人になってみるとどういうものだったのか理解ができるようになるという、意識化(理解度)の変化はあるものの、好き嫌いの感覚自体はあまり変わっていない気がする。だから、子どもの頃に読んだ作品を読み返すとおもしろさへの理解が進み、納得感が深まる。

童話で言えば小学低中学年のときに読んで感動した『てのひら島はどこにある』は今読んでも感動できる──このことは【佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出】で詳しく述べている。その後、復刊版を入手し【佐藤さとる『てのひら島はどこにある』復刊版】にも記している。
また逆に、子どもときに読んで抵抗があった浜田廣介の童話などは、大人になって読み返しても同じ印象で、なぜ受け入れがたかったのか改めて意識化できたということもあった(こども心にひっかかった《ひろすけ童話》の【善意】)。
01佐藤暁&浜田廣介
他にも、子ども時分に漠然と抱いていた抵抗感が、大人になって読み返して「こういうことだったんだな」と意識化できたものでは、ファーブル昆虫記などもある(ファーブル昆虫記の違和感について)。

映像作品で言えば、子どもの頃に見てワクワクした映画『タイム・マシン 80万年後の世界へ』や海外ドラマ『タイム・トンネル』は、大人になって視聴し直してみてもおもしろく、同じ感覚で鑑賞できた。
02タイムマシン&トンネル
連続ドラマだった『タイム・トンネル』については、設定が面白かったので毎回見ていたが、今ひとつ盛り上がらなかったエピソードや、ヘンだなと思う箇所などもあって、子どもの頃に感じた同じことを大人になって鑑賞した時にも感じた。「基本的には、子どものに感じたことは、大人になっても変わらないものだなぁ」と思ったものである。
だから、(人によっては?)同じ作品の評価が子どものときと大人になってからで真逆になってしまうという現象が、にわかには想像できなかった。

問題のブログ記事を読み進んで行くと──、
《俺には子供ができたと分かった瞬間にガラリと人が変わった覚えがあるから、仮に十数年前と今とで全く同じ物への評価が正反対だったとしても我ながら不思議はないが》という記述があった。
〝子どもができたことで童話を評価する基準が変わった〟ということであれば、なんとなくあり得そうな気がする。そう考えると思い当たることがないでもない……。
僕が同人誌活動を始めた頃、メンバーは若い人が多く、大半は創作を〝趣味〟としてとらえ〝読者である自分が楽しめる作品〟を目指していた。その後、児童文芸の研究会へ出席するようになって、童話を真剣に〝勉強〟している人たちといっしょに作品合評会をするようになって、同人誌時代とのギャップに戸惑ったのを覚えている。児童文学を真剣に勉強している人には、子どもがいる人も多く〝子どもに与えるにふさわしい作品〟を目指している人が多かっように思う。僕が感じていた同人誌時代とのギャップは《読む側(子ども)》ではなく《与える側(大人もしくは親)》の視点に立った創作姿勢の違いに由来するものだろうと解釈していた。
《(読者感覚で)楽しむための物語》と《(与える立場からから)子どものためになる物語》では、作品に求めるもの──評価基準が変わってくるのも無理からぬところだろう。

塾の講師をしながら子どもたちが抱えている問題に向き合い、実在の子どもたちをモデルに児童文学を書いている人がいたが、彼は僕が書くようなファンタジー作品を認めていないようなところがあった。
「ファンタジーというのは現実逃避だ。実際には起こりえない物語に何の意味があるのか。そんなものを読んだところで現実を生きている子どもたちには何の足しにもならない」というようなことを言われて驚いたこともあった。
当時は、児童文学に道徳教育的意義付けを求め、それが作品の価値であるかのように考えている人たちが少なからず存在した。塾の講師も〝読んだ子どもたちの実になること〟が児童文芸には大事だと考えていたのだろう。

僕はこうした考え方には疑問と反発を感じていた。文芸作品に限って言えば、《読書》は《遊びの延長》にあるべきものだというのが僕の位置づけだった。文芸作品に教育的意義付けを求めるのはナンセンス。プロパガンダを目的とする創作は、むしろ〝動機が不純〟という感覚がある(面白さを演出するためにプロパガンダを利用することは可)。
真面目な(?)塾の講師には否定されたが、ファンタジーやSFの中では「現実の《遊び》の中では決して体験できないようなおもしろい《架空の体験》」ができる。そこに作品としての存在価値があると僕は考えていた。

物語は心のシミュレーション
僕の創作観のようなものは、少年文芸作家クラブ(現:創作集団プロミネンス)の会報3号(1985・春)にも書いている。その『物語は心のシミュレーション』と題したエッセイの一部を記すと──、


僕自身は「遊びの延長に位置するもの」を書きたいと思い続けていた。「遊びであって、しかも現実生活では補うことのできない種類の体験」──それが創作物語(フィクション)の醍醐味であり、使命であり、本質であり、存在理由だと考えてきた。
 しかし「遊び」などと言うと、どうも勉強や仕事などに比べて、一段低くイメージされることが多い気がする。
「勉強」ならば、やれば「知識」という代償があり、「仕事」なら「報酬」というふうに、みかえりがハッキリしている。それに対し「遊び」というやつは、一生懸命エネルギーを費やすかわりに「何のために」という目的がハッキリしていないことが多い。「遊び」が低く見られるのは、このためだろう。
 が、しかし、言ってみれば「勉強」や「仕事」のように引き換えるものがあるからエネルギーを費やすというのは当たり前の話で、それ以上の何でもない。
 一方、代償の意識がないにもかかわらず、人の心がひかれるのは「遊び」というものがそれだけ人間の本質に深くかかわった部分から生まれてくるためだと思う。
「遊び」は心が全体性を保ちながら発達していく上での、現実を補償する、重要な役割をはたしているはずである。
 健康な心の発達は、現実世界のみで行われるわけではない、むしろ現実内では失敗やすれちがいなど、さまざまな形で、自由にのびようとする心をおさえてしまうことも多い。
 現実におさえられ、燃焼しきれなかったエネルギーを、燃焼させ、きれいに昇華できる場があってこそ、はじめて人の精神は健康な状態を保っていられるわけである。
 子供の持つはちきれんばかりのエネルギーを、ひきだし発揮できる世界の創造。
 精神浄化の<場>の提供。
「遊び」としての物語の意味は大きい。
 子供たちは日々、現実の生活の中でさまざまな問題に直面し、考えたり悩んだりしている。その状況が深刻であればあるほど、それを補償する世界の重要性もまた大きいはずである。
 ともすると、現実サイドばかりに比重がかかりがちになるが、そうした状況の中でこそ、現実でまかなえなかった面や、現実の中では埋もれがちな部分を引き出し、活性化するための、心のシミュレーションが必要なのだと思う。


今読み返すと、じゃっかん舌足らずな感じもするが、考え方としては当時も今も大きく変わってはいない。
児童文学を真剣に勉強している人たちの中には、親の立場になって《子どもが読む(子どもに読ませる)意義(教育的意味付け)》にとらわれて作品を考えていた人が多かった。そして親になったことで、子どもの時に感じていた作品観が一変することがあるのであれば……当時僕が感じていたギャップ(違和感)が生じるのも致し方ないことだったのかもしれない。

冒頭のブログ記事に記されていた《子供の頃に何度も何度も読み返した大好きな本を再読したら、酷く不愉快な内容で絶望した》──というケースが、僕が想像したギャップにあてはまるかどうかは判らない。取り上げられていた『魔法の時間です』を僕は読んでいないので、よくわからないというのが本当のところだが、《子どもの感性と大人の感性に乖離が生じる》こともある──ということから、思い浮かんだことをつれづれに記してみたしだい。


ねえねえ フォーマット>『魔法の時間です』
舟崎靖子『魔法の時間です』感想
佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出
佐藤さとる『てのひら島はどこにある』復刊版
こども心にひっかかった《ひろすけ童話》の【善意】
ファーブル昆虫記の違和感について
『タイム・マシン 特別版』感想
懐かしの海外ドラマ『タイム・トンネル』
作品評・感想など(映画・本)〜目次〜
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コメント

心当たりがあるゆえに(^^;
 『チャンネルF+』のトップページを開いて真っ先に最新記事の欄を確認したら『《大好き》が一転《不愉快》に!?@読書 (05/01)』と書いてありました。

 「おおっここにもお仲間が♪」と喜び勇んで記事に目を移せば、冒頭に『ユニークな読書感想系ブログ』とのご紹介に与っており、その瞬間、ギャアッとマジで悲鳴を上げました。

 他意は無いと思いたいんですけど、思いたいんですけどぉぉぉwww
※私は『ユニーク』という言葉は悪罵だという教育を受けております(リンク先参照)


 さて『《大好き》が一転《不愉快》に!?』に関し、私の場合は再読した本についての好悪の入れ替わりが珍しくなく、その理由として、昔と今とで読み方が違うからだと考えています。
 ひたすら主人公の冒険譚を追いかけていくか、敵対者の事情や時代背景も俯瞰するか。
 自分だったらどうするか考えながら我が事として読むか、近所のおばちゃん目線で他人事として読むか。
 めでたしめでたし、で満足して本を閉じるか、「で、このあとどうする気なんだろう?」と想像力を逞しくするか。

 ただ、『魔法の時間です』だけは我ながら余りにも極端に感想が変わったので、その原因は自己分析しきれていません。
 拙記事では、自分で自分に掛けた魔法が経年劣化で解けたから、と結論しましたが、何%かは本気でそう思っている。それぐらい、衝撃的な出来事でした。
Re: 心当たりがあるゆえに(^^;
『ユニーク』はもちろん「悪罵」などではありません。
この記事はあらいなかむらさんの記事に刺激されて(記事とは別に)思い浮かんだことを記したもので、あらいなかむらさんの記事を評価したものではありません。
あらいなかむらさんがおっしゃる《私の場合は再読した本についての好悪の入れ替わりが珍しくなく、その理由として、昔と今とで読み方が違うからだと考えています》というのは解る気がします。
あらいなかむらさんのこれまでのコメントから、色々な《読み方》をする方だなぁという印象は持っていました。
僕は「この作品の本質はどこにあるのか」という視点で作品を評価しますが、あらいなかむらさんは「どんな読み方ができるか」と、あえて斜めに(?)眺めてみようとする姿勢がうかがえるように感じていました。そうした視点の変化によって評価が変わるのは当然かもしれませんね。
今回のコメントでも、普通に読めば『ユニーク』は文字通りに解釈できるはずですが、これを「悪罵」という捉え方をするのは、「斜めの視点」だと思います。

本件とは直接関係がありませんが、僕の作品に対する評価の考え方については、過去の記事にちょろっと書いたことがあります……。

●作品批評で評価されるもの
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-220.html

●総括なき多鑑賞
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-229.html

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