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異教徒ならぬ無教徒の死生観

異教徒ならぬ無教徒の死生観

死ぬのは金持ちばかりではない…
「死んでいくのは金持ちたちばかりではないだろうに……」
はからずしも喪主をつとめることになって感じた正直な感想。《死》は誰にとっても不可避なものだ。なのに、どうしてこうも《死ぬと高額な負担》が残された者に課せられることになるのか──。
葬祭関連業の経済活動が組み込まれた文化が確立しているからなのだろう──誰かが死ねば葬儀社のおせわになるのが一般的だ。人が死ねば葬儀会社のルートに乗ってことが運び、高額な費用が発生する。それを負担せざるを得ないというのが実情ではないだろうか。もちろんノウハウのある葬儀会社の至れり尽くせりの対応を「ありがたい」と感じる人も多いにちがいない。しかし、誰もに平等におとずれる《死》なのであるから、実務的な公共機関によるルート──必要最低限の経費で死亡処理をする福祉サービスが選択肢としてあって良いように思う。

死体というのは切除された病変と同じ──全体であるか部分であるかの違いがあるだけで〝死んでしまった組織〟という意味では同じだと僕は考えている。切除された病変と同じ扱いで、遺体もすみやかに処分されてしかるべきだ。遺体に保存処理を行い、見映えを整え、お披露目し、おごそかな葬式を演出することが、誰にとっても必要なものなのかといえば、僕には疑問がある。
それを望む遺族にとっては納得できるコストなのだろうが、信仰を持っていない者にとっては、近しい者が死んだ直後に「意味がわからなぬまま執り行われるおごそかな儀式」にひっぱり回されるのは戸惑うばかりではなかろうか?
立派な葬儀を演出することが故人への供養になるという考え方もあるかもしれないが、信仰を持たない──いわゆる《霊》という概念を用いずに《死》を捉えている僕にとっては、通常の(?)宗教色の漂う葬式は違和感があるというのが正直なところである。

異教徒ならぬ無教徒にも《死》の概念はある
僕は就学前後の頃から「人はなぜ死ぬのか(死なねばならないのか)」「やがて必ず死ぬのになぜ生まれてきたのか」というテーマにとらわれ、子ども心ながらかなり真剣に考えてきた。同時に「(自分が生まれてきた)この世の成り立ち」「この世を認識している意識」についても考えて続けてきた。僕が求めていたのは宗教的な答でも哲学的な答でもなかった。「(死という不安や恐怖から逃れるための)心の安定を目的とする欺瞞」ではない「きちんと納得できる解釈」だった。
ありがちな《霊》という概念を用いて《死》を解釈するのは安易に思われた。その考えに立つのであれば、まず前提となる《霊》の存在を証明する必要がある。僕は《霊》という概念を持ち込まずに生死のテーマを解釈してきた。宗教的な解釈や信仰とは違うが、それなりに《死生観》や《世界観》は持っているつもりでいる。
僕の認識では、その人をその人たらしめている《意識》あるいは《心》(《霊》あるいは《魂》にあたるもの?)は、生きて活動している間のみ存在するもので、生まれる前には無く、死んだ後も存在しない。
よく《死後の世界》がどんなものか云々されることがあるが、それは《生まれる前》と同じと考えればわかりやすい。〝自分〟は生まれる前にはいなかった。死んだ後も同じである。「自分の存在を認識している意識」は、生きている期間限定のものであって、その人の死をもって消失(失効)する。死後に残る(残せる)のは、その人が成した実績や教え(考え方)だけであって、《魂》は残らない。
そう考える異教徒ならぬ無教徒にとって、終焉後の遺体に手を加え故人(の霊)がまだそこに存在し続けているかのようにふるまう儀式は虚しいだけだ。「そこにはもう〝いない〟」とわかっている抜け殻に手を合わせるのは、いたたまれないものがある。無教徒の死生観に《霊》は存在しない。

実在しない《霊》はデフォルト概念/ダミー・イメージ
子どもの頃から人の《死》について考えていた僕も《霊》という概念が一般的なもので多くの人が共有していることは知っていた。それは実在しないという結論には早い時点で到達していたが、「それではなぜヒトは実在しない《霊》を信じているのか」という疑問があった。これについては【人はなぜ《霊》を感じるのか】で簡単に記しているのでここでは割愛する。
僕が思うに──人が感じる《死んだ人の霊》というのは、そう感じる人の心の中に形成された故人の《ダミー・イメージ》の投影だろう。故人の《霊》は、故人を偲ぶ人の心の中にのみ存在している《デフォルト概念》といえよう。つまり〝死者を弔う〟とか〝霊を慰める〟といった葬儀は、本当は故人ではなく、遺族・友人などの生きている人(投影者)を慰めるための儀式だと僕は考えている。
実体のないデフォルト概念であったとしても《霊》を信じる人にとっては(主観的には)実在しているのと同義なのだろうことは僕にも理解できる。だから信仰や宗教を否定するつもりはないし尊重もしている。ただ、僕の立場は、それらのメジャーな宗教とは違うということである。
僕の考え方を「けしからん!」と怒る人もいるだろうが、少なからず共感してくれる人もいるのではないか? メジャーな宗教観とは違う、こうした無教徒・無信仰者の立場も尊重されて良いのではないか──というのが、この記事を投稿する動機となっている。

宗教誕生の背景的基盤は《ヒトは死を怖れる》という特性
世界にはまんべんなく色々な宗教が浸透していることだろう。地域や民族によって違いはあれど、その起源はおそらく《死者を弔う》ことにあったのではないかと素人想像している。「《死》という概念を持ち、これを怖れる」ことがヒトの特性であり、「《死》への恐れや不安を緩和し回避する策」として《霊》を慰める宗教的解釈&儀式が生まれ、それぞれ進化していったのだろうと想像している。
僕が幼少の頃に「人はなぜ死ぬのか(死なねばならないのか)」「やがて必ず死ぬのになぜ生まれてきたのか」というテーマにとらわれたのも、もとは《死》への恐怖心からだった。あるとき「自分も(いつかは)必ず死ぬ」という事実に気づき、死刑宣告を受けたような衝撃を受けた。「決して逃れることができない《死》」に向かって、日々刻々と近づいていることを知って絶望感すら覚えた。
しかし、考えてみれば、生物である人間が生まれ・死んでいくのは自然現象として、ごくあたりまえのことだ。それを受け入れがたいことのように感じてしまうひねくれた(?)ヒト独特の感性の方にむしろ問題があるのではないか──物心がついてくると、そのように考えるようになった。そして「ヒトが死を怖れるのはなぜだろう?」と思いを巡らし、自分なりに解答を得たつもりでいる。その解釈については【昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?】でざっとだが記している。
いずれにしても《死を怖れる》というヒトの特性が《霊》というデフォルト概念と結びつき、《宗教》という補完需要(?)に繋がったのだろうと僕は考えている。

死生観を含めた世界観の再構築
そんなわけで、幼少の頃に《死》や《この世の成り立ち》などについて半ば強迫観念にさいなまれるように考えていた時期が僕にはあったわけだが、そのきっかけについては思い当たることがないでもない。
僕の母は鬱病で精神科にかかっていたことがあって、おそらく自殺を心配してのことだろう──入院していた時期もあった。実際に最期はそうなることになるのだが……僕が子どもだった頃、鬱状態の母が自殺をほのめかすのを聞いた記憶が残っている。幼少時に意識するようになった死に対する不安や恐怖の一因はここにあったのではないかという気がしないでもない。

鬱病は今でこそ身近な病の1つとして認識されているが、僕が子どもの頃には少々エキセントリックだった。子どもたちの間では、そうした患者がいる病院を狂人を意味する差別語をあてて○○○○病院と呼んでいた。当時は言い争いやケンカになると「バカ」と同じような意味合いで「○○○○」という言葉も平気で投げつけられていて、僕も近所の子に「○○○○」と言われたことがある。「僕は○○○○じゃない!」と反論したところ、「○○○○には自分が○○○○だということが、わからないんだよ」というようなことを言い返されて意表を突かれたように感じたことを覚えている。はたして、それは本当なのか? 僕は自分が正常だとばかり思っていたが、それがただの〝思い込み〟でないと、どうして言えるのか──自分が何の疑いもなく信じ込んでいた常識が根底から揺らいだ。母親が○○○○病院にかかっているなら、僕が○○○○であっても、ちっともおかしくはない……そんな気がした。この一件で、僕の世界観のようなものは1度崩壊した気がする。
自分の頭は正常なのだろうかという不安の中から「それなら《正しさ》とは何なのだろう?」と《正しさ》を測る基準を再構築したところが僕にはある。そのことは【僕は宇宙の常識人!?】で記している。自分なりの価値観を再構築してきたことで、「まずは自分の頭で考える」ことが優先され、既成の概念を素直に(?)受け入れにくくなったということは言えるだろう。《死》についての概念も、宗教的解釈より前に自力で構築してきた概念があったことで、既成の葬儀感覚に対して「なじめなさ」を強くしたということはあったように思う。

虫を見て《この世の成り立ち》を感じる
《死》について考えるようになると、それでは《自分が生きていると感じているこの世界》とは、いったい何なのだろう?──ということについても考えを広げざるをえなくなる。《この世の成り立ち》を知る上で手がかりとなるのが、さまざまな自然現象──特に不思議に感じられるところが考察の糸口になる。
このブログでは虫をとり上げた記事も多いが、昆虫への興味の根っこには《この世の成り立ち》に対する興味がある。そのあたりのことは【昆虫の何に魅かれるのか?】にも記している。
一見、奇跡のように感じられる昆虫の多様な進化がどうして成立し得たのかということについては関心があり、ふと思い当たるところを記したのが【ドラゴンを折って昆虫進化の奇跡を思う】という記事だったりする。
この世の一見不可解な現象に目をとめ、なぜ・どうしてこれが成立しているのかという【機能】を解明することが《この世の成り立ち》という【システム】を知る手がかりになる──僕はそう考えている。
そんな思いから、昆虫以外にも、自分なりに《なぜ・どうして》と気になったことを自分なりの解釈でブログ記事にしてきたのである。



人はなぜ《霊》を感じるのか
昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?
僕は宇宙の常識人!?
昆虫の何に魅かれるのか?
ドラゴンを折って昆虫進化の奇跡を思う
子どもはなぜヒーローが好きか
時間の加速感
時はどんどん加速する
長生きほど人生は短い!?時間の逆転現象
記憶層と忘却の浸食
人はなぜ宝くじを買うのか
髪はなぜ伸び続けるのか?
ヒトはどうして眠るのか?〜ロボットの反乱&自意識の覚醒
変化球の思い出
葬儀嫌い
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コメント

No title
葬式に関しては、最近は直送というのもありますよ。
死に対する考え方は大体同じですが、葬式に関してはそれなりに普通で良いかなと思ってます。無宗教だけど。
Re: No title
今回は直葬でお願いしました。それでも違和感は少なからず……。
No title
不幸があったのは最近のことなのですね。
コロナ禍ですし、大変だったことと思います。
ジェンダーなど多様性が認められているこのごろですが
お葬式については、無宗教枠というのがまだまだ少ないですね。
直葬というのは一番簡素なイメージですが、それでもやはり喪主というのは必要で、けっこうな負担がかかるのですね…

鬱病の件、うちの親もとても似ていて、お気持ちが分かります。

Re: No title
入院期間が1ヶ月半ほどあったのですが、新型コロナの影響で面会が許されたのは2回だけでした。
人が亡くなったとき、(喪服を必要としない)完全に事務的な処理ができる公共サービス枠があってしかるべきではないか……と感じたしだいです。
このあたりの多様性感覚は、宗教・宗派や人によっても、ずいぶんと違うんでしょうけど。

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