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佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出

佐藤暁・作『てのひら島はどこにある』の思い出
〜姉妹作『だれも知らない小さな国』との大きな違い〜
01てのひら島はどこにある
僕が初めて1冊読破した物語は『てのひら島はどこにある』という童話だった。小学2〜3年生の頃だったと思う。家族でデパートへ行ったとき、平台の上に置かれていたこの本が目にとまった。作者は〈佐藤暁〉(当時はオール漢字表記)、挿絵は池田仙三郎さんのものだった。僕は読書が好きというわけではなく──というより、どちらかといえば嫌いな方だったが、何かひかれるものがあったのだろう。手にとってなんとなく「おもしろそうだ」と感じて、買ってもらった記憶がある。「せっかくデパートに来たのだから何か買ってもらわなきゃソンだ」というような気持ちも働いていたように思う。
「おもしろければめっけもん」くらいの気持ちで読み始めた『てのひら島はどこにある』だったが……すぐに物語に引き込まれた。そしてなんと一息に1冊読み終えてしまった。そんなことは初めてだった。「コクワガタでも見つかればめっけもん」と思ってのぞいた木に思いがけずオオクワガタを発見したかのようなような(?)高揚感があった。
これが僕にとっては初めて感銘を受けた衝撃の一冊となったわけだが……どのような作品だったのか、内容を紹介すると──、

『てのひら島はどこにある』のあらすじ(長め)
『てのひら島はどこにある』は子どもにも違和感なく自然に読める作品なのだが、概要を説明しようとすると、少しややこしい。本編の中に話中話として《虫の神さま》(姉妹作『だれも知らない小さな国』のコロボックルにあたる)が登場し、この本編を「はじまりのはなし」と「おしまいのはなし」で登場するおばあちゃんが語っているという3重構造になっている。
02てのひら島3重構造
作品冒頭の「はじまりのはなし」では、町外れに摘み草にきていた〈おばあちゃん〉が、その孫らしい〈女の子〉に「てのひら島」という話を始める。双子の姉を持つ太郎と言う子の物語──その「おはなし」の内容が本編ということになる。

本編の主人公は太郎だが、太郎のおかあさんの視点で物語は始まる。太郎(1年生)と双子の姉(3年生)のケンカが絶えず、おかあさんは困っていた。原因は太郎のイタズラで、姉は2人がかりでもかなわず泣きべそをかいている。お母さんは、太郎には「いたずら虫(妖精や魔物のような小さな神様)」がとりついているのではないかと想像する。すぐにベソをかく双子の姉についているのは「泣き虫」だろう。おかあさんは他にも色々な「虫の神様」を想像していく。弱虫・仕事の虫・勉強の虫=点取り虫。のんき虫・ぼんやり虫・いばり虫・きどり虫・おこり虫・てれ虫・すね虫・よくばり虫・ひがみ虫・やきもち虫・ひねくれ虫……。虫の神様たちが、つついたり咬んだり刺したりつねったりすることで、こどもたちはイタズラをしたり泣きだしたりする──。
おかあさんは、いたずら虫にとりつかれた太郎が、ひねくれ虫にまでとりつかれてしまったら大変だと考え、(ひねくれ虫にとりつかれないように)自分が考えた「虫の神様」の話を子どもたちに聞かせることにした。太郎や双子の姉が知っている実際にあったエピソードもでてきて、それには虫の神様がからんでいたという物語である。
太郎と2人の姉は、自分たちの身近にいるという、自分たちの分身のような虫の神様に関心をしめす。そしてそれぞれが自分のお気に入りの「虫の神様」──太郎は〈いたずら虫のクルクル〉、双子の姉は〈泣き虫のアンアンとシクシク〉を主人公に、物語の続きを勝手に創りはじめてしまった。今で言えば二次創作という現象だろうか。「虫の神様」はおかあさんの手を離れ、子どもたちの心の中に根付いてそれぞれ独自のストーリーを展開していくのだった。

小学3年生になった太郎は「虫の神様」の話を口にしなくなっていたが、決して忘れていたわけではなかった。その年の夏休み、太郎は朝から木イチゴ探しにでかける。ところがお目当ての《すばらしいごちそう》を見つけることはできないまま、自分でも気がつかないほど遠くまで来てしまっていた。空腹で苛立っていた太郎はカラス除けのガラス瓶に八つ当たりしようと、手直にあった青いトマトをもいで投げつける。それを畑の持ち主のお爺さんにみつかり、お仕置きを受けることに──お爺さんはトマトをもいだ太郎の掌の上に、煙草の火を落としたのだ。すぐに振り落とすこともできたが、太郎は掌の上の煙草の火が灰になるまでがまんする。それを見ていたお爺さんは太郎の根性を褒めてから、「熱かったろう。だが苦労して育てたトマトをもがれ、わしも心がカッと熱くなった。もがれたトマトも熱かったろう」と話し、太郎も納得して素直に謝る。するとお爺さんは仲直りして友だちになろうと提案。太郎が木イチゴ探しにきて見つけられなかったことを知ると、本物のイチゴをごちそうすると言う。
お爺さんは元船乗りで、引退してから海が見える場所に家を建てて暮らしていた。そんな身の上話をしながら太郎を、テーブルと椅子が置かれたネムノキの木陰に案内すると──木の上から女の子が現れる。ヨシボウと呼ばれた目の大きな女の子はお爺さんの孫で1年生だという。太郎はヨシボウとイチゴを摘みをすることになる。このとき、太郎はちょっとしたイタズラ心を起こしてヨシボウをからかうのだが、ヨシボウは烈火のごとく怒りだし、しまいには泣き出してしまう。あまりのけんまくに太郎は「怒り虫にとりつかれているみたいな子だな」と思い「きっとそうだ。〈怒り虫のプン〉は、この子の家にいたんだ」と考える。
つまらないことでケンカをした2人は、おじいさんが作ってくれたイチゴミルクを気まずく食べるが、仲直りのきっかけを作ったのが《虫の神様》だった。太郎はヨシボウが怒って泣いたとき、泣き止んだら面白い話をきかせるからとなだめていたのだが、ヨシボウはもう泣き止んでいるのだからと「面白い話」をねだったのだ。太郎はそれまで誰にも話さずにいた秘密の《虫の神様の物語》を披露する。
ヨシボウは〈おこり虫のプン〉に関心をしめし、太郎が話し終えると、プンが欲しいとつぶやく。太郎が〈いたずら虫クルクル〉の話を作ったように、自分もプンの話を創ってみたいというのだ。太郎も〈おこり虫のプン〉は元々ヨシボウのところにいたのだろうと言って〈プン〉をヨシボウにあげる。こうして虫の神様の話が、きっかけとなって2人は仲直りをしたのだった。

その日帰宅した太郎は、一日中太郎の行方を心配していたお母さんにひどくしかられ、夜にはその一件を知ったおとうさんに呼び出された。おとうさんは太郎の〝おしおきの痕〟を見ると、水ぶくれを残して掌に墨を塗り紙に押し当て手形をとった。この手形を机の前に貼って、見るたびに今日のことを思い出し、後先のことを考えて行動するようにと諭したのだった。

太郎は自分の手形を見ているうちに、それが島の地図のように思えてきた。指紋が山などをあらわす等高線で、掌紋の筋が川、塗り残したやけど痕は湖というぐあい。太郎の頭の中に「てのひら島」を舞台とする虫の神様たちの物語が展開する。
おかあさんや姉さんには話すことをしなくなった「虫の神様」の話を、なぜか太郎はヨシボウには聞かせてやりたいと思うようになり、ある日、《てのひら島の地図(手形)》を持ってヨシボウの家へ訪ねていくことにした。ヨシボウに会ったら怒り虫プンの話も聞いてみようと楽しみにしていたのだが……さんざん探し歩いたのに太郎は、とうとうヨシボウの家を見つけることができなかった。太郎には消えてしまったヨシボウが「てのひら島」に行ってしまい虫の神様たちに囲まれて暮らしているように感じられた。
ヨシボウに会えずに帰った太郎は手形を机の奥にしまい込み、「てのひら島はどこにあるのだろう」と考えるようになった。

ここでいちど物語は終わりかける。演劇で言えば幕間(まくあい)だろうか……舞台は本編から離れ、「はじまりのはなし」の草摘みにきていたおばあちゃんと孫娘の次元に戻る。日がかげってきたので、おばあちゃんは「おはなし」を打ち切って帰ろうとしたのだ。聞き手の女の子は続きをせがみ、おばあちゃんは、話を続けることになった。
そして舞台は新しい幕を開け、〝15年後〟の本編に戻る──。

夏の暑いさかりに山の中からひとりの若者があらわれる──これが15年後の太郎なのだが、作中では「わかもの」として描かれている。彼は測量技師で、学校の建設予定地を下見にきていたのだが、道に迷ってそんなところに出てきたしまったのだ。若者は近くに井戸があることに気づき、水を汲みにきていた娘さんに冷たい水を飲ませてもらう。その井戸は枯れたことがなく、娘さんは近くの家から水を調達に来ていたのだった。事情を聞いた若者は井戸をのぞきこんで水位を測ると、娘さんの家の高さを確認した。そして井戸からパイプをひくだけで(サイホンの原理で)ポンプいらずの水道ができると話すと、娘さんは〝考えたこともなかったアイディア〟に感心する。若者は水を飲ませてもらった御礼にバケツの水を運んであげ、娘さんは町への道を教えるために若者を案内する。その途中──ネムノキの下を通りかかった若者は急に立ち止まってあたりをみまわす。そんな若者をふしぎそうに見つめる娘さんに向かって言った。「そうすると、もしかしたら、きみはヨシボウじゃないか?」
困惑の表情を浮かべた娘さん──すっかりきれいにな娘さんになっていたヨシボウの顔が輝き、大きな目が見開かれた。「あたしに〈おこり虫プン〉をくれた人でしょ?」──ヨシボウも太郎のことを、虫の神様のことを覚えていたのだ。
たった1度だけの出会いから15年ごしの再会──2人は互いに〈いたずら虫クルクル〉と〈おこり虫プン〉が元気でいることを報告しあう。
そしてヨシボウと握手をしたとき、太郎は、「てのひら島」がどこにあるのか、わかったような気がする。「こいつは今、ヨシボウの手のなかにあるじゃないか!」

ここで本編は幕を閉じ、「おしまいのはなし」になる。おばあちゃんの話に聞きいっていた女の子は「てのひら島って、太郎の手のことだったの?」とたずねる。「そうよ。あんたには、まだよくわからないでしょうね。でもきっといまにわかるようになりますよ」とおばあちゃんは答えた。
女の子は「今の話、あたしのうちのことに、よく似てると思わない?」とたずねる。女の子のお父さんは測量技師で双子の姉がいることや、お母さんの実家からは海が見えることなど、「てのひら島」の話に符合する点がいくつかあったからだ。おばあちゃんは答えずに笑っていた。

ここで『てのひら島はどこにある』の物語は本当に終わる。
つまり、「はじまりのはなし」や「おしまいのはなし」に登場し「てのひら島」の話を聞いていた女の子は、太郎とヨシボウの子であり、話していたおばあちゃんは太郎の母親──最初に虫の神様の話を考えた人だったのだ。

元々は空想だった「虫の神様」がとりなした、不思議な運命──太郎とヨシボウは本編のあと、結婚してこの女の子を設けていた! そのきっかけの話を作った太郎のおかあさんは、今やおばあちゃんになって孫──太郎の子どもに、「虫の神様」の話を聞かせている……実際は存在しない架空の「虫の神様」が人の運命に大きく関わり、次の世代にも受け継がれていく──小学2〜3年生の頃に初めて『てのひら島はどこにある』を読んだ時は衝撃ともいえるほど激しい感動を覚えた。いま読み返しても、この童話にはジンとくるものがある。

『てのひら島はどこにある』から『だれも知らない小さな国』へ
『てのひら島はどこにある』に感銘を受け、僕はこの本が大いに気に入った。読書好きの子なら、すぐに同じ作家の他の作品を探して読むところだろうが、当時その発想はまったく無かった。僕が気に入ったのは『てのひら島はどこにある』という物語であり、作家や他の本には関心が向かなかったのだ。

それがらしばらく経って……書店で『だれも知らない小さな国』という本を目にしたのは中学生の頃だったように思う。〈佐藤さとる〉という表記を見て「ああ、これは、『てのひら島はどこにある』の作者だな」と気がついた。なにか懐かしいものに出会ったような気がして、「おもしろそうだったら買わねばなるまい」──と意気込んで手に取ってみたのだが……どうやら小人が出てくる話らしいと知ってテンションが下がった。「なんだ、これは《おとぎばなし》か……」とガッカリして棚に戻した記憶がある。当時は実在感のあるファンタジーは想像できなかったのだ。
それでも本屋へ行くたびに、『だれも知らない小さな国』というタイトルが気になり、「どんな話だろう?」と手に取っては「……でも、小人がでてくる《おとぎばなし》じゃなぁ……」と書棚に返すことを幾度となくくり返していた。そのうち「気になってしかたないなら、買って読んでみれば、どんな話かハッキリする」と心を決めて購入した。この時はまだ半信半疑で、これが「柳の下の2匹目のドジョウ」になるのか!?──といった心境だった。
ところが読み始めてみると『てのひら島はどこにある』のときと同じように作品世界に引き込まれ、やはり一気に読まされてしまった。《おとぎばなし》とは全く次元の異なるリアルな世界で展開されるファンタジーに驚き、感銘を受けたのだった。

姉妹作の類似点と相違点
『だれも知らない小さな国』は主人公の少年(やがて青年になる)と小人=コロボックルとの出会いを描いた作品だ。物語全体の雰囲気は『てのひら島はどこにある』とよく似ている。それもそのはず──当時なかなかまとめることができずにいた『てのひら島はどこにある』の旧構想を、新たな視点で再構築したのが『だれも知らない小さな国』だったらしい。僕が読んだのは『てのひら島はどこにある』(1965年)が先だったが、発行は『だれも知らない小さな国』(1959年)の方が早い。
『てのひら島はどこにある』は着想から完成まで15年かかっているそうで、その間に『だれも知らない小さな国』が発行されている(こちらは本になるまで足掛け5年かかったらしい)。
この2つの作品の大きな違いは、『てのひら島はどこにある』では《虫の神様》が〝想像上の存在(実在しない存在)〟として描かれているのに対し、『だれも知らない小さな国』の《コロボックル》の方は〝実在の存在〟として描かれている点だ。実際には存在しないコロボックルが実在する世界を描いているわけだから、『だれも知らない小さな国』はファンタジーということになる。
『てのひら島はどこにある』の方は非ファンタジーで、色々なエピソードをうまく組み込むために3重構造というこみいった形をとっており、物語の視点(主人公?)も、おばあちゃん・おかあさん・太郎・虫の神様・若者など使い分けられている。紹介した〈あらすじ〉が長くなったのは色々なエピソードが絡み構造が複雑だったためでもある。
これに対し旧構想をリセットして再構築された『だれも知らない小さな国』では一環して主人公の視点で描かれ、その世界も統一されていて、より洗練されている印象を受ける。

創作の経緯から察すると、魅力的な素材でありながらまとめるのが難しく何度も頓挫していたという『てのひら島はどこにある』の旧構想──これを新たな設定で整理し直し、ファンタジーに昇華させたのが『だれも知らない小さな国』だった──作者の佐藤さとるはそのつもりだったのだろうし、実際にそうだった。『だれも知らない小さな国』は──これはこれで完成された素晴らしい作品で、欠けているところはない。
ただ、棄てたはずの旧構想の中に『だれも知らない小さな国』では描かれていない重要なエッセンスがとり残されていた……と僕は見ている。だからこそ佐藤さとるは『だれも知らない小さな国』を完成させた後も、旧構想に未練を感じ、けっきょく『てのひら島はどこにある』をまとめあげることになったのだと思う。

『だれも知らない小さな国』のあとがきで、佐藤さとるは次のように記している。


 しかし、ほんとうのことをいうと、わたしがこの物語で書きたかったのは、コロボックルの紹介だけではないのです。人が、それぞれの心の中に持っている、小さな世界のことなのです。人は、だれでも心の中に、その人だけの世界を持っています。その世界は、他人が外からのぞいたくらいでは、もちろんわかりません。それは、その人だけのものだからです。そういう自分だけの世界を、正しく、明るく、しんぼうづよく育てていくことのとうとさを、わたしは書いてみたかったのです。

この気持ちが『だれも知らない小さな国』のを書く動力源になったのだろうことは理解できる。佐藤さとるは心の中に芽生えた、小さな魔物を大事にしんぼうづよく育ててコロボックルの物語を完成させた──このことを言っているのだろう。しかし、この動機がよりピッタリとあてはまるのは、むしろ『てのひら島はどこにある』の方だ。
というのも、コロボックルという小人族が〝実在〟したら──これは世界を揺るがす大事件であり、これはもう《その人だけの世界》《その人だけのもの》では片付けられない。コロボックル発見にかかわった主人公の人生が、このことで影響を受けるのは当然といえる。
これに対し、『てのひら島はどこにある』の「虫の神様」は〝架空の存在〟──これこそ《その人だけの世界》《その人だけのもの》である。この、《実在しない心の中だけの存在(虫の神様)──ささやかな幻が現実の人生に大きく作用し決定づける役割りを果たしていた》……ここに不思議な感慨がある。小学生だった僕が感銘を受けたのは、そこだった。

《実在しない幻(虚構)が現実の人生に大きく作用する》ということで言えば、O・ヘンリーの『最後の一葉』(現実には残っていなかった〝最後の一葉〟が病床の娘の命を救う話)やF・ムンテヤーヌの『一切れのパン』(実在しない架空のパンが主人公を救う話)で受けた感銘にも、共通するところがあった(*)。
《実在しないものが実在する者に及ぼす力》──これはとても不思議で尊いもののようにも感じられる。これは『てのひら島はどこにある』にあって、(設定が変わった)『だれも知らない小さな国』にはなかった種類の感銘といえる。

作者の佐藤さとるはおそらく『だれも知らない小さな国』を執筆していた時点では、この変質に気がついていなかったのだと思う。『だれも知らない小さな国』が完成した後、旧構想の中に置き忘れてきたものがあるように感じ、その未練からけっきょく『てのひら島はどこにある』の方も完成させることになって、ようやく肩の荷を下ろしたような気持ちになれたのではないか……。

『だれも知らない小さな国』と『てのひら島はどこにある』との大きな違いはファンタジーであるか否か──そう考える人が多いだろう。もちろんそうなのだが、じつは感銘の質にも微妙にして大きな(?)違いがある──僕はそう考えている。
佐藤さとるが描きたかった〈身近にいる小さな魔物〉が〝架空の存在〟から〝現実の存在〟にシフトしたことで、物語はそれにふさわしい形に変化し、素晴らしいファンタジー作品への昇華を果たした。その一方、旧構想にはあった《その人だけの世界》《その人だけのもの》に由来する感動からは遠ざかってしまった……ここにも大きな違いがある。
実在する小人族に出会うという奇跡のような体験は誰にでもできるものではない。《だれでも心の中に、その人だけの世界を持っています》というあとがきの言葉は、むしろ『てのひら島はどこにある』にふさわしい。実在するコロボックルと友だちになるのは無理でも、「虫の神様」のようなたあいもない想像は誰でにでもできるし、していることだからだ。内的な想像世界の大切さをよく表しているという点において『てのひら島はどこにある』には『だれも知らない小さな国』とはまた違った共感と感銘がある。
《誰でも夢想する、たあいもない想像が、人の出会いやその後の人生に大きくかかわることがある》──『てのひら島はどこにある』で僕が受けた感銘の核心はそこにあったような気がする。

《想像の産物》の影響力
小学生の時に『てのひら島はどこにある』で感銘を受け、中学生の時に『だれも知らない小さな国』で再び感銘を受けた僕は「この作家の作品はおもしろい!」という認識に至り、それからは本屋めぐりをして佐藤さとる作品を見つけると買っては読んでいた。
そして僕自身も、日常を舞台とするファンタジー童話を書くようになって、同人誌活動をしたこともあった。このブログにも短い作品をいくつか収録している。
その出発点が『てのひら島はどこにある』にあると考えると、虫の神様は、太郎やヨシボウの人生ばかりでなく、読者であった僕の人生にもいくばくかの影響を及ぼしているともいえるのである。


佐藤さとる『てのひら島はどこにある』復刊版
《イタチの魔かけ》と《鼬の目陰》 ※佐藤さとる・作『いたちの手紙』
糞の手紙!?〜イタチの粗相考 ※『いたちの手紙』と『いたちのてがみ』
一切れのパン/最後の一葉@教科書の思い出
同人誌回顧録
創作童話・ショートショート・漫画メニュー
作品評・感想など(映画・本)〜目次〜
エッセイ・雑記 〜メニュー〜
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コメント

てのひら島にも手相はあるのかな
 こちらの記事にて興味を持ち、『てのひら島はどこにある』を図書館にて予約。読了いたしました。
 記事を読んで期待した以上に、心に残る、とてもいいお話でした。

 物語全体の流れもさることながら、誰より太郎のお母さんが素敵だと思います。太郎のイタズラが悪化しないように、叱るのでもなく諭すのでもなく、物語を与えて太郎自身に考えさせようとした、その創造力と心の余裕は、私も一人の親として、是非見習いたいものです。

 で、お母さん。息子と嫁に、出会いの仔細を根掘り葉掘り聞いたんかw
Re: てのひら島にも手相はあるのかな
読まれましたか。いい話ですよねぇ。
記事を記した甲斐がありました(笑)。

佐藤さとるは有名なので図書館へ行けば読むことがでると思うのですが、『てのひら島はどこにある』は大手書店でも在庫切れのところが多いようで、「こういう良い本は大手書店には常備しておいて欲しいなぁ」などと思っています。

教科書で取り上げる文芸作品には、「なんでこれを?」と首を傾げたくなるものがありますが、佐藤さとるの短い作品なんかは、万人に受け入れられやすそうな気がします。

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