FC2ブログ

『谿間にて』と北杜夫氏の印象

谿間にて@夜と霧の隅で
『谿間にて』を収録した新潮文庫『夜と霧の隅で』のカバー表紙と裏表紙の内容紹介&収録作品

『谿間にて』と《どくとるマンボウ》北杜夫
『谿間(たにま)にて』は強く印象に残る作品だった。作者の北杜夫氏が亡くなったのは2011年10月24日。死去の報道を知って記していた『谿間にて』の感想&一度だけお見かけした北杜夫氏の印象についての記事の再録。

    *    *    *    *    *    *

作家・北杜夫氏の訃報をいくつかのニュースで知った。腸閉塞が原因で24日に亡くなったそうだ。84歳だったという。
【昆虫】でブログ検索すると北杜夫氏の死を痛む記事がものすごく多いことに驚く。虫屋さんには(にも?)北杜夫の愛読者が多いのだろうか。人気の「どくとるマンボウ」シリーズには「昆虫記」もある。虫屋さんなら読んでいるのかもしれない。
少し前には新種昆虫に北杜夫氏にちなんだ学名「ユーマラデラ・キタモリオイ」/和名「マンボウビロウドコガネ」が命名された──というニュースもあった。

僕は虫屋ではないし愛読家でもないので、北杜夫氏の本は中学生の頃(だった気がする)『船乗りクプクプの冒険』を読んだきりだった。だいぶ後にニフティの昆虫フォーラムに出入りするようになって、超遅ればせながらそこで知った『谿間にて』(新潮文庫『夜と霧の隅で』に収録)を読んで衝撃的な感銘を受けた。「ユーモア」系の「どくとるマンボウ」のイメージとはかけ離れた作品で、リアリティと幻想性を併せ持つ不思議な味わいのある逸品だった。

『谿間にて』の舞台は終戦翌春の上高地。高等学校の学生だった「私」は、秋の洪水で変貌を遂げた谿間(たにま)に入り、人がいるはずのないような場所で独り穴を掘る奇っ怪な男に遭遇する。
この男の話す奇妙な体験がこの作品の核心となるのだが……男は蝶の採集人をしていたことがあり、台湾で超珍種のフトオアゲハを目にして執念の採集劇を展開していた。
ひとり山中にとどまり、雨に打たれ、下痢にみまわれ、熱に浮かされながらも幻の蝶を求める過程が綴られていく。情景は目に浮かぶようにリアルであり、男の行動や心理の動きも生々しい迫力をもって伝わってくる。熱病に冒されもうろうとしながらもフトオアゲハに執着する男──そして、その意外な顛末……。ものすごく実在感ががあり、リアルだからこそ幻想物語のようでもある。

僕はこの作品を初めて読んだとき、映画『白鯨』(メルヴィルの原作小説は読んでいないので)のイメージが思い浮かんだ。幻の蝶フトオアゲハにとりつかれた男が、幻の白いクジラにとりつかれたエイハブ船長のイメージと重なった。両作品とも主人公の「私」の視点で「とりつかれた男の鬼気迫る執念」が描かれている。内容は全く別物だが、雰囲気に似ているところがある。

『白鯨』は夢がヒントになって生まれた作品だと読んだ記憶があるが、『谿間にて』の着想も似たようなものだったのではないか。夢そのものではないにしろ、意識力が後退し無意識の活動が高まったときにインスピレーションによって閃いた着想だったのではないかという気がする。
物語の着想には意識を集中して考え抜いてひねりだす物と、心の空白にふっと浮かぶインスピレーションによるものがあるが、『白鯨』も『谿間にて』も後者のタイプのように思われてならない。書こうと思って書けるタイプの作品ではなく、インスピレーションという形で降臨する希有な作品である。


ところで僕は、北杜夫氏を一度だけお見かけしたことがある。2001年、第5回海洋文学大賞の贈呈式で特別賞(プロ作家のこれまでの実績で選ばれる)を受賞された北杜夫氏がスピーチに立たれたときだ。
この贈呈式ではいくつかの部門で受賞作者が表彰されるのだが、この年の式典は印象に残っている。

特別賞の前には一般公募の部門で大賞に選ばれた某氏が「受賞の言葉」を述べていたのだが、このスピーチには驚かされた。
選考委員でもある曾野綾子氏や北方謙三氏ほか中堅作家達、特別賞受賞の北杜夫氏、清子内親王殿下らの目の前で「受賞の知らせを聞いたときも、さほど嬉しいとは思わなかった。書いている時点で賞はもらえるものだという自信があったから、受賞の知らせはノルマを一つクリアしたくらいにしか感じなかった」というような事を平然と言ってのけたのだ。

ふつう受賞のスピーチと言えば謙遜して自作を選んでくれた選者・関係者に感謝の意を表するものだろう。自分が応募した作品にいくら自信があったとしても、それが選ばれるかどうかはまた別の問題だ。まともなコンテストの場合、駄作が受賞する事はまず無いが、良い作品であれば受賞できるかといえばそうとも限らない。賞の選考システムにもよるが、大賞作より優れた作品が1次予選で落ちる可能性だって無くはない。
そもそも素人が「自分の作品に自信がある」と考える事、そしてだから「選ばれて当然」などと考える事、ましてや受賞スピーチで大先輩達を前にそれを得意げに話すなど、世間知らずというものだ。
某氏はかなり自己評価が高い人物らしく、自信満々の手前味噌なスピーチが続き、会場にはかなり冷ややかな空気が漂っていた。

僕は某氏の受賞作品を読んでいなかったから作品自体の評価はできないが、「この人に人を面白がらせたり感動させる作品が書けるのだろうか?」と疑問にさえ思ってしまった。
余談だが、作家に必要なのはいわゆる国語力としての文才ではなく、印象管理の心理学(?)だと僕は考えている。
美しい文章を書ける文才があればそれにこしたことはないが、伝えたい事をわかりやすく伝える文章が書ければ小説やノンフィクションは書ける。わかりやすく書く事は文才が無くても時間をかけて推敲すればできる。肝心なのは、(ストーリーや構成を含め)自分の書いたものを読者が読んで、どう感じるか──それを想像し、読者の印象を好ましい方向にコントロールする能力である。
得意げに受賞作についてプロモーションし続ける某氏──自分の話が聞いてる者を不快にさせていると察する能力も無い彼に、読者の気持ちを想像し面白さや感動を演出する作品が描けるのだろうか──という疑問が湧いてくるのも仕方ないだろう。

某氏の受賞スピーチで、会場にはいつになくビミョーな空気が漂っていたのだが……、そのあと特別賞受賞の北杜夫氏が壇上に立つと、場の空気は一転した。

杖を使い、人に付き添われて壇上に上がる姿に、北杜夫氏も(メディアを通して知っていたイメージに比べて)歳をとったな……と感じたが、オーラというのか存在感はあった。
スピーチの内容も面白く、ひょうひょうと話す姿に「これがどくとるマンボウか」と人気があるのもなるほどと改めて納得した。

「私の娘に言われるんですが……私がユーモア小説を書いていた時代は面白いものが少なかったからあれで通用したんだ。今のように面白いものがあふれている時代でなくてよかったわね……なんて鋭いことを言われるんで……そうした40年も前に書いた作品(どくとるマンボウシリーズ)が評価されて特別賞をいただくというのは、なにか詐欺でも働いているような気がして、またこのことが娘に知れれば、今度は何て言われるかわからない」

などとユーモアたっぷりなスピーチで会場をみごとに和ませていた。
年はとっても聞く者を楽しませようという紳士的な話術は健在で、さすがだなと感心した。
空気が読めない某氏とは大違いだ──と感じたのが、一度だけお見かけした北杜夫氏の印象である。

あれからさらに10年が経っている。
さらにお年を召したはずだから……と残念な訃報もすんなり受け入れられたが、ニュースやブログを見て、あらためて北杜夫氏が多くの人に愛され、影響を与えてたことを知った。(※2011.10.27 記)



作品評・感想など(映画・本)〜目次〜
エッセイ・雑記 〜メニュー〜
チャンネルF+〜抜粋メニュー〜トップページ
スポンサーサイト



コメント


管理者のみに表示