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昭和世代のインターネット雑感

インターネット革命!? 昭和世代の雑感
少し前に【昆虫画像:ブログからテレビへ】の中で、インターネット時代に入って、昆虫写真家が商売として成立しにくくなったのではないか……ということを記したが、こうした変化は、昆虫写真家に限ったことではないだろう。
インターネットの登場&普及によって、世界は大きく変わった気がする。
ブログやSNSなどの個人発信ツールがなかった時代──人々はマスメディアが発信する情報を一方的に受け取るしかできなかった。それが〝あたりまえ〟だった昭和世代からすると、個人が大衆に向けて(不特定多数の人たちがアクセスできる場に)情報発信できるツールを〝あたりまえ〟のように使いこなす今の世界は、まるで《おとぎばなし》のような気さえする。
インターネットの以前と以後では、育った世代の世界観にも格差があるのではあるまいか……。

テレビ(元締め)と視聴者(消費者)
昔──インターネット以前は、一般の人たち(消費者)がアクセスできる共有情報といえば、一部の商業メディアが発信するコンテンツに限られていた。だからそこに需要が集中し、商売が成立した……。
テレビがいい例だろう。家庭で視聴できる映像コンテンツは数局のテレビ局が放送している番組だけ。選択肢(チャンネル)が限られていたから視聴者が集中する。だから宣伝効果も高く、そこに利益も集中する。

かつては一般の視聴者が目にすることができる映像作品はテレビ局や映画会社などの大手メディアが制作した商品ばかりだった。そんな時代に、アマチュアが作った映像作品を紹介するテレビ番組──平成名物TV《三宅裕司のえびぞり巨匠天国》というのがあった。僕もひょんなことから出たことが1度だけあったのだが、当時はYouTubeなどまだ存在しておらず、自主制作作品を視聴できるというのが、なんだか珍しく、新鮮だった。
01えびぞり巨匠天国出演
一般向けに映像を記録する機材としては以前から8ミリフィルムやホームビデオなどがあったのだが、利用目的の多くは子どもの成長や家族内イベントを記録するプライベートなものだったように思う。こうした機材を使って自主制作映画を撮るサークルもあるにはあったが、小規模の上映会で集まるのは同じ趣味を持つ関係者がほとんどだったのではなかろうか。
《えび天》で採用された僕の【ミラクル☆スター】も実は数人の友人に見せることを想定して試作した内輪ウケ狙いのビデオ作品だった。この編集をしていたとき、たまたま《えびぞり巨匠天国》の第1回放送を目にし、気まぐれに投稿してみたところ、意外にもあっけなく採用の連絡がきたので驚いた。本来なら人手がかかりがちな実写ヒーロー・アクションを〝1人で撮った〟というチープなつくりが面白いと評価されたのだろう。一部の知人らに見せるつもりで作った映像がテレビ番組で放送されたのは、我ながら思わぬ展開だった。

今なら個人やアマチュアサークルが制作した映像作品であってもYouTubeなどで配信(公開)できるし、それを視聴することもできる。YouTubeには無数の動画があふれ返っている。個人が簡単に動画を公開でき、それを簡単に視聴できるのが〝あたりまえ〟となった昨今──今の世代で育った人には《えびぞり巨匠天国》の新鮮さは、ピンとこないだろう……。
インターネットが普及し、YouTubeなど動画サイトの登場によって、映像市場は、もはや大手メディアの独擅場ではなくなった。今や一人一人が放送局!?──テレビ局が広告収入やペイパービューで経営しているように、個人発信のユーチューバーが、広告収入や有料チャンネルによって商売として成立しうる世の中になった。これは昭和世代からすると驚くべきことだ。

文芸作品と出版業界
映像作品ばかりではなく、文芸作品についても似たようなことが言えるだろう。
物語を「書く(創作する)」のは紙(原稿用紙)とペンがあれば誰にでもできる──資本もかからず独りでできる、とっつきやすい芸術活動といえるだろう。だから多くの人が趣味として「書く」ことをしていた。
しかし、アマチュアが書いた作品を不特定多数の人たちに向けて発表する場となると、昔(インターネット以前)は、ほとんどなかった。一般の人がアクセスできる文芸作品は書籍や雑誌・新聞などのマスメディア商品に限られていたからだ。
とは言っても、書きあげた作品が読まれることを望むのはプロもアマチュアも同じ。読者を想定して(読まれることを前提に)書かれるのが文芸作品である。今ではブログなどで気軽に作品を公開できるが、その手段がなかった頃は、同人誌を作ったり自費出版に夢を託すというのが常套(じょうとう)だった。もちろんその発行部数などたかが知れている。知人や同じ趣味を持つ一部の関係者の手に渡るていどで、アマチュアの作品が不特定多数の読者の目に触れる機会は皆無に等しかった。

そこで、アマチュア作家は出版社や新聞社が公募するコンテストに挑戦することになる。狙いは賞金よりも書籍化あるいは雑誌や新聞などに掲載されること──そう考えていた応募者も多かったはずだ。賞金や印税などいらないから──逆に金を払ってでも商業出版したいという人も少なからずいた。
このニーズ──「出費してでも自分の本を流通ルートに載せたい」というアマチュア作家の憧れにつけ込んだ自費出版トラブルが社会問題になったこともある。

本来であれば出版社が出資して作品を商品(書籍)化&販売し、原稿料なり印税などの報酬を著者に支払う。出版社は商売になると判断した作品に投資をすることになるわけだから、書店に並ぶ(流通に乗る)作品は、それなりの価値が認められたものだということができるだろう。
問題(トラブル)になったのは、「共同出版」と呼ばれる形態の自費出版で、本の制作費を著者が払えば、全国の書店への宣伝・販売を出版社が行うというもの。自分の書いた作品が本になり〝全国の書店に並ぶ〟ことに魅力を感じて契約した著者が、実態はそうではなかったことに気づき、集団提訴したことがテレビでもくり返し報道されていたことがあった。
その内容は確かにひどく、出版社が仕掛けた文学賞コンテストの応募者に片っ端から電話をかけ、(原稿などろくに読みもせずに)マニュアル化されたセールストークで、作品を褒めそやし「共同出版」をもちかけるということをしていたらしい。そして「全国の書店に自分の本が並ぶ」ことを期待している著者に〝そう誤解させて契約を結ぶ〟という営業を展開してきたという。
こういう詐欺的手法が横行するほど「全国の書店に自分の本が並ぶ」というのはアマチュア作家にとって《あこがれ》だったのだ。個人で作品を世間に広く発信(発表)するツール(場)が無かった時代だっただけに、《広く一般に向けて発表(発信)できる場》を多くのアマチュア作家は渇望していた。
アマチュア作家の同人誌活動は悲喜こもごも……僕にも経験があるし、『文学賞殺人事件 大いなる助走』なんて邦画を思い出したりする……。

同人誌や自費出版にはもちろんそれなりの意味があるはずだが、そこが目指す最終地点だと考える書き手はまずいないだろう。自分の本が書店に並ぶことに憧れるアマチュア作家たちは、新人賞などの公募にチャレンジする……しかし苦労して作品を書き上げ応募しても、入賞のハードルは高い。数からいえば、ほとんどの者は落選することになる。
たとえ狭き門をくぐり抜けて出版がかなったとしても、それで安泰というわけにはいかない。発行部数からいっても、全国の書店すべてに本がいきわたるわけではないし、また書店に並べられたとしても、そこで売れるまで書棚スペースを確保できるわけでもない。雑誌に掲載された作品なら、次の号が出るまでの命(掲載誌が店頭に置かれている期間は短い)だし、書籍であっても買い手がつく前に返品されることも多い。

書店としては書棚には新刊や売れ筋の本を揃えておかなくては商売が成り立たない。書店は取次店(問屋/流通機構)から本を入荷し、売れなかった本は返品できるシステム(再販制度)をとっている。新刊や売れ筋本を置くための棚スペースや入荷資金を確保するには返品が不可欠で、入荷した本の何割かは読者の手に渡ることなく返品されてしまうというのが実態だ。2020年7月の書籍の返品率は40.2%(@出版状況クロニクル)だったそうだ。
そんなわけで自分の作品を商業出版することが、たとえかなったとしても、「全国の書店に並ぶ」のはほんの一時期にすぎない。あとで「あなたが書いた作品を読んでみたい」という奇特な人が現われても、その時には在庫が無かったりする。著名な作家の作品でさえ、絶版となっているタイトルは少なくない。書籍化は《いつでもアクセスできるツール》ではないのだ。

ところが、今はブログなどで公開しておけば、「作品を読んでみたい」という人が現われた場合、URLを伝えるだけで、いつでもどこからでも容易く無料で(設定にもよるのだろうが)読んでもらうことができる。なんとも便利な世の中になったものである。
「金儲け目的で書いているのではないアマチュア作家」にとって《公開の場》をたやすく手に入れることができる状況は歓迎できるものだろう。昔の同人誌活動を経験している者からすれば《夢のような時代》といってもいいだろう。

もちろん注目の集まる文学賞にチャレンジするアマチュア作家は今でも多いのだろうが、インターネット以前のような〝渇望感〟はないのではないか?
商業出版の発行部数は昔に比べてだいぶ減っているようだし、ネット上に作品を置いておく方が閲覧数を稼げる(読者の目にとまる機会が増える)といったケースだってあるだろう。
YouTubeで稼げるようになったユーチューバーと同じように、ブログでも収入を得られる仕組みができているようだ。電子出版という選択肢もあるらしい。
誰でも簡単に個人発信ができる時代になり、それが商売として成立しうるようになったというのは《(作品の)発表やアクセスの選択肢が増えた》という意味では好ましいことだろう。しかしその一方で、文芸の世界でもマスメディアの独擅場がくずれたことで、既存の版元や職業作家の商売が成り立ちにくくなっているような気もする。

虫屋気質とインターネット!?
ちょっと次元の違う話かもしれないが……おそらく虫屋さんらの業界(?)でもインターネット以降、変化があるのではあるまいか?

虫屋でない僕は『月刊むし』という雑誌があることを長い間知らなかった。しかし虫屋さんの多くが購読しているらしく、これを「虫屋の納税」に例える人もいる。インターネットが無かった時代に個人で活動している虫屋さんが昆虫情報を得ようとすれば、おのずと『月刊むし』や昆虫機関誌にたどり着く──こうした昆虫メディアに引き寄せられた虫屋さんたちは、そこで情報交換し、同じ認識を共有するようになる。そして『月刊むし』や昆虫機関誌を同郷とする同胞意識のようなものが芽生え《虫屋気質》を形勢していったのではないか……そんなふうに僕は想像している。

僕が某昆虫フォーラムに出入りするようになって虫屋さんたちと知り合った頃、僕は虫屋さんとの間には高い敷居──境界線のようなものがあると感じ、その感覚は現在も続いている。僕は「こちら側」の人間だが、虫屋さんは「あちら側」という感覚である(あくまでも僕の個人的イメージ)。昆虫に対して興味を抱くところは一緒だし、共感する部分も多いのだが、どこか本質的に違うところがある……この差──いってみれば《虫屋気質》の有無は、ひとつには『月刊むし』や昆虫機関誌などで育ったか否か──育ちの差(?)が関係しているのかも知れないと考えるようになった。
僕は納税義務を果たしている虫屋ではないので、「こちら側」の人間として虫見をし、感じたり考えたり観察したことを「こちら側」の人にわかるようにまとめていこうというのが、当初からの《虫見スタンス》だった。これができたのはインターネットが存在し、SNSやブログなどのツールが利用できたからだ。僕が虫見を始めたのはインターネットが普及し始めた頃で、だから正体不明の虫について某昆虫フォーラムで尋ねることができ、インターネットで昆虫のことを調べたり、観察した内容をブログにまとめることもできたわけだ。

もし《虫屋気質》──虫屋の境界線が『月刊むし』や学会機関誌などの昆虫メディアに由来するものであったとしたなら……インターネットで昆虫情報を収集したり個人の知見を発信(発表)できるようになった昨今、若い虫好き世代の〝昆虫メディアへの凝集力〟は弱まってきていることも考えられる。であるなら、《虫屋の境界線》は弱まり、《虫屋気質》も変わってきているのかもしれない……というのは虫屋ではない僕の根拠の無い想像なのだが、はたして実態はどうなのであろうか……。



昆虫画像:ブログからテレビへ
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