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ロアルド・ダール:キス・キス❲新訳版❳収録作品&感想

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『キス・キス❲新訳版❳』(早川書房)のカバー表紙と裏表紙の内容紹介⬆

ロアルド・ダール『キス・キス❲新訳版❳』収録作品&感想
少し前に読んだ短篇集『あなたに似た人❲新訳版❳』に続いて、ロアルド・ダールの短篇集『キス・キス❲新訳版❳』(田口俊樹:訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)を買って読んでみた。収録作品は11編で、次の通り。

女主人
ウィリアムとメアリー
天国への道
牧師の愉しみ
ミセス・ビクスビーと大佐のコート
ロイヤルゼリー……
ジョージー・ポージー
始まりと大惨事──実話──
勝者エドワード

世界チャンピオン


それぞれの作品について収録順に感想を記していくが、あらすじ・ネタバレを含む内容となるので、そのつもりで──。

■女主人
17歳の新人ビジネスマン・ビリーが出張先の町で宿泊先に選んだのは「B&B(お泊りと朝食)」の表示板を出していた下宿屋だった。窓からのぞく室内のインテリアやカーペットの上で眠る犬、鳥かごの中のオウムなどを見て快適そうだと感じたからだ。待ちかねていたように現われた下宿屋の女主人は、中年の、ちょっと変わっているが、やたらと愛想がいい婦人だった。ビリーは宿帳に記帳するさいに、そのページに記されていた2つの名前に見覚えがあるように感じる。妙なことに、その記帳日付は2年以上も前のものだった。
女主人が用意した〝ほんのりとアーモンドの苦味〟がする紅茶を飲みながら話しをするうちに、ビリーは宿帳に記されていた名前を新聞で読んでいたことを思い出す。徒歩旅行中に失踪した若者ではなかったか? 女主人とのおしゃべりの中で、宿帳にあった2名がビリーと同じくハンサムな若者だったこと、窓から見えたオウムや犬が実は見事な剥製であったこと、可愛いペットが死ぬと彼女自身が剥製にして残していることなどが、明らかにされていく。
要するに、ビリーはこの女主人に気に入られ、青酸化合物入りの紅茶を飲まされて、オウムや犬、失踪した青年たちと同じ運命をたどることになる──ということが、言外にわかるように描かれている。

この作品を読んだとき、ヒッチコック映画の『サイコ』や阿刀田高・作『ナポレオン狂』が頭に浮かんだ。〝人間を剥製にする〟というショッキングな着想が共通している。もちろんこれらは全く違う作品で、それぞれに独自の工夫・趣向が凝らされている。『サイコ』では〝人間の剥製〟という衝撃的アイディアのみならず色々なアイディアが盛り込まれ、サスペンス仕立ての演出も素晴らしい。『ナポレオン狂』は2つの全く違うナポレオンマニア(?)の話を最後に意外な形で融合させるという(『女主人』よりも)複雑な構成になっている。一見〝凝りぐあい〟からすると『サイコ』や『ナポレオン狂』が勝っているようにも見えるが、シンプルな着想をムダなくスマートにまとめた『女主人』にも洗練された美しさを感じる。この3作品にはいわゆる《奇妙な味》が漂っているが、ヒッチコックや阿刀田高は、着想の意外性を「あっと驚く」鮮烈な演出で描いているのに対し、ダールは「あっと驚く」というより、「じわじわわき上がってくる違和感→驚き(怖さ)」を描いているといった感じ。ヒッチコック作品や阿刀田作品では〝人間の剥製〟という着想を読者に気づかれないように隠しながら展開し、それが明らかにされるシーンで「あっと驚く意外性」と「そうだったのか!という必然性(整合性)」が結びつく──観客・読者を《驚きを持って納得させてしまう》というスタイルをとっているが、ダールの『女主人』では、明確な「種明かし/読者を驚かせる」というシーンは無い。伏線(ヒント)を少しずつ織り交ぜた展開の中で、どの時点でビリーが〝クモの巣に掛かった獲物〟だと気づくか──これは読者によって違いがありそうだ。ビリーが飲んだ紅茶にアーモンドの風味を感じた箇所なのか、オウムや犬が剥製であったと気づくところか、あるいは宿帳の奇妙な点に気づいた段階で、ある程度の方向性を察知する読者もいるだろう。明確な「見せ場」「種明かしのシーン」をあえて設けずに、しれ〜っと終わる……読者は読み進むうちに、行間から漂う真相に気づいてゆき、それに気づかぬ主人公ビリーをハラハラしながら(?)あるいは哀れみながら見守る──という読み方になる。こういう演出に〝ダールらしさ〟があるのではないかと感じた。

■ウィリアムとメアリー
心臓が止まったあとに、脳と片目だけを生かし続けるという奇怪なSF的着想で描かれた作品だが、その設定に付随するSF的テーマとは別次元の──老夫婦間の「それまでの主従関係が、逆転する話(仕返し)」が作品の主題になっている。夫唱婦随の時代は特にそうした夫婦関係がありがちだったのだろうが──気難しい夫(ウィリアム)の視線を気詰まりに感じ続けていた妻(メアリー)が、そのストレスから解放され、「あら探しをしたり小言を言うことができなくなった夫(脳と片目だけになったウィリアム)」を見下ろして、逆にストレスを与えられる立場になったことに嬉々とする結末──精神的優位性が逆転するという話なのだが、この「仕返し話」を描くのに、大がかりなSF的設定を用いたのは、そぐわない気がした。ウィリアムの遺言で《脳と片目だけを生かし続ける》ことがどういうことなのか詳しく長々と語られており、読者の関心はとっぴなSF的興味に誘導されることになる。ところが、読み終えてみればこの作品の核心は《老夫婦に常態化していたストレスと仕返し》であって、複雑で大げさなSF的着想を持ち込み、散々説明てしおいて、「書きたかったのは、そこなのかよ」といった印象が否めない。
被験者になることを激しく嫌悪していたウィリアムが一転してそれを受けいる気になったあたりの心境の変化に無理を感じた。

■天国への道
ミセス・フォスターは、時間に遅れることをひどく恐れる強迫観念の持ち主で、いつも早め早めに行動しないと安心できない性格だった。ところが夫は、(妻が反抗できない性格であることを知った上で)わざとのんびりとふるまって、いつも妻をやきもきさせる意地の悪いところがあった。
ニューヨークの大邸宅に4人の使用人とともに暮らしているフォスター夫妻にはパリに嫁いだ一人娘がいて、孫も3人いたのだが、夫がニューヨークを離れることを嫌ったため、ミセス・フォスターはまだ孫たちに会えずにいた。それが彼女の念願が叶ってフランスで6週間孫たちと過ごすことが〝奇跡的に〟夫から許可され、ミセス・フォスターはこれを何より楽しみにしていた。妻の旅行中、夫は使用人に休みをとらせ、自分はクラブに移ることになっていた。しかし出発当日には妻を空港まで見送ると言って車に同乗することに──そして、例によって出発しなくてはならない時間になっても彼女をじらすという、いつもの行動にでる。飛行機搭乗に間に合わなくなると気をもみ、オロオロ・ハラハラするミセス・フォスターのようすがよく描かれており、ミセス・フォスターは絶体絶命のピンチ──日常を舞台とするサスペンスといった緊張感が伝わってくる。ようやく空港に到着すると、予定していた便は霧のためフライトが遅れ、結局翌日に延期となる。疲れ果てた彼女は翌日もふたたび夫の〝拷問〟に苦しめられることになる。飛行機に乗り遅れることを恐れて気が気ではないのに夫はのんびりしていて、一度は車に乗ったものの、再び部屋へ引き返してしまう。ミセス・フォスターは夫を呼び戻すため家の前まで行くが、ドアの前で突然動きを止める。ドア越しに聞き耳を立てていた彼女は家には入らず車に戻って、「間に合わないから夫は置いていく」と運転手に出発を命じる。
ミセス・フォスターは無事にフランス行きの便に間に合い、娘や孫たちとの6週間を満喫して、別れる時には遠からずまた会えるような態度を示していた。ニューヨークの家に戻ったミセス・フォスターは、閉ざされていた家の中に漂う異臭に気がつく。エレベーターが2階と3階の間で止まっていることを確認すると彼女は修理を呼ぶ……。
ハッキリとは書かれていないが、ミセス・フォスターにとってストレスの元凶であり、娘や孫たちと会うことの障害となっていた夫が、6週間前、エレベーターに閉じ込められるというハプニングみまわれ、それを察知した彼女が〝意図的に事故に気づかずに出発した〟ことが読者にわかるように描かれている。
これも『ウィリアムとメアリー』同様《老夫婦の常態化したストレスと仕返し》の話。

《夫がエレベーターに閉じ込められた》という具体的な状況については最後に明かされるわけだが、ミセス・フォスターが夫を置いて空港へ向かう場面で《何か異変があった》ことは読者にわかる。その後の彼女のようすから、ミセス・フォスターが帰った時には夫は亡くなっているのだろうということも想像がつく。このため《結末の意外性》は弱まり、いささか物足りなさが残った。ミセス・フォスターが〝事故〟に気づくシーンを読者に悟られない処理──ダブル・ミーニングやミスディレクションでカバーできていれば、結末のインパクトはもっと大きかっただろうに……もう少しなんとかできなかったか……と残念に思ってしまう。
ただ、ダールは結末の驚きを演出する意図はなかったのかもしれない。彼が書きたかったのは《妻の仕返し》だったのだろう。ダールの「仕返し話」を読んだことがある読者なら、展開の方向は予測可能だろうから、あえて《オチを隠す》演出をしようとは考えなかったのかもしれない。
はたから見ればとるに足らない些細なこと(時間に遅れること/夫の些細な?意地悪)が、当人にとっては大いに心を乱すこと──ミセス・フォスターの人知れない内面のストレスや葛藤をリアルに緊迫感をもって描かれている点が面白かった。おそらく多くの人が日常の中で感じているだろう些細な(?)ストレスを拾い上げ、非日常的なエピソードに昇華させたところにこの作品の魅力を感じた。

■牧師の愉しみ
家具の骨董商ミスター・ボギスは日曜になると牧師になりすまして地域の農家をまわり、〝お宝〟を発掘しては、無知な相手を騙して安く買い叩き、客には言葉巧みに高額で売りつけるという商売を楽しんでいた。
この〝牧師の愉しみ〟の活動中、大した期待をかけずに訪れた薄汚い家で、ボギスは思いもかけなかった超激レア物件を見つけて驚嘆する──現存する18世紀のイギリス家具の中で最も有名な<チッペンデールの飾り箪笥(コモード)>と呼ばれる物だった。これを手に入れることができばボギスは大金持ちになり有名にもなれる。ボギスの交渉相手──カモにすべく標的となった3人組は、無知ではあったが警戒心が強く疑り深く、ずる賢い連中だった──それもそのはず(?)、彼らは短篇集『あなたに似た人』にも登場していて、そのうちの1人クロードは『クロードの犬』でイカサマドッグレースで一儲けを企み、本短篇集『キス・キス』でも『世界チャンピオン』で密猟の悪巧みを企てている人物だった。このずる賢い者同士の対決──交渉の駆け引きが見どころとなっている。
ボギスが安く買い叩くために、飾り箪笥を「かなり出来の悪い模造品」とした上で、その脚が自宅のテーブルに付け替えるのにはうってつけだと思いついたように買う気を臭わすと、3人組はすぐに食いついて、これを牧師に売りつけようとする──抜け目なく、少しでも値をつりあげようと抵抗するが、偽牧師は「欲しいのは脚だけ/枠組みは薪にしかならない」と乗り気でない態度に転じる。そして駆け引きの末、ボギスは、1万5千ポンド〜2万ポンドの値打ちがある〝お宝〟を、たった20ポンドでまんまと手に入れる商談を成立させる。
してやったりと内心有頂天のボギスは、〝お宝〟を運ぶために車をとりに行く。彼は、牧師に似つかわしくない大型ステーションワゴンに乗ってきたことを知られるのを警戒して、車を少し離れた所に置いてきていた。
ボギスが車をとりに行っている間に、猜疑心が強い3人組は、牧師の気が変わるのではないかと心配をはじめる。大きな飾り箪笥が「車に積めない」ことを口実に取引を反古にするのではないかと疑い始め、それなら牧師が乗るような小さな車にも「積めるように」と牧師が欲しがっていた脚を鋸で切り離してしまう。更に、欲しがっていた脚を手に入れた牧師が、不要になった本体を「車に積めないから」と置いて行き、そのぶん値切ろうとすることを警戒して、「薪にしかならない」本体も「積めるように」斧で解体してしまう……。

希少で高価な骨董家具が発見されながら、ボギスと3人組の欲深さによって台無しにされてしまうという、なんとも無惨な結末……策士が策におぼれて目の前で大きな魚を釣り落としてしまう──という皮肉な話でもある。

おもしろい作品だったが……ボギスが飾り箪笥を買いたたくために、「欲しいのは脚だけ」と言いだしたところで、「分解されるというオチになるのだろうなぁ」と結末が読めてしまい、その通りになった(それ以上の《ひねり》がなかった)ことに、やや物足りなさを感じないでもなかった。
僕は「アイディア・ストーリーを読む」のは「マジックを見る」のと同じで、「トリックを見破ってやろうと疑ってかかるのではなく、作者・マジシャンの誘導を受け入れ、自然に鑑賞するのが望ましい」と考えている。もちろんどんな鑑賞の仕方をしようと、それは読者・観客の勝手なわけだが、作者やマジシャンはその《アイディアやトリック》を最も効果的に演出できる展開を準備している。その案内にしたがってめいっぱい堪能するのが、最も楽しめる鑑賞姿勢というものだろう。だから、作者の企みを先回りして暴いてやろうという読み方は好まない。それでも、読み進む中でオチが見えてしまうことがあって、そうなると、せっかくの《意外性》も、インパクトが薄れ、予定調和ということになってしまう。
オチの構成要因として「欲しいのは脚だけ」という伏線は必要だったともいえるわけだが……読者にオチ(意外性)を察知されないような工夫があったら良かったのに……と思わないでもなかった。

また、この作品はニセ牧師・ボギスの視点でずっと描かれていながら、3人組と交渉がまとまり、ボギスが車をとりに行くところから、3人組の視点に変わる。普通なら、ボギスの視点を貫き、有頂天の絶頂で戻ってきたボギスが、無惨に解体さされた〝お宝〟を目の当たりにして愕然とする姿を描いて、オチのインパクトを演出しそうなものだが、ダールは「有頂天のボギスが知らないうちに、〝お宝〟が崩壊して行くようす」をつぶさに記し、ボギスが戻ってきたところで──ボギスが惨状を目にする直前で幕を閉じている。はたしてボギスはどのような反応を示すのか……壮絶な見せ場をあえて書かず、読者に想像させることで、余韻を演出する趣向が感じられる。
ダールとしては《意外なオチ》としてのインパクトを演出するより、悲惨な状況に至るさまをつぶさに描いて行くことにおもしろみを見いだしていたのだろう。その上で《肝心なところは(作者が)語らず、読者に想像させる》──このあたりにダールのユニークな感性&美意識を感じる。

この作品を読んで頭に浮かんだのが、『猫の皿』という落語。概要は──古美術商の男が立ち寄った茶屋で、猫がエサ皿に使っているのが高価な名品であることに気づく。男は無知な茶屋の店主からこの皿を安く手に入れようと画策し、猫をゆずってくれと申し出る。3両で猫をひきとることになり、男が「猫は皿が変わるとエサを食べなくなるから、皿も一緒にもらっていく」と言うと、店主は「これは捨て値でも300両もする名品だから売るわけにはまいりません」と断る。古美術商の男は驚いて、「名品と知っていて猫のエサ皿に使っているのか」といぶかると、店主いわく「こうしておりますと、時々猫が3両で売れます」──というもの。
《古物の仲買人が掘り出し物を見つけ、相手の無知につけ込んで買い叩こうとして失敗する話》としては『牧師の愉しみ』とよく似ている。
『牧師の愉しみ』では、買い叩くために利用した「相手の無知」がはからずしも金儲けを台無しにするという皮肉な結末であるのに対し、『猫の皿』では相手の方が1枚上で、《高価な皿を安く手に入れようとして、逆に猫を3両で買わされてしまう》という逆転の意外性が切れ味の良いオチとなっていて、スマートにまとめられている。着想はよく似ているが、演出や味わいにはずいぶん違いがある……これが作者の個性というものなのだろう。

■ミセス・ビクスビーと大佐のコート
冒頭部では、アメリカでは女ばかりが良い思いをして男は損な役回りばかり強いられているというようなことが並べ立てられ、しかしながら「夫が怪物のごとき配偶者に一矢報いることもある」として『ミセス・ビクスビーと大佐のコート』のエピソードを既知の実話と前置きしている。
作品冒頭で「夫が怪物のごとき配偶者に一矢報いる」内容であることを明かしてしまうのは興ざめ行為ではないか……という気もするのだが、このあたりもダールの感性のユニークなところなのかもしれない……。

平均的な歯科医の妻ミセス・ビクスビーは大金持ちの大佐と浮気をしていたが、あるとき大佐から「お別れのプレゼント」として6千ドルもしそうなミンクのコートを受け取る。ミセス・ビクスビーはこの贈り物をたいそう気に入ったが、見るからに高価なミンクのコートを着て帰るわけにはいかないことに気づく。夫の目にとまれば「どうしたのか?」と尋ねられないわけが無いし、問われて「浮気相手にもらった」と言えるはずも無く、説明のしようがない。しかしミセス・ビクスビーはミンクのコートを手放す気にもなれず、なんとかこれを自分の物にできないかと思案する。
彼女は家に帰る前に質屋へ寄って、ミンクのコートを質草に50ドルを借りて、名前・住所・品目を空欄にしてもらった質札を受け取る(この質札を持参すれば50ドルでミンクのコートを請け出せる)。
ミセス・ビクスビーは帰宅すると夫に、質札を見せ、「拾った」と報告する。夫はそれが質札で、これを持ってそこに記されている質屋へ行けば、500ドル以上の価値がある質草を50ドルで手に入れることができると説明し、夫婦で喜ぶ。それが男性用のものであれば夫へのクリスマスプレゼントに、女性用のものであればミセス・ビクスビーへのクリスマスプレゼントにするということが話し合われ、請け出しには仕事場へ行く途中に夫が寄ることになる。

(読んでいて、高価なものをネコババすることに2人ともまったく抵抗を示さないない道徳観には、ちょっと驚いた)
夫を送り出した1時間後、仕事場の夫から電話があり、請け出した質草が「とびきり素晴らしいものだった」と知らされたミセス・ビクスビーは、夫の手があく昼過ぎに彼の仕事場へ出向く。
そこで「本物のミンクだ!」と夫から見せられたのは、コートではなく〝まぬけな毛皮の襟巻〟だった。ミセス・ビクスビーは衝撃を受けるが、喜ばないわけにはいかない。表面上は喜ぶふりをしながら、腹の中は煮えたぎり「あの質屋、ぶっ殺してやる」と怒り心頭。これから真っすぐ質屋に行って、この襟巻きを叩きつけ〝彼女のコート〟を取り返してやると意気込んで診察室を飛び出す──そのミセス・ビクスビーが見たものは、昼食に出かけようとしていた夫の秘書兼助手が優雅にまとっていた〝彼女のコート〟だった。

最後の《意外性のある鮮やかな結末》の部分──ミセス・ビクスビーはコートをくすねたのが質屋だと思い込むが、じつは夫が愛人のためにくすねていたことが発覚するというオチは着想として素晴らしい。ただ、冒頭で「夫が配偶者に一矢報いる」内容であることをバラしており、「この話の結末を大いに愉しめるはずだ」とまで記しているので、読者は、夫が毛皮の襟巻きを見せた時点で「夫の仕業」だとわかってしまう。これは大きな失態だろう。
本短篇集の他の作品を読んできて、「ダールという作家は、オチの意外性を鮮やかに演出することにこだわらない」と解釈していたが、この、どうみても失態としか思えない構成をわざわざとっているのが解せない。ひょっとしてダールは「意外性の演出にうといのではないか……」といぶかってしまう。《短編の名手》といわれるほどの作家なのだから、まさかそんなことはないだろうが……冒頭でオチのキレをそこなうネタバレをわざわざやっている意味が理解できない……。

ただ、問題のある冒頭の前置き部分をのぞけば……ストーリー展開、アイディアとその演出はきれいにまとまっていてみごとである。本短篇集の中で、僕が考える作品の理想に一番近い形だった。《作者のたくらみ》を巧みに隠し、最後に意外なオチで鮮やかに決める──この洗練されたスマートさは他のダール作品とは少し違う……あか抜けた印象があった。
このスマートにまとめられたアイディア&構成がダールのオリジナルかどうかはわからない。というのも、冒頭では、このエピソードが既知の実話であると前置きされているし、「訳者あとがき」によれば『ミセス・ビクスビーと大佐のコート』が発表される3年前に、これと同じアイディアのフランス映画があったらしい。すでに完成された小話があって、その骨子を参考にしたことで、〝他のダール作品とは少し違う〟印象になったのかもしれない。

■ロイヤルゼリー
ミツバチに魅入られた養蜂家のアルバート・テイラーは20歳でメイベルと結婚し、9年かかってようやく子宝に恵まれた。ところが、この赤ん坊はミルクをなかなか飲もうとせず、メイベルを心配させる。医者は悪いところは無いと言うのだが、赤ん坊の体重は減っていくばかり……メイベルはノイローゼ寸前の状態だった。
そこでアルバートはミツバチが女王蜂を育てる特別栄養食──ロイヤルゼリーをミルクに混入させて与えることを試みる。ミツバチの女王蜂と働き蜂を分けるのは、ロイヤルゼリー──これだけを与えられて育った幼虫は成長著しく、1日で自分の体重ほどの卵を産む女王蜂になることができる(一方、蜂蜜や花粉をエサに育てられた他のメスは全て生殖能力の無い働き蜂になる)。ロイヤルゼリーの絶大な栄養効果を期待してのことだった。
ロイヤルゼリー入りのミルクを与えると、赤ん坊は一転して食欲旺盛になり、体重も急激に増え始める。安堵し喜ぶメイベルだったが、アルバートがミルクにロイヤルゼリーを混入させたことを知ると激高して夫の行為をなじる。アルバートはロイヤルゼリーの栄養効果や無害であることを──ロイヤルゼリーを与えたことで、ラットのメスの卵胞成長速度が促進したり、オスの繁殖能力が復活したという動物実験や人が摂取した報告例などをあげて妻を安心させようとする。

そして最後にはアルバート自身がロイヤルゼリーを大量に摂取したが無害だったことを明かす。ラットのオスの繁殖能力が復活したのだから、何年もの間子宝に恵まれずにいたアルバートにだって効くはずだ──そう考えて実行した結果、この赤ん坊を授かったのだった。
この赤ん坊がロイヤルゼリーの力によって誕生したのであれば……通常のミルクを飲もうとせず、ロイヤルゼリーを欲していたのも合点がいく!? 女王蜂の幼虫のように急激に体重を増やした赤ん坊の体型は、ハチの幼虫を思わせるものになっていた……。

ロイヤルゼリーの効能を期待する健康・美容方面の商品があることは僕も知っていたから、《ロイヤルゼリーを人に与える》という着想自体には新鮮味が感じられず、また実際に飲んでいる人もいるのだから、奇怪な効果があるとも思えなかった。
ただ、《作者のたくらみ》として、「赤ん坊にロイヤルゼリーを飲ませる話」として展開し「実はアルバート自身も飲んでいた」という話にシフトする意外性──《作者のたくらみ》はおもしろい。
生まれた赤ん坊に「悪い所が無いのにミルクを飲まない」という不可解な点があったことも、父親経由のロイヤルゼリーの影響だと考えれば「なるほど、そうだったのか」と腑に落ちる。赤ん坊がロイヤルゼリー入りのミルクをむさぼるように飲むことも……。

もっとも赤ん坊にロイヤルゼリーを与えるという着想はビミョ〜だ。「腸内環境が未成熟な赤ん坊にハチミツを与えてはいけない」というのは周知のことだが(乳児ボツリヌス症のリスクがある)、ロイヤルゼリーは大丈夫なのか?──読んでいく過程(赤ん坊がロイヤルゼリーを必要とする?ことが明らかにされていない時点)では、ちょっと引っかかった。ミツバチのスペシャリストであるアルバートが、このリスクに言及せず、手放しで赤ん坊に飲ませても安全だと説明しているのは、おかしいと感じた。

あと、気になったのは最後の赤ん坊を描写した箇所──、


赤ん坊は裸でテーブルの上に寝ていた。丸々と肥えて、色白で、熟睡しているその姿は巨大な幼虫を思わせた。幼虫の段階もそろそろ終わりに近づき、大きな顎と翅を備えた成虫になって世界へと飛び立つ日を間近にひかえた、そんな幼虫を。

セミやカメムシなどは幼虫から成虫が脱皮(羽化)するが、ハチは幼虫と成虫の間に蛹の期間がある。ダールは蛹を飛ばしているが……《その姿は巨大な幼虫を思わせた》と表現しているのは、実は(幼虫ではなく)《蛹》のことではないだろうか? 作品の中でミツバチの生態について詳しく描かれているのだから、ダールが「ミツバチには蛹の期間がある」ことを知らないはずは無い。もしかすると原文には幼虫と蛹を区別しにくいワードが使われており、その為に発生した翻訳ミス(?)だったのかもしれない?

■ジョージー・ポージー
《作者のたくらみ》がどこにあるのか、わかりにくい作品。読み進む上での興味の置き所がどこにあるのか定まらず、とっぴな展開も《先が読めない》だけで、《(予想を裏切る)意外性》としての面白さは感じられなかった。

ダールの創作プロセスを想像するに……まず《女性を苦手とする牧師が女たちに追いかけまわされて難儀する話》を思いつき、これなら皮肉を盛り込んで面白く描けるのでははないか考え、この設定にふさわしい人物像を作り上げ、イメージをふくらませていった……のではないか。
《女性が苦手なストイックな牧師》の設定に個性的なリアリティを持たせるために幼少期のトラウマ──ウサギの子殺しと母親の死を絡めたショッキングなエピソードを考えた……この《情愛と戦慄がリンクしてしまうエピソード》が本作の創作上の工夫の1つだったろう。
もう1つの工夫──《作者のたくらみ》が、「欲求不満の女性たちに追いかけまされる牧師」の視点で描かれている話が、「実は、欲求不満の牧師の妄想」だったという仕掛けだったのだろう。「欲求不満だったのは女たちではなく牧師の方だった」という《逆転の構図》という意外性なわけだが……これも明確にわかるような箇所(種明かし)を設けて書かれているわけではないので、読者にはわかりにくいし、だからキレもない。

女性に呑み込まれる妄想シーンは、幼少期のトラウマと繋がり、イメージ豊かに描かれてはいるのだが、話がどこに向かっているのか、作品の構図を把握できずにいる読者には、戸惑い半分で、充分に感情移入して作品にのめり込むことが難しかったろう。

主人公の牧師は、最後には精神に破綻をきたしてそれ用の施設に収容されてしまうことになるが、あわれな牧師は自分を哀れむ医師を逆に哀れみ、「気を落とすことはありません。聖書にも書かれているように、心を癒すお薬はいつだってどこかにあるものなんですから」と声をかける皮肉なシーンで幕を閉じている。
ダールらしい皮肉は感じられるものの、全体の印象としては、しょっぱい作品になってしまったというのが僕の感想。

僕にはタイトル『ジョージー・ポージー』の意味が最後までわからなかったが、「訳者あとがき」によれば、マザーグースからとったものらしい。マザーグースは《ナンセンスもの》らしいから、この作品も《ナンセンスもの》として書かれたものだと考えると、納得できなくもない?

■始まりと大惨事──実話──
健康な男児を産んだばかりで、その子が〝また〟死ぬのではないかとの不安に取りつかれてパニくる薄幸な母親。彼女はこの1年半の間に3人の子どもを亡くしており、産まれてきた男児はきっと4人目になると悲観している。
可哀想な母親を医者は、懸命になだめようとするが、これまで子どもが立て続けに亡くなったのは偶然ではないと母親は思い込んでおり、誕生したばかりの男児もきっと同じ運命をたどることになると嘆く。
母親の悲惨な体験を医者と一緒に知ることになる読者は、哀れみ、同情して、この男児には健康に生きのびてほしいと願うだろう。
そして読者にそう思わせておいて、ダールは、この男児が後に大惨事を引き起こすアドルフ・ヒトラーであることを明かす。読者に向かって「本当に、こいつに生きていてもらいたいの?」と言外に問いかけているようにも思われる。「こいつが生き延びれば、多くの人が死ぬ」という単純な構図で発想された作品。
作品の最後は、次の母親の言葉でしめくくられている。
「この子は生きなくちゃいけないのよ、アイロス(夫)。何があっても生きてくれなくちゃ……ああ、神さま、どうかこの子にご慈悲を……」

読者は、これまで3人の子どもが亡くなったというは……ひょっとして?実は大惨事回避という神の意志が働いてのことだったのではないか……などと想像してしまう。そう思わせるようにダールは仕組んでいる。

重いテーマをはらんだ短編だが、よく考えてみれば、この赤ん坊の誕生と《大惨事》には直接的な因果関係はない。産まれた時は誰でも政治的に無色だからだ。《大惨事》に繋がる様々な要因の多くは先天的に備わったものではなく、後天的な学習で形成されたもののはずである。だから、この男児の誕生を《大惨事》の《始まり》と位置づけるのは妥当とは言えない。ダールの着想ロジックが成立するのかどうか……怪しいところがある。

この作品を読んで頭に浮かんだのが、星新一の『ことのおこり』(新潮社『さまざまな迷路』収録)というショートショート──読んだのはおそらく40年以上前になるが、タイトルも内容も覚えていた。貧しい画家志望の青年が質屋を訪れ、自分が描いた絵を質草に金を借りよう懇願するのだが、質屋の主人は冷たく拒絶する。「われわれユダヤ人というものは、冷静なんですよ。甘く見ちゃ困りますな」と冷淡にあしらう店主に、青年は「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、きさまら冷酷なユダヤ人全部に仕返ししてやる……」と捨て台詞を残して帰って行く。青年の名はアドルフ・ヒットラー。彼が去った後に店主はつぶやく。「まあいいさ。おれはユダヤ人なんかじゃない。この商売をやるにはユダヤ人と自称していたほうが、お客の冷酷に追い返せたり、なにかと便利なので、そう言っているだけのことなのだ」
こんな私怨が歴史的大惨事の「ことのおこり」だったのかという意外性と、ヒットラーがユダヤ人だと信じて逆恨みした質屋の主人は、実はユダヤ人ではなかった──大惨事そのものか「誤解」の上のことだったという二重の意外性が印象に残った。
『始まりと大惨事──実話──』と着想は似ているが、印象はずいぶん違う……。

■勝者エドワード
初老の夫婦、エドワードとルイーザの家の庭に変わった毛色の猫が迷い込んでくる。ピアノを演奏することを日課にしていたルイーザは、その演奏を聴く猫のようすから、その猫は作曲家フランツ・リストの生まれ変わり(輪廻転生)だと思い込む。奇跡が起きたと興奮するルイーザはエドワードに自分の考えを話すが全く信じてもらえない。
思い込みの強いルイーザは世界中の著名な作曲家を読んで彼(リストの生まれ変わりの猫)に会わせるなどと良い出し、エドワードはそんなことは許さないと妻をしかりつけ、夕食の用意をするように命じる。そこでルイーザは猫に(ミルク以外の)エサを与えていなかった気づき、猫のために夕食の準備を始める。
ルイーザが夕食を用意したとき、猫は姿を消していた。ちょうど庭から戻ってきたエドワードの腕に引っかき傷(エドワードによればイバラで作った傷)ができているのに気づいたルイーザは、(おそらく)夫が猫を処分したのだろうと思い込んで、激高してエドワードに迫るところで物語は終わっている。

例によってダールは肝心の「それでどうなったか」をあえて書かず読者に想像させる手法をとっている。
このあとの夫婦がどうなったのか──、単なるののしり合いで済んだのか、興奮にかられた妻が夫を刺すような惨事に至ったのかはわからない。
エドワードの傷が、猫を処分する際にひっかかれたものなのか、イバラの棘によるものなのかも真偽はわからない。
読者に想像させるにしても、この作品については、真相を判断するのに必要な情報が出そろっていない。読者をじらすにしても、これは少し意地が悪すぎると感じた。

ところで本作では『勝者エドワード』というタイトルの意味がよくわからなかった。原題は『Edward the Conqueror』。「Conqueror」には、「征服者・戦勝者・征服王」といった意味があり、「conquer」には「(精神力で)抑える」というような意味もあるらしい。ルイーザにとって、彼女の主張を抑圧するエドワードは家庭内での圧政者というようなニュアンスでつけられたタイトルだったのだろうか? あるいは「Conqueror」には他の何かに掛けた意味合いがあるのかもしれない?

■豚
「昔々、ニューヨーク市でひとりの可愛い男の赤ちゃんがこの世に生を享けた。喜んだ両親は息子をレキシントンと名づけた」と始まる本作。「むかしむかし」で始まり「めでたしめでたし」で終わる定型の「おはなし」をイメージさせて、それを壊していくおもしろさを描こうとしたのだろうか? 先の読めない展開は、ナンセンス文学を意図したもののようにも思われるが……それにしてはなかなかブラックな作品になっている。

あらすじは──レキシントンが生まれてわずか12日目に、両親はくだらない理由からあっけなく死んでしまう。孤児となったレキシントンは70歳近い大伯母にひきとられ、彼女と2人で山中の隔絶した家で暮らすことに。厳格なベジタリアンであった大伯母の指導で、レキシントンは幼くして料理の才能を発揮するようになる。大伯母はレキシントンに料理本を書くことをすすめ、彼は創作料理のレシピを書き始める。
レキシントンが17歳になったとき、大伯母が急死。彼女の遺言に従って、遺産を受け取るために、レキシントンはニューヨークの弁護士を訪ねるが、だいぶぼられてしまう。
腹を空かせたレキシントンはレストランに入り、初めてローストポークを食べ、その美味さに驚く。その食材が豚であることを知ってまた愕然。豚がどのように食材として加工させるのか知りたくなったレキシントンは食肉加工工場へ見学に行くのだが……そこで豚と一緒に加工されてしまう。

レキシントンのことを「われらがヒーロー」と表現する箇所が随所にでてくるが、「ヒーロー」に似つかわしくない悲惨な最期が待っている。読者に期待させ、その裏をかく皮肉な演出だろう。
《料理を作る人が料理の素材にされてしまう》というオチ──という見方もできるわけだが……その展開に「必然性(整合性)」はないので、とってつけたような違和感があった。型破りの展開はナンセンス風味(?)のギャグなのかもしれないが、ナンセンス文学を読み慣れていない人には、「なにそれ?」感が残り、ピンとこないのではなかろうか?

■世界チャンピオン
短篇集『あなたに似た人』収録の『クロードの犬』にも登場したクロードとゴードンのコンビが活躍(?)する話。『クロードの犬』では2人はドッグレースでイカサマを企てているが、『世界チャンピオン』ではキジの密猟で悪だくみをはかる。
狩りの醍醐味というのは、おそらく獲物との駆け引き&それに勝つことにあるのではないかと想像するが、クロードは、密猟を阻もうとする厳しい監視役(番人)とのスリリングなゲームを楽しんでいるようなところもある。そして、森とキジの所有者ヘイゼルが催す《狩猟の会》を出し抜いて一泡吹かせることを目論んでいた。クロードは本短篇集の『牧師の愉しみ』でもずる賢さを発揮している。

さて、『世界チャンピオン』はゴードン視点の一人称(私)で描かれ、〝レーズンの準備〟をしているところから始まる。
給油所で働くゴードンは同僚のクロードが夜な夜な森に出かけて行くことに気づいていたが、キジ猟の解禁が迫ったある日、クロードから密猟のさそいを受ける。
クロードは〝偉大な密猟者〟であった父親から伝授された、キジをとる秘策を使って獲物を捕っていたが、その方法を明かされたゴードンは、秘策を応用した更に効果的な方法を提案する。それが《キジの好物であるレーズンに睡眠薬を仕込む》という方法で、クロードはこのアイディアをいたく気に入り採用する。こうして1日かけて準備した196個の睡眠薬入りレーズンを持って2人は日の暮れかけた森へと出発する。
この森を所有しているヘイゼルは成り上がりの地ビール醸造会社社長で、(自分もそうだったのに)身分の低い者を毛嫌いし、身分の高いものに取り入ろうとして《狩猟の会》を催していた。ヘイゼルは、ゴードンとクロードが働く給油所の前を巨大な黒いロールスロイスに乗って出勤するのだが、彼の横柄な態度を2人は快く思っていなかった。

2人が向かった森には監視役の番人が3人いて、もし捕まったら〝半年は食らう〟ことになるという。番人は銃を持っており見つかれば撃たれかねない(クロードの父親は尻を何度も撃たれている)──そんな話を聞かされてゴードンも緊張を高める。
2人はキジたちが集まっているポイントに到着するが、そこから小脇に銃を抱えた番人の姿も見えた。番人に気づかれないように、《準備してきたレーズン》をまき、キジたちがそれをついばみ始めたのを確認すると、2人はいったんその場を離れる。あとは番人が食事に帰る時間帯を狙って現場に戻りキジを回収すれば良い……。
ところが、森を出たところで2人の前に番人が現れる。番人は2人を給油所の者だと知っており、クロードには以前から目をつけていたと迫る。もちろんこのとき戦利品を持っていたらアウトだが、2人はキジもキジを捕る道具も持っていなかったので番人も手出しができない。2人は引き上げるフリをして姿を隠し、番人たちが食事に帰るのを見届けて、レーズンをまいた現場に戻る。
キジたちは眠るために、みな木の上へ移動していて、地上にその姿はなかった。ゴードンは、枝にとまって眠るキジが落ちないのであれば、睡眠薬が効いたとしても落ちないのではないか──ということに気づき、作戦は大失敗……と思いきや、ほどなくキジたちが次々に落ちてきて、前代未聞の大成功を収める。〝偉大な密猟者〟であったクロードの父親でさえ一晩で手に入れた最高が15羽だったのに、2人がこの晩、手に入れたキジは120羽に及んだ。まさに《キジの密猟の世界チャンピオン》であった。

クロードによれば先ほどの番人は、給油所の周辺にひそんで2人がキジを持ち帰るのを待ちかまえているはずだという。戦利品をそのまま持ち帰るのは危険だった。しかしクロードはタクシーを利用し地元教区牧師の奥さん・ベッシーに戦利品をあずけ、手ぶらで帰宅するという手はずを整えていた。そしてクロードとゴードンは無事に帰宅した。

翌朝、ベッシーは乳母車を押して、クロードとゴードンの給油所へ向かっていた。乳母車には赤ん坊が乗せられてたが、その下には戦利品が隠されている。給油所で到着を待つクロードとゴードンに受け渡しをすれば完全犯罪が完結する。
ところが、給油所を目前に乳母車を押すベッシーに異変が現われ、乳母車からキジが飛び立った。睡眠薬の効力が切れたキジが目覚めたのだ。給油所につくやいなや泣き叫ぶ赤ん坊をベッシーが抱き上げると、重しを失ったことでキジたちがいっせいに飛び出し、給油所はキジたちであふれ返った。何事かと人々が集まりはじめ、クロードとゴードンは慌てふためく。キジの持ち主・ヘイゼルがロールスロイスに乗って現れる時間が迫っていた。

クロード&ゴードン・コンビの策謀は、はたして思惑通りにいくのか──緊迫感のある展開でおもしろい作品だった。
ただ、《キジの好物に睡眠薬を仕込む》という着想自体は、そう奇抜なものではない。作中ではこのアイテムがそのまま(工夫なく)使われている。策謀が成功したかに思われたところで、とんだどんでん返しが待っていた──という展開は面白かったが、《睡眠薬の効果が切れた》というオチもアイディアとしては、やはり単純な気がする。時間が経てば薬の効力が切れることはゴードンやクロードにも予測し得たことである。楽しく読めた好短編ではあるけれど、傑作と言うには、ちょっと物足りなさが残る……というのが率直なところ。

物足りなさが創作イマジネーションを刺激するダール作品
一連のダール作品を読んで感じたことは……おもしろさ・独特の魅力はあるのだが、「もうひとひねり欲しかった/もう少し何とかならなかったものか……」という「物足りなさ」がついてまわる作品がいくつもあったということだ。読後の満足感にやや欠ける部分があることで、不完全燃焼感が尾を引き、満足感を補完しようとして脳味噌が勝手に模索を始める──想像力が刺激されて脳内シミュレーションを展開することになってしまう。

『世界チャンピオン』でいえば……いささか平凡だった着想の活用をもう少し工夫できなかったか……ということで、例えば、「ヘイゼルへを困らせる目的」でキジを密猟するために森へ入った2人は、悪名高い人食い熊と遭遇。絶体絶命の2人はピンチを切り抜けるために持参した睡眠薬入りブドウをクマに投げ与え、クマが食べている間に逃げる。薬が効いた頃に戻ってみるとクマは眠っていた。武器も持たずにクマを取押えた2人は英雄扱いされ、森のやっかいものだったクマを退治できたことで、「結果的にはヘイゼルを大喜びさせる」ことになる──《キジの密猟目的で準備した睡眠薬入りレーズンを目的とは別のこと(クマから身を守る)に利用》《目的とは真逆の結果になる(悪いことをしに行ったのに良いことをしたことになってしまう)》という展開(工夫)が思い浮かんだりもした。もちろん、こうなると全く別の話になってしまうし、新たに処理しなければならない問題も出てくるが、単に《着想の活用シミュレーション》というこことで。
オリジナルの面白さは充分に認めているが、《物足りなさ》が残ることで、つい《工夫の余地が、まだあるのではないか》と脳内イメージが展開してしまうのだ。

ダールの短篇集には魅力的な好短編がいくつもあるのだが、「傑作」と言いきるには躊躇が働く。
傑作というのは、完成度の高い作品──これは着想を、これ以上望めない最も効果的な形でまとめあげた作品で、よけいな補完イメージの入り込む余地などないものだ。感銘は受けても、創作のヒント・刺激には意外となりにくい。
これに対して、ダールの好短編は、「もう少し工夫のしようがあったのではないか……」と想像を巡らす余地があることで、創作イメージが刺激され活性化する。
《物足りなさが想像力を刺激する》という副産的な魅力(?)がダール作品にはあるように思う。そういった意味では、他の作家へ及ぼしてきた影響(貢献度?)は数ある「傑作」よりも、むしろダール作品の方が、勝っていたのではないか──そんな気がしてならない。ダールの作品に刺激を受けて傑作を書いたり撮ったりした作家・監督は少なくないのではなかろうか?


ロアルド・ダール:あなたに似た人❲新訳版❳ ※短篇集の感想

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