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2021年06月の記事 (1/1)

H・ヘッセ『少年の日の思い出』感想

01少年の日の思い出
『少年の日の思い出』ヘルマン・ヘッセ:作/岡田朝雄:訳/草思社文庫
【収録作品】少年の日の思い出/ラテン語学校生/大旋風/美しきかな青春

ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』は中学国語の教科書で読んだ人も多いようだが、僕は習った記憶が無い……。僕がこの作品を知ったのは2017年。虫屋さんの日記に出てきたので興味を覚え、図書館で借りて読んでみたしだい。短いながら味わいのある作品で印象に残った。最近になって、また読み返してみたくなって、文庫版を入手。あたらめて感想などを記してみたい。

作品の概要
表題作『少年の日の思い出』は正味12ページほどの短い作品。その概要は──、
舞台は「私」(一人称の主人公)の書斎。そこには夕方の散歩から帰ってきた「私の客」がくつろいでいる。「私」の末息子が客に挨拶をしていったことから、子供の話題となり、「私」は子供ができてから、自分の子供時代の記憶がよみがえり、当時趣味にしていたチョウやガの採集を再開したという話を始める。その標本コレクションを客に披露するのだが、最初は興味深げに標本を見ていた客が突然不快な反応を示して鑑賞を拒絶。その後、客は非礼をわびると、自分も子供の頃は熱烈なコレクターであったことを打ち明け、少年時代のトラウマを話始める。
そこから物語の(語り手の)視点は「私の客」に移り、「ぼく」という一人称で展開していく。
「ぼく」は8〜9歳の頃、当時流行っていた昆虫採集を始めるが、しだいに標本コレクションにハマっていき、10歳の頃にはかなり夢中になっていた。あるとき「ぼく」は、そのあたりでは珍しいコムラサキ(蝶)を採集する。
隣の家の4階にはエーミールという鼻持ちならない優等生が住んでいて、コレクションとしてはたいしたことがないものの、美しい標本をつくる技術を持つことで知られていた。
コムラサキを採った「ぼく」は、普段妬んでいたエーミールに自慢するチャンスとばかりに、彼にコムラサキの標本を披露する。エーミールは珍しい種類であることを認めた上で、標本のできの悪さや、脚が欠けているなどの欠陥を指摘する。得意になって披露した珍品にケチがついたことで「ぼく」の自尊心はしおれてしまう。
その2年後、エーミールが1頭のクジャクヤママユ(蛾)を蛹から羽化させたという噂が広まった。クジャクヤママユは「ぼく」が憧れる最高峰の存在で、そのニュースを聞きつけた「ぼく」は興奮してエーミールの部屋を訪ねる。ドアは施錠されておらず彼は不在だった。「ぼく」はクジャクヤママユ見たさに闖入し、展翅されているクジャクヤママユを見つける。その特徴的な眼状紋は展翅テープで覆われていたのだが、確かめてみたいという誘惑に負けて「ぼく」は展翅テープをはずしてしまう。憧れのクジャクヤママユを初めて目の当たりにして、「ぼく」は出来心を起こす──標本を手にしたまま部屋を出てしまったのだ。階段を降りるさいに下から上がって来る足音が聞こえ、「ぼく」は盗みをおかした罪悪感に目覚め、発覚を怖れて手にもっていた標本をポケットに隠す。階段を上がってきたメイドとすれ違ったあと、「ぼく」は自責と羞恥にさいなまれ、誰にも知られる前にクジャクヤママユを戻しておこうと考え直す。しかし……エーミールの部屋に戻ってポケットから取り出したクジャクヤママユは、ひどく破損していた。自分のしでかした取り返しのつかない浅はかな行為に「ぼく」は激しく後悔する。「ぼく」は壊れた標本を残して立ち去った。
事態を打ち明けた母親に説得されて「ぼく」はエーミールのところへ謝罪に行く。彼は壊れた標本の修復を試みていたが無理だった。「ぼく」はエーミールの大切な標本を壊したのは自分だと告白する。被害者のエーミールは泣き叫んだり猛り狂うこともなく、冷たく「ぼく」に軽蔑のまなざしを向ける。そんな状況にあってもとりみだすことなく優越的な姿勢を保って「ぼく」をさげすむエーミールに、暴力衝動を覚えるほどの怒りと屈辱がこみ上げ、《そのとき、ぼくは一度起こってしまったことは二度ともと通りにすることはできないのだと、はじめて悟った》のだった。いたたまれない気持ちで帰宅した夜、「ぼく」は宝物にしていたコレクションを自らの手で押しつぶし粉みじんにしてしまう。

衝撃的なラスト/なぜ「ぼく」は大切な宝物を破壊したのか
物語は「ぼく」がそれまで夢中になってに集めてきた宝物──標本を自らの手で破壊してしまうという衝撃的なシーンで幕を閉じる。
採集&コレクションは「ぼく」にとってこの上ない楽しみの世界だったのに……なぜかと言えば、もう楽しみとしてこの趣味にひたることができなくなってしまったからだろう。これからはコレクションを見るたびに、醜悪な記憶が呼び覚まされる……それまで集めてきた至福の宝物が心の傷を深く抉るトラウマ・アイテムになってしまったからだ。癒しの世界が心の傷をえぐるというジレンマ──これが強い余韻となって残る。

『少年の日の思い出』の魅力
短い作品だし、内容もシンプルなので、ストーリーは読み返すまでもなく頭の中に入っている。しかし、それでも読み返してみたくなるのは、自らの手で宝物を葬ってしまった「ぼく」の心情とはどんなものだったのだろう──と再び物語の中に身を置いて想像(追体験)してみたくなるからだろう。
「ぼく」は美しい蝶や蛾を目にしたとき《子供だけが感じることのできるあのなんとも表現のしようがない、むさぼるような恍惚状態におそわれる》と語り、昆虫採集の情熱について《繊細なよろこびと、荒々しい欲望の入り混じった気持ち》と表現している。
ヘッセは少年の心理を的確に表現しているが、それはいったいどんな気持ちなのか──複雑な心理を行間からもすくい上げたくなって、再び読んでみたくなる。ストーリーは分っているのに再読したくなるのには、そんな魅力がこの作品にはあるからだろう。
世間的にはどこにでもありそうな小さな出来事だが、少年にとってはとても大きく重い黒歴史──日常の片隅で展開されていた少年の密やかドラマを〝追憶〟の形ですくいあげた繊細な作品という印象がある。

構成について思うこと/疑問
『少年の日の思い出』を初めて読んだとき、「この作品は、中学生の教材としては(読むのに)早いのではないか……」と感じた。「ぼく」の心理や行動は、中学生なら共感できるところもあるだろうし、描かれている心情を読み解くという教材としての設問要素はふんだんに含まれた作品ではあるけれど、この作品の〝味わい〟をしみじみと鑑賞できるのは、むしろ大人の世代だろうという気がしたからだ。邦題が示しているように、『少年の日の思い出』→大人になって振り返る〝追憶〟であることに、この作品の〝味わい〟がある。もちろん中学生の時に読んで印象に残ったという人も多いだろうが、そういう人も大人になって読み返すと、中学生時代とは、また違った感慨を抱くのではないだろうか。
作者も、おそらくそういう意図で描いている。もし、読者対象が子供であったのなら、冒頭の「私」が主人公のシーンはいらない。「ぼく」のパートだけでエピソート(物語)としては成立する。それをわざわざ、子供を持つ身となった親の〝現在〟から回想する二重構造の形をとったのは、少年時代の未成熟・未分化な情動を回顧する〝追憶〟に味わいがあると感じていたからだろう。

ところで、この作品で疑問に感じたことがある。読み進む上での障害になるほどではないのだが、ひっかかる点が2箇所があった。
先に記した二重構造とも関係があるのだが……この作品には冒頭の「私」のパートと、メインのエピソードを描いた「ぼく」のパートで、2人の一人称(主人公)が存在する。〝追憶〟というテーマや作品の構造から判断すれば、この作品の主人公は「私」だと僕は考えているが、物語のメインパートの「ぼく」が主人公だと捉える人も多いだろう。どちらが本来の主人公か──ということはさておき、どうして「私」と「ぼく」の2つの一人称が混在するのか──というのが疑問の1つ。この作品は「私」の視点で始まりながら、「ぼく」の視点で終わっており、構成的には安定が悪い印象もなきにしもあらず。
「私」の視点で描き始めたのであれば、「ぼく」のパートは三人称で処理し、最後にもう一度「私」の視点に戻って幕を閉じた方が落ち着きが良い。そのさいは「私の客」が吐露した黒歴史に対して「私」が何か気のきいた新たな視座でまとめる形が望ましい。
ヘッセとしては、最も衝撃的なシーンで幕を閉じるのが効果的と考えて「ぼく」のパートをラストシーンに据えたのかもしれない。であるなら、冒頭のシーンも、「私」ではなく、知人宅を訪問した客の側の「ぼく」の視点で描き、一人称を統一できたはずだ。
いずれにしても一人称は統一できたはずで、その方が自然なのに、どうしてそうしなかったのかがよくわからない。

気になったもう1点は、重要な役どころの「エーミール」の呼称だ。作中でエーミールが最初に登場した時──「ぼく」がコムラサキを見せる場面では、名前は明かされず「少年」とだけ記されている。それが2年後のクジャクヤママユのエピソードでは「エーミール」と、名前を明記している。名前を出すのならコムラサキのエピソードのときから「エーミール」と表記しておくべきだったし、それが自然だ。書いている途中で名前を決めたのだとしても、推敲のさいに「エーミール」で統一できたはずだ。これもなぜ統一しなかったのか腑に落ちない。

この2点が、どうして統一されていないのか、ちょっと不思議に感じている。
もしかすると、ヘッセは思いつくままに展開を書きとめていって、それがそのまま調整されずに残されてしまったのだろうか……?
たとえば、当初《「私」を訪ねてきた客に標本を披露したところ、謎めいた反応を示す→客が吐露した意外な〝少年の日の思い出〟とは……》という発想プロセスで書き進め、客の語るパートでは一人称がふさわしいと感じてメインパートも一人称で書き進めた……とか?
登場する〝模範生の友人〟については当初名前を付けずに「少年」として書き進めたが、クジャクヤママユのエピソードを綴る段階で名前はあった方が良いと考え、そこで「エーミール」という名前をつけて書き進めた……そうして書き上げた原稿を調整する間もなく(?)発表した?──そんな可能性も想像してみたが、その後推敲する機会はあったはずだ(文末の「訳者あとがき」によると『少年の日の思い出』は改稿版で、20年前に初稿が発表されているという)。
案外(?)ヘッセは、僕がひっかかった未整理の部分を問題とは考えていなかったのかもしれない。
読者として読み進むには、さして障害にはならなかったのだから、不統一ののままでもかまわないと判断したのかもしれないが……作法的には(?)整理(調整)して不統一を解消しておけば、作品としてより美しくスマートな形になっただろうに……などと思ってしまう。



一切れのパン/最後の一葉@教科書の思い出
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新型コロナ:予防接種の考え方(追記あり)

緊急事態宣言が継続中の新型コロナウイルス禍。パンデミックを押さえ込むのに重要な役割りを果たすのがワクチンだろう。予防接種率を高めることで感染リスク(発症率や重篤化)を抑えることができる。
ただ、ワクチンである以上、ある一定の確率で強い副反応が起こることはまぬがれない。それでも稀に起こる重篤な副反応被害よりも、全体が享受できる利益・恩恵の方がはるかに多い──ということで、予防接種は奨励されている。
公衆衛生的には、それで多くの人の生命を救い健康を守ることができるのだから、推奨されるのは、もっともなことだろう。
とは言え、単に《リスクより恩恵が大きい》ことをもって予防接種のみを正しい選択と短絡的に捉えるのは危険な気がしている。

予防接種をせずに感染症を発症した場合は標準装備(自然に備わっている免疫機構)が突破された、いってみれば《天災》だが、予防接種をしたことで起こる服反応は、人為的な行為がもたらした結果なのだから《人災》ともいえなくもない。
本来であれば(予防接種を講じなければ)「多くの人が〝天災(感染症)によって〟命を落とす」ところを、ワクチンを打つことによって「その多くの生命を救うことができる」一方、それと引き換えに「(人為的な措置によって)少数の犠牲者を出す」ことにもなる──という構図だ。社会全体からすれば得られる利益は大きく、引き換える損失は少ない。
つまり、ワクチンによる予防接種というのは《少数の犠牲者の上に大勢を救う人為的な措置》だということが言える。
総合的にみれば、確かに《リスクより恩恵が大きい》。しかし少ないとはいえ、必ず犠牲者は伴うし、それが人為的なものであることを忘れてはならない。副反応による重篤化リスクが、たとえ1%にも満たないわずかなものであっても、それは確実に存在し、該当してしまった人にとっては100%の現実となるからだ。
予防接種は空弾倉がやたらに多いロシアンルーレット》──そんな見方だってできなくはない。

予防接種が《少数の犠牲者の上に成立する大勢を救うシステム》であることを考えると、恩恵を受ける多くの人が、少数の犠牲者に対する補償を負担するのが妥当だろう。予防接種のコストには重篤な副反応がでた人に対する補償を折り込んでおくべきだと思う。実際にはどうなっているのか僕にはよくわからないが……制度上は《予防接種法》というのがあって、接種による健康被害については救済を受けることができることにはなっているらしい。

しかし、先日の報道(接種から3時間半で急死…死因は「急性虚血性心不全」遺族が“詳細な検査”を依頼)によれば、国内で新型コロナワクチンの予防接種後に亡くなった人は少なくとも196人いるそうだが、予防接種との因果関係が認められたものはまだ無いという。
接種率を上げることが感染症の抑止につながることから、推進する立場の人達(政府?)は、(推進のブレーキとなる)副反応被害を認めたがらないというような事情でもあるのだろうかと疑いたくもなってしまう。
本来であれば、予防接種というのは《少数の犠牲者と引き換えに大勢を救う人為的な措置》であることを周知し、《副反応被害に対しては速やかに救済措置が適用される》という補償体勢とセットで推奨されるべきものだろう。推進上、つごうの悪いリスク部分を矮小化したり認めたがらないようでは、システム自体の安心・信頼を得られない。
《リスクより恩恵が大きい》ことは確かだろうが、リスクを軽視(矮小化)することで予防接種を推進しようとしているのであれば、問題がある。
予防接種の前に、罹患歴の有無(すでに抗体を持っているかどうか)を確かめる抗体検査の選択肢がもっとあっても良い気がするし、人によって(生活環境の違いで)感染のリスクは一様ではない。一律に《全ての人が予防接種を受けるべきだ》と考えるのは拙速な気がするのである。

【追記/2021.06.19】本記事を投稿した後、〝接種後の死亡例についての報道〟を批判する記事をいくつか目にした。「本当にワクチンの副反応で死んだのか確かめられていないのに、接種への不安を煽るのはけしからん! あいまいな報道で接種率が下がって感染者が増えたら責任はとれるのか!」みたいな論調に、強く違和感を覚えた。
予防接種を受けない人を、まるで「当然はたすべき義務を怠っている迷惑者」であるかのように捉えている人はけっこういるようで、ワクチンをめぐる独善的な考え方が広がっている気がする。
ワクチンの効果について《科学的な裏付けがある》のだから、「受ける事が正しい(合理的)」→「受けないのは誤り(非合理)」と短絡的にとらえている人が多いためだろう。
もちろん、こうした同調圧力やワクチン・ハラスメントを危惧する声もあるが、ワクチン接種は《少数の犠牲者と引き換えに大勢を救う〝人為的な予防措置〟》であるということを認識する必要があるように思う。



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小学生が大発見!?カブトムシ論文



日本の小学生がアメリカの学術誌で発表した大発見!?
日本の小学生がカブトムシの定説をくつがえす大発見をして、アメリカの学術誌に論文が掲載されたというニュースがあちこちで話題になっている。
論文の詳細や『Ecology』の掲載記事(リンク)は、こちら↓で確認できる。

●山口大学>外来植物がカブトムシの活動リズムを変化させる

『Ecology』誌に掲載された記事のタイトルは「An introduced host plant alters circadian activity patterns of a rhinoceros beetle(外来植物がカブトムシの概日活動パターンを変化させる)」で、論文の【発表のポイント】として次の3点があげられていた。
・シマトネリコという外来植物に集まるカブトムシは、夜だけでなく昼間も活動を続けることを明らかにした。
・カブトムシは夜行性であるというこれまでの常識を覆す発見である。
・小学生が自宅の庭木に来るカブトムシを毎日粘り強く調査し続けた成果である。

ネット上の関連記事をいくつか読んでみたが、かいつまんで意訳すると──《日本の小学生が「カブトムシは夜行性」という定説をくつがえす大発見をし、その研究論文がアメリカの専門誌に掲載され、専門家を驚かせている》というセンセーショナルな扱いで取り上げられている。中には【日本の小学生が大発見!外来植物によりカブトムシが「昼行性」になると明らかに】と夜行性から昼行性への逆転が確かめられたかのようなタイトルの記事も見られ、小学生の「大発見」「新発見」を賞讃している。

しかし、研究の内容を読んでみると、小学生が確かめたのは《自宅の庭の植えられたシマトネリコには夜行性とされるカブトムシが集まり、日中も活動している個体がいる》ということであって、これがタイトルやリードであおったほどの「大発見」だったのだろうか……と訝しいものを感じてしまった。
レポートのアピールに誇大な演出があったのではないか?
地道にデータを取り続けた小学生は立派だと思うが、これを伝える大人がニュースの価値を高めるために(?)ハナシを面白く盛って(誇張して)しまった印象がなくもない……。

記事を読んで僕がまず感じたのは、「観察ポイント(小学生の庭)で見られた現象(シマトネリコに来るカブトムシは日中も活動している)」は(その環境に由来する)特殊なケースなのか、それとも他の環境でも普遍的に見られる現象なのか──ということだっだ。別の場所のシマトネリコでも同様の現象が確かめられているのなら、シマトネリコに由来する現象であると考えてもよさそうだが、1つの庭の観察例だけでは、本当にシマトネリコが現象の原因なのかどうかまでは判断ができない。

また、もしシマトネリコ由来の現象であるとすると──同じ場所(同じ条件の環境)にシマトネリコとクヌギの両方があったとき、カブトムシはシマトネリコとクヌギでは違った行動を示すのただろうか? そんな疑問も思い浮かんだ。
シマトネリコでは日中集まる個体の方が多く、クヌギでは夜間に集まる個体の方が多いといった逆転現象が確認できたのであれば、「定説をくつがえす大発見」といえるのかもしれない。
しかし記事をよく読むと、観察されたシマトネリコでも、カブトムシが集まる活動のピークは深夜0時頃で、正午頃ではピーク時の半数になることが記されている。活動時間帯の昼夜逆転、もしくは拮抗が起こっているわけではないのだから、《カブトムシは夜行性》であることに変わりない。現象を適切に表現するなら《シマトネリコではカブトムシの夜行性が弱まる》程度のものだろう。《夜行性であるというこれまでの常識を覆す発見である》は〝盛り過ぎ(誇大)〟という印象を受けた。

小学生の研究は《夜行性のカブトムシが自宅のシマトネリコでは日中もよく見られる》という現象を具体的にデータをとって数値化して確かめたものだ。それを評価すべきだろう。無理矢理な解釈にこじつけて「小学生の大発見」を演出する〝盛り〟の部分は、よけいだった気がする。

僕の素人想像(仮説)だが──もし、同じ場所(同じ条件の環境)でシマトネリコとクヌギの両方があったとき、カブトムシが、より多くシマトネリコに集まるのであれば《カブトムシに対する誘引力はクヌギよりシマトネリコが強い》という可能性が考えられる。もしそうなら、日中、シマトネリコでカブトムシが(クヌギより)多く見られるという現象は、シマトネリコの誘引力がクヌギより強いことで、カブトムシの〝日中残留組〟もシマトネリコでより多く見られる──という解釈もできそうな気がする(可能性の1つとして)。
シマトネリコでの〝日中残留組〟の割合が、クヌギやコナラの在来ホストに比べて明からに増大しているというのであれば「外来植物がカブトムシの概日活動パターンを変化させた」という捉え方もできるのかもしれないが……これは《夜行性》という概日活動パターンの基本部分を変化させるほどのものではなく、誘引力(?)の差によって生じる閾値の変化という「程度の問題」と捉えるのが妥当な気もする。
「カブトムシの日中残留率がシマトネリコでは(在来ホストより)増える」という現象があったとしても、活動のピークが深夜にあることに変わりはないのだから《カブトムシは夜行性》という定説がひっくり返ったわけではない。日中活動するカブトムシがいたからといって、「カブトムシは夜行性であるというこれまでの常識を覆す発見」と見なすのは飛躍が過ぎるのではないか。

クヌギやコナラでも日中活動するカブトムシは普通に見られる
僕は小学生のときには夏になるとカブトムシを捕って遊んだが、小学生が虫捕りに出かける時間は日中(せいぜい早朝)であり、夜行性のカブトムシの活動ピーク時ではなかった。それでも樹液ポイントに来ているカブトムシはいたものだ。
01カブトムシ@クヌギ
02カブトムシ@コナラ
クヌギやコナラでも日中活動している〝日中残留組〟は珍しくないし、一部の〝日中残留組〟を見たからといってカブトムシの「夜行性」を疑うことは無かった。
《カブトムシは夜行性だが、昼間でも活動している個体はいる》というのが虫捕りをしていた子どもたちの常識だったように思う。
問題の小学生が観察した研究は、この〝日中残留組〟がシマトネリコでは(おそらくクヌギより)多い──という現象を示唆するものだった。この研究で集めたデータから、シマトネリコでもカブトムシの活動のピークは夜間であることに変わりがないことが判っているのだから、本来であれば《(シマトネリコでは)カブトムシの夜行性が弱まる》くらいが適切な表現だろう。
それをどうして《カブトムシは夜行性であるというこれまでの常識を覆す発見である》などと〝盛って〟しまったのか……。この誇大演出の部分は小学生の考えではなく、研究をサポートした小島渉氏の意向だろう。冒頭の動画の中で〝偉業を成し遂げた小学生〟は自分の研究について「シマトネリコにカブトムシがいるということは前から分っていて、それをデータをとって証明した感じだと思います」と謙虚に語っている。
今回のニュースが驚きを持って(驚きを盛って?)拡散したのは小島渉氏の演出部分が大きかったはずだ。
《カブトムシは夜行性であるというこれまでの常識を覆す発見である》という解説リードから、《夜行性である日本のカブトムシがシマトネリコという外来植物によって昼行性に転じるという驚くべき発見を日本の小学生がして、米学術誌に発表した》と理解(誤解)してしまった人は少なくないだろう。実際にこの話題を【日本の小学生が大発見!外来植物によりカブトムシが「昼行性」になると明らかに】というタイトルで報じているサイトもある。
こうした誤認(ミスリード?)を最初から狙っていたかどうかはわからないが、《(シマトネリコではカブトムシの)夜行性が弱まる》という適切な(?)表現より《夜行性であるというこれまでの常識を覆す発見》とプレゼンしたほうがキャッチが良いことは確かであり、小島氏がそれを意識しなかったわけはないと思う。
また、小学生を〝ファーストオーサー(第一著者)〟に担いでアメリカの専門誌で発表すれば、さらに注目が集まるということも意識していたはずだ。

プロの研究者というものは、自分が関わった研究の価値を高め、注目度を高めるために《わかりやすくインパクトのあるロジック》に誘導されやすいのだろうか……と訝ってしまう。

じつは、カブトムシに関するニュースで訝しい印象を持ったのはこれが初めてではない。
今回、小学生を第一著者に担いで論文発表をサポートしたカブトムシの専門家・小島渉氏だが……以前、カブトムシの角にはジレンマがあったとする学説を発表して話題になったことがある。そのニュースを知った時には、やはり《わかりやすくインパクトのあるロジック》に飛びついてしまったのではないかという疑問を感じた。
カブトムシの角のジレンマ説についてかいつまんで説明すると──夜行性であるタヌキの餌場で見つかるカブトムシの死骸(食い残し)を調べたたところ、ツノの長いカブトムシ♂の割合が多かったことから、《カブトムシ♂のツノは仲間内では長い方が有利だが、長いものほど天敵に狙われやすく(目立つことで捕食されやすく)なるジレンマを抱えている》と結論づけたものだ。ロジックとしては判りやすくて面白い。一般ウケしそうなキャッチのよいネタで、じっさい色々なところで話題になっていたが……しかし本当のところは、ツノの長さは捕食者(タヌキ)の捕食の選択を左右するものではなく、タヌキの食事の時間帯(カブトムシが盛んに活動する時間帯でもある)に餌場を占領しているカブトムシはツノの長いオスが多かった(餌場争いの勝ち組が残っていた)だけではないのか……僕にはそう思えてしかたがない。プロの研究者というのは〝ウケの良い、注目を浴びやすい新発見(解釈)〟に誘導されやすいのだろうか……などといぶかしく思っていたのだった。

プロの科学者のことはよくわからないが、生活していくためには(?)自分がかかわる研究に世間の注目を集める手腕も求められるのかもしれない。本来の科学的価値の誠実な追究よりも、世間の注目を集める手腕に長けた研究者の方が出世しやすいような仕組みでもあるのだろうか?
地道であるべき研究を派手に演出してアピールするのは、必要なことなのだろうか?──そんな疑問をあらためて感じてしまう記事でもあった。


《カブトムシの角は矛盾だった》のか?
『不思議だらけ カブトムシ図鑑』と《角のジレンマ》
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