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2021年05月の記事 (1/1)

えび天ミラクル☆シリーズから30周年

ミラクル☆シリーズ&えびぞり巨匠天国から30年
01MSえび天1991

トップページにも画像を置いてある実写版ミラクル☆シリーズ──ごく一部の知人に見せるつもりでイタズラに制作したビデオ映像作品がTBSテレビ『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』で放送されてから、気づいてみれば今年で30年! いったい、いつの間にそんな歳月が!?……まったく油断もスキもあったものではない。しかし、ふり返ってみると、たしかに経年のためか記憶があやふやになっているところもある。今一度、当時(1991年前後)の記録をふり返って記憶を整理をしておくことにした。ということで、今回は個人的な忘備録的意味合いの強い記事になる。

個人誌から平成名物TV『えびぞり巨匠天国』へ
三脚に固定したカメラの前で変身ヒーローと怪人の一人二役を演じ、闘っているかのように編集した実写版ミラクル☆スター。もとはと言えばワープロ(日本語ワードプロセッサ)を使って制作した個人誌《チャンネルF》で展開していた楽屋落ちパロディヒーロー小説だった。その頃は8mmビデオカメラでヘビやカメ、昆虫等を撮っていたのだが、ビデオカメラがあるのならパロディヒーローの実写化も謀れるのではないかと気まぐれを起こして試作に踏み切ったもの。
当時僕は30代前半──高校時代には友人らと8ミリフィルムでアクション映画を撮って文化祭で上映したなんてこともあったが、高校卒業後はほとんど運動をしていない。このままでは肉体は錆びつき、いずれ動けなくなるだろう──若い時に修得した技術(宙返りなど)を喪失する前に映像記録として残しておくのも良いのではないかという気持ちもあった。
その頃、脳内には「〝動けていた時期〟の運動イメージ(記憶)」がしっかりと残っていて「実際にはどれだけ動けるのか」の感覚は確かめられていない状態だった。
よく子どもの運動会で久しぶりに走って足がもつれ転倒する親御さんがいがちだが、あれは「思っていたより体(足)がついてこなくなっていた」──つまり「脳内に残っている若い頃の運動イメージ(記憶)」と「実際の運動能力(気づかぬうちに劣化している)」とのギャップによる現象だろう。
実写版ミラクル☆スターの試作カットを撮り始めた頃も、実際に動いてみて、運動イメージのギャップを感じることがないでもなかった。1991年1月6日にはミニトランポリンの踏み切りをしくじって肩から落下。鎖骨骨折というアクシデントに見舞われて、鎖骨にワイヤーを入れる手術を受けた(1月9日)。ワイヤーがとれるまでは負荷のかかる運動はできないというので、しかたなく退院(1/11)後は、おとなしく撮影済みの映像素材の編集を始めていた。
当時のビデオ編集はビデオデッキをつないで、再生機で再生した映像の必要な部分だけを録画機でダビングしてつなげていくといった形で行われていた。録画機の操作(録画一時停止の解除など)はタイムラグがあるため、カットのタイミングを合わせるのがやっかいだった。そして1991年1月12日(土)深夜、編集作業を始めようとビデオデッキの電源を入れたところ、モニターに使っていたテレビに、たまたま「三宅裕司のえびぞり巨匠天国」の第1回放送が映し出された。当時はまだYouTubeなどなかった時代。アマチュアの制作した映像作品を見る機会は、ほとんどなかったので、自主制作映像作品を紹介する「えび天」は新鮮だった。番組内でアマチュアの映像作品を募集する告知があり、ちょうど編集中だった「ミラクル☆スター」を応募してみようかと思い立った。

急きょ「えび天」応募用に編集した「ミラクル☆スター」のビデオテープ(コピー)を発送したのが1月14日。思いつきで応募してはみたものの、しょせん内輪ウケ狙いで撮り始めたイタズラ作品だったので、あまり期待はしていなかった。
ところがわずか2日後──1月16日の夜に採用を告げる電話を受けて驚いた。
1月23日に恵比寿で番組の説明会があったのだが、1月21日の朝に倒れ、右顔面神経麻痺の症状に見舞われる。鎖骨の手術をうけた病院を受診するが要領を得ない。説明会後の1月29日の再診で入院することになり、1週間ほど右顔面神経麻痺の治療。2月9日(土)に行われた「えび天」収録には間に合った。
収録当日(2/9)の記録を見ると──17:30、TBS日比谷シャンテSTUDIO B3控え室に集合。18:00過ぎに説明会。19:00にスタジオ入り。前説が30分ほどあって、19:40から収録開始。「えびぞり巨匠天国」は生放送番組ということになっていたが実は生収録。CMの時間もリアルタイムでとり2時間40分ぶっ続けで収録し編集は行わないとのことだった。「ミラクル☆スター(えび天バージョン)」の結果は銅賞(メダル)&特別奨励賞(トロフィー)。出演時には鎖骨にワイヤーが入っており、顔面神経麻痺を隠すため特性の自作マスクを被っていた。オンエアは1週間後の1991年(平成3年)2月16日(土)・24:40〜27:00だった。
実写版ミラクル☆スターは独りで撮った試作版だったが、どうにかカットのタイミングを合わせてビデオ編集ができることはわかった。この要領で仲間を加えて撮れば、独りではかなわなかったシーンも増やせるし、アクションの可能性が広がる。そうすればもっとおもしろいことができるはずだと考え、動けない期間に色々と次回作の構想を練る。
ようやく鎖骨のワイヤーを抜く手術が行われたのは3月20日(抜糸は4月2日)。鎖骨骨折にこりて注文した特注の折りたたみ式エバーマットが4月24日に届く。高校時代にアクション映画を撮った仲間を巻き込んで1991年4月30日にミラクル☆スター第2弾の撮影を開始。しかし、フェンス越えの前方2回宙返りのシーンで早々にケガ──エバーマットに首から落下し、首・胸骨・背中を痛める。回転オーバーを警戒して背中から落ちるつもりでやや早めに体を開いた(回転にブレーキをかけた)ところ、なんと回転不足だった。痛みをこらえて予定していた石垣からのダイブ後方宙返りのシーンまでは撮影するが、そこでロケは中断。
再びのケガで撮影スケジュールが狂い、とりあえず型紙を使った改良マスクの製作を始める。試作のFRPマスクはデザイン的には視界を広くとっていたものの、通気性が悪く、ポリカーボネイト板のハーフミラー(ゴーグル部)が息でくもって非常に見えづらいことになっていた。もっとよく見える新マスクを──ということで、発泡ポリエチレン板を使った新マスクを考案。通気性を改善し、ゴーグル部をハーフミラーのフィルムに変更した。ついでに胸当て部分も作り直した。
02MSマスク旧FRP新
03MS新胸当て
型紙による改良マスクはすぐにできたが、ミラクル☆スターの撮影再会の見通しは不透明。そこで、すぐに撮れる代替案として浮上したのが『ミラクル☆キッド』だった。
撮影中の事故によってミラクル☆スターは頓挫……という実情を取り入れた設定(実際にはフェンス越えのダブル宙の撮影でケガをしているが、作中では石垣上からのダイブ宙でケガをした設定になっている)で、負傷したミラクル☆スターに代わって虫とり少年がニューヒーローとなり怪人を倒すという内容。当時小学2年生だった甥っ子を主役に抜擢してミラクル☆キッドの造形を開始。撮影は主役の夏休みを利用して1991年8月に行われた。
04ミラクルキッド1991夏
『ミラクル☆キッド』は「えび天」再登場を意識して作られた。ミラクル☆スターが少年に託した変身メダルは「えび天」で受けた銅賞メダル(銅監督に与えられるメダル)、その変身メダルに転身エネルギーを送るミラクル・タワーには奨励賞トロフィーを使用している。
05ミラクル変身メダル
06Mタワー照射キッド
最後にミラクル・タワーに現れる顔は「えび天」の司会アシスタントをつとめていた福島弓子アナウンサーだったりする。
07Mタワー福島弓子
しかし、「三宅裕司のえびぞり巨匠天国」は9月末に突然の終了。『ミラクル☆キッド』での「えび天」再登場はかなわなかった。
ということで、せっかく撮ったのだし、チャンネルFの実写ヒーロー物のまとめとして、ミラクル☆スターからえび天を経てミラクル☆キッドまでメイキング映像を含めて編集し直したビデオ『ミラクル☆シリーズ スペシャル』(1991年)を作成。YouTubeに投稿したミラクル☆スターとミラクル☆キッドはこのスペシャル・バージョンということになる。





紙媒体の個人誌《チャンネルF》の方では、実写版ミラクル☆スターへの展開を受けて、架空の設定や図解などをまとめた「ミラクル☆スター 秘密大百科」を作成。ミラクル☆キッドの制作後には改訂増頁版として「ミラクル☆シリーズ 秘密大百科」を作っていた。
08CF版ミラクルシリーズ
実写版の元となった小説版ミラクル☆スター・シリーズは、僕が関わった同人誌仲間が登場する楽屋落ち的ギャグ作品で、ネタが判るごく限られた読者を念頭に書いたものだった。少し前に埼玉県を揶揄するギャグがウケた『翔んで埼玉』(2019年)という邦画があったが、同じようなこと(怪人のモデルとなった友人・某が住んでいた葛飾区を揶揄)を小説版ミラクル☆スター・シリーズでは1989年にやっていた。チャンネルF・10号収録の『ミラクル☆スター〜復活篇〜』は、ブログの読み切り作品としては少々長め(3万字ほど)なのだが《はてなブログ》の方で公開している(ブログ版では登場人物は仮名)。
高校時代にアクション映画を撮っていた頃は「格闘シーンに限って言えば、文章表現は、視覚に直接うったえる映像表現にはとてもかなわない→格闘物は小説には不向き」だと思っていた。しかしその後、「文章でも迫力のあるアクション・シーンは描くことができるし、実写映像とはまた違った──実写映像では表現するのは難しいシーンも文章では自由に表現することができる」と考えを改めた。これを試してみたのが小説版ミラクル☆スター・シリーズだったともいえる。久しぶりに読んでみたら面白かった。エピソードの元ネタを知らない人が読んでもそれなりに楽しめるのではないか……などと思ってしまった。



ミラクル☆スター〜実写版〜※ひとりで撮ったスーパーヒーロー・アクション
ミラクル☆キッド〜実写版〜※小学2年のスーパーヒーロー誕生
『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』と出演覚書
ミラクル☆シリーズさくっと制作経緯
自作ヒーロー:型紙マスクの作り方
幻のインディーズヒーロー・アクション※『ミラクル☆スター2』の絵コンテ
小説版『ミラクル☆スター〜復活篇〜』(はてなブログ)
ヒーロー的宙返り
最後の宙返り
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新型コロナ予防接種について思うこと

新型コロナウイルスワクチンについて思うこと

日本は(先進国の中では?)接種率が低く、それを高めることに手間取っているようだが……予防接種に関して思うことがある。

ワクチンというのは免疫機能を利用して「(病原体の指標を持たせた)疑似病原体」を投入して抗体を作らせ、病原体に備えておくというものだろう。ならば1度罹患して完治した人は抗体を持っている──ワクチンを接種したのと同じ効力を有しているのではないか?
そうであるなら既に新型コロナにかかって抗体を持っている人は新たにワクチンを打つ必要がないはずだ。症状が軽く無自覚で罹患した人はずいぶんいるはずだ(そういった人が感染源となりうることで感染が広がり続けている側面もあるはず)。もし、抗体検査ですでに罹患&完治していること(充分な抗体を持っていること)が判れば、そうした人は予防接種済みと同等と見なし、予防接種枠から外すことができる。そうすれば、本当にワクチンを必要とする人を絞り込み──予防接種の迅速化がはかれるのではないか?

新型コロナのワクチンに対しては少なからず疑問や抵抗を感じている人も一定量いるはずだが、抗体検査なら抵抗無く受け入れられるだろう。
もしも、手っ取り早く──予防接種に必要な人材(打ち手)などに負担をかけることなく、抗体検査ができるものなら、本来の必要とする人への接種率を上げること──迅速化にも貢献できそうな気がする。

ワクチンの開発・製造・普及と併行して、「〝予防接種済みと同等〟であることが確認できる抗体検査」の簡易化を進めることができないものだろうか……などと、素人的には思うのだが、どうなのだろう……?



新型コロナウイルス報道をみて感じること
コロナ危機のとらえ方

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名作童話『びりっかすの子ねこ』感想

01びりっかすの子ねこ
『びりっかすの子ねこ』ディヤング・作/マクマラン・絵/中村妙子・訳/偕成社

ネコを素材にした作品は多い。好きなタイトルは色々思い浮かぶが、オススメの1冊をあげるとすれば──僕なら『びりっかすの子ねこ』(ディヤング・作/中村妙子・訳)だろう。納屋のすみで産まれ、親や兄弟とはぐれてしまった、ちっぽけな〝びりっかすの子ねこ〟が、色々な目にあいながら、とうとう〝自分の居場所〟をみつけるまでのハラハラ・ドキドキ&心温まる名作童話。読み終えた後には〝しあわせ〟とは何かを改めて考えてみたくなる──そんな1冊だ。

この作品の魅力を語るには、物語の概要を紹介する必要がある。以下、いわゆるネタバレとなるあらすじを記すので、そのつもりで──。

『びりっかすの子ねこ』のあらすじ
びりっかすの子ねこが産まれたのは、犬屋の納屋の片隅だった。納屋には犬が入ったケージがたくさん並び、エサも貯蔵されている。このエサをネズミから守る目的で納屋にはネコも1匹飼われていて──このネコが7匹の仔猫を出産したのだ。びりっかすの子ねこは6匹の兄弟たちが産まれたあと、おまけみたいに産まれた末っ子だった。
この末っ子は6匹の兄弟たちとのおちち争奪戦ではじき出され、いつもお腹をすかせていた。6匹の兄弟たちがかたまって温まっているときも、押し出されて寒い思いをしていた。
ある日、母猫は6匹の子どもたちをくわえて、順々に下におろした。吠える犬たちにならすために。しかし、母猫は末っ子を迎えには戻らなかった。びりっかすの子ねこは、痩せっぽちで足もよろよろしていたので、連れ出すのが無理だったのだ。
それでも、びりっかすの子ねこは6匹の兄弟たちのあとを追って、下におりようとする。そして、目が見えず耳もきこえなくなった寂しい老犬(犬屋が飼っていた犬)の上に落ちてしまう。
そのとき老犬はミルクを飲んでいた。びりっかすの子ねこが落ちてきたひょうしに、あごがミルクにつかり、驚いてミルク皿をひっくり返してしまう。何事かと老犬はあごを突き出し──そのミルクで濡れたあごがびりっかすの子ねこに触れた。びりっかすの子ねこは思いがけないミルクを懸命に舐め始める。老犬にはそれがここちよかった。眠くなってあごが下がってくると、びりっかすの子ねこは温かく感じ、老犬のあごの下で眠ってしまう。
ミルクと温もりをもたらした老犬をびりっかすの子ねこは慕い、老犬はびりっかすの子ねこと出逢ってさびしくなくなった。

老犬の飼い主(犬屋)は日に2回、あわただしくミルクを与えに来るのだが、そのとき老犬は寝ているので、そのあごの下に小さな猫がかくれていることに気がつかない。天気のよいある日、飼い主は日光浴をさせるために老犬のケージを納屋から出す。
目覚めて老犬のあごのしたから這い出したびりっかすの子ねこは、初めて見る明るく広い世界にビックリ。それまで納屋の中が全世界だった子ねこにとっては、見るもの聞こえるもの全てが新鮮で驚きに満ちていた。虫を追ったり枯れ草とじゃれたり、遊んでいるうちに日が暮れてしまう。
遊びつかれ、お腹をすかしたびりっかすの子ねこが戻ったとき、老犬のケージはすでに納屋にしまわれ、戸口は閉められていた。
帰る場所を失ったびりっかすの子ねこは、とほうにくれて鳴き続ける。しまいには声がかれてしまうが、閉ざされた戸は開かない。ひとりとり残され、あたりは暗くなっていくばかり。
納屋の並びには7軒の家が連なっていて、びりっかすの子ねこは、この1軒1軒を訪ね歩く。色々な犬や猫、人間と遭遇するが、どこにも身の置き場かはみつからない……そして、一晩の冒険の最後にたどり着いた7軒目の家は、犬屋の住居だった。その日は犬屋の誕生日で、そのタイミングで現われた仔猫を、犬屋はお祝いに来てくれたようだと歓迎。びりっかすの子ねこにもおくりものをと考える。そして彼が運んで来たケージに入っていたのは、あの目が見えない老犬だった。突然の再会をはたしたびりっかすの子ねこは老犬のあごの下にもぐり込む。ちっぽけな仔猫と老犬のうちとけたようすに何も知らなかった犬屋はびっくり。びりっかすの子ねこは、老犬とここで暮らすことになる。やっと自分の居場所をみつけ、自分が必要とする・そして自分を必要とする者と暮らすことがかなったのだ。それはびりっかすの子ねこのみならず、老犬、犬屋、それぞれにとってのしあわせでもあった。

『びりっかすの子ねこ』の魅力
びりっかすの子ねこの幼気さや、ささやかな幸せを手に入れることの尊さが胸を打つ──あらすじだけで、僕が感想を差し挟まなくても、本作の魅力・感動といったものがあるていど想像できるだろう。それだけ筋立がしっかりしているということだ。ハッピーエンドの意外性も、物語をたくさん読み込んだ読者であれば予想できるかもしれないが、ピュアな子どもの読者には新鮮に感じられるだろう。いずれにしても読者が望む結末なので、落ち着きのよい読後感が残るはずだ。

あらすじだけでも魅力が伝わる作品だが、物語を展開する文章が的確で魅力的だ。気取らない、わかりやすく簡潔な文章で、猫や犬のしぐさをとても自然に生き生きと描いている。実際に猫や犬を飼ったことがある人には、描かれた光景がリアルに目に浮かぶことだろう。このリアリティが、幼気なびりっかすの子ねこへの感情移入・共感を生み、ドラマへの没入感を深める。
ストーリーのおもしろさだけでなく、〝登場する動物たちの姿が目に浮かぶように生き生きと描かれている〟ことが本作の魅力だろう。

『びりっかすの子ねこ』は童話(児童文学)だが、〝子ども向け〟というより〝子どもから楽しめる(子どもにも読むことができる)小説〟といえる。訳者の中村妙子さんは巻末の【作者と作品について】の最後に、次のように記している。


なんべんもくりかえしよんで、おとなになっても、おもいだしてはひらいてみたくなる、そんな『びりっかすの子ねこ』を、だいじにしてくださいね。

大人になってから読み返しても感動できる──大人の鑑賞に堪える名作童話だと僕も思う。
古い作品(初版が1966年/2訂が1985年:2019年に23刷が出ている)だが、感動は色褪せない。今後も絶版になることなく、版を重ね、読み継がれていってほしい作品の1つだ。


※本ブログ内のネコがからんだ記事
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アカスジキンカメムシは死ぬと輝きを失うが羽化殻は輝き続ける

01赤筋金亀虫16May
※【アカスジキンカメムシぷち実験で輝き復活】より⬆

アカスジキンカメムシの輝き
アカスジキンカメムシの羽化シーズンが始まったようだ。先日、トウカエデの根元をかこむツツジの葉の下にまだ新しい羽化殻(羽化したさいの抜け殻)が落ちているのを発見。その上に目をやると、ツツジの葉の上にアカスジキンカメムシの新成虫の姿があった。近くを探すと葉の上にたたずむ新成虫がもう1匹。その下にも羽化殻が落ちていた。アカスジキンカメムシは、羽化や脱皮のあとに、自分の抜け殻を落とすという奇妙な行動をとる(カメムシの奇行!?抜け殻落としプチまとめ)。
この昆虫は成虫が緑色の金属光沢を放ち、とても美しい。ただ、この輝きは生きているとき限定。死ぬと色褪せてしまい、輝きを保ったまま標本にするのが難しいらしい。標本になっても輝きを失わないタマムシとは違って、美しい姿を残せないというのは、なんとも残念な気がする。
ただ、意外なことに、水で濡らすと輝きは一時的に復活する。

02赤筋金亀虫変化1
03赤筋金亀虫変化2
※【アカスジキンカメムシぷち実験で輝き復活】より⬆
水を得て復活するとは、まるで、黄金バット!(古!) しかし、それもつかの間……乾くとすぐに色褪せてしまう。
04赤筋金亀虫の成虫幼虫
美しい成虫に比べると、羽化前の終齢幼虫(5齢)は一見、白黒で地味に見える(遠目には鳥糞っぽい?)。しかし、よく見ると、黒っぽい部分には光沢があって、これが羽化殻では日光を反射してメタリックにきらめいて見えたりする。
ここで〝日光を反射してきらめく羽化殻〟の画像を載せたいところだが……2年前カメラが壊れてから新調していないので、過去の画像から、なんとなく金属光沢感がわかるものを……。
05赤筋金亀虫羽化殻2
06赤筋金亀虫羽化殻背
07赤筋金亀虫羽化殻腹
ちなみに、金属光沢のある黒っぽい部分は硬く、半透明の部分はやわらかい組織でできている。同じステージの中で(次の脱皮や羽化までの間)、体はいくらか大きく成長するわけだが、広がるのは、この軟らかい部分である。
08赤筋金亀虫5齢比較

成虫は死ぬと輝きを失うが 抜け殻は輝き続ける
さて、先日きらめく羽化殻を目にして、ふと思った。成虫の輝きは死ぬと失われてしまうが、羽化殻の輝きはいつまで保たれるのだろうか? 意外に長い間、安定しているのではなかろうか?
拾ってから1ヶ月余りたって撮影した羽化殻⬇
09赤筋金亀虫羽化殻後
アカスジキンカメムシの羽化殻は《抜け殻落とし》を観察するさいに持ち帰ったものが残っている。先日みつけた羽化殻を持ち帰り、数年前に拾っておいた羽化殻と比べてみると、輝きは変わっていないようだった。
抜け殻の輝きは羽化殻に限らず、脱皮殻(羽化ではなく幼虫への脱皮)でも見られる。
10赤筋金亀虫脱皮殻A
11赤筋金亀虫脱皮殻B
12赤筋金亀虫脱皮殻C
撮影した脱皮殻は残っていないが、おそらく脱皮殻も羽化殻同様に輝きはキープされているのではないかと思う。
生体の方は死ぬと輝きを失ってしまうのに、抜け殻だけが輝き続けているというのは……何やら妙なおもむきを感じる。
〝主体となるものは終焉を迎え色褪せるが、副産的なものが意外に継続していく〟──といった意味合いの格言に使われてもいいような気がしないでもない。


カメムシの奇行!?抜け殻落としプチまとめ
アカスジキンカメムシぷち実験で輝き復活
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舟崎靖子『魔法の時間です』感想

01魔法の時間です
図書館で借りた『魔法の時間です』(舟崎靖子・作/上野紀子・絵)ポプラ文庫版。『魔法の時間です』と『「メリーさんのひつじ」がきこえる』の2作品が収録されている。

先日の記事で間接的に触れた『魔法の時間です』という児童文学。僕は未読だったのだが、どんな内容だったのか気になって検索してみたところ、近くの図書館に蔵書があることがわかり、借りて読んでみた。おもしろい作品だったので、ネタバレを含む感想を少し記してみたい。
一言で言うなら〝こどものノスタルジーをくすぐるファンタジー童話〟だろうか。ノスタルジーというと、ある程度歳を重ねた大人のものというイメージがあるが、小学生(主人公)にもその感情はあって子どもたち(読者)と共有しうるものであることを示した作品だと感じた。
主人公は小学4年生のマツモトミチコという女の子。物語は4つのエピソードで構成されている。以下、順を追って記していこう。

①イケノヤムシとどくのある赤い毛虫どちらがつよい
ミチコのクラスには〝わすれっぽいくせに《忘れもの係》をしているイケノヤくん〟という男子がいて、ミチコはいつも意地悪をされる。腹を立てるも乱暴者のイケノヤくんには太刀打ちできないので、悔しい思いをし続けていた。あるとき、イケノヤくんに凄まれた瞬間──その言葉をきっかけに、以前にも同じようなことがあったという記憶が呼び覚まされる。3歳のときに遊んでいたネコに凄まれて、ミチコは〝魔法を使って〟ネコをカバンに変え、カバンにしたネコを元のネコに戻したことがあったのだ。当時の記憶と重なる状況下で、ミチコはとっさに〝魔法を使って〟イケノヤくんをイモムシ(教室で飼われていた教材)に変えてしまう──ことができた! そして自らも毛虫に変身して、イモムシになったイケノヤくんと対峙。ふだんかなわなかったイケノヤくんを屈服させて、もう乱暴や嫌がらせをしないと約束させる。第1話の最後は次のような文章で結ばれている。


 わたしは、あの〝カバン(ネコのこと)〟をカバンにかえたむかしのおそろしいぐらいすてきなできごとを思いだしたことと、力でかなわなかったイケノヤくんを、あやまらせたことがうれしくて、うきうきとしていた。
 このことを、だれかにしゃべりたくてしかたなかったけど、しゃべってしまうと、せっかく思いだしたものを、またわすれてしまいそうで、だまっていた。


小さかった時に魔法が使えたことを思いだし、その能力を今でも使えるという発見をしたミチコ。〝忘れていたすてきな秘密の扉が再び開く〟──そんな不思議でワクワクする導入のエピソードとなっている。

②やたらにとびたがるモンシロチョウのサッチャンと毛のぬけたハブラシのようなネコ
1時間目は理科のテスト(チョウについてのテスト/第1話で教室で飼われていたイモムシが緩やかな伏線になっている)。その直前、ミチコはトイレで泣きそうになっているクラスメイトのサッチャンをみつける。家から飼い猫がついてきてしまい、家まで連れ帰る時間も無く、学校が終わるまで隠しておくこともできそうにないので途方に暮れていたのだ。ミチコは自分の身に置き換えて考え、愛犬シロが家から着いてきて帰れなくなってしまったら……と想像して、サッチャンを助けてやりたくなる。そこでミチコはサッチャンにはネコを家においてくるように言って送り出すと、そこにいたモンシロチョウを捕まえて、魔法でサッチャンに変身させる。この〝モンシロチョウのサッチャン〟を授業には出席させようという〝魔法を使った替え玉作戦〟である。
ミチコは〝モンシロチョウのサッチャン〟と教室に戻り、一緒にテストを受けるが、替え玉であることがバレやしないかと気が気ではない。〝モンシロチョウのサッチャン〟はミチコの心配をよそに、あっさりと一番でテストをしあげるが、回答を提出したあと、チョウの癖が出て(?)宙を飛び始めてしまい、先生やクラスメイトたちを驚かせる。ミチコは大あわてで〝モンシロチョウのサッチャン〟をつかまえ保健室に連れて行く。そしてサッチャンの家へ電話をかけ、本物のサッチャンに誰にも見つからないように保健室に来るように告げる。本物のサッチャンが戻ってきたところで〝モンシロチョウのサッチャン〟をモンシロチョウに戻せば、替え玉作戦は終了できる。保健室にはイトウ先生が詰めていたのだが、奥のベッドで寝ているはずのサッチャンが保健室のドアから入ってきたので驚く。寝ているはずのサッチャンは消えていて、そのかわりにモンシロチョウが飛んで行ったのだった。
第1話では漠然と魔法の力は秘密にしておこうと考えていたミチコだったが、第2話では、魔法による替え玉作戦がバレてはいけないという状況のもと《秘密》にする必然性が増し、そのぶん緊迫感もスケールアップ。アクシデントをごまかしながら、ひとり秘密を守ろうとするミチコのハラハラ・ドキドキぶりがスリリングに描かれている。

③石どうろうがカエルになりシャクトリムシのわたしがウルトラCをやる
登校前に愛犬シロ(第2話で、ちょっと出てきた)が行方不明になっていることが発覚。前回は、魔法で変身させた〝モンシロチョウのサッチャン〟をヒヤヒヤしながら見守る立場のミチコだったが、第3話では自らがスズメに変身して事件解決のために飛び回る(より積極的な内容となっている)。スズメになって学校を離れている間、学校には替え玉として《魔法でミチコに変身させたシャクトリムシ》を残してくる。スズメとなって空から捜索していたミチコは、イケノヤくんの家の庭で木につながれていたシロを発見。ミチコはシロを解放し、仕返しに(イケノヤくんを驚かすため)石灯籠を魔法でカエルに変えてつないでおく。シロが自宅へ向かうのを確認して学校に戻ると、ちょうど〝シャクトリムシのミチコ〟が跳び箱を跳ぼうとしているところだった。シャクトリムシではどうせ醜態をさらすだろうと落胆したミチコだったが、意外にも〝シャクトリムシのミチコ〟はウルトラCを決めて先生やクラスメイトのド肝を抜く。
魔法によってシロの問題は解決することができたが、予期せぬところでミチコは話題の人になってしまった。しかし、ミチコが注目されていたのは次の体育の授業まで。本物のミチコは跳び箱がうまく跳べず、忘れ物係のイケノヤくんに「マツモトミチコは、ウルトラCをわすれました。本日のミチコのわすれもの、ひとーつ!!」とからかわれてしまう。

④ひきだしつきのカシの木ともも色のクジラ
先生に言われて教卓の重い引き出しを開けようとしたミチコは、以前にもこんな引き出しを開けたことがあったように感じる。しかし、それが何だったのかが、なかなか思い出せない。視聴覚室で「木の一生」というテレビを見ていたとき、映像に映し出されたカシの木の幹に一瞬〝ひきだし〟が見えたような気がする──と、次の瞬間、思い出せずにいた〝ひきだし〟の記憶が蘇ってきた。引き出しのあるカシの木──それは魔法を使えていた頃の幼かったミチコがよく行く場所だった。思い出したとたん、ミチコを乗せたイスは浮き上がり視聴覚室のカーテンをすり抜けて空を飛んでいた。かつて引き出しのあるカシの木へ行くときは、こうして空を飛んで行ったのだ。カシの木の引き出しにはに大切なものがしまってある。その引き出しはひとつではなく、たくさんあって、それぞれにクラスメイトの名前が記されていて──イケノヤくんの引き出しもあった。ここへ空を飛んでやってくるのはミチコだけでなかった。みんながミチコと同じように空を飛んで来ていたのだ。魔法を使えたのはミチコだけの秘密ではなかった。幼い頃には誰もが魔法が使えていたのだ──全てを思い出したミチコに懐かしい思いが押し寄せる。イケノヤくんの引き出しには未来のことまでわかってしまう赤い帽子が入っていて、昔、彼に遠い先のことを尋ねたら「ここで、みんなと遊んでらあ」と答えたのだった。ミチコの引き出しを開けると本物そっくりに描けるクレヨンとスケッチブックが入っていた。ミチコが隣の席のユリちゃんを描くと、絵の中のユリちゃんが「視聴覚室のテレビの時間が終わったよ」と教えてくれる。するとミチコは視聴覚室のユリちゃんの隣の席に戻っていた。
ミチコはみんなが忘れてしまっているカシの木のことや魔法が使えたことを思い出してもらうために、魔法を披露しようとする。が、どうしたことか魔法は全然かからない。
視聴覚室の黒いカーテンが開けられていくと、晴れた空に雲がひとつ浮かんでいる──ミチコにはそれが桃色のクジラに見えた。昔、ミチコがネコをカバンに変えたように、どこかで誰かが雲を桃色のクジラに変えたのだと思った。
ミチコはお腹が痛くなりトイレに行き……保健室の先生に「おめでとう。あなたも、おとなになったのよ」と告げられる。

着想は《ミッシング・タイム》への興味か?
僕は昨今、物忘れが増えて「子どもの頃は記憶力もしっかりしていたのに」──なんてよく思うのだが、考えてみれば幼い頃の記憶というのは昔から残っていなかった。これは10歳そこそこの子ども(ミチコの年頃)にしてみれば、〝たった数年前のことなのに記憶が無い〟ことは不思議なことだろう。そして、この不思議なことを誰もが不思議とは思っていないことが、また不思議である。その〝誰も覚えていない不可思議な《ミッシング・タイム(?)》〟への興味と回顧が、『魔法の時間です』の着想に繋がったのではないか。
《思い出すことができない謎めいた時間》なのだから、その中で《謎めいた不可思議な出来事》が起こっていたとしても不思議ではない!?──そんな発想から《幼い頃には魔法が使えていた》という設定を創作したのではなかろうか?
ふとしたきっかけで《幼い頃には魔法が使えていた》ことを思い出したミチコは再び魔法を使えるようになる。ミチコは当初、この素敵な秘密を自分ひとりのものとして心にしまっておくが、あるとき(第4話で)、それが自分ひとりの特殊なものではなく、他の子もみんなが持っていた普通の能力であることを思い出す。「《悟り》がひらけた」かのような「《引き出しのあるカシの木》の記憶の復活」。《ミッシング・タイム(?)》の全貌を鮮明に思い出したところで、魔法が無効化する──邂逅と喪失の展開が劇的だ。ショックではあるが、同時に、そういうものかもしれない……という納得感が漂う。
魔法が使えなくなるのと時を同じくしてミチコが初潮を迎えるラストは、大人へのシフトにともなう喪失を示唆している。
《幼い頃には誰もが魔法を使えていた》という発見。その《自分たちがもう帰ることができなくなってしまった世界》は、今もどこかにあって、雲を桃色のクジラに変えている子が遊んでいる──そんな感慨が、子どものノスタルジーとして巧みに描かれているように感じた。

読み終えた後に、『さよなら魔法の時間』というタイトルが頭に浮かんだ。僕なら、そんなタイトルがイメージに合っているように感じられた。しかしよく考えてみれば「さよなら」をつけてしまうと魔法が使えなくなってしまうという重要な結末が読者に予想できてしまう。それではマズいので『魔法の時間です』としたのかなぁ……などと想像してみたが、もちろん実際のところは作者に聞いてみないとわからない。

《魔法の時間》は《ねこの森》!?
『魔法の時間です』を読んで、この懐かしく切ない雰囲気をどう説明すれば(本編を読んでいない人に)伝わるだろうかと考えていた時、ふと思い浮かんだのが、谷山浩子・作詞作曲『ねこの森には帰れない』という歌。「この曲と雰囲気が似ているところがある」といえば、知ってる人にはわかりやすいかもしれない。

《魔法の時間》は《クチブトゾウムシの牙》!?
余談ながら……《ほんの一時期、期間限定で備わっていたふしぎなアイテム》──という意味では《魔法の(使える)時間》は《クチブトゾウムシの牙》とも似ている気がした。これはごくごく個人的な感想。
ゾウムシは長い口吻がゾウの鼻を連想させることからその名がつけられたのだろうが、中には短吻類と呼ばれる口吻が短いものも存在する。クチブトゾウムシの仲間は羽化して間もない新成虫には牙のような突起があって、ほどなく脱落してしまう。僕がこのことを知ったのは虫見を初めてだいぶたった頃だった。《ゾウムシの知られざる(?)牙(状突起)》は、なんだか不思議な話のように思われ、《魔法の時間》とつながるものがある……ような気がしてしまった。
02クチブト象虫
クチブトゾウムシの通常の容姿⬆と、ずいぶん印象が異なる牙付き個体⬇

03牙象虫A
04牙象虫B
牙付きクチブトゾウムシ&ヨツボシチビヒラタカミキリより


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《大好き》が一転《不愉快》に!?@読書

子ども時代「大好き」だった作品が一転「酷く不愉快」に!?
ユニークな読書感想系ブログ【ねえねえ フォーマット】の『魔法の時間です』という記事に「へえ!?」と思うことが記されていた。
《子供の頃に何度も何度も読み返した大好きな本を再読したら、酷く不愉快な内容で絶望した》というもの。僕はその作品を読んでいないので想像するのが難しいが、「そういうことがあるのか……」と、ちょっと不思議に感じた。
「子どもの時は平気でさわれた虫が、大人になったらダメになった」という話は時々聞くが、それと似たような現象なのだろうか?
僕には子どもの頃に好きだった作品を嫌悪したり、大人になって虫が嫌いになったという経験はないので、そういった感覚がピンとこない。

僕の場合、子どもの頃に好きだったものは、大人になってもおおむね好きだ。子どもの頃には漠然と抱いていた好感が、大人になってみるとどういうものだったのか理解ができるようになるという、意識化(理解度)の変化はあるものの、好き嫌いの感覚自体はあまり変わっていない気がする。だから、子どもの頃に読んだ作品を読み返すとおもしろさへの理解が進み、納得感が深まる。

童話で言えば小学低中学年のときに読んで感動した『てのひら島はどこにある』は今読んでも感動できる──このことは【佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出】で詳しく述べている。その後、復刊版を入手し【佐藤さとる『てのひら島はどこにある』復刊版】にも記している。
また逆に、子どもときに読んで抵抗があった浜田廣介の童話などは、大人になって読み返しても同じ印象で、なぜ受け入れがたかったのか改めて意識化できたということもあった(こども心にひっかかった《ひろすけ童話》の【善意】)。
01佐藤暁&浜田廣介
他にも、子ども時分に漠然と抱いていた抵抗感が、大人になって読み返して「こういうことだったんだな」と意識化できたものでは、ファーブル昆虫記などもある(ファーブル昆虫記の違和感について)。

映像作品で言えば、子どもの頃に見てワクワクした映画『タイム・マシン 80万年後の世界へ』や海外ドラマ『タイム・トンネル』は、大人になって視聴し直してみてもおもしろく、同じ感覚で鑑賞できた。
02タイムマシン&トンネル
連続ドラマだった『タイム・トンネル』については、設定が面白かったので毎回見ていたが、今ひとつ盛り上がらなかったエピソードや、ヘンだなと思う箇所などもあって、子どもの頃に感じた同じことを大人になって鑑賞した時にも感じた。「基本的には、子どものに感じたことは、大人になっても変わらないものだなぁ」と思ったものである。
だから、(人によっては?)同じ作品の評価が子どものときと大人になってからで真逆になってしまうという現象が、にわかには想像できなかった。

問題のブログ記事を読み進んで行くと──、
《俺には子供ができたと分かった瞬間にガラリと人が変わった覚えがあるから、仮に十数年前と今とで全く同じ物への評価が正反対だったとしても我ながら不思議はないが》という記述があった。
〝子どもができたことで童話を評価する基準が変わった〟ということであれば、なんとなくあり得そうな気がする。そう考えると思い当たることがないでもない……。
僕が同人誌活動を始めた頃、メンバーは若い人が多く、大半は創作を〝趣味〟としてとらえ〝読者である自分が楽しめる作品〟を目指していた。その後、児童文芸の研究会へ出席するようになって、童話を真剣に〝勉強〟している人たちといっしょに作品合評会をするようになって、同人誌時代とのギャップに戸惑ったのを覚えている。児童文学を真剣に勉強している人には、子どもがいる人も多く〝子どもに与えるにふさわしい作品〟を目指している人が多かっように思う。僕が感じていた同人誌時代とのギャップは《読む側(子ども)》ではなく《与える側(大人もしくは親)》の視点に立った創作姿勢の違いに由来するものだろうと解釈していた。
《(読者感覚で)楽しむための物語》と《(与える立場からから)子どものためになる物語》では、作品に求めるもの──評価基準が変わってくるのも無理からぬところだろう。

塾の講師をしながら子どもたちが抱えている問題に向き合い、実在の子どもたちをモデルに児童文学を書いている人がいたが、彼は僕が書くようなファンタジー作品を認めていないようなところがあった。
「ファンタジーというのは現実逃避だ。実際には起こりえない物語に何の意味があるのか。そんなものを読んだところで現実を生きている子どもたちには何の足しにもならない」というようなことを言われて驚いたこともあった。
当時は、児童文学に道徳教育的意義付けを求め、それが作品の価値であるかのように考えている人たちが少なからず存在した。塾の講師も〝読んだ子どもたちの実になること〟が児童文芸には大事だと考えていたのだろう。

僕はこうした考え方には疑問と反発を感じていた。文芸作品に限って言えば、《読書》は《遊びの延長》にあるべきものだというのが僕の位置づけだった。文芸作品に教育的意義付けを求めるのはナンセンス。プロパガンダを目的とする創作は、むしろ〝動機が不純〟という感覚がある(面白さを演出するためにプロパガンダを利用することは可)。
真面目な(?)塾の講師には否定されたが、ファンタジーやSFの中では「現実の《遊び》の中では決して体験できないようなおもしろい《架空の体験》」ができる。そこに作品としての存在価値があると僕は考えていた。

物語は心のシミュレーション
僕の創作観のようなものは、少年文芸作家クラブ(現:創作集団プロミネンス)の会報3号(1985・春)にも書いている。その『物語は心のシミュレーション』と題したエッセイの一部を記すと──、


僕自身は「遊びの延長に位置するもの」を書きたいと思い続けていた。「遊びであって、しかも現実生活では補うことのできない種類の体験」──それが創作物語(フィクション)の醍醐味であり、使命であり、本質であり、存在理由だと考えてきた。
 しかし「遊び」などと言うと、どうも勉強や仕事などに比べて、一段低くイメージされることが多い気がする。
「勉強」ならば、やれば「知識」という代償があり、「仕事」なら「報酬」というふうに、みかえりがハッキリしている。それに対し「遊び」というやつは、一生懸命エネルギーを費やすかわりに「何のために」という目的がハッキリしていないことが多い。「遊び」が低く見られるのは、このためだろう。
 が、しかし、言ってみれば「勉強」や「仕事」のように引き換えるものがあるからエネルギーを費やすというのは当たり前の話で、それ以上の何でもない。
 一方、代償の意識がないにもかかわらず、人の心がひかれるのは「遊び」というものがそれだけ人間の本質に深くかかわった部分から生まれてくるためだと思う。
「遊び」は心が全体性を保ちながら発達していく上での、現実を補償する、重要な役割をはたしているはずである。
 健康な心の発達は、現実世界のみで行われるわけではない、むしろ現実内では失敗やすれちがいなど、さまざまな形で、自由にのびようとする心をおさえてしまうことも多い。
 現実におさえられ、燃焼しきれなかったエネルギーを、燃焼させ、きれいに昇華できる場があってこそ、はじめて人の精神は健康な状態を保っていられるわけである。
 子供の持つはちきれんばかりのエネルギーを、ひきだし発揮できる世界の創造。
 精神浄化の<場>の提供。
「遊び」としての物語の意味は大きい。
 子供たちは日々、現実の生活の中でさまざまな問題に直面し、考えたり悩んだりしている。その状況が深刻であればあるほど、それを補償する世界の重要性もまた大きいはずである。
 ともすると、現実サイドばかりに比重がかかりがちになるが、そうした状況の中でこそ、現実でまかなえなかった面や、現実の中では埋もれがちな部分を引き出し、活性化するための、心のシミュレーションが必要なのだと思う。


今読み返すと、じゃっかん舌足らずな感じもするが、考え方としては当時も今も大きく変わってはいない。
児童文学を真剣に勉強している人たちの中には、親の立場になって《子どもが読む(子どもに読ませる)意義(教育的意味付け)》にとらわれて作品を考えていた人が多かった。そして親になったことで、子どもの時に感じていた作品観が一変することがあるのであれば……当時僕が感じていたギャップ(違和感)が生じるのも致し方ないことだったのかもしれない。

冒頭のブログ記事に記されていた《子供の頃に何度も何度も読み返した大好きな本を再読したら、酷く不愉快な内容で絶望した》──というケースが、僕が想像したギャップにあてはまるかどうかは判らない。取り上げられていた『魔法の時間です』を僕は読んでいないので、よくわからないというのが本当のところだが、《子どもの感性と大人の感性に乖離が生じる》こともある──ということから、思い浮かんだことをつれづれに記してみたしだい。


ねえねえ フォーマット>『魔法の時間です』
舟崎靖子『魔法の時間です』感想
佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出
佐藤さとる『てのひら島はどこにある』復刊版
こども心にひっかかった《ひろすけ童話》の【善意】
ファーブル昆虫記の違和感について
『タイム・マシン 特別版』感想
懐かしの海外ドラマ『タイム・トンネル』
作品評・感想など(映画・本)〜目次〜
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