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2021年02月の記事 (1/1)

猫に小銭(猫にコイン)

猫の日にちなんで…《猫に小銭》
きょう、2月22日は「にゃん・にゃん・にゃん」で猫の日(日本の猫の日実行委員会が1987年に制定)。これににちなんで《猫に小判》ならぬ《猫に小銭》(韻を踏むなら《猫にコイン!?》)──ネット上で見つけた動画をひもづけてまとめておくことにした。

昔、Magic Bankっていう、手が出てコインをつかみ取っていくホラーチックな貯金箱があって、それを探していた過程でみつけた猫の貯金箱⬇(これはかわいい)。


猫の貯金箱の関連でみつけた動画⬇(これは面白くて大ウケ)。


猫と猫の貯金箱の直接対決⬇(猫のリアクションは期待を裏切らない)。


ネコはリアクションがおもしろい。以前飼っていたフェレットとの遭遇もおもしろかったということで4コマ漫画ならぬ実録4コマ写真を投稿したこともあった⬇。
01猫&イタチ
イタチmeets猫(実写4コマ)より

ネコがらみのショートショート
猫婆ちゃんのアルバイト
禍まねく招き猫!?

ついでに、昔こんなのも描いていたということで……⬇
01ねこにかかったでんわ
02ねこにかかったでんわ
『ねこにかかったでんわ』(岩崎書店刊)は日常を舞台とするファンタジー。当時の電話はダイヤル式だった……。



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異教徒ならぬ無教徒の死生観

異教徒ならぬ無教徒の死生観

死ぬのは金持ちばかりではない…
「死んでいくのは金持ちたちばかりではないだろうに……」
はからずしも喪主をつとめることになって感じた正直な感想。《死》は誰にとっても不可避なものだ。なのに、どうしてこうも《死ぬと高額な負担》が残された者に課せられることになるのか──。
葬祭関連業の経済活動が組み込まれた文化が確立しているからなのだろう──誰かが死ねば葬儀社のおせわになるのが一般的だ。人が死ねば葬儀会社のルートに乗ってことが運び、高額な費用が発生する。それを負担せざるを得ないというのが実情ではないだろうか。もちろんノウハウのある葬儀会社の至れり尽くせりの対応を「ありがたい」と感じる人も多いにちがいない。しかし、誰もに平等におとずれる《死》なのであるから、実務的な公共機関によるルート──必要最低限の経費で死亡処理をする福祉サービスが選択肢としてあって良いように思う。

死体というのは切除された病変と同じ──全体であるか部分であるかの違いがあるだけで〝死んでしまった組織〟という意味では同じだと僕は考えている。切除された病変と同じ扱いで、遺体もすみやかに処分されてしかるべきだ。遺体に保存処理を行い、見映えを整え、お披露目し、おごそかな葬式を演出することが、誰にとっても必要なものなのかといえば、僕には疑問がある。
それを望む遺族にとっては納得できるコストなのだろうが、信仰を持っていない者にとっては、近しい者が死んだ直後に「意味がわからなぬまま執り行われるおごそかな儀式」にひっぱり回されるのは戸惑うばかりではなかろうか?
立派な葬儀を演出することが故人への供養になるという考え方もあるかもしれないが、信仰を持たない──いわゆる《霊》という概念を用いずに《死》を捉えている僕にとっては、通常の(?)宗教色の漂う葬式は違和感があるというのが正直なところである。

異教徒ならぬ無教徒にも《死》の概念はある
僕は就学前後の頃から「人はなぜ死ぬのか(死なねばならないのか)」「やがて必ず死ぬのになぜ生まれてきたのか」というテーマにとらわれ、子ども心ながらかなり真剣に考えてきた。同時に「(自分が生まれてきた)この世の成り立ち」「この世を認識している意識」についても考えて続けてきた。僕が求めていたのは宗教的な答でも哲学的な答でもなかった。「(死という不安や恐怖から逃れるための)心の安定を目的とする欺瞞」ではない「きちんと納得できる解釈」だった。
ありがちな《霊》という概念を用いて《死》を解釈するのは安易に思われた。その考えに立つのであれば、まず前提となる《霊》の存在を証明する必要がある。僕は《霊》という概念を持ち込まずに生死のテーマを解釈してきた。宗教的な解釈や信仰とは違うが、それなりに《死生観》や《世界観》は持っているつもりでいる。
僕の認識では、その人をその人たらしめている《意識》あるいは《心》(《霊》あるいは《魂》にあたるもの?)は、生きて活動している間のみ存在するもので、生まれる前には無く、死んだ後も存在しない。
よく《死後の世界》がどんなものか云々されることがあるが、それは《生まれる前》と同じと考えればわかりやすい。〝自分〟は生まれる前にはいなかった。死んだ後も同じである。「自分の存在を認識している意識」は、生きている期間限定のものであって、その人の死をもって消失(失効)する。死後に残る(残せる)のは、その人が成した実績や教え(考え方)だけであって、《魂》は残らない。
そう考える異教徒ならぬ無教徒にとって、終焉後の遺体に手を加え故人(の霊)がまだそこに存在し続けているかのようにふるまう儀式は虚しいだけだ。「そこにはもう〝いない〟」とわかっている抜け殻に手を合わせるのは、いたたまれないものがある。無教徒の死生観に《霊》は存在しない。

実在しない《霊》はデフォルト概念/ダミー・イメージ
子どもの頃から人の《死》について考えていた僕も《霊》という概念が一般的なもので多くの人が共有していることは知っていた。それは実在しないという結論には早い時点で到達していたが、「それではなぜヒトは実在しない《霊》を信じているのか」という疑問があった。これについては【人はなぜ《霊》を感じるのか】で簡単に記しているのでここでは割愛する。
僕が思うに──人が感じる《死んだ人の霊》というのは、そう感じる人の心の中に形成された故人の《ダミー・イメージ》の投影だろう。故人の《霊》は、故人を偲ぶ人の心の中にのみ存在している《デフォルト概念》といえよう。つまり〝死者を弔う〟とか〝霊を慰める〟といった葬儀は、本当は故人ではなく、遺族・友人などの生きている人(投影者)を慰めるための儀式だと僕は考えている。
実体のないデフォルト概念であったとしても《霊》を信じる人にとっては(主観的には)実在しているのと同義なのだろうことは僕にも理解できる。だから信仰や宗教を否定するつもりはないし尊重もしている。ただ、僕の立場は、それらのメジャーな宗教とは違うということである。
僕の考え方を「けしからん!」と怒る人もいるだろうが、少なからず共感してくれる人もいるのではないか? メジャーな宗教観とは違う、こうした無教徒・無信仰者の立場も尊重されて良いのではないか──というのが、この記事を投稿する動機となっている。

宗教誕生の背景的基盤は《ヒトは死を怖れる》という特性
世界にはまんべんなく色々な宗教が浸透していることだろう。地域や民族によって違いはあれど、その起源はおそらく《死者を弔う》ことにあったのではないかと素人想像している。「《死》という概念を持ち、これを怖れる」ことがヒトの特性であり、「《死》への恐れや不安を緩和し回避する策」として《霊》を慰める宗教的解釈&儀式が生まれ、それぞれ進化していったのだろうと想像している。
僕が幼少の頃に「人はなぜ死ぬのか(死なねばならないのか)」「やがて必ず死ぬのになぜ生まれてきたのか」というテーマにとらわれたのも、もとは《死》への恐怖心からだった。あるとき「自分も(いつかは)必ず死ぬ」という事実に気づき、死刑宣告を受けたような衝撃を受けた。「決して逃れることができない《死》」に向かって、日々刻々と近づいていることを知って絶望感すら覚えた。
しかし、考えてみれば、生物である人間が生まれ・死んでいくのは自然現象として、ごくあたりまえのことだ。それを受け入れがたいことのように感じてしまうひねくれた(?)ヒト独特の感性の方にむしろ問題があるのではないか──物心がついてくると、そのように考えるようになった。そして「ヒトが死を怖れるのはなぜだろう?」と思いを巡らし、自分なりに解答を得たつもりでいる。その解釈については【昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?】でざっとだが記している。
いずれにしても《死を怖れる》というヒトの特性が《霊》というデフォルト概念と結びつき、《宗教》という補完需要(?)に繋がったのだろうと僕は考えている。

死生観を含めた世界観の再構築
そんなわけで、幼少の頃に《死》や《この世の成り立ち》などについて半ば強迫観念にさいなまれるように考えていた時期が僕にはあったわけだが、そのきっかけについては思い当たることがないでもない。
僕の母は鬱病で精神科にかかっていたことがあって、おそらく自殺を心配してのことだろう──入院していた時期もあった。実際に最期はそうなることになるのだが……僕が子どもだった頃、鬱状態の母が自殺をほのめかすのを聞いた記憶が残っている。幼少時に意識するようになった死に対する不安や恐怖の一因はここにあったのではないかという気がしないでもない。

鬱病は今でこそ身近な病の1つとして認識されているが、僕が子どもの頃には少々エキセントリックだった。子どもたちの間では、そうした患者がいる病院を狂人を意味する差別語をあてて○○○○病院と呼んでいた。当時は言い争いやケンカになると「バカ」と同じような意味合いで「○○○○」という言葉も平気で投げつけられていて、僕も近所の子に「○○○○」と言われたことがある。「僕は○○○○じゃない!」と反論したところ、「○○○○には自分が○○○○だということが、わからないんだよ」というようなことを言い返されて意表を突かれたように感じたことを覚えている。はたして、それは本当なのか? 僕は自分が正常だとばかり思っていたが、それがただの〝思い込み〟でないと、どうして言えるのか──自分が何の疑いもなく信じ込んでいた常識が根底から揺らいだ。母親が○○○○病院にかかっているなら、僕が○○○○であっても、ちっともおかしくはない……そんな気がした。この一件で、僕の世界観のようなものは1度崩壊した気がする。
自分の頭は正常なのだろうかという不安の中から「それなら《正しさ》とは何なのだろう?」と《正しさ》を測る基準を再構築したところが僕にはある。そのことは【僕は宇宙の常識人!?】で記している。自分なりの価値観を再構築してきたことで、「まずは自分の頭で考える」ことが優先され、既成の概念を素直に(?)受け入れにくくなったということは言えるだろう。《死》についての概念も、宗教的解釈より前に自力で構築してきた概念があったことで、既成の葬儀感覚に対して「なじめなさ」を強くしたということはあったように思う。

虫を見て《この世の成り立ち》を感じる
《死》について考えるようになると、それでは《自分が生きていると感じているこの世界》とは、いったい何なのだろう?──ということについても考えを広げざるをえなくなる。《この世の成り立ち》を知る上で手がかりとなるのが、さまざまな自然現象──特に不思議に感じられるところが考察の糸口になる。
このブログでは虫をとり上げた記事も多いが、昆虫への興味の根っこには《この世の成り立ち》に対する興味がある。そのあたりのことは【昆虫の何に魅かれるのか?】にも記している。
一見、奇跡のように感じられる昆虫の多様な進化がどうして成立し得たのかということについては関心があり、ふと思い当たるところを記したのが【ドラゴンを折って昆虫進化の奇跡を思う】という記事だったりする。
この世の一見不可解な現象に目をとめ、なぜ・どうしてこれが成立しているのかという【機能】を解明することが《この世の成り立ち》という【システム】を知る手がかりになる──僕はそう考えている。
そんな思いから、昆虫以外にも、自分なりに《なぜ・どうして》と気になったことを自分なりの解釈でブログ記事にしてきたのである。



人はなぜ《霊》を感じるのか
昆虫を見る意義!?〜人はなぜ死を恐れるのか?
僕は宇宙の常識人!?
昆虫の何に魅かれるのか?
ドラゴンを折って昆虫進化の奇跡を思う
子どもはなぜヒーローが好きか
時間の加速感
時はどんどん加速する
長生きほど人生は短い!?時間の逆転現象
記憶層と忘却の浸食
人はなぜ宝くじを買うのか
髪はなぜ伸び続けるのか?
ヒトはどうして眠るのか?〜ロボットの反乱&自意識の覚醒
変化球の思い出
葬儀嫌い
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ショートショートの新概念?

01座敷童子&花火画A

マジック・ストーリーまたはトリック・ストーリー
僕は意外なオチを意図した短いアイディア・ストーリーが好きだ。読者を誘導する自然な展開の中に、実は巧みに仕組まれた伏線があって、結末に思いもかけない展開が用意されている──いわゆる《ドンデン返し》が面白い。オチの《意外性》は「なるほど、そうだったのか」と合点がいくものが好ましい。つまり《思いもかけない展開》でありながら《説得力》の裏付けがあることで、読者はストンと腑に落ちるわけである。すんなり納得できることが、意外性の《キレ》を演出することになる。
アイディア・ストーリーでは《読者をだます仕掛け》がほどこされ、同時に騙された読者を「なるほど」と納得させる《説得力のある伏線》が仕込まれているいることが多い。《ミスリード(読者が描くイメージ)》と《種明かし(真相)》がセットになって成立しているところがある。

これに対して、作中で披露した《謎》を作中では種明かし(解説)せずに幕を閉じるスタイルの作品があってもよいのではないか……と最近思うようになった。
結末に《謎》を残す作品スタイルとしては【リドル(riddle=謎)ストーリー】と呼ばれるものがある。結末を明らかにせず読者に委ねる形の作品だ。「このあと、どうなるのか?」──結末を明記せずに《謎》を残すということでリドル・ストーリーと呼ばれるのだろう。僕の作品でいうと『チョウのみた夢〜善意の報酬〜』がこれに当る。
リドル・ストーリーで提示される《謎》は、読者が仕掛けを理解した上で《未確定の結末をゆだねられる》というものだが、こうしたタイプの作品ではなく、作中に提示した《謎》を〝読者がその仕掛けを理解できぬまま〟幕を閉じるスタイルの作品があってもいいのではないかと考えるようになった。

もう少し具体的な例をあげて説明すると──。
《同じ顔ぶれのまま人数だけが1人増える》という不可思議な《座敷童子現象》をモチーフに、僕はいくつか作品を描いてきた。
《同じ顔ぶれのまま人数だけが1人増える》というのは起こりえない現象だ。しかし、この不思議をどう描けば起こったかのように演出することができるか……色々と思案してきた。
作中で《座敷童子現象》の合理的な種明かしを考えたのが『病院跡の座敷童子』で、僕の着想と同じ原理で、実際に「手の指が1本増える」という催眠ショーが演じられているのをテレビで見て驚いた記憶がある。
その後《座敷童子現象》を成立させる作品を模索していく中で『福神降臨ざしきわらし召喚アイテム』や『花火と座敷童子』といったショートショートを試作。『福神降臨ざしきわらし召喚アイテム』はトリックアート(騙し絵)と絡めたもので、作中で《座敷童子現象》という不可思議=《謎》を成立させているが、その《種明かし》は(作中では)行っていない。読者は騙されたまま(?)──どこで騙されたか、にわかには理解できない(ことを狙って描かれている)。『花火と座敷童子』の方は計算の錯誤を誘導するひっかけパズル(?)のような形の《謎》を提示──知らぬ間に座敷童子が現われて花火代を抜いていったかのような錯覚を読者に与えることで《謎》を成立させている(させることを意図している)。作中では種明かしがなされておらず、どこにトリックが仕組まれているのか、読者は自力で解明をしなくてはならない。

種明かしをしないで終わるという意味では〝実際には起こりえない現象を起こったかのように演じてみせる〟マジックに似ている。マジックはトリックを明かさないで成立する。
実際に読者が騙されるかどうかは別にして、読者を騙す(錯誤を誘導する)意図で描かれ、作中では不可思議な現象(謎)を提示するだけで種明かし(錯誤の解説)をしない──こうしたスタイルの作品があってもいいだろう。ならば、こうした作品群をさす呼称があっても良いはずだ。ということで、このテの作品を【マジック・ストーリー】もしくは【トリック・ストーリー】とでも呼んでみてはどうだろうか。
文芸作品では、これまでにあらゆる実験が行われてきているのだろうから、あるいは僕の新概念もすでにあるのかもしれないが……とりあえず、個人的には【マジック・ストーリー】もしくは【トリック・ストーリー】の仮称を考えていたりする。


チョウのみた夢〜善意の報酬〜
病院跡の座敷童子
福神降臨ざしきわらし召喚アイテム
花火と座敷童子


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物忘れ…記憶劣化の利点!?

01物忘れ

物忘れも役に立つ!? 記憶劣化の良いところ?
年々《時間の加速感》が増していくと感じる昨今。最近は〝ちょっとした物忘れ〟が増えて《記憶の劣化》を実感することも少なくない。
加齢による《時間の加速感》と《記憶の劣化》は無関係ではないだろう。人生の長さ(ボリューム)を実感する尺度となるのは、その人が意識できる《記憶層》の厚みといえる。年々新たな記憶層が形成されていくから若いうちは《記憶層》は増えて厚みを増していく。蓄積した《記憶層》の厚みは、すなわち人生の厚み──これが増えていくことで《長く生きてきたのだなぁ》という実感が得られる。
ところが老いて《記憶の劣化》が進行してくると、新たに加わる記憶層よりも、《忘却の浸食》によって喪失していく分量の方が勝り《記憶層》は全体として目減りし、薄くなっていく方向に転じる──すると、長く生きているはずなのに主観的には人生のボリュームはどんどん縮小していくことになる……この時間短縮感が《時が経つのが早くなった》という感覚を生む一因となっているのではないか。《記憶の劣化》と《時間の加速感》には、そんな関係もあるのだろうと僕は考えている。

《記憶の劣化》による忘却は嘆かわしい現象だが、良い面もないわけではない!?
物書きのジレンマなど(創作雑感)】で、僕は「作者は自分が書いた作品を(読む前から内容を熟知しているため)新鮮な第一印象で読むことができない」と記しているが、《記憶の劣化》が進んで《熟知していた内容》を忘れていたりすると、昔書いた文書をニュートラルな気持ちで読むことができる。はからずしも〝読者として自分の作品を味わう〟ことができたりすると新鮮な喜びを感じ、何か得をしたような気持ちになる。

このブログも2009年に開設したYahoo!ブログ時代のものを含め、投稿記事の数は1000を超えている(この記事は1037件目)。内容も色々で、自分でどこに何を書いたか、もうよくわからなくなっている。昨今の《記憶の劣化(忘却)》も手伝って(?)新鮮な気持ちで読み返せる記事が増えてきた気がしないでもない。
久しぶりに開く記事は、その内容をすぐに思い出せなくても、自分の興味に基づいて感じたり考えたことを記しているのだから、共感この上ない。僕にとっては説得力があって、とても興味深い。読みながら「もっともだ!」「そうそう、そこなんだよな!」「俺も同じことを考えていたんだよ!」などと激しく同調してしまう。
自分が記したものなのだから、自分が共感するのは当たり前なわけだが、「自分の感じたこと、言いたいこと」をピタリと言い当てている記事には胸がすく思いがするのである。
これが、読みながらその先に書かれていることをしっかり覚えていたのなら、「わかっていることをなぞる」だけで、さして感動はないだろう。1度忘れてから読むことで、新鮮な気持ちで〝他人とは思えない強い共感〟を堪能することができるというわけである。

日常生活の中ではやっかいな〝物忘れ〟ではあるが、ときに自分の書いた作品(記事)を新鮮な気持ちで読み返すことができるようになった──そんな意外な楽しみを感じる今日この頃なのであった。



物書きのジレンマなど(創作雑感)
1000件を越えていたブログ雑感
時間の加速感
時はどんどん加速する
長生きほど人生は短い!?時間の逆転現象
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