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2021年01月の記事 (1/1)

フォーラム終了の頃に見た夢

前回【便利なブログの不安なところ…】で、ネット上の情報は《サービスの終了》とともに消滅する儚い運命にあることを記した。ブログとは少し違うが、やはりネット上の「電子会議室」がサービスを終了することになったときも、似たような経験をしている。その頃に見た、たあいもない夢なのだが……記しておくことにする。
僕は昔フェレットを飼っており、その散歩中に遭遇した怪しげな虫(ケバエ幼虫)について調べていた。その過程でniftyの電子会議室【昆虫フォーラム】を知り、ここに出入りするようになった。虫屋さんたちとの出会い、虫見を始めるきっかけとなったのが【昆虫フォーラム】だったわけだが、niftyのフォーラムは2007年3月31日でサービスを終了している。当時、利用者(昆虫フォーラム・メンバー)たちは【昆虫フォーラム】にかわる新たな《場》をめぐって、翻弄された感がある。その頃に見た夢である……。

昆虫フォーラムと遺跡発見の夢
夢の中で、僕は昆虫フォーラム(F昆)の狭山お散歩オフに参加していた。これは狭山丘陵を散歩しながら昆虫を探し観察する恒例イベントで、虫屋ではない僕もちょくちょく〝おみそ参加〟していて、そのときのことは【虫屋な人々】というマンガにしている。
01虫屋な人々扉
夢の中で集合したF昆メンバーは、さっそく丘陵散策に出発。しかしスタートしてほどなく遭遇したのは、昆虫ではなく何かの《遺跡》だった。どうやら重要な発見をしたらしい。貴重な発見を放置して虫探しを続けるわけにもいかなくなり、遺跡発見の取り扱いをめぐって物議をかもす。そのため、お散歩オフが頓挫するという展開の夢だった。遺跡や考古学に関心のない僕としては、「虫探しに来たのに、やっかいなものに出くわしちゃったな」という心境だった。
余談だが……この夢で思いだされるのが、ある虫屋さんの体験談。シジミチョウの越冬卵の採集に訪れた山中で、怪しげな〝人型の物体〟を見つけるが、(その場で通報するとややこしいことになりそうなので?)その場では《捨てられたマネキン》ということにしておいて、目的の採集をした帰りに《遺体》であることを確認して通報したそうな。越冬卵採集に来て《遺体》に遭遇してしまい、目的が頓挫することを懸念しただろう虫屋さんの心情は、僕が夢の中で感じていた「昆虫観察に来たのに思わぬ《遺跡》に遭遇して、虫探しができなくなる懸念」と通じるものがある。
話を僕の夢に戻して──昆虫フォーラムが終了し、これに変わる新たな引っ越し先を模索していた頃に見た夢であることを考えると、夢の中で昆虫フォーラムの一行が遭遇した《遺跡》とは《移籍》のことだったのではなかったか──そう気づいたのは夢から覚めてしばらく経ってからだった。《遺跡》と同じ〝音〟つながりで《移籍》……つまり、フォーラム終了にともなう《移籍(移行先の模索)》の問題が昆虫フォーラムとしての活動を阻むという構図であり、フォーラム終了当時の不安&懸念を反映した夢だったと考えると、みょうに合点がいく。

昆虫フォーラムと飼育容器そうじの夢
その頃にはもう1つ、昆虫フォーラム絡みの夢を見ている。これには野外オフ会の前半の展開があった気がするのだが、内容は覚えていない。記憶に残ったのは夢の後半部分。なぜか場面が研究室のような室内に移っており、僕は昆虫の飼育容器を掃除している。
ゴールデンハムスターくらいあるでかいアリの飼育容器を掃除する間、数匹の巨大アリを一時的に別の容器(イチゴパックみたいな華奢なもの)に入れておこうとするのだが、次々に容器からはい出してしまい、なかなかフタができない。逃げ出そうとする巨大アリを捕まえては容器に戻すのだけど、そのときは別のが這いだしていて……必死でアリを容器に入れようとあたふたしているしている夢だった。

目覚めてからその意味を想像してみると……「掃除している(昆虫が入っていた)飼育容器」は「リニューアル中(?)の昆虫フォーラム」のことで、「巨大アリ」というのは「昆虫フォーラムのメンバー」、それを一時的にまとめておくための「イチゴパックのような(仮の)容器」を「(フォーラム利用者の)緊急避難的な仮設場」と考えると──、「昆虫フォーラムが(新たな場で)リニューアルされるまでの間、メンバーを集めておく仮の《場》が脆弱なのであたふたしている」──そんな雰囲気を投影した夢だったような気がする。
当時、フォーラムの利用者たちはmixiに仮住まいを設けたり、folomyという新たに立ち上げたSNSに移行したりしていた。folomyの方は6年ほどで閉鎖となっている。
どうして「昆虫フォーラム・メンバー」が「巨大アリ」なのかは良くわからないところもあるが、虫屋の〝まめさ〟が勤勉なアリのイメージと結びついたのかもしれない。アリは小さな存在だが、虫屋の存在感は決して小さくない──それで巨大なアリになったのだろうか?

このブログでは、これまで時々《夢》にまつわる記事も記してきた。
たあいもない夢も、色々と考えてみるとおもしろい。
「夢に意味があるのか」という向きもあると思うが、その点において《夢》は《人生》と似ている。そこに意味を見いだすかどうかは、その人しだいなのだろう。



つれづれに夢の話
金縛り考
ヒトはどうして眠るのか?〜ロボットの反乱&自意識の覚醒
覚めぬ夢・夢の中の夢のハナシ
飛翔へのあこがれ!?
遠いロッカールーム〜夢の話〜
夢の中から電話!?
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チョウのみた夢〜善意の報酬〜(読み切り童話)
赤いクモ〜夢の前兆〜(ショートショート)
夢の中から電話で自分を起こした話(ショートショート)

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便利なブログの不安なところ…

01同人誌&個人誌

昭和世代の同人誌経験者からするとブログと言うツールは画期的だったということはこれまで何度か記してきた。
僕が同人誌活動をしていた頃は、インターネットもワープロ(パソコンの登場で絶滅した?日本語ワードプロセッサ)もまだ無かった。原稿用紙のマスを1文字1文字、手書きで埋めていた時代。自分の文章が活字になることにあこがれがあった。また、個人が不特定多数の人たちに向けて情報発信できるツールなど無かったから、自作品を発表(公開)することに強いあこがれを抱いていた。そこで同人誌や個人誌に作品発表の場を求めたり、出版社などの公募に応募したりすることになるわけだが……同人誌や個人誌を発行するのはなかなか大変だ。苦労して作った同人誌も、そう多くの人に読んでもらえるわけではない……。コンテスト等への応募も大半は落選するわけだから狭き門。運良く入選して出版がかなっても作品が書店に置かれているのはほんの一時だ。読者(閲覧者)がいつでも簡単にアクセスできる《場》に継続的に作品を公開しておけるブログは、夢のようなツールと言える。

僕は個人誌の延長のような感覚でブログを利用してきた。画像や動画も自由に添付できるので、紙媒体よりもずっと使い勝手が良い。とりあげてきたテーマには統一性がないが、自分の興味のあるもの(自分がおもしろがれるもの)を取り上げているので、たまに読み返してみると(当然ながら自分には)とてもおもしろい。

手軽に利用できるブログは多くの可能性を感じさせる便利なツールだ。ただ、ひとつ大きな問題(懸念)をあげるとすれば、《サービスの終了》だろう。同人誌や個人誌など(紙媒体)は廃刊になっても発行した号(掲載誌)は残るが、ブログはサービスが終了すると、それまで蓄積してきた記事が消滅してしまう。僕もこれまでにfreemlやYahoo!ブログなどで《サービスの終了》を経験してきた。
その時点でブログ主が健在ならば他のブログへの移行なども可能だろう(このFC2ブログにはYahoo!ブログから移行してきた)。しかし、故人となった人のブログは引き継がれることなくネット上から消滅してしまう……これは寂しいし、もったいないことだ。企業が運営するブログサービスにも寿命があると考えると、便利なブログにも儚い一面があるのかもしれない。



同人誌回顧録(freemlから)
Yahoo!ブログの可能性
ブログの考え方〜個人誌感覚でチャンネルF+
ブログ引っ越し騒動:ひと区切りついて
沈みゆくYahoo!ブログの記録
昭和世代のインターネット雑感
1000件を越えていたブログ雑感
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花火と座敷童子

00花火と座敷童子扉
400字詰原稿用紙で9枚ほどのトリック(?)ショートショート。

01花火と座敷童子A
02花火と座敷童子B
03花火と座敷童子C
04花火と座敷童子D
05花火と座敷童子E
06花火と座敷童子F
07花火と座敷童子G
08花火と座敷童子H
09花火と座敷童子I

福神降臨ざしきわらし召喚アイテム】では座敷童子を利用して金儲けをする話だったが、今回は知らぬ間に座敷童子にお金を抜かれる話。
消えた百円の謎──よく考えれば錯誤であることがわかるはずだが、展開の流れで一瞬〝消えた〟かのように思わせることができたのであれば、してやったりというショートショート。
今回使用した計算の錯覚(錯誤)は僕のアイディアではないが、座敷童子に絡めたネタとして使えると思って【ひとり多い!?座敷童子2題 座敷童子パラドックス小咄】に記している。これをさらにショートショート風に仕立ててみたのが本作である。

何度か記しているが、《顔ぶれが同じなのに1人増えている座敷童子現象》は宮沢賢治の『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』にでてくるエピソード。


「大道(だいどう)めぐり、大道めぐり」
 一生けん命(めい)、こう叫(さけ)びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつないでまるくなり、ぐるぐるぐるぐる座敷(ざしき)のなかをまわっていました。
 どの子もみんな、そのうちのお振舞(ふるまい)によばれて来たのです。
 ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんでおりました。
 そしたらいつか、十一人になりました。
 ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけおりました。
 そのふえた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出て来て言いました。
 けれどもだれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼっこでないと、一生けん命眼(め)を張(は)って、きちんとすわっておりました。
 こんなのがざしきぼっこです。
 (宮沢賢治・作『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』より)


この謎めいた現象には興味があって、僕自身もこの現象を扱った座敷童子の話(創作)をいくつか書いている。

病院跡の座敷童子
福神降臨ざしきわらし召喚アイテム


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凄くて怖いムササビマン!?

世の中には恐ろしいコトをする人がいるものだ。
佐藤さとるのファンタジー童話『赤んぼ大将』シリーズに《モモンガ服》という空を飛ぶ(滑空する)スーツが出てくるが、まさか実際にそんなスーツを作ってモモンガやムササビ、ヒヨケザルのように大空を滑空しようなどと考え、実践する人がいようとは……。

スゴイ……スゴすぎる! 怖い……怖すぎる!
このウイングスーツで人が高度を維持しながら滑空するにはかなりのスピードが必要だろう。このスピードで飛翔しているカブトムシにぶつかりでもしたらと思うとゾッとする。このスピードでは人もカブトムシも空中の障害物を回避することなどできまい。

僕も〝空を飛んでいる写真〟を撮るためにプチダイブしたことがあるが(↓)、ムササビマンには遠く及ばない。
世の中には、恐れを知らない人がいるものだと、驚いたり呆れたり……。


01八国山ダイブ
※【ミラクル☆シリーズさくっと制作経緯】より⬆

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物書きのジレンマなど(創作雑感)

01着想イラスト等

物書きのジレンマなど
作者は自作品の読者になれない!?
一口サイズの読み切り創作作品の一部をブログに公開しているが、今回は創作について思うところを少し記してみることにする。

物語を創ってみたい・小説を書いてみたいと思うきっかけは人によって様々だろう。読んだ作品に感銘を受けて、自分もこんな話を書いてみたいという憧れから創作を始めた人もいれば、既成作品に感銘しつつも「ここは、こうあってほしかった」という思いが強く「自分好みの仕様」を欲する気持ちから自作を始めたという人もいるだろう。あるいは既成作品に対する不満から、自分が満足できる小説の理想を求めてペンをとった人もいるにちがいない。

小説の良いところは(標準装備の頭と)紙とペンがあれば(今ならパソコンが主流なのだろうが)、物語を自由気ままに創ることができることだ。映画づくりでは基本的にスタッフや役者たちの協力が必要となるが、小説であれば作者独りで作品づくりを完結することができる。
物語を自作するということは《自分好みのおもしろい作品を構築する》ということだろう。この《おもしろさ》を測る基準が、僕の場合《読者としての自分》だと言える。《読者としての自分が読んだら、おもしろいと感じるかどうか》という視点である。
《読者としての自分が読んで、満足できる作品を書きたい》──それが創作の動機になるわけだが……しかし、残念なことに、じつは《作者は自分が書き上げた作品の純粋な読者にはなれない(自作品をまっさらな気持ちで読むことができない)》。
書き上げた作品を読み返してみるとき──作者は冒頭の1行を読んだ時点で(というより読む前から)、その後の展開や結末まで、全てがわかっている。苦労して書いた部分や不安がある部分などが、いやでも脳裏によみがえってきてしまう。
映画館で上映作品を鑑賞しているときに、誰かが横から先の展開や結末をバラし始めたら興醒めしてしまう──これと同じ。自分が書いた作品を純粋な気持ちで鑑賞しようとしても、読んでる先のことまで事細かにわかっているのだから、わずらわしいことこの上ない。
作者は《読者としての第一印象》で自作品を読むことができない。

《読者である自分が満足できるような作品》を目指しているのに、作者自身は、《自作品をまっさなら気持ちで読むことができない》──物書きはそんなジレンマを抱えている。
美味しい料理が食べたくて料理作りを始めたのに、自作した料理を味見することができないコック……小説書きのジレンマはそんな悲惨なコックに例えることができるかもしれない。
創作を始めた頃は、書き上げた作品を読み返しても、それがどの程度のものなのか、自己評価するのが難しかった。

難しい自作品の評価をするための《ものさし》作り
「(まっさらな)第一印象」で読むことができない自作品を印象で判断するのは難しい……そこで作品を測る《ものさし》のようなものが必要になってくる。作品を客観的に分析して評価する能力を養うのに大いに役に立ったのが、僕の場合、同好の仲間たちとの意見交換──同人誌や研究会などで行われる作品合評会だった。
合評会では、(客観的に読むことができない)自分の作品が他者にどう読まれているのか──そうした意見が聞けて大いに参考になったが、作品分析力を鍛える上でそれ以上に有益だったのは、むしろ他の人の作品に対する分析・評価の比較だった。自分の作品は冷静に判断することが難しいので、他者からの意見が妥当なものなのかを判断するのが難しい。しかし、他者の作品についてならば「(まっさらな)第一印象」で読むことができるわけで、他の人たちと同じ土俵で作品を論じることができる。同じ作品に対する評価を他の人たちの意見と比べながら、どの評価が適切なのかを考えるようになり、自分の《ものさし》が培われていった気がする。こうして構築された《ものさし》が、自分の作品を判断する手がかりにもなったわけである。

初心者へのアドバイスについて
創作を始めて間もない頃には《ものさし》もできておらず、自分の作品に対して適切な評価をするのが難しい。そこで、客観的に読むことができる立場の同好の仲間・先輩たちの助言が効くわけだが、経験的に注意が必要だと思うことを記しておきたい。

初心者の作品には、欠陥も多めだが──不備な点というのは具体的に指摘しやすいし、指摘された方も理解しやすい。それに対し、長所を褒める時は観念的な指摘になりがちなので、欠点(の修復)に意識が向きがちになる。
初心者は長所も短所もハッキリ自覚できずに書いているものだが、書き上げた作品の短所ばかりが(他者からの指摘で)意識化され、その修復に腐心して改稿したり、あるいは新作に取り組むと、短所は改善されたものの、元々あった長所のあじわいが影をひそめてしまうということが起こりうる。
《ハッキリ自覚できずに書いていた長所と短所》のうち《ハッキリ自覚できずにいた短所》ばかりが意識化されたことで、それをどう取り繕うかということに意識が向いてしまい《ハッキリ自覚できずにいた長所》がないがしろにされてしまうためだ。
物語の価値は、面白さにあるわけで、改稿にしろ新作にしろ《欠点をどうとりつくろうか》というつじつま合わせに心を奪われるより《面白さ(長所)を引き立たせるにはどうすべきか》という視点に立って考えることが大事だと思う。
アドバイスをする側も「わかりやすい欠点」の指摘ばかりでなく「作者がハッキリ自覚していない長所」を意識化させ、それを膨らませる方向の助言を心掛けるべきだろうという気がする。

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謹賀新年2021丑年

01賀状2021丑年イラスト
元旦恒例の年賀ブログもYahoo!ブログ時代のものから数えると、十二支がちょうど一回りしたことになる。正月がくるのが年々早まっている感じがしてならない昨今──時間の加速感は増すばかり。記憶層の浸食も進んでいるようだ……。
今年は丑(うし)年なので、これにちなんで和名にウシのつく昆虫──ウシカメムシの幼虫もひっぱりだしてみた。仮面をかぶった顔のようにも見える。
02ウシカメムシ幼虫仮面
カメムシには顔や仮面に見えるものが少なくないのだが……カメムシが仮面をはずすと牛になることはご存知だろうか?
03カメムシ文字考
……ということは「うし」年は角を立てなければ「うま」くいく年!?
ウシのように、おおらかに歩くか……。


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時間の加速感
時はどんどん加速する
長生きほど人生は短い!?時間の逆転現象
記憶層と忘却の浸食
年賀状について
年賀状雑感
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