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2020年10月の記事 (1/1)

禍まねく招き猫!?

福を招くはずの招き猫が……。400字詰原稿用紙8枚弱のショートショート。

01禍招き猫A
02禍招き猫B
03禍招き猫C
04禍招き猫D
05禍招き猫E
06禍招き猫F改
07禍招き猫G,JPG
08禍招き猫H


『禍(わざわい)まねく招き猫!?』覚書
先日、店先の招き猫が目にとまり、ふと招き猫の「招く」ポーズは「バイバイ」のしぐさにも見えるなと気がづいた。「招く」と「バイバイ」では意味がまったく逆になる──このギャップ(勘違い)を利用した小話ができないものかと思ったのが着想のきっかけだった。
検索してみると、アメリカにも招き猫はあるらしい。アメリカでは「招く」手(前脚)の向きが日本のものとは逆だという。招き猫を知らないアメリカ人が日本の招き猫を見たら「バイバイ」に見えてもおかしくないということだろう。それで招き猫を「禍(わざわい)を追い払うラッキーアイテム」と解釈したアメリカ人との食い違いから生じるオチ話を考えてみた。
「禍(わざわい)を《追い払う》ラッキーキャット」で「金運を《招く》つもりで《追い払って》しまった」という話──アイディアの構図としては明瞭だが、このシチュエーションを成立させる経緯を文章で説明するのは、ちょっとややこしい。不運に見舞われたアメリカ人がラッキーキャットを自作するに至った背景やそれを譲り受けた日本人が「金運」を祈願し裏目に出る過程、そして真相(しかけ)が発覚するエピソードなど──これらをきちんと描こうとすると話が長くなる。この着想は〝軽妙さ〟で活きるものだろう。リアリティを担保するために長々と描くより、サラッと読めることが望ましい。若干の不自然さは覚悟で簡素化を優先することにした。構成もシンプルに一幕一場でまとめるために「高田」という人物をつくって「俺の部屋での会話(と回想)」で終始する形をとってみた。

じつは当初、「俺」が期待に応えない招き猫に腹を立てて壊すシーンから始まるバージョンも考えた。しかけ(真相)がわかったところで、招き猫が残っていればその後、厄払いの効能で挽回利用できる可能性が残される。「気がついた時には、もう取り返しがつかない」というオチにするには、招き猫を無効化しておく必要があるからだ。
しかしややこしい話がますます煩雑になる懸念もあり、「ちょっとした思いつき」の着想に見合ったサラッとした小話でいくことにして、とりあえずまとめてみたのが今回の小品。
400字詰め原稿用紙換算で8枚弱。簡素化したつもりだったが、まだ説明が長くて、どうもキレが悪い……。もう少しスッキリさせたかったというのが正直なところである。
09バイバイ猫

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『絵本玉虫厨子の物語』と平塚武二

01玉虫厨子の物語
▲『絵本玉虫厨子の物語』表紙とタマムシ

『絵本玉虫厨子の物語』と平塚武二
佐藤さとるや長崎源之助が師事していた平塚武二の作品に『玉虫厨子(たまむしのずし)の物語』というのがあると知って読んでみたくなった。この作品は小学5年生の国語の教科書にも載っていた時期があったようだ。近くの図書館に『絵本玉虫厨子の物語』(平塚武二・作/太田大八・絵/童心社/1980年)という〝絵本〟があったので借りて読んでみた。
まずは作品の概要と感想から──。

『絵本玉虫厨子の物語』のあらすじ
国宝にも指定されている法隆寺の《玉虫厨子(たまむしのずし)》──仏像をおさめる厨子を作った若い仏師の話。名前は知られておらず、作品の中では「若麻呂」という仮称で語られていく。若麻呂は《美しいもの》を作ることにあこがれて仏師になった。美しい許嫁がいて、若麻呂がひとかどの仏師として成功することを条件に結婚が許されることになっていた。若い仏師は仕事を成功させるためにも美しい嫁をめとるためにも《美しいもの》の探求に邁進する。
そして若麻呂が素晴らしい厨子を制作しているという噂が流れる。じっさい、みごとな作品を完成まぎわというところまで仕上げていたのだが、美の探求にどん欲な若麻呂には、まだ何か足りないものがあるように思われ、満足できずにいた。そんなとき、虫とりをしていた男の子が持っていたタマムシが若麻呂の目にとまり、その美しさに「これだ」とひらめく──輝きを放つ美しいタマムシの翅鞘(前翅)を厨子の装飾に使うことを思い立ったのだ。
それからの若麻呂は、タマムシ集めに奔走する。そのようすが人々には奇異にうつり、「名をあげなければ結婚が許されない」というプレッシャーから「気がふれた」のではないかという噂が立つ。許嫁の話は解消することになるが、若麻呂の関心はタマムシをどうしたらたくさん集められるかということに向けられていた。
タマムシを探し続けるうちに、必然的に目に入る他の虫たちの生態についても関心を向けるようになった若麻呂は、それまで「虫けら」として気にもとめなかった存在の中に不思議さと美しさを見いだすようになり、厨子を完成させたあと、誰にも告げずに姿を消してしまった。その後、こじきのような姿で子どもたちと楽しげに虫とりをしている姿を見たという噂もあったが、会った者はいない。
タマムシの装飾をほどこした厨子が多くの人を驚かせ、法隆寺金堂におさめられたのはだいぶ後のことだった。

『絵本玉虫厨子の物語』の感想
なんだかパッとしない話だな……というのが一読しての印象。その大きな原因は、作品のほとんどが語り手による〝説明〟で進行しているためだろう。若麻呂を含む登場人物が、物語の語り手のうしろに隠れて〝生身〟感がない(影が薄い)。若麻呂の心情を描く箇所でも、それを語っているのは語り手であって若麻呂自身ではない。唯一、登場人物が動いているシーンとして描かれていたのは、若麻呂がセミとりをしていた男の子とであい、タマムシを見て「これだ」とインスピレーションを得る場面だけ。他の部分は昔話のような語り手の説明口調で描かれている──これが登場人物と読者の間に語り手が割り込んでワンクッション置く形となって、描かれた人物の気持ちがストレートに伝わってこない。そのぶん感情移入もしにくく、それが「パッとしない話」という印象につながったのだろう。

作者が描こうとした作品の意図は理解できる。美しさを求める若い仏師が、厨子づくりをしているうちに、素材として出会ったタマムシの美しさに魅かれ、昆虫の持つ不思議な美しさにのめりこんでいく……《真の美しさとは何か》を探求する若者の顛末が描きたかったのだろう。
ただ、僕には響くものがなかった。作品の中での虫への賛美(?)は、作者が本当にそう感じて描かれたものではなく、若麻呂の〝役の上での感動〟を描くために、にわか勉強で仕入れた〝卓上の知識〟で描いたものだったのではないか……そんな違和感がなくもない。
例えば、作中ではタマムシが樹液に集まるカブトムシやクワガタと同じように描かれ、夜更けの森林を松明を手にタマムシ採集に徘徊する若麻呂が人々には怪しげに映ったということになっている。これはタマムシのことをよく知らない人が想像で考えたシーンだろう。

それでは、この作品の優れた点はどこにあるのだろう? 佐藤さとるは文章を賞讃している。はたして平塚武二の文章はいかほどのものなのか……男児が捕まえたタマムシにインスピレーションを得て、その輝く翅鞘を厨子の装飾に使ってみた若麻呂の心情を描いた核心の部分を引用すると──、


 おお、いままでとらえることができなかった、美しいもののまことのすがたが、玉虫のはねをはりつけたとたんに、ありありとあらわれました。どんな貴い宝より貴い、貴い、命ある宝の光、人の力にとどかぬ美しいもののかがやき。それが、ただひとひらの玉虫のはねにこもっていようとは、おどろくばかりでございます。
 いまこそ若麻呂は、美しさをとらえることができました。美しさが、目の前にあるということも知りました。美しいものは、天上にあるのではなく、あてのないあこがれのなかにただよっているのでもなく、わが目の前にあったのでございます。美しいものは、なまじ美しいものをつくろうと思うものの手にはとらえられずに、無心の子どもの手にとらえられるのでございます。

(『絵本玉虫厨子の物語』P.32)

わかりやすく簡潔で〝文章は上手い〟のかもしれないが……感動しているのは語り手(作者)であり、若麻呂ではない気がする。

また、『玉虫厨子の物語』というタイトルからイメージする内容と実際の内容にギャップがあるようにも感じた。
タイトルにひかれてこの本を手に取った読者が想像・期待するのは、国宝にもなった《玉虫厨子》がどんなものか・どのようにして作られたのかということだろう。しかし、玉虫厨子やその制作過程についての情報は少ない。ユニークな装飾にいったい何匹のタマムシが使われたのかとか、制作に必要な膨大なタマムシを(何千匹も)いったいどうやって集めることができたのかなど、基本的な興味や疑問に対する情報も記されていない。そういった意味では、玉虫厨子に興味を持って読んだ読者には、物足りなさが残る作品であったかもしれない。
逆の言い方をすれば、作者は(昆虫同様に)玉虫厨子そのものには(も?)あまり関心が無かったのだろう。平塚武二が描きたかったのは《美の探求をする若者の姿》だったのだ。

読んでみようと思った動機
「平塚武二」という作家がいる(いた)ことは、佐藤さとる作品を読みあさっていた頃からその略歴(平塚武二に師事)などで知っていた。当時はさして関心も無かったのだが、先日【佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出】を投稿するにあたって関連エッセイなどを読み直しているうちに、再三登場する「平塚武二」とは、いったいどんな師匠だったのか、にわかに興味が湧いてきた。
弟子であった佐藤さとるや長崎源之助によれば『玉虫厨子の物語』という作品が平塚武二の代表作らしい。
《玉虫厨子》については僕もいささか関心がある。国宝にもなって世に知られている玉虫厨子(たまむしのずし)──これが野口雨情の童謡『こがねむし』のモチーフになったのではないかと僕は考えている。雨情の故郷周辺ではコガネムシはタマムシの俗称で、歌詞にでてくるコガネムシもタマムシのことだと思われる。歌詞に出てくるコガネムシ(タマムシ)が建てた《金蔵》というのは、実はタマムシを装飾に使った《玉虫厨子》のこと──《玉虫厨子》を《コガネムシ(タマムシ)の金蔵》に見立てるという着想を得て、雨情は童謡『こがねむし』を書いたのではないかと僕は思っている(※)。
そんなタマムシつながりの興味もあって、『玉虫厨子の物語』を読んでみたくなったというしだい。
そして実は《佐藤さとるらへの平塚武二の指導方法》に対する驚きが、今回この作家に対する興味のきっかけだった。
平塚武二は、弟子の原稿を初見で1行目から添削していくという指導法をとっていたというのである。

添削で作品が面白くなるとは思えない
創作作品に対しての添削による指導──原稿に手を入れていく(文章を手直ししていく)という指導には疑問がある。
まずい文章の問題点を明確にするための具体例として挙げることはあっても良いと思うが、作品の頭からいちいち文章を直していくのはナンセンスだと思う。ある場面を表現する文章に〝正解〟が1つしかないわけではないだろう。同じシーンを描くにしても書き手によって文章はそれぞれ違ったものになってしかるべきだ。師匠が手本を示してこれに習えという指導はおかしい。文章表現についてのアドバイスは問題点を指摘して(「わかりやすく」とか「簡潔に」等)、あとは作者が自分で考えて推敲すればよいことだ。
平塚武二は弟子の原稿を初見でいきなり頭から添削していたらしいが、本来であればまず終わりまで読んで、作品のテーマや構造について把握した上で、構成やそれぞれのパートが適切であったかどうかの批評(指導)がされるべきだろう。構成に問題があった場合、不要なシーンのカットや変更が求められることもあるだろう。その部分の添削はムダになる。また、作品全体の中でその部分がはたす役割りを把握していなければ適切な添削はできないはずである。
全体を見ずに1行目から文章に手を入れていくという平塚流指導法には首を傾げざるをえない。

物語を創作するにあたって、重要なのは、「おもしろい作品を書くにはどうすればよいか」ということだろう。つまらない原稿(素材)をいくら添削でつつきまわしたところで、おもしろい作品になるとは思えない。
おもしろい作品になりうる素材ををどうやって見つけるかということが肝心だ。単に作品化しうる着想ならば意識的にいくらでも作る方法はある。しかし重要なのは、それがおもしろいかどうか。おもしろい着想限定となると、つかまえるのは難しい。個人的には着想の技術というのは、ふだん関心のあることについて深く考え、インスピレーションが得やすい心理状態をいかに作るか──にあると思っている。
おもしろい着想を得ることができたら、それをどう描けば読者に最も効果的なかたちで演出できるかを考える──作品の分析(批評)や指導はこの段階に対して行われるものだろう。テーマ・構成・設定・舞台・人物・ストーリーなどが有効に機能しているか──いなければどこに問題があったのか、解決には何が必要かなどをアドバイスすることになるのだろうと思う。
師匠が弟子に指導するなら、そういったアプローチになりそうなものだが……作品の構造(本質)を無視して原稿の頭から添削していくという平塚流は理解しがたい。

佐藤さとるの代表作であり評価の高い『だれも知らない小さな国』は、講談社から出版される前に私家版で発行されている。私家版を作る前、この原稿も平塚流の洗礼を受けていたそうだ。これについて佐藤さとる自身が記した文章がある。


 十数年前、私は『だれも知らない小さな国』の第一稿を書き上げて、平塚さんの手もとへ持っていった。自分で書いたものが、いったいどんなものなのか、平塚さんに判断してもらおうと思ったからだ。自分では何ができあがったのか、皆目わからなかった。
 しばらくたったある日曜日、とつぜん平塚さんが、辺鄙なところにある拙宅を訪れた。駅から歩いて20分、バスもタクシーもないわかりにくい道を、探し探し出向いてくださったのだ。おみやげのバナナまで抱えて。あとにも先にも、こんなことはたった一度しかない。
 平塚さんは、いきなり、私の原稿をとりだしていった。
「これはいいです。ただし、文章はまずいね。」
 それから、私をかたわらに座らせておいて、私の原稿に手を入れはじめた。3時間もかかったろうか。冒頭の30枚ばかりが、めちゃめゃに直された。さすがに平塚さんも疲れたとみえて、あとはこの調子で書きあらためるように、といった。
 これが平塚流の流儀だ。もっとも、元祖は鈴木三重吉先生だそうだが、とにかく、じっと横についていて、一字一句文句をいわれながら、自分の文章を正されるということは楽でなかった。
 ところが私は、その平塚さんの手のはいった原稿を、思いきって捨ててしまった。置いてあると、どうしても平塚さんの文章にひかれて、自分の文章にならない。といって、直されたまま書きうつすだけでは、いかにもだらしがなさすぎる(とその時は思った。)
 私は、もう一度はじめからすっかり書き直して、今度はだれにも見せずにタイプ印刷へまわした。
 あとになって、私は平塚さんに叱られやしないかとひやひやした。平塚さんが、いつか私を呼びつけて「なぜおれの直したとおりに書かなかったか」と、いうような気がした。わざわざ出向いてまで直してもらったものを、捨ててしまったとは、平塚さんも思っていなかったにちがいない。
 それで私は、いまでもまだ平塚さんがコワイ。一目見れば、私が平塚さんのいうとおりには書かなかったことが、わかったにちがいない。それなのに平塚さんは、とうとう、そのことでは一度も何もいわなかった。

(「ひろば」/昭和47年 より)

これ⬆は『佐藤さとるファンタジー全集16佐藤さとるの世界』(講談社)の「私の出会った人々」>『平塚さんのこと──「平塚武二童話全集」完結にあたって──』からの引用。
『佐藤さとるファンタジー全集15ファンタジーの世界』に収録された佐藤さとると長崎源之助の対談の中では、やはり平塚流の指導を受けた長崎源之助が、こんなことを言っている⬇。


 だから直されたものがいいわけじゃないのね。平塚さんが直してくれた通りに清書してみると、味もそっけもない文章になっちゃう。じょうずに直してくれたんじゃなくて、文章というのはこういうふうに直せるんだということ。これだけ簡潔に直せるんだということを教えてもらったわけね。それまでは、毎日のように傑作が書けたのに、それからは書けなくなっちゃってね。(笑)
(「ファンタジーの周辺」対談=佐藤さとる・長崎源之助/昭和52年12月 より)

佐藤さとるも長崎源之助も、平塚流の添削にはとまどったようだが、それをまともに受け入れず(?)、自分なりの解釈を持ち込んで、かわしながら(?)自分が納得できる道を選択したのが良かったと思う。2人とも平塚武二と出会えたことを良かったと言っているから、学ぶこと・刺激を受けることも多かったのだろう。しかし、添削主体の指導に関しては、僕は懐疑的だ。


タマムシとコガネムシ 童謡『こがねむし』のタマムシ説
メタリックな美麗昆虫10種 美しい虫はタマムシだけではない
昆虫の何に魅かれるのか?
佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出
《イタチの魔かけ》と《鼬の目陰》 ※佐藤さとる・作『いたちの手紙』
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佐藤さとる『てのひら島はどこにある』の思い出

佐藤暁・作『てのひら島はどこにある』の思い出
〜姉妹作『だれも知らない小さな国』との大きな違い〜
01てのひら島はどこにある
僕が初めて1冊読破した物語は『てのひら島はどこにある』という童話だった。小学2〜3年生の頃だったと思う。家族でデパートへ行ったとき、平台の上に置かれていたこの本が目にとまった。作者は〈佐藤暁〉(当時はオール漢字表記)、挿絵は池田仙三郎さんのものだった。僕は読書が好きというわけではなく──というより、どちらかといえば嫌いな方だったが、何かひかれるものがあったのだろう。手にとってなんとなく「おもしろそうだ」と感じて、買ってもらった記憶がある。「せっかくデパートに来たのだから何か買ってもらわなきゃソンだ」というような気持ちも働いていたように思う。
「おもしろければめっけもん」くらいの気持ちで読み始めた『てのひら島はどこにある』だったが……すぐに物語に引き込まれた。そしてなんと一息に1冊読み終えてしまった。そんなことは初めてだった。「コクワガタでも見つかればめっけもん」と思ってのぞいた木に思いがけずオオクワガタを発見したかのようなような(?)高揚感があった。
これが僕にとっては初めて感銘を受けた衝撃の一冊となったわけだが……どのような作品だったのか、内容を紹介すると──、

『てのひら島はどこにある』のあらすじ(長め)
『てのひら島はどこにある』は子どもにも違和感なく自然に読める作品なのだが、概要を説明しようとすると、少しややこしい。本編の中に話中話として《虫の神さま》(姉妹作『だれも知らない小さな国』のコロボックルにあたる)が登場し、この本編を「はじまりのはなし」と「おしまいのはなし」で登場するおばあちゃんが語っているという3重構造になっている。
02てのひら島3重構造
作品冒頭の「はじまりのはなし」では、町外れに摘み草にきていた〈おばあちゃん〉が、その孫らしい〈女の子〉に「てのひら島」という話を始める。双子の姉を持つ太郎と言う子の物語──その「おはなし」の内容が本編ということになる。

本編の主人公は太郎だが、太郎のおかあさんの視点で物語は始まる。太郎(1年生)と双子の姉(3年生)のケンカが絶えず、おかあさんは困っていた。原因は太郎のイタズラで、姉は2人がかりでもかなわず泣きべそをかいている。お母さんは、太郎には「いたずら虫(妖精や魔物のような小さな神様)」がとりついているのではないかと想像する。すぐにベソをかく双子の姉についているのは「泣き虫」だろう。おかあさんは他にも色々な「虫の神様」を想像していく。弱虫・仕事の虫・勉強の虫=点取り虫。のんき虫・ぼんやり虫・いばり虫・きどり虫・おこり虫・てれ虫・すね虫・よくばり虫・ひがみ虫・やきもち虫・ひねくれ虫……。虫の神様たちが、つついたり咬んだり刺したりつねったりすることで、こどもたちはイタズラをしたり泣きだしたりする──。
おかあさんは、いたずら虫にとりつかれた太郎が、ひねくれ虫にまでとりつかれてしまったら大変だと考え、(ひねくれ虫にとりつかれないように)自分が考えた「虫の神様」の話を子どもたちに聞かせることにした。太郎や双子の姉が知っている実際にあったエピソードもでてきて、それには虫の神様がからんでいたという物語である。
太郎と2人の姉は、自分たちの身近にいるという、自分たちの分身のような虫の神様に関心をしめす。そしてそれぞれが自分のお気に入りの「虫の神様」──太郎は〈いたずら虫のクルクル〉、双子の姉は〈泣き虫のアンアンとシクシク〉を主人公に、物語の続きを勝手に創りはじめてしまった。今で言えば二次創作という現象だろうか。「虫の神様」はおかあさんの手を離れ、子どもたちの心の中に根付いてそれぞれ独自のストーリーを展開していくのだった。

小学3年生になった太郎は「虫の神様」の話を口にしなくなっていたが、決して忘れていたわけではなかった。その年の夏休み、太郎は朝から木イチゴ探しにでかける。ところがお目当ての《すばらしいごちそう》を見つけることはできないまま、自分でも気がつかないほど遠くまで来てしまっていた。空腹で苛立っていた太郎はカラス除けのガラス瓶に八つ当たりしようと、手直にあった青いトマトをもいで投げつける。それを畑の持ち主のお爺さんにみつかり、お仕置きを受けることに──お爺さんはトマトをもいだ太郎の掌の上に、煙草の火を落としたのだ。すぐに振り落とすこともできたが、太郎は掌の上の煙草の火が灰になるまでがまんする。それを見ていたお爺さんは太郎の根性を褒めてから、「熱かったろう。だが苦労して育てたトマトをもがれ、わしも心がカッと熱くなった。もがれたトマトも熱かったろう」と話し、太郎も納得して素直に謝る。するとお爺さんは仲直りして友だちになろうと提案。太郎が木イチゴ探しにきて見つけられなかったことを知ると、本物のイチゴをごちそうすると言う。
お爺さんは元船乗りで、引退してから海が見える場所に家を建てて暮らしていた。そんな身の上話をしながら太郎を、テーブルと椅子が置かれたネムノキの木陰に案内すると──木の上から女の子が現れる。ヨシボウと呼ばれた目の大きな女の子はお爺さんの孫で1年生だという。太郎はヨシボウとイチゴ摘みをすることになる。このとき、太郎はちょっとしたイタズラ心を起こしてヨシボウをからかうのだが、ヨシボウは烈火のごとく怒りだし、しまいには泣き出してしまう。あまりのけんまくに太郎は「怒り虫にとりつかれているみたいな子だな」と思い「きっとそうだ。〈怒り虫のプン〉は、この子の家にいたんだ」と考える。
つまらないことでケンカをした2人は、おじいさんが作ってくれたイチゴミルクを気まずく食べるが、仲直りのきっかけを作ったのが《虫の神様》だった。太郎はヨシボウが怒って泣いたとき、泣き止んだら面白い話をきかせるからとなだめていたのだが、ヨシボウはもう泣き止んでいるのだからと「面白い話」をねだったのだ。太郎はそれまで誰にも話さずにいた秘密の《虫の神様の物語》を披露する。
ヨシボウは〈おこり虫のプン〉に関心をしめし、太郎が話し終えると、プンが欲しいとつぶやく。太郎が〈いたずら虫クルクル〉の話を作ったように、自分もプンの話を創ってみたいというのだ。太郎も〈おこり虫のプン〉は元々ヨシボウのところにいたのだろうと言って〈プン〉をヨシボウにあげる。こうして虫の神様の話が、きっかけとなって2人は仲直りをしたのだった。

その日帰宅した太郎は、一日中太郎の行方を心配していたお母さんにひどくしかられ、夜にはその一件を知ったおとうさんに呼び出された。おとうさんは太郎の〝おしおきの痕〟を見ると、水ぶくれを残して掌に墨を塗り紙に押し当て手形をとった。この手形を机の前に貼って、見るたびに今日のことを思い出し、後先のことを考えて行動するようにと諭したのだった。

太郎は自分の手形を見ているうちに、それが島の地図のように思えてきた。指紋が山などをあらわす等高線で、掌紋の筋が川、塗り残したやけど痕は湖というぐあい。太郎の頭の中に「てのひら島」を舞台とする虫の神様たちの物語が展開する。
おかあさんや姉さんには話すことをしなくなった「虫の神様」の話を、なぜか太郎はヨシボウには聞かせてやりたいと思うようになり、ある日、《てのひら島の地図(手形)》を持ってヨシボウの家へ訪ねていくことにした。ヨシボウに会ったら怒り虫プンの話も聞いてみようと楽しみにしていたのだが……さんざん探し歩いたのに太郎は、とうとうヨシボウの家を見つけることができなかった。太郎には消えてしまったヨシボウが「てのひら島」に行ってしまい虫の神様たちに囲まれて暮らしているように感じられた。
ヨシボウに会えずに帰った太郎は手形を机の奥にしまい込み、「てのひら島はどこにあるのだろう」と考えるようになった。

ここでいちど物語は終わりかける。演劇で言えば幕間(まくあい)だろうか……舞台は本編から離れ、「はじまりのはなし」の草摘みにきていたおばあちゃんと孫娘の次元に戻る。日がかげってきたので、おばあちゃんは「おはなし」を打ち切って帰ろうとしたのだ。聞き手の女の子は続きをせがみ、おばあちゃんは、話を続けることになった。
そして舞台は新しい幕を開け、〝15年後〟の本編に戻る──。

夏の暑いさかりに山の中からひとりの若者があらわれる──これが15年後の太郎なのだが、作中では「わかもの」として描かれている。彼は測量技師で、学校の建設予定地を下見にきていたのだが、道に迷ってそんなところに出てきたしまったのだ。若者は近くに井戸があることに気づき、水を汲みにきていた娘さんに冷たい水を飲ませてもらう。その井戸は枯れたことがなく、娘さんは近くの家から水を調達に来ていたのだった。事情を聞いた若者は井戸をのぞきこんで水位を測ると、娘さんの家の高さを確認した。そして井戸からパイプをひくだけで(サイホンの原理で)ポンプいらずの水道ができると話すと、娘さんは〝考えたこともなかったアイディア〟に感心する。若者は水を飲ませてもらった御礼にバケツの水を運んであげ、娘さんは町への道を教えるために若者を案内する。その途中──ネムノキの下を通りかかった若者は急に立ち止まってあたりをみまわす。そんな若者をふしぎそうに見つめる娘さんに向かって言った。「そうすると、もしかしたら、きみはヨシボウじゃないか?」
困惑の表情を浮かべた娘さん──すっかりきれいにな娘さんになっていたヨシボウの顔が輝き、大きな目が見開かれた。「あたしに〈おこり虫プン〉をくれた人でしょ?」──ヨシボウも太郎のことを、虫の神様のことを覚えていたのだ。
たった1度だけの出会いから15年ごしの再会──2人は互いに〈いたずら虫クルクル〉と〈おこり虫プン〉が元気でいることを報告しあう。
そしてヨシボウと握手をしたとき、太郎は、「てのひら島」がどこにあるのか、わかったような気がする。「こいつは今、ヨシボウの手のなかにあるじゃないか!」

ここで本編は幕を閉じ、「おしまいのはなし」になる。おばあちゃんの話に聞きいっていた女の子は「てのひら島って、太郎の手のことだったの?」とたずねる。「そうよ。あんたには、まだよくわからないでしょうね。でもきっといまにわかるようになりますよ」とおばあちゃんは答えた。
女の子は「今の話、あたしのうちのことに、よく似てると思わない?」とたずねる。女の子のお父さんは測量技師で双子の姉がいることや、お母さんの実家からは海が見えることなど、「てのひら島」の話に符合する点がいくつかあったからだ。おばあちゃんは答えずに笑っていた。

ここで『てのひら島はどこにある』の物語は本当に終わる。
つまり、「はじまりのはなし」や「おしまいのはなし」に登場し「てのひら島」の話を聞いていた女の子は、太郎とヨシボウの子であり、話していたおばあちゃんは太郎の母親──最初に虫の神様の話を考えた人だったのだ。

元々は空想だった「虫の神様」がとりなした、不思議な運命──太郎とヨシボウは本編のあと、結婚してこの女の子を設けていた! そのきっかけの話を作った太郎のおかあさんは、今やおばあちゃんになって孫──太郎の子どもに、「虫の神様」の話を聞かせている……実際は存在しない架空の「虫の神様」が人の運命に大きく関わり、次の世代にも受け継がれていく──小学2〜3年生の頃に初めて『てのひら島はどこにある』を読んだ時は衝撃ともいえるほど激しい感動を覚えた。いま読み返しても、この童話にはジンとくるものがある。

『てのひら島はどこにある』から『だれも知らない小さな国』へ
『てのひら島はどこにある』に感銘を受け、僕はこの本が大いに気に入った。読書好きの子なら、すぐに同じ作家の他の作品を探して読むところだろうが、当時その発想はまったく無かった。僕が気に入ったのは『てのひら島はどこにある』という物語であり、作家や他の本には関心が向かなかったのだ。

それがらしばらく経って……書店で『だれも知らない小さな国』という本を目にしたのは中学生の頃だったように思う。〈佐藤さとる〉という表記を見て「ああ、これは、『てのひら島はどこにある』の作者だな」と気がついた。なにか懐かしいものに出会ったような気がして、「おもしろそうだったら買わねばなるまい」──と意気込んで手に取ってみたのだが……どうやら小人が出てくる話らしいと知ってテンションが下がった。「なんだ、これは《おとぎばなし》か……」とガッカリして棚に戻した記憶がある。当時は実在感のあるファンタジーは想像できなかったのだ。
それでも本屋へ行くたびに、『だれも知らない小さな国』というタイトルが気になり、「どんな話だろう?」と手に取っては「……でも、小人がでてくる《おとぎばなし》じゃなぁ……」と書棚に返すことを幾度となくくり返していた。そのうち「気になってしかたないなら、買って読んでみれば、どんな話かハッキリする」と心を決めて購入した。この時はまだ半信半疑で、これが「柳の下の2匹目のドジョウ」になるのか!?──といった心境だった。
ところが読み始めてみると『てのひら島はどこにある』のときと同じように作品世界に引き込まれ、やはり一気に読まされてしまった。《おとぎばなし》とは全く次元の異なるリアルな世界で展開されるファンタジーに驚き、感銘を受けたのだった。

姉妹作の類似点と相違点
『だれも知らない小さな国』は主人公の少年(やがて青年になる)と小人=コロボックルとの出会いを描いた作品だ。物語全体の雰囲気は『てのひら島はどこにある』とよく似ている。それもそのはず──当時なかなかまとめることができずにいた『てのひら島はどこにある』の旧構想を、新たな視点で再構築したのが『だれも知らない小さな国』だったらしい。僕が読んだのは『てのひら島はどこにある』(1965年)が先だったが、発行は『だれも知らない小さな国』(1959年)の方が早い。
『てのひら島はどこにある』は着想から完成まで15年かかっているそうで、その間に『だれも知らない小さな国』が発行されている(こちらは本になるまで足掛け5年かかったらしい)。
この2つの作品の大きな違いは、『てのひら島はどこにある』では《虫の神様》が〝想像上の存在(実在しない存在)〟として描かれているのに対し、『だれも知らない小さな国』の《コロボックル》の方は〝実在の存在〟として描かれている点だ。実際には存在しないコロボックルが実在する世界を描いているわけだから、『だれも知らない小さな国』はファンタジーということになる。
『てのひら島はどこにある』の方は非ファンタジーで、色々なエピソードをうまく組み込むために3重構造というこみいった形をとっており、物語の視点(主人公?)も、おばあちゃん・おかあさん・太郎・虫の神様・若者など使い分けられている。紹介した〈あらすじ〉が長くなったのは色々なエピソードが絡み構造が複雑だったためでもある。
これに対し旧構想をリセットして再構築された『だれも知らない小さな国』では一環して主人公の視点で描かれ、その世界も統一されていて、より洗練されている印象を受ける。

創作の経緯から察すると、魅力的な素材でありながらまとめるのが難しく何度も頓挫していたという『てのひら島はどこにある』の旧構想──これを新たな設定で整理し直し、ファンタジーに昇華させたのが『だれも知らない小さな国』だった──作者の佐藤さとるはそのつもりだったのだろうし、実際にそうだった。『だれも知らない小さな国』は──これはこれで完成された素晴らしい作品で、欠けているところはない。
ただ、棄てたはずの旧構想の中に『だれも知らない小さな国』では描かれていない重要なエッセンスがとり残されていた……と僕は見ている。だからこそ佐藤さとるは『だれも知らない小さな国』を完成させた後も、旧構想に未練を感じ、けっきょく『てのひら島はどこにある』をまとめあげることになったのだと思う。

『だれも知らない小さな国』のあとがきで、佐藤さとるは次のように記している。


 しかし、ほんとうのことをいうと、わたしがこの物語で書きたかったのは、コロボックルの紹介だけではないのです。人が、それぞれの心の中に持っている、小さな世界のことなのです。人は、だれでも心の中に、その人だけの世界を持っています。その世界は、他人が外からのぞいたくらいでは、もちろんわかりません。それは、その人だけのものだからです。そういう自分だけの世界を、正しく、明るく、しんぼうづよく育てていくことのとうとさを、わたしは書いてみたかったのです。

この気持ちが『だれも知らない小さな国』のを書く動力源になったのだろうことは理解できる。佐藤さとるは心の中に芽生えた、小さな魔物を大事にしんぼうづよく育ててコロボックルの物語を完成させた──このことを言っているのだろう。しかし、この動機がよりピッタリとあてはまるのは、むしろ『てのひら島はどこにある』の方だ。
というのも、コロボックルという小人族が〝実在〟したら──これは世界を揺るがす大事件であり、これはもう《その人だけの世界》《その人だけのもの》では片付けられない。コロボックル発見にかかわった主人公の人生が、このことで影響を受けるのは当然といえる。
これに対し、『てのひら島はどこにある』の「虫の神様」は〝架空の存在〟──これこそ《その人だけの世界》《その人だけのもの》である。この、《実在しない心の中だけの存在(虫の神様)──ささやかな幻が現実の人生に大きく作用し決定づける役割りを果たしていた》……ここに不思議な感慨がある。小学生だった僕が感銘を受けたのは、そこだった。

《実在しない幻(虚構)が現実の人生に大きく作用する》ということで言えば、O・ヘンリーの『最後の一葉』(現実には残っていなかった〝最後の一葉〟が病床の娘の命を救う話)やF・ムンテヤーヌの『一切れのパン』(実在しない架空のパンが主人公を救う話)で受けた感銘にも、共通するところがあった(*)。
《実在しないものが実在する者に及ぼす力》──これはとても不思議で尊いもののようにも感じられる。これは『てのひら島はどこにある』にあって、(設定が変わった)『だれも知らない小さな国』にはなかった種類の感銘といえる。

作者の佐藤さとるはおそらく『だれも知らない小さな国』を執筆していた時点では、この変質に気がついていなかったのだと思う。『だれも知らない小さな国』が完成した後、旧構想の中に置き忘れてきたものがあるように感じ、その未練からけっきょく『てのひら島はどこにある』の方も完成させることになって、ようやく肩の荷を下ろしたような気持ちになれたのではないか……。

『だれも知らない小さな国』と『てのひら島はどこにある』との大きな違いはファンタジーであるか否か──そう考える人が多いだろう。もちろんそうなのだが、じつは感銘の質にも微妙にして大きな(?)違いがある──僕はそう考えている。
佐藤さとるが描きたかった〈身近にいる小さな魔物〉が〝架空の存在〟から〝現実の存在〟にシフトしたことで、物語はそれにふさわしい形に変化し、素晴らしいファンタジー作品への昇華を果たした。その一方、旧構想にはあった《その人だけの世界》《その人だけのもの》に由来する感動からは遠ざかってしまった……ここにも大きな違いがある。
実在する小人族に出会うという奇跡のような体験は誰にでもできるものではない。《だれでも心の中に、その人だけの世界を持っています》というあとがきの言葉は、むしろ『てのひら島はどこにある』にふさわしい。実在するコロボックルと友だちになるのは無理でも、「虫の神様」のようなたあいもない想像は誰でにでもできるし、していることだからだ。内的な想像世界の大切さをよく表しているという点において『てのひら島はどこにある』には『だれも知らない小さな国』とはまた違った共感と感銘がある。
《誰でも夢想する、たあいもない想像が、人の出会いやその後の人生に大きくかかわることがある》──『てのひら島はどこにある』で僕が受けた感銘の核心はそこにあったような気がする。

《想像の産物》の影響力
小学生の時に『てのひら島はどこにある』で感銘を受け、中学生の時に『だれも知らない小さな国』で再び感銘を受けた僕は「この作家の作品はおもしろい!」という認識に至り、それからは本屋めぐりをして佐藤さとる作品を見つけると買っては読んでいた。
そして僕自身も、日常を舞台とするファンタジー童話を書くようになって、同人誌活動をしたこともあった。このブログにも短い作品をいくつか収録している。
その出発点が『てのひら島はどこにある』にあると考えると、虫の神様は、太郎やヨシボウの人生ばかりでなく、読者であった僕の人生にもいくばくかの影響を及ぼしているともいえるのである。


佐藤さとる『てのひら島はどこにある』復刊版
《イタチの魔かけ》と《鼬の目陰》 ※佐藤さとる・作『いたちの手紙』
糞の手紙!?〜イタチの粗相考 ※『いたちの手紙』と『いたちのてがみ』
一切れのパン/最後の一葉@教科書の思い出
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『谿間にて』と北杜夫氏の印象

谿間にて@夜と霧の隅で
『谿間にて』を収録した新潮文庫『夜と霧の隅で』のカバー表紙と裏表紙の内容紹介&収録作品

『谿間にて』と《どくとるマンボウ》北杜夫
『谿間(たにま)にて』は強く印象に残る作品だった。作者の北杜夫氏が亡くなったのは2011年10月24日。死去の報道を知って記していた『谿間にて』の感想&一度だけお見かけした北杜夫氏の印象についての記事の再録。

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作家・北杜夫氏の訃報をいくつかのニュースで知った。腸閉塞が原因で24日に亡くなったそうだ。84歳だったという。
【昆虫】でブログ検索すると北杜夫氏の死を痛む記事がものすごく多いことに驚く。虫屋さんには(にも?)北杜夫の愛読者が多いのだろうか。人気の「どくとるマンボウ」シリーズには「昆虫記」もある。虫屋さんなら読んでいるのかもしれない。
少し前には新種昆虫に北杜夫氏にちなんだ学名「ユーマラデラ・キタモリオイ」/和名「マンボウビロウドコガネ」が命名された──というニュースもあった。

僕は虫屋ではないし愛読家でもないので、北杜夫氏の本は中学生の頃(だった気がする)『船乗りクプクプの冒険』を読んだきりだった。だいぶ後にニフティの昆虫フォーラムに出入りするようになって、超遅ればせながらそこで知った『谿間にて』(新潮文庫『夜と霧の隅で』に収録)を読んで衝撃的な感銘を受けた。「ユーモア」系の「どくとるマンボウ」のイメージとはかけ離れた作品で、リアリティと幻想性を併せ持つ不思議な味わいのある逸品だった。

『谿間にて』の舞台は終戦翌春の上高地。高等学校の学生だった「私」は、秋の洪水で変貌を遂げた谿間(たにま)に入り、人がいるはずのないような場所で独り穴を掘る奇っ怪な男に遭遇する。
この男の話す奇妙な体験がこの作品の核心となるのだが……男は蝶の採集人をしていたことがあり、台湾で超珍種のフトオアゲハを目にして執念の採集劇を展開していた。
ひとり山中にとどまり、雨に打たれ、下痢にみまわれ、熱に浮かされながらも幻の蝶を求める過程が綴られていく。情景は目に浮かぶようにリアルであり、男の行動や心理の動きも生々しい迫力をもって伝わってくる。熱病に冒されもうろうとしながらもフトオアゲハに執着する男──そして、その意外な顛末……。ものすごく実在感ががあり、リアルだからこそ幻想物語のようでもある。

僕はこの作品を初めて読んだとき、映画『白鯨』(メルヴィルの原作小説は読んでいないので)のイメージが思い浮かんだ。幻の蝶フトオアゲハにとりつかれた男が、幻の白いクジラにとりつかれたエイハブ船長のイメージと重なった。両作品とも主人公の「私」の視点で「とりつかれた男の鬼気迫る執念」が描かれている。内容は全く別物だが、雰囲気に似ているところがある。

『白鯨』は夢がヒントになって生まれた作品だと読んだ記憶があるが、『谿間にて』の着想も似たようなものだったのではないか。夢そのものではないにしろ、意識力が後退し無意識の活動が高まったときにインスピレーションによって閃いた着想だったのではないかという気がする。
物語の着想には意識を集中して考え抜いてひねりだす物と、心の空白にふっと浮かぶインスピレーションによるものがあるが、『白鯨』も『谿間にて』も後者のタイプのように思われてならない。書こうと思って書けるタイプの作品ではなく、インスピレーションという形で降臨する希有な作品である。


ところで僕は、北杜夫氏を一度だけお見かけしたことがある。2001年、第5回海洋文学大賞の贈呈式で特別賞(プロ作家のこれまでの実績で選ばれる)を受賞された北杜夫氏がスピーチに立たれたときだ。
この贈呈式ではいくつかの部門で受賞作者が表彰されるのだが、この年の式典は印象に残っている。

特別賞の前には一般公募の部門で大賞に選ばれた某氏が「受賞の言葉」を述べていたのだが、このスピーチには驚かされた。
選考委員でもある曾野綾子氏や北方謙三氏ほか中堅作家達、特別賞受賞の北杜夫氏、清子内親王殿下らの目の前で「受賞の知らせを聞いたときも、さほど嬉しいとは思わなかった。書いている時点で賞はもらえるものだという自信があったから、受賞の知らせはノルマを一つクリアしたくらいにしか感じなかった」というような事を平然と言ってのけたのだ。

ふつう受賞のスピーチと言えば謙遜して自作を選んでくれた選者・関係者に感謝の意を表するものだろう。自分が応募した作品にいくら自信があったとしても、それが選ばれるかどうかはまた別の問題だ。まともなコンテストの場合、駄作が受賞する事はまず無いが、良い作品であれば受賞できるかといえばそうとも限らない。賞の選考システムにもよるが、大賞作より優れた作品が1次予選で落ちる可能性だって無くはない。
そもそも素人が「自分の作品に自信がある」と考える事、そしてだから「選ばれて当然」などと考える事、ましてや受賞スピーチで大先輩達を前にそれを得意げに話すなど、世間知らずというものだ。
某氏はかなり自己評価が高い人物らしく、自信満々の手前味噌なスピーチが続き、会場にはかなり冷ややかな空気が漂っていた。

僕は某氏の受賞作品を読んでいなかったから作品自体の評価はできないが、「この人に人を面白がらせたり感動させる作品が書けるのだろうか?」と疑問にさえ思ってしまった。
余談だが、作家に必要なのはいわゆる国語力としての文才ではなく、印象管理の心理学(?)だと僕は考えている。
美しい文章を書ける文才があればそれにこしたことはないが、伝えたい事をわかりやすく伝える文章が書ければ小説やノンフィクションは書ける。わかりやすく書く事は文才が無くても時間をかけて推敲すればできる。肝心なのは、(ストーリーや構成を含め)自分の書いたものを読者が読んで、どう感じるか──それを想像し、読者の印象を好ましい方向にコントロールする能力である。
得意げに受賞作についてプロモーションし続ける某氏──自分の話が聞いてる者を不快にさせていると察する能力も無い彼に、読者の気持ちを想像し面白さや感動を演出する作品が描けるのだろうか──という疑問が湧いてくるのも仕方ないだろう。

某氏の受賞スピーチで、会場にはいつになくビミョーな空気が漂っていたのだが……、そのあと特別賞受賞の北杜夫氏が壇上に立つと、場の空気は一転した。

杖を使い、人に付き添われて壇上に上がる姿に、北杜夫氏も(メディアを通して知っていたイメージに比べて)歳をとったな……と感じたが、オーラというのか存在感はあった。
スピーチの内容も面白く、ひょうひょうと話す姿に「これがどくとるマンボウか」と人気があるのもなるほどと改めて納得した。

「私の娘に言われるんですが……私がユーモア小説を書いていた時代は面白いものが少なかったからあれで通用したんだ。今のように面白いものがあふれている時代でなくてよかったわね……なんて鋭いことを言われるんで……そうした40年も前に書いた作品(どくとるマンボウシリーズ)が評価されて特別賞をいただくというのは、なにか詐欺でも働いているような気がして、またこのことが娘に知れれば、今度は何て言われるかわからない」

などとユーモアたっぷりなスピーチで会場をみごとに和ませていた。
年はとっても聞く者を楽しませようという紳士的な話術は健在で、さすがだなと感心した。
空気が読めない某氏とは大違いだ──と感じたのが、一度だけお見かけした北杜夫氏の印象である。

あれからさらに10年が経っている。
さらにお年を召したはずだから……と残念な訃報もすんなり受け入れられたが、ニュースやブログを見て、あらためて北杜夫氏が多くの人に愛され、影響を与えてたことを知った。(※2011.10.27 記)



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