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2020年06月の記事 (1/1)

ロアルド・ダール:あなたに似た人❲新訳版❳

01あなたに似た人表1
02新訳版収録作品

ロアルド・ダールで懐かしい虫とり気分!?
ふと、ロアルド・ダールを読んでみたくなった。「短編の名手」というウワサはだいぶ昔から知っていて、いくつかは読んだことがあったような……読んでないかもしれないような……記憶が定かではない。とりあえず覚えていた短編集のタイトル『あなたに似た人』を検索してみた。現在は新訳版のⅠとⅡがハヤカワ文庫(早川書房)で出ているようだ。市内の図書館で蔵書検索してみると1カ所にあったが、あいにく2日続けての休館日。「短編の名手」のよく知られた短編集の文庫版なら好きな時に読めるように手元に置いておいてもいいのではないかと考え、近くの本屋にあれば買いに行くことにした。蔵書検索してみると3駅はなれた書店に在庫があることが判明。Ⅰ&Ⅱともに「在庫僅少」となっていた。残りわずかということになれば、買える時に買っておかないと、あとで悔やむことがある。「在庫僅少」と知ってあわてて買いに行った本が、僕が買った後に「在庫なし」になったことを知ってホッとした経験もある。検索したのが夜(書店の営業時間外)だったので、翌日買いに行くことにした。
インターネット上で購入すれば買いに行かなくても届くわけだが、絶滅危惧職(?)の書店保全活動の一環として、なるべく書店へ足を運んで本を買いたいという思いもある(*)。在庫を確認した書店で、置いてある書棚の位置も確認して翌日買いに出かけた。
さて、お目当ての本を買うために書店へ向かう途中──電車の中で妙な期待と緊張を感じた。前日にネット上で在庫があることを確認してはいるが、予約したわけでもないし、ひょっとして僕が行く前に売れてしまうことだってあり得ないことではない。在庫上は本棚にあることになっているが、万引きにあっていたり何らかの理由で帳簿上の数字と在庫が一致しないなんてことだってあるだろう。とにかく現場に行ってみるまでわからない……そんな不安も去来してひとりドキドキし──この感覚に、ものすごく懐かしいものを感じた。
小学生の頃、早起きをしてカブトムシをとりに雑木林に向かうときのワクワク・ドキドキ感と同じ──。目指す雑木林には樹液を出す木があって、ここにカブトムシが来ることはわかっている。きっと夜の間に来ているだろう。僕がついた時にも、きっと樹液ポイントにかじりついているはず……。しかし、僕がつく前に他の子が来てとってしまう可能性もある。到着したとき、いないことも考えられないではない……そんな期待と不安が交錯する心理。
書店に到着して、該当の書棚の前に立ち、あるはずの位置にお目当ての本が並んでいるのを確認した時は、子供の頃に目指す木でカブトムシが樹液ポイントにかじりついている姿をみつけたときのような高揚感があった。
ものすごく久しぶりにカブトムシをとりに行った時の感覚がよみがえった。
『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅰ』『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅱ』を買って帰ったあと、思い立ってその店の蔵書検索をしてみると、『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅰ』は「在庫僅少」、『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅱ』は「在庫なし」になっていた。

あなたに似た人〔新訳版〕の収録作品
1957年10月にハヤカワ・ミステリで、1976年4月にハヤカワ・ミステリ文庫で刊行した『あなたに似た人』(ロアルド・ダール)に「ああ生命の妙なる神秘よ」「廃墟にて」を加え、田口俊樹氏による新たな訳で2分冊としたもの。ハヤカワ文庫(早川書房)・2013年5月15日発行。僕が買ったⅠの方は3刷(2017年7月)だった。新訳版の全収録作品⬇。

『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅰ』〈収録作品〉
味/おとなしい凶器/南から来た男/兵士/わが愛しき妻、可愛い人よ/プールでひと泳ぎ/ギャロッピング・フォックスリー/皮膚/毒/願い/首

『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅱ』〈収録作品〉
サウンドマシン/満たされた人生に最後の別れを/偉大なる自動文章製造機/クロードの犬/ああ生命の妙なる神秘よ/廃墟にて


※『あなたに似た人』というタイトルの作品は、この短編集『あなたに似た人』には含まれておらず、短編集『飛行士たちの話』に収録されている。

短編集『あなたに似た人』との再会
最初の作品『味』を読み始めて、「ああ、この話だったか!」と筋書きを思い出した。いつ読んだかの記憶は定かではないが、確かに過去に読んでいる。3番目の『南から来た男』も同様に読み進めるうちに筋が見えてきた。
〔新訳版〕はⅠに11編、Ⅱに6編が収録されているが、全作品を読んで、以前に読んだ記憶があるのは『味』と『南から来た男』の2編だけだった。2編とも印象は良く、記憶の中でも「おもしろい」と感じていた。ただ……期待していたほどの傑作集ではなかった……という感覚もあったのが正直なところ。
僕が昔、『あなたに似た人』(田村隆一による旧訳版)を手にとっていたのは、ロアルド・ダールが《奇妙な味》の名手で、この作品集に傑作が含まれているといった情報を得てのことだったように思う。それでお目当ての『南から来た男』をまず読んだのではなかったか……そんな気がする。そのとき冒頭の『味』も読んで、「(そこそこ?)おもしろい」と感じたのではなかったか……。
当時、O・ヘンリーの『最後の一葉』のような、あるいはそれ以上の作品が詰まっていることを期待して読んだので、期待値が高かったわりに(高かったために)満足度が追いつかず、「おもしろい」と感じながらも、作品集としては物足りなさを覚えたような気がする。
おそらく図書館で借りるなどして、2編を読み、他の収録作品も読みかけたか、ざっと目を通したかもしれないが、期待したほどのものではないと感じて、図書館に返してしまったのではなかったか……。
今回あらためて全作品を読んでみて、必ずしも完成度が高い作品ばかりではないということは感じたが、ただ、作品のレベルとは別に《奇妙な味》は漂っていたりするので、この感覚を楽しむことができる作品集という意味では、読む価値があるのではないか……ということも感じた。

ロアルド・ダールは《賭け》が好き!?/印象に残った作品
『あなたに似た人』には、やけに《賭け》の話が多い。

『味』では、晩餐会でホストが厳選したクラレット(ボルドー産赤ワイン)の銘柄と収穫年を当てられるかどうかで賭けが始まる。「当てられるはずがない」というホストと「当てられる」というゲストの意地の張り合いがエスカレートして、二軒の家と娘(との結婚)を賭けるという異常な展開となる。賭けが成立するまでの攻防や、ゲストがワインを味わいながらそのウンチクを駆使して産地を推理し絞り込んで行く過程が、リアルかつスリリングで、見せ場となっている。はたして結果はどうなるのか──と読者の興味を高めておいて、意外なラストが用意されている。仕掛け自体はそれほど凝ったものではないが、読者は賭けの展開に意識を集中して(させられて)いるので、意外性の効果は大きい。ダール作品には「なあんだ」という結末に落ち着くものもあるが、「肩透かし」も「意外性」のうち。『味』はトリック(仕掛け)よりもミスディレクション(読者の興味を仕掛けとは別の所へ誘導する技術)の巧みさが光る好短編だった。

『南から来た男』も《賭け》をテーマとした作品だ。ライターが10回続けて点火できるかどうかで賭けが始まる。賭けを持ちかけた南アメリカ出身の小男は金持ちで大きな賭けを望むが、ライターを自慢したアメリカ水兵の若者は賭けるものがない──そこで、「高級車」と「左手の小指」を賭けるという奇妙な展開になる。若者の左手を固定し切断できる準備を整えると、賭けが始まる。カウントダウンかロシアンルーレットのように、ライターの点火が繰り返されて緊張が高まって行く──そのさなか、小男の妻とおぼしき女が現われ、賭けは中断される。ここで読者の緊張も一度途切れて「なぁんだ、そういうことか」となるが、最後の最後に緊張が走る結末が用意されていた。緊張を徐々に高め、ホッと油断させたところに一撃を打ち込むという《作者のたくらみ》に拍手を送りたくなる。《奇妙な味》が漂う好短編。これは傑作と言っていいだろう。

『わが愛しき妻、可愛い人よ』も賭けブリッジの話で、意外な展開でイカサマが発覚する。

『プールでひと泳ぎ』は、乗っている旅客船の航行距離を当てるオークション・プール(競売形式の賭け)で、大金を賭けてしまった男が、形勢不利と知って突飛な解決策をくわだてる──策謀と破綻の皮肉な話。悪意のない「台無し」感をさらりと演出したラストに味わいを感じる。

『首』の中にも、本筋から離れたところで賭けカードゲームが出てくる箇所があり、『クロードの犬』はドッグレースでイカサマをして大もうけを企てる男たちの話である。

こうしてみると、ロアルド・ダールの作品には「賭け」がよく出てくる。その人の人生の明暗を分ける端的なエピソード・運命の岐路として判りやすく感情移入もしやすいということなのだろうか。
ふり返ってみると、僕も「賭け」をあつかった作品を書いている。小学生を読者対象に想定していたので、掛け金自体は小額だが、カエルの超能力の証明と言う謎めいた要素をからませたショートショートだった。また作品として書いたわけではないが、夢に関する記事の中で、夢にみたエピソードとして、仕掛けのある賭けを書いたこともあった。賭けというのは、勝つか負けるかわからないものだが、「必ず勝てる仕掛け」があれば誰しも関心を示すものではなかろうか……。

話をロアルド・ダールの作品に戻して……『願い』は想像力のたくましい少年が主人公。彼は絨毯を彩る3色の模様を見て思う。赤い模様は真っ赤に燃える石炭で、落ちたら丸焼けになる。黒い模様には毒蛇で、触れれば咬まれて死んでしまう。安全な黄色い模様だけをたどって絨毯を渡りきることができるだろうか?《もし無事に──丸焼けにもならず、咬みつかれもしないで──玄関までたどり着けたら、明日の誕生日にはきっと仔犬をプレゼントしてもらえる》──少年はそう考える。これも「勝ったら願いが叶う」という自分に課した《賭け》のようなものかもしれない。
子供にはありがちな、そして大人には懐かしい、たあいもない空想遊び。退屈な日常の中でスリルのある遊びを発見する──この着想は面白いし共感がもてる。だから少年の気持ちになって読み進むことができた。が、この作品は結末が弱い。空想遊びの着想が面白かっただけに、もうひとひねりしてキレの良いオチが欲しかった……読者としては、そんな気持ちになる。
ロアルド・ダールは「おもしろい着想」を核に作品を構築しているが、この着想が設定であることもあるし、オチ(結末の意外性)であることもある。その両方に工夫が見られる作品は純粋に「おもしろい」と感じるが、そういう高水準の作品ばかりが書けるわけではない。しかし、高水準の作品を読んだ読者は、すべての作品にその水準を求めたくなってしまう……。
『あなたに似た人』では、『顔』や『南から来た男』が面白かっただけに、読者の期待を高め、面白さのハードルを高くしてしまった面もあったのではないか。
そのため「おもしろい着想」が設定だけにあるものは結末が物足りなく感じてしまい、オチだけに工夫があるものは、中盤の面白味が薄く感じられてしまう……。この『願い』も、設定としての着想が面白かっただけに、結末にもう一工夫あったらなぁ……という印象があった。
例えば──この作品を読んで頭に浮かんだ4コマ漫画がある。中川いさみの『クマのプー太郎』の1本なのだが……1コマ目でコンビニ袋を下げた松村くんというキャラクターが路側帯の白線上を歩きながら、こうつぶやく「白線の両わきは海だ!! サメとかうじゃうじゃいて落ちると死ぬ!!」──これは『願い』の絨毯の上を歩く少年と同じ、〝日常の中の空想遊び〟で、やはり着想がおもしろいと感じた。この4コマ作品の傑作なところは、白線の上を慎重に歩いている松村君が、やはり白線上を歩いてきたサラリーマン風のオッサンとかち合うという更なるアイディア──同じ空想遊びをしている人をもうひとり登場させたことにある。松村くんとオッサンが、互いに白線からはみ出ないように絡み合ってすれ違おうとしているこっけいな姿を通りがかったおばさんが冷ややかに眺めている4コマ目には大笑いつつ素晴らしい決着だと感心した。空想遊びという面白い着想をさらに捻って発展させ、おもしろいオチにつなげる──《作者のたくらみ》という点ではこの4コマ作品の方が、工夫を重ねたぶんだけ優れている。
もしかすると、中川いさみはダールの『願い』を読んでいて、やはり「もうひとひねりできなかったか……」と物足りなさを感じていて、この4コマ漫画の着想を得たのかもしれない。

このように『あなたに似た人❲新訳版❳』の収録作は全て完璧な作品だけで構成されているわけではないのだが、「物足りなさ」を感じる作品には、これを補足し充足するものを求める心理がはたらく……不足分が読者の想像力を逆に刺激し高めているともいえる。作品の出来・不出来とはまた別に、読者の「《奇妙な味》に対する感受性を高める」効果──これもダール作品を「読む価値」といえるのではないかという気がしている。

ロアルド・ダールの作品を読む価値
「《奇妙な味》に対する感受性が高まっている」からこそ生まれる「もう少し何とかならなかったものか……」という物足りなさ──そう感じさせること自体にも《読む価値》があったのではないか──と今は考えている。
物足りなさ感じさせる作品が混じっていることで、読者の脳は《奇妙な味》の完成欲求が高まる──いってみれば《奇妙な味》の受容体が活性化(鋭敏化)しているような状態。これは、すでに作品群に魅せられている中毒症状(?)ともいえなくもない。
さらにいえば、この《奇妙な味》に対するの完成欲求が、「それでは、どんな設定だったら/あるいは、どんな結末だったら、満足できたのか」という方向に働き、あらたな着想に引き寄せられる……なんていう作用もありそうな気がする。
というのも、今回僕は「もう少し何とかならなかったものか……」と思いながら収録作品を読んでいる間に、《奇妙な味》の着想を3つ得ている。

小説を書く人なら、作品の着想をどう得るか──というのはもっとも関心のあることの1つだろう。もっともらしいセオリーのようなものもあるようだが、けっきょく「おもしろい着想」を得るための技術というのは「インスピレーションが浮かびやすい心理状態をいかに作るか」だと僕は考えている。ロアルド・ダールの作品を読んでいると、脳味噌が《奇妙な味》を感じやすい状態にシフトする──アイディアが降りて来やすい心理状態を作るという作用──そこにも、ダール作品を《読む価値》があると感じるのである。
『あなたに似た人❲新訳版❳』は、特に創作をしている人には着想刺激剤としての効能(?)もある、ありがたく貴重な作品集ではないだろうか。

ちなみに、僕も《奇妙な味》系の作品──《作者のたくらみ》を核とするアイディア・ストーリーを書いており、一口サイズの読み切り作品をいくつかブログにもあげている。

■星谷 仁の《奇妙な味》系の作品(♣)&着想(♧)
愛しいまぼろし ※死んだ愛猫が見える少女!?
金色の首輪 ※猛獣をも制御できる不思議な首輪
チョウのみた夢〜善意の報酬〜 ※蝶の恩返し!?
人面ガエル ※人面蛙の呪い
カエルの念力 ※カエルの念力をめぐって賭けをすることに
赤いクモ〜夢の前兆〜 ※人にはそれぞれ前兆夢がある!?
地震の予知〜作家の死〜 ※誰も知らない不思議な予兆
不老の理由 ※ある事故以来、若さが保たれている理由とは…
守護霊〜霧に立つ影〜 ※ピンチの時に現れる友の守護霊
暗示効果 ※暗示でダイエット
因果応報 ※愛息子の死は何の因果だったのか…
神への陳情 ※地球の危機を救うのは…
トイレでタバコを吸わないで ※トイレで喫煙すると恐ろしい事が…
フォト怪奇譚『樹に宿る眼』 ※枝痕を見ての着想
巻貝が描く《幻の地図》 ※幻想怪奇的着想
キリギリス幻想 ※キリギリスを見ていて浮かんだ着想
つれづれに夢の話 ※夢の中でできたショートショート
創作童話・ショートショート・漫画メニュー


絶滅危惧!?消えゆく本屋と雑木林
ロアルド・ダール:キス・キス❲新訳版❳収録作品&感想
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僕にとっての〝いい虫〟ラミーカミキリ他

今年は新型コロナの影響で外出を自粛していたが、近所でチラッと〝お好み〟の虫を確認して「よしよし、今年も発生しているな」などとひそかにほくそ笑んでいたりはしていた。具体的にはラミーカミキリやルリカミキリ、キクスイカミキリなど。園芸植物などにもつくことから、いってみれば害虫なのだが、僕にとっては〝いい虫〟だったりする。
僕にとって〝いい虫〟とは美しかったり格好良かったり、珍妙だったり、おもしろかったり──《自然の創造力・あっぱれ!》と感じさせてくれる昆虫だ。容姿だけでなく行動なども含めてセンスオブワンダー感をかもしているものが好ましい。また、そうした魅力をそなえていつつ〝身近〟に見られる種類であることも大事なポイントだったりする。
昆虫採集をする虫屋さんやコレクターからすれば、希少種の方が価値が高いということになりがちなのだろうが、僕は《センスオブワンダーを感じることができる身近な存在》というところに昆虫の価値を感じているので、〝身近〟であることが重要なのだ。《コンビニエンス・センスオブワンダー》とでも言ったら良いだろうか。昆虫を見ることは現代人にとって必要だと僕は考えているわけだが(*)、わざわざ遠征しなくてもお手軽に遭遇できる自然物というところに価値がある。

普通種であっても、発生時期に実物の昆虫を見ると、それなりの感慨のようなものがある。目の当たりにして「こんなものが、実際に存在しているんだなぁ」としみじみと感じ入ることができる。
カメラが壊れてから新調していないので新たに撮影した画像はないが、最近〝しみじみ〟した昆虫を過去の画像から──。


タキシード・キョンシーちっくなラミーカミキリ


タキシード天牛・虹色葉虫ほかから⬆
タキシードを着たキョンシーにも見えるユニークなカミキリは、僕が子供の頃には身近に(関東には)いなかった昆虫だ。ずいぶん風変わりなファッション感覚(?)もそのはずで(?)、幕末から明治にかけて侵入した外来種らしい。以前は西日本では普通にみられたというが、温暖化にともなって分布域を北上させて、20世紀末に東京都の多摩地区でも生息が確認されるようになったという。

僕がラミーカミキリを意識したのは、小学館のアウトドア情報誌『BE-PAL』2004年8月号【西原理恵子さん親子がムシのお兄さんと昆虫採集】を見た時だった。この「ムシのお兄さん」というのが、電子会議室【昆虫フォーラム】で知り合い、何度か昆虫観察のオフ会でもご一緒させていただいた虫屋さんで、ピンガ大王(@鳥頭紀行ジャングル編)と呼ばれていた。サイバラ氏の虫採りマンガが『BE-PAL』に載るというピンガ大王情報を得て、この号を買ってみたもの。
記事は写真と文章による採集風景&採集昆虫が見開きで紹介されていて、次の見開きに西原氏のマンガによる昆虫採集日記が掲載されていた。採集した昆虫の写真の中にラミーカミキリが載っていて、タキシード姿のキョンシー風の空目デザインに不思議な魅力を感じた。サイバラ氏も漫画の中で「私はニワハンミョウとラミーカミキリがお気に入り」と記している。

当時は西日本に普通に見られるカミキリという認識で、関東の一部にも入ってきているというような話を聞いていた記憶がある。
「こんなカミキリを見てみたいものだなぁ」「僕の地元でも、見られる日が来るのだろうか?」などと、あわいあこがれを抱いた虫だった。

その、あこがれのラミーカミキリを初めて目にしたのは翌年──2005年の8月だった。イッシキキモンカミキリを採りに行くというカミキリ屋さんに同行させてもらうことになって出かけた奥多摩の川沿いで、カラムシの葉の上にラミーカミキリを発見! あこがれの映画俳優に街角でばったりでくわしたような驚きがあった。1匹見つかると次々に見つかり、3匹を持ち帰って飼育した思い出がある(貴重なイッシキキモンカミキリもカミキリ屋さんに1匹もらってこれも飼育した)。




ラミーカミキリ@武蔵野から⬆
そして、僕の地元でも──野火止用水沿いのカラムシで初めてラミーカミキリを確認したのが2012年7月。以後、市内のムクゲや狭山丘陵でも見られるようになっていった。
毎年、身近な場所でその発生を確認すると、ひそかに「よしよし」とほくそ笑むのであった。


子供の頃には見たことがなかったルリカミキリ

町の中でも見られる瑠璃色のぷちカミキリから⬆
キレイでかわいいルリカミキリも、僕が子供の頃には見たことがなかった昆虫だ。昔から分布はしていたのだろうが、生け垣に(ルリカミキリのホストとなる)カナメモチが使われることが多くなったことで市街地でも、あちこちで見られるようになった。昔はよく見かけていたシロスジカミキリやミヤマカミキリ──そのいかつい姿はずいぶん少なくなった昨今だが……そんな中で、かわいいルックスながら(?)拡大している〝野生の根性(?)〟には、ひそかに「あっぱれ!」と感心していたりもする。

小さいながら格好良いキクスイカミキリ

※キクスイカミキリ@シラハタリンゴカミキリ@スイカズラから⬆
春になるとヨモギなどで見られる小さなカミキリだが、今年は家のすぐ前に生えた雑草のような菊で初めて見た。新型コロナ自粛の最中に玄関あけてすぐ見られるキクスイカミキリに、ささやかなラッキー感を覚えたものである。
ちいさいけれど、洗練されたプロポーションで、シックな艶消し黒に、前胸背の赤いポイントが、なかなかオシャレである。この赤いポイントがウルトラマンのカラータイマーを連想させ、パワーランプに見えて仕方がない。電池(活動エネルギー)が切れかかってくると、この赤いポイントが点滅し、消灯すると活動を停止してしまう──そんなふうにイメージしてしまうのは僕だけであろうか?



ラミーカミキリ@武蔵野
ラミーカミキリ/オスとメスの違い
ラミーカミキリ&シラハタリンゴカミキリ
礼服ぷちキョンシー天牛&怪虫シャッチー
タキシード天牛・虹色葉虫ほか
昔はいなかった身近なカミキリ
シラハタリンゴカミキリ@スイカズラ キクスイカミキリ
キクスイカミキリ・ヒシカミキリ他
イッシキキモンカミキリ/成虫飼育覚書
昆虫の何に魅かれるのか? 昆虫を見る意義
昆虫など〜メニュー〜
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太宰治随想集『もの思う葦』には2種類ある

太宰治のエッセイ集『もの思う葦』には新潮文庫版と角川文庫版があって収録作品に違いがある
01もの思う葦2表紙

先日、太宰治のあるエッセイを確認したくて近くの図書館へ出かけた。その作品は新潮文庫の『もの思う葦』という随想集(随筆集)に収録されているのだが、自宅に近い図書館には新潮文庫版がなく、角川文庫の同タイトル随筆集を借りてきた。ところがお目当ての作品は載っていなかった。分厚い太宰治全集(筑摩書房)になら収録されているだろうと図書館で随想を集めた巻の『太宰治全集 10』を開いてみるがやはり見つからない……。結局、書店で新潮文庫版の『もの思う葦』を買ってきて問題のエッセイを確認することができたわけだが、太宰治の随筆集『もの思う葦』には2種類の文庫版があって、収載作品に違いがあることがわり、まぎらわしいので、収録作品の比較を記録しておくことにした。


新潮文庫『もの思う葦』(著者:太宰 治/解説:奥野健男)収録作品(49編)は──、

[I]
もの思う葦
碧眼托鉢

[II]
古典龍頭蛇尾
悶悶日記
走ラヌ名馬
音に就いて
思案の敗北
創作余談
「晩年」に就いて
一日の労苦
多頭蛇哲学
答案落第
一歩前進二歩退却
女人創造
鬱屈禍
かすかな声
弱者の糧
男女川と羽左衛門
容貌
或る忠告
一問一答
わが愛好する言葉
芸術ぎらい
純真
一つの約束
返事
政治家と家庭
新しい形の個人主義
小志
かくめい
小説の面白さ
徒党について

[III]
田舎者
市井喧争
酒ぎらい
自作を語る
五所川原
青森
天狗


わが半生を語る
「グッド・バイ」作者の言葉

[IV]
川端康成へ
緒方氏を殺した者
織田君の死
豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説
『井伏鱒二選集』後記

[V]
如是我聞


新潮文庫版『もの思う葦』に収録されており、角川文庫クラシックス版『もの思う葦』には収録されていない作品を抜き出すと──、

[II]
古典龍頭蛇尾
走ラヌ名馬
音に就いて
創作余談
多頭蛇哲学
一歩前進二歩退却
女人創造
男女川と羽左衛門
容貌
或る忠告
わが愛好する言葉
政治家と家庭
新しい形の個人主義
小説の面白さ

[III]
田舎者
市井喧争
酒ぎらい
自作を語る

「グッド・バイ」作者の言葉

[IV]
川端康成へ
緒方氏を殺した者
豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説
『井伏鱒二選集』後記


角川文庫クラシックス『もの思う葦』(著者:太宰 治/解説:柳 美里)には収録されているのに、新潮文庫版『もの思う葦』になかった作品は──、

春寝
知らない人
無趣味
パウロの混乱
世界的
郷愁

──だった。同著者同タイトルの随想集(随筆集)──しかもともに文庫版なのに収録作品に違いがあるのは、まぎらわしい。お目当ての作品がどの本に収録されているのかいないのか、確かめられるようにプチ記録してみたしだい。


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恥れメロス/今さらながら太宰治

01走れメロス
※太宰 治・作品集『走れメロス』/新潮文庫のカバー表紙と裏表紙の紹介文。

恥れメロス/感想:太宰治・作『走れメロス』
今さらながら太宰治の『走れメロス』を読んだ。この作品は教科書にも採用されているという。僕も国語の教科書で『走れメロス』というタイトルを目にしていたような気もするのだが……「読んだ」という記憶はない。ただ、一般知識として(?)内容については、なんとなく漠然と知っていた。「メロスは何か約束をして、定刻までに到着しなければ、自分の代わりに人質となった親友が処刑される──そんな状況で、メロスは自分の命と引き換えに親友を救うため、満身創痍になりながら、走った」という程度の認識だった。イメージとしては《友情や誠実さをうったえた作品》で、教科書に載るくらいなのだから《崇高な話》なのだろうと思い込んでいた。

教科書に載っていたらしいのに(?)、読んだという印象が残っていないのだから、(僕にとっては)面白い話ではなかったのだろう──そんな思いもあって、長い間、読み返してみよう気にはならなかったのだが、先日、ふと気まぐれを起こして読んでみたところ、やはり共感のもてる作品ではなかった。「ひどい話だなぁ」と言うのが第一印象。有名な作家の有名な作品なのだから、おそらく一般的(?)には評価も高いのだろうが、僕が感じたところを正直に記しておくことにした。
僕の感想を記す前に、まず『走れメロス』のあらすじはというと──、

    *    *    *    *    *    *

メロスは唯一の肉親である妹に結婚式を挙げさせてやるために10里離れたシラクスへ買い出しにやってきた。この市には無二の友人セリヌンティウスが住んでおり、彼のところへも寄るつもりでいた。市に入って活気がないことに気づいたメロスは老爺を捕まえてわけを問う。王様が猜疑心から人を次々に殺していると聞いたメロスは「あきれた王だ。生かしておけぬ」と激怒し、「必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬ」と決意して王城へ向かう。
しかし、メロスはあっさり警戒中の警吏(けいり)に捕縛されてしまう。それでもメロスは暴君ディオニス王に「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳だ」と意見し、王は「人間はもともと私慾の塊だから信じてはならないのだ」と応える。
メロスははりつけにされることになるが、その前に妹に結婚式をあげさせてやるための猶予を3日くれと懇願する。3日後の日没までに必ず戻って刑を受けるというメロスの「約束」を王は信じようとない。メロスは「約束」が本当であることを担保するために、友人セリヌンティウスを身代わりに置いて行くから約束が実行されなければ殺せばいいと王に提案する。王はメロスが死ぬために戻ってくるとは思っていなかったが、「約束」が嘘であったことを証明し「これだから人は信用できない」ということを世の中に知らしめるために、メロスの提案を受け入れる。
メロスは急いで村に帰り、まだ準備ができていないと拒む妹の婚約者を強引に説き伏せて、急きょ結婚式を挙げさせた。そして約束通りシラクスへ戻ろうとするが、川が氾濫して橋が流されていたり、山賊に襲われるなど、アクシデントにみまわれ、期限の日没までに王城にたどり着くのが困難な状況におちいってしまう。精根尽きて一度はあきらめかけたメロスだが、勇気を奮い起こし、走り続けて、セリヌンティウスの処刑が行われようとしていた刑場にかけこんで、ギリギリの間際で執行をくい止める。
友との再会を果たしたメロスは、いちどだけ「約束」をあきらめかけたことがあったことをセリヌンティウスに告白し自分を殴らせ、そのセリヌンティウスも一度だけメロスを疑ったことがあることを告げてメロスに殴らせる。そして2人は抱擁しあう。それを見ていたディオニス王は2人に感化され、自分の考えを改める旨の発言をし、群衆から喝采を浴びる。

    *    *    *    *    *    *

メロスとはなんと軽率&身勝手で自己中心的な迷惑者なのだろう──読みながら、そう感じた。
《友の命を救うために、メロスは自分の死をもいとわず、困難を乗り越えて約束を果たそうとし、勝利した》ということが、誇らしげに語られているが、もともとこの困難はメロス自身が招いたものである。不用意に王城へ乗り込まなければ、こんな騒動は起こらなかった。分別があれば充分に避けられた不幸だ。クライマックスで、ボロボロになりながら走り続けるメロスは自分を《勇者》だと叱咤激励しているが、とんだ《愚者》だ。このエピソードは自ら招いた不幸に飛び込んで活躍してみせるマッチポンプ英雄伝だ──読み終えて、そう感じた。

ツッコミどころは少なからず。物語の展開にそっていえば、まず、老爺ひとりの話から「王が猜疑心のために人を殺す暴君」だと信じ込み、真偽を確かめようともせずに「生かしておけぬ」と決意して王城へ乗り込むという行動が軽率すぎる。
ディオニス王を殺す決意で、無策のまま王城へ乗り込んだメロスは、当然のことながら、あっさり警備に捕まってしまい、逆に自分が処刑されるはめになるのが、なんとも「浅はか」だ。決意した使命の遂行はどうするのか。使命の重さに比べて行動が軽い。

作品の構図としては《性悪説のディオニス王(悪)》vs《性善説のメロス(善)》という対決の図式で、「人間はもともと私慾の塊だから信じてはならないのだ」と説くディオニス王の対極に「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳だ」と主張するメロスが位置づけられている。しかし、「根拠もなしに疑う」ことと「根拠もなしに信じる」ことは同じ。どちらも信憑性の視点を欠いた危険なとらええ方だ。「根拠のない思い込みに支配されて判断する」という点で、ディオニス王とメロスは同類に見えてしまう。

ディオニス王はメロスに「きれいごとを言っていても、はりつけになる時には命乞いをするに決まっている」という旨のことを言い、メロスは「死ぬ覚悟はできている。命乞いなどしない」と返す。メロスは自分には死ぬ覚悟があるが、妹に結婚式を挙げさせてやるために3日だけ猶予が欲しいと要求。自分は必ず戻ってくると「約束」するが、ディオニス王はメロスの言葉を一笑に付す。メロスはムキになり、「死ぬために戻ってきて、自分が正直者であることを王に認めさせてやる」という強い思いにとらわれるようになる。このあたりで、問題意識のピントがズレはじめる。
当初、メロスの怒りの発端は、猜疑心から人々を次々に処刑する(その日も6人殺されたという)暴君を許してはおけぬというところにあったはずだ。不当に人を殺す王を倒すことが「正義」だと信じて王城に乗り込んだのではなかったのか。なのに、ディオニス王に嘘つきだと決めつけられてからは、メロスは「約束」を守って自分が正直者であることを証明することばかりに心を奪われていく。メロスにとっては理不尽な処刑で人々が殺されている問題は、もうどうでもよく、自分の誇りを守ることばかりが頭の中を占めている。社会の正義よりも自分のメンツが大事だという過剰な自意識は、勇者のものではない。真の勇者であれば、自分の体面を汚してでも人の命を守ることを優先して考えるはずだ。しかしメロスは友の命を危険にさらしてまで自分の誇りを知らしめようとしているのが、いやしく見えてしまうのである。

無分別に王を殺しに行ってはりつけにされることになったメロスだが──これは自らの愚かさが招いた結果ともいえる。メロス自身が軽率のツケを払うのは自業自得だが、自分の私用(妹の結婚式)のために、親友を巻き込み、その命を危険にさらす人質にするという提案をメロスの側から王にもちかけるというのも、ひどく身勝手で迷惑な話だとあきれた。作品では「友情」や「信頼」を命がけで守ったメロスを賛美しているが、そんな「友情」や「信頼」などあったものではない。
メロスは自分の都合(3日の猶予の要求)を通すために、迷うことなくセリヌンティウスを身代わりに差し出してしまうが、セリヌンティウスにだって生活や都合があるだろう。自分の都合のことばかり考え、友の都合などおかまいなし。自分の失態で何の落ち度もないセリヌンティウスを巻き込むなど、あってはならないのに平気でそれをしている。自分の都合を通すために友の命を危うくする人質提案を、ためらうどころか自ら進んで持ちかけたメロスはつくづく身勝手て自己中心的な男である。

セリヌンティウスを人質にして解放されたメロスは村へ帰って、その夜に妹の婚約者に会い「あす結婚式を挙げろ」と迫る。仕度ができていない婚約者は当惑し「ブドウの季節まで待ってくれ」と懇願する。前日の夜になって「あす結婚式」と言われても婚約者はもちろんその親族や参列する人たちだって困るだろう。そうした他人の都合などかえりみずにメロスは自分の都合を押し通す。ここでも他者への配慮はみじんもみせず、迷惑を強いるうしろめたさも感じていない。ことが自分の思い通りに運んだことに満足しているだけである。

2日目に妹の結婚式を実現したメロスは3日目に「約束」をはたすべくシラクスへ向かう。しかしアクシデントに見舞われ、「約束」が実現不可能かと思われる事態に陥ってしまうわけだが、厳しい限界状況の中で、自分を「勇者」と叱咤激励するくだりは、自ら招いた(それも何の落ち度もない友人をも巻き込んでの)不幸であるのに、悲劇のヒーローになりきって陶酔しているようにも見える。
いよいよ追いつめられたメロスだが最後の力をふりしぼって、ギリギリのところで「約束」をクリア。王を含む多くの人たちの注目をあびる中でメロスは「名誉」を勝ち取ってみせることができた──この自己顕示的達成感はナルシストのカタルシスのように思えてしまう。

この作品で描かれているメロスの自意識──自己中心性、身勝手さは幼稚さ由来のものではなかろうか。自分の主張を通すために「死んでやる」とムキになるのは、幼稚な我がままに見える。
しかし太宰治は『走れメロス』の中で「誇りのために死ぬことができる」ということを、気高いこととしてアピールしており、それを劇的にみせることに腐心しているように感じる。これがメロスの(太宰治の)やりたかったことなのだろう。そのためのお膳立てにこのストーリーが選ばれた。ナルシストのカタルシスを満足させるための苦労話。しかし、これはメロスが不用意に王城へ乗り込まなければ、起こらなかった騒動だ。分別があれば充分に避けられたはずの騒動だが、「誇りのために死ぬことができる」ことを誇らしげに訴えるために、騒動が必要だったのだろう。

また本来本題とされるべきテーマ=《不当な圧政》問題とはずっとズレたところ(メンツにこだわる自意識次元)で話が進められていたのに、最後にあっさりディオニス王が改心して群衆から喝采を浴びて「めでたしめでたし」というのも、とってつけたようで、ご都合主義を感じる。この王に殺された者たちがそれでむくわれるわけではないだろうに。しかし、作者にとっては、メロスが命をかけて友を救い、名誉を守ったことが大事だったのだろう。

自分を英雄に仕立てるための苦難の状況をみずから作っておいて、その中に身を投じてボロボロになりながら、死ぬ覚悟で自分の勇気や誇りをアピールしてみせる──それが《マッチポンプ英雄伝》という印象につながって、僕は素直に共感することができなかった。

『走れメロス』を読んだ後に、作者はどんな人間だったのかといぶかって、ちょっと調べてみると、太宰治は井伏鱒二に師事していたらしい。これも「会ってくれなければ自殺してやる」と井伏を手紙で脅し、半ば強引に弟子入りしたらしい。実際に太宰治は自殺(愛人と心中)しているわけだが、何度も自殺未遂や心中未遂を繰り返している。最初に自殺未遂を起こした翌年に初めての心中未遂を起こしており、この時は太宰だけが助かって、相手の17歳の娘は死んでいる。最後に心中を遂げた時には、井伏鱒二も心中現場に駆けつけて捜索に参加していたという。さんざん迷惑をかけ恩義のある恩師に対して太宰は遺書で「井伏さんは悪人です」と書き残していたというのだから、ひどい話である。
また、太宰治は芥川賞の選考委員だった佐藤春夫に自分に賞をくれるよう懇願する手紙を出しているが、その中でも受賞できなければ死ぬとほのめかしていたようだ。
「死を持ち出して自己主張する」のは太宰治の常套手段なのか。自意識が高く周囲に迷惑をかけてきた人物像が、作中のメロスの自意識と重なる気がした。「死んで誇りを守らんとするメロス」にも太宰の心理癖のようなものが投影されていたと考えると納得できなくもない。

また、太宰の親友だった作家の檀一雄は『小説 太宰治』という作品の中で、『走れメロス』について触れており、「おそらく私達の熱海行が少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と記しているらしい。太宰と檀が、熱海で放蕩三昧に明け暮れ酒代や宿代の支払いに窮したことがあって、太宰は檀を人質として宿に残し、東京へ借金をしに戻ったという。しかし何日待っても太宰は戻って来ず、しびれを切らした檀は借金取りと上京。太宰は井伏鱒二の家で将棋を指していたという。そこに踏み込んで怒鳴る檀に、太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」と言ったという。人質で待つ身の檀がセリヌンティウスで、待たせる身の太宰がメロスというわけだ。このエピソードは檀一雄が面白おかしく書いたものなのだろうが、太宰治の「友情」や「信頼」に対する認識はその程度のものだったのだろう。『走れメロス』で描かれていた「友情」や「信頼」が空々しく感じられるのも合点がいくところだ。

実際に読んでみる前まで《崇高な話》というイメージがあったために、よけいにギャップを感じることになったのかもしれないが、そんなわけで、僕は『走れメロス』を読んで、メロスの自意識に「これは勇者のものではない」ものを感じて共感することができなかった。しかし、これが太宰治という作家の自意識を投影して書かれた机上の英雄伝だと考えれば、妙に納得できる気もするのである。

以上が僕の率直な感想なのだが、くさしてばかりでは心苦しいので、新潮文庫『走れメロス』の巻末にある奥野健男の解説から『走れメロス』に関しての評価を紹介しておくと──、
「知性と感覚と思想とが結合した日本文学には珍しい格調高い好短編」「古伝説の素朴で強い骨格をいかし、その中に現代人の含羞や自意識を折り込み、友情と信頼をうたいあげた、太宰文学の明るさ、健康さを代表する短編」「希有の才能を感じさせる傑作」と賞讃してある。
また「『走れメロス』は「新潮」昭和15年5月号に発表された。ギリシアのダーモンとフィジアスという古伝説によったシラーの『担保』という詩から題材をとっている。人間の信頼と友情の美しさ、圧政への反抗と正義とが、簡潔な力強い文体で表現されていて、中期の、いや太宰文学の明るい健康的な面を代表する短編である。多くの教科書に採用され、またしばしばラジオなどで朗読され、劇に仕組まれ、太宰の作品の中でもっとも知られている」とも記されてあった。

巻末の解説には収載作品を後押しするという役目もあるのだろうが、世間的には、きっと解説にあるような評価なのだろう。



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投稿した画像が暗くなる→解消法

FC2ブログに投稿した画像が暗くなる不具合
少し前から気になっていたのだが……FC2ブログに投稿する画像が、ナゼか元のものより暗くなってしまう。

以前、Yahoo!ブログ(2019年12月にサービスを終了)に投稿していたデータはそのままFC2ブログに移行(インポート)していて、これは問題ないのだが、FC2ブログで記事を投稿するようになってからは、画像はファイルアップロードで投稿してから記事に埋め込む形をとっている。こうして記事に添付した画像が暗く、つぶれ気味になる。

同じ画像を別のサイトにアップして比較してみると、やはり表示される画像はFC2ブログのものが暗い。

そこで、この件に関して《お問い合わせフォーム》から問い合わせてみた。
問い合わせを送信したのが6月11日の夜。13日に確認中などでしばらく待つようにとの返信があり、16日未明に回答メールが届いた。

画像のExifを全て削除した状態で、アップロード画面の「画像に含まれるExif情報を削除する(JPEG形式のみ)」のチェックを外してアップロードをすると、Jpeg の再圧縮による劣化を避けることができるとのこと。

とりあえず、以前の記事で暗さが気になっていたいくつかの画像を《ファイルアップロード》画面の「Exif」のチェックを外して投稿してみると解消した。

「Exif」にチェックが入っていた(デフォルト)ときの画像⬇
02ミラクルK1

「Exif」のチェックを外して再投稿した画像⬇

02ミラクルK1再
真夏日のマスクは意外に楽!?から⬆

「Exif」にチェックが入っていた(デフォルト)ときの画像⬇
01銅猿葉虫A

「Exif」のチェックを外して再投稿した画像⬇

01銅猿葉虫A再
メタリックな美麗昆虫10種から⬆

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真夏日のマスクは意外に楽!?

01冬夏マスク

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策のマスク着用が一般化した昨今。
僕は花粉症(スギ・ヒノキ)なので毎年2月〜4月頃にはマスクを着用してきた。今年も新型コロナ騒動以前に、すでに今シーズン分のマスクを買っていたので、世間のマスク不足や高騰の影響は受けずにすんだ。マスク着用の日々にも違和感はない。
しかし、今年は花粉症の時期を過ぎてもマスク着用の日々が続いている。この時期のマスク着用は未体験ゾーンである。気温が高くなると「マスク着用で熱中症のリスクが高まる(ので注意が必要)」といった報道もあったので、夏日・真夏日には、わずらわしいのだろうなと覚悟していた……のだが……、意外にも、さにあらず。
30℃超えの日中にマスクをつけて外出しても、意外にラク──というより、むしろ花粉症の時期よりも快適さを感じている。というのも、冬に不織布マスクをして外を歩くと吐く息がマスク内で結露し、水を吸収しない不織布の内側は水滴がたまってはなはだ不快な状態になる。これに比べれば真夏日のマスクの蒸れなど、はるかにマシという感じがする。
また、それよりも困るのが、マスクを着用したままメガネをかけるとレンズが曇ることだった。マスクのフチから排出される暖かい息が、冷えたメガネ表面に細かい水滴を作り、これが乱反射を起こしてレンズを白く濁らせる。それでこれまでは「マスクをしていると老眼鏡が使えない」という認識でいた。ところが、気温が高くなってみると、マスクをしていても老眼鏡が曇らない!──これはかなりありがたいことに感じられた。
「夏マスクはうっとうしい」と覚悟していただけに、拍子抜けというか……むしろラッキー感すら覚えていたりする。
まだ東京アラート発動中だったこともあり(自粛を継続していたので)汗だくになるほどには歩いていないが、いずれにしても夏マスクのうっとうしさは、大したことはないだろうという気がしている。

熱中症リスクうんぬんの報道もあったが、「夏にマスクを着けて歩くのはうっとうしそうだ」と思っていたのは、昔、自作のヒーローマスクを被ってビデオ撮影をしたことがあって、「顔が覆われると、予想していた以上に暑苦しく感じる」という経験があってのことである。
ジョーク感覚で作った『ミラクル☆スター』がえび天で採用されたのに気を良くして第2弾を企画したが、ケガで中断。急きょ企画変更して小学2年生の変身ヒーロー『ミラクル☆キッド』を撮ったのが夏だった。
02ミラクルK1再
ケガを負って闘うことができないミラクル☆スターに代わって誕生した正義のヒローローは小学2年生──木を蹴ってカブトムシを落とす少年のキック力が買われて正義の戦士ミラクル☆キッドに抜擢されるという設定。カブトムシはミラクル☆キッドのピンチを救うアイテム(カブト手裏剣)としても使われる。
03ミラクルK2再
というわけで、設定も撮影も夏であった。
当然長袖に手袋・マスク着用は暑いだろうと覚悟していたわけだが、予想していた以上に暑苦しかった。それぞれのカットは短かったのだが、1カット撮るたびにマスクを外して木陰で休憩。水分をとりながら休み休みの撮影だった。暑い盛りにヒーロー(or怪人)マスクをつけるのは予想外にしんどいことを実感した。

ヒーローのマスクに比べれば、薄くて空気を通す不織布マスクは楽勝だ。
花粉症でマスクをつけ慣れている人にとっては、夏マスクにもあまり抵抗がないのではないかと思われる。そうでない人には、やはりうっとうしいのかもしれないが……これからの時期は、うっとうしさを上回るファッションアイテムとしての付加価値が加えられることによって、マスクの愛用化が進む(利用率が高められる)のではないかと個人的には予想している。そんな「オシャレ・マスク」と同時に、面倒な化粧をせずに外出できる「無精マスク」も定着してマスク着用が常態化していくのではなかろうか。

子供向けには、ウルトラマンや仮面ライダーの口元をデザインしたマスクだとか、ロック好きにはローリング・ストーンズのベロ・マーク付きのマスクなんかが登場しそうな気がしているが、まだ僕は見たことがない。



ミラクル☆スター〜実写版〜※ひとりで撮ったスーパーヒーロー・アクション
ミラクル☆キッド〜実写版〜※小学2年のスーパーヒーロー誕生
『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』通称『えび天』出演覚書
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アマビエは龍宮の使い!?

01龍宮使@波間
新型コロナ禍の中で「疫病退散」祈願の象徴として急浮上し、描かれ続けている妖怪アマビエ。僕はその正体──起源は神社姫(やはり海中から現れ予言をした妖怪)経由で深海魚リュウグウリツカイにあるのではないかとみている。アマビエは目撃情報が江戸時代後期の瓦版に1例記録があるのみ。容姿に関する情報は目撃した役人が描いたとされる絵の写し(京都大学附属図書館収蔵の木版画)しか残されていない。これを参考に多くの人がイメージを広げてアマビエを描いているわけだが、神社姫やリュウグウリツカイとはかけ離れたものが多い。
そこで、僕が考えるリュウグウリツカイ風味のアマビエ(アマビエ風リュウグウノツカイ?)を描いてみた⬆。一般のアマビエのイメージとはずいぶん違う!?
アマビエは情報伝達の過程で誕生した虚構の存在(妖怪)だと考えられるが、モデルとなった(と僕が思っている)リュウグウノツカイは実在の存在で、こんな姿⬇。

こうして見るとリュウグウノツカイは瓦版に残されているアマビエ(の図)とはかけ離れている(しかし神社姫には似いている)⬇。
02予言妖怪比較
アマビエと神社姫は、ともに長い髪を持ち体は魚──そして疫病の流行を予言をしている点で共通している。しかし、図で見る限り全体の印象はずいぶん違う。
アマビエの図でまず目をひくのが、飛び出した口だ。この特徴をくちばしととらえて描かれた鳥風のイラストも多い。ところが、リュウグウノツカイの口も、開くときには前方に飛び出す仕組みになっている。

03竜宮の使い口
※YouTubeの【リュウグウノツカイの謎に迫る】より⬆。

アマビエの図は開口したリュウグウノツカイを描いたものなのではないか……というのが僕の想像である。
また、リュウグウノツカイ(もしくは神社姫)と大きく異なるアマビエの体型だが……〝アマビエの図〟には「ズンドウの体/3本の脚(もしくは尾びれ)で波打つ海面の上に直立している」かのような姿が描かれている。龍のように細長い体型のリュウグウノツカイ(もしくは神社姫)とは、まったくの別物に見える。しかし〝アマビエの図〟で描かれているのが「波間から海面上に頭を持ち上げたリュウグウノツカイ(もしくは神社姫)の体の一部」と考えれば、にわかに見方も変わってくる。
そもそもアマビエが「波打つ海面上に3本の脚(もしくは尾びれ)で立っている」というのが不可解だ。脚もしくは尾びれと解釈されている部分は、じつはそうではなく、海中から伸び上がった体にひっぱり上げられた海面のふちを表現したもののように見えなくもない(体の大部分は海面下にあって描かれていない)。
04アマビエ龍宮使
目撃者にして、アマビエの姿を写したという役人が描こうとしたのは、実はこのような⬆イメージだったのではないだろうか?
あらためてアマビエの図とともに記されている記事(京都大学附属図書館収蔵資料の瓦版)をおさらいしてみると、内容はおおよそ次の通り。


肥後(熊本県)の海中に毎夜光るものが出るので役人が行ってみると、図のような者が現われた。「私は海中に住むアマビエと申すものである。今年から6ヶ年のあいだ諸国は豊作になる。しかし病が流行するから、早々に私を写して人々に見せよ」と言って海中に入った。(掲載された図は)これを写した役人から江戸へ届け出された絵である。
弘化三年(1846年)四月中旬


〝光る〟という特徴をもつアマビエだが、リュウグウノツカイも光を反射して銀色に輝くという。実はリュウグウノツカイには鱗はないそうだが、アマビエや神社姫には鱗が描かれている。これは「体は魚」ということを表す記号として描かれたものだろう。同様に記号としての表現で、海面から伸び上がる体に引っ張りあげられる水のふちをギザギザに描くことは大いに考えられる。これが3本の脚(もしくは尾びれ)と誤認されて今のアマビエ像が確立・浸透したのではないだろうか?

アマビエ誕生の真相!?
アマビエについての僕の想像をまとめてみると──、
海中で光るものを確認しにいった役人が見たのはリュウグウノツカイだった。その姿を見た役人は「これは以前から伝えられている神社姫だ」と思った。それで、特徴の長い髪(背びれの一部)がわかる海面から頭部をのぞかせた絵を描き、神社姫が語ったとされる伝承とともに記録した。このとき、妖怪名について、やはり予言をする妖怪アマビコと混同して「神社姫」とすべきところを「アマビコ」と記してしまう。この情報が届けられた江戸の瓦版の記者(編集者)が「アマビコ」を「アマビエ」と誤読して、神社姫の予言(伝承)を「アマビエ」のものとして記事にした……。あるいは、《予言をする妖怪「アマビコ」なら脚は3本》という認識があって、製版(瓦版は木版画)のさいに、役人が描いた図を「3本の脚もしくは尾びれ」に見えるような修正が加えられたのかもしれない。妖怪名については、製版の段階で「コ」が「エ(ヱ)」と間違えられてしまった(誤植にあたる?)可能性もなきにしもあらず?
どの段階で神社姫やアマビコとの混同や錯誤・誤記(誤植?)が起こったのかはわからないが、目撃者(絵を描いた役人)→記事を書いた記者(編集)→木版を作った人(製版)へと情報が伝達する過程でアクシデントが発生し、新たな妖怪「アマビエ」が誕生。その情報が拡散し、記録として残ることになったのではないか……。
これが、僕の想像するアマビエ誕生のストーリー(?)。もちろん単なる素人推理で確証はない。どんな解釈が成立しうるか……という脳内シミュレーション・頭の体操である。



妖怪アマビエの正体!?
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アマビエの「疫病退散」はウソ!?
ツチノコの正体!?
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トイレでタバコを吸わないで(ショートショート)

トイレで煙草を吸うと、おそろしいことが起こる……!?

01トイレ煙草1
02トイレ煙草2改
03トイレ煙草3改
04トイレ煙草4
05トイレ煙草5改

これは以前、某氏の日記で紹介されていた実際にあったトイレの貼紙(作中の文面は一部変更)から妄想した話。《トイレで喫煙》する不届きな愛煙家たちに対して、貼紙主は、どんな対抗措置を用意するのだろう……そう考えて、〝相応の報復〟──《喫煙室で排便》を思いついたしだい。
だいぶ前に4コママンガならぬ4コマ写真で記事にしたネタだが、それとは異なる演出で、あらためてショートショートの形にまとめてみた。四百字詰原稿用紙にして5枚ほどになった。例によって作品は縦書き画像にしてある。

※最後の部分に手直しを加えました(2020.06.06)



トイレの貼紙(4コマ写真)
実録『怪喜!笑い袋爺』(本当にあったおかしい話)
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妖怪アマビエの正体!?

妖怪はどのように誕生したのか
僕はお化けや幽霊・妖怪のたぐいが実在しているとは毛の先ほども信じていない。といっても、まるっきり関心がないというわけではない。実在するとは思えないモノが、どうしてして生まれ、なぜ伝承されてきたのか──という点には興味を感じる。
実体はないのに情報だけが伝播拡散する──これは不思議なことだ。この「不思議」がどのように成立(実現)したのか考えてみたくなる。
これは、昆虫の姿や行動を見て不思議に感じ「どうしてこんな姿や行動が成立したのだろう?」と想像をめぐらせてしまうのと同じ。実在しない妖怪の伝承が、どのように形成されたのか──「不思議」に合理的な解釈を求めてみたくなる。
01昆虫の不思議

予言する妖怪・アマビエと神社姫
最近人気急上昇中の妖怪アマビエは、新型コロナウイルス感染症のパンデミック禍中で「疫病退散」のアイコン的存在として祭り上げられた妖怪だ。江戸時代後期に現れ「私は海中に住むアマビエと申すものである。今年から6ヶ年のあいだ諸国は豊作になる。しかし病が流行するから、早々に私を写して人々に見せよ」と語ったとされている。これにならって、疫病退散祈願のアマビエを描いた絵がネット上に増殖し、アマビエグッズも出回る昨今である。

実はアマビエの目撃記録は1例しかなく、それ以前に同様の予言をした妖怪の記録はいくつもあるらしい。神社姫もそのひとつで、長い髪に龍の体といった絵が残されている。海から現われた神社姫は「我は龍宮よりの使者・神社姫である。向こう7年は豊作だが、その後にコロリという病が流行る。しかし我の写し絵を見ればその難を逃れることができ、さらに長寿を得るだろう」と語ったという。
僕はアマビエの起源はこの神社姫を経由してリュウグウノツカイ(実在の深海魚)にあるのではないかとみている。

長い髪をはやしているかのようにも見える珍怪魚リュウグウノツカイ──龍のようなこの姿を目にした昔の人はさぞかし驚いたことだろう。写真や映像の記録手段がなかった時代──その姿を記録すべく目撃者が描いた絵を、他者が目にしたら「長い髪をはやした人面に龍の体をもつ妖怪」に見えたに違いない──これが「神社姫」の発端ではないかと僕は想像している。
02龍宮の使い
もちろんリュウグウノツカイが人間の言葉を話すことなどあり得ないから、神社姫が語ったとされるセリフは人による創作であることは明白だ。
それでは《疫病流行の予言》と《神社姫の姿を写した絵を見ることで難を逃れ長寿を得る》という話は、どういう経緯で付加されることになったのだろう?

情報は伝播の中で進化する!?
科学的な尺度が乏しかった昔の人は、生活が影響を受ける吉凶の判断・前兆現象には関心が高かったろう。深海魚であるリュウグウノツカイが目撃されることは珍しく、めったにないことが起これば吉凶に結びつける風習はありがちな気がする。じっさいにリュウグウノツカイの出現を地震の前兆と結びつけた俗説もあるとか? 東日本大震災(2011年3月)の前(2011年1〜2月)にも日本各地でリュウグウノツカイが目撃されていたそうだ。
昔の人が珍しい怪魚の目撃情報とその後に流行った疫病を結びつけて「怪魚が現われたのは凶事(疫病流行)の前兆だったのかもしれぬ」と考えても、ちっとも不思議はない。こうした流れで「怪魚は疫病を予言しに現れる」というストーリーが生まれ、リュウグウノツカイの目撃情報があると、人々の噂になったり瓦版に取り上げられたりしていたのかも知れない。
瓦版はこうしたネタにとびついたろう。しかし「疫病を予言する妖怪が現われた」というだけでは、その予言を知ったところで運勢を変えることはできないのだから何の足しにもならない──そう思って瓦版の購入をひかえる人も多かったろう。
これが、やがて訪れる災難を回避する方策が載っているとなれば──厄よけの効果がある、ありがたい瓦版ならば買い求める人は増える。そうした事情から瓦版情報には「情報の価値を高める演出(掲載された図に除災効果がある等)」が加えられ、それが広まり、また「記録」として残ったのではないか。

情報は伝播力の強いものが優勢となる。伝承も伝播拡散をくり返す中で、よりキャッチのよいバージョンが選択的に生き残り《進化》する──そんな現象がありそうな気がする。元となるエピソードは風化し、情報の価値を高める演出がほどこされたバージョンが残る……そんな情報進化(?)の中で妖怪が生まれ、記録として残されてきたのではないかと想像する。

リュウグウノツカイを起源とするうわさ話にもこうした力学(?)が働き、情報価値を高める方向に誘導されてく過程で《予言と厄よけの神通力》が加えられたのではないだろうか? 同様の理由で、神秘性を高めるために珍怪魚自身に「竜宮からきた」と語らせた……細かいところはわからないが、おおむねこうした背景があって、神社姫の伝説が生まれたのではないかという気がする。
実在する深海魚にリュウグウノツカイという名前がつけられたのも、「龍宮の使い」を名乗ったという神社姫(姿が似ている)の伝承にちなんでのことだったにちがいない。

アマビエの正体
リュウグウノツカイを起源に生まれた神社姫が、アマビコを経てアマビエ(アマビコを誤読しての誤記?)になったのではないか……僕はそんな風に考えている。
ただ、残された資料を見ると、リュウグウノツカイとアマビエではプロポーションが大きく異なっている。
03アマビエ神社姫
図を見比べるとアマビエと神社姫の姿はまるっきり別のものに感じられるが、〝波の上に直立〟しているアマビエが、実は〝波打つ海面から頭を持ち上げている神社姫〟だったという解釈はできないだろうか? よく考えてみれば波の上に3本の脚で立っているというのもおかしなものだ。3本の脚のように描かれているのは、実は神社姫が上半身を海面から突き出した時の〝ザバッ(体に引っ張り上げられる水のふち)〟を表現しているようにも見える。
アマビエは口が飛び出しているが、リュウグウノツカイの口も開く時には飛び出す構造になっている。アマビエは光るとされているが、リュウグウノツカイも光を反射して銀色に輝くらしい。アマビエの髪はリュウグウノツカイの頭頂部にある長いひれのようにも見える。

「アマビエ」はリュウグウノツカイ起源の「神社姫」──それで予言めいたセリフも受け継がれることになったのではないか……。リュウグウノツカイを目撃あるいは記載した人が「神社姫」の伝承を思い起こし、同様に予言をする妖怪「アマビコ」と混同して、予言妖怪の記事にした……そして「アマビコ」の「コ」を「エ」と誤認(誤読)していたことから「アマビエ」と記載されてしまった……。
あくまでも個人的な想像にすぎないが、そう考えると、いちおうなんとか筋は通るのではないかという気がするのである。



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