2019年12月の記事 (1/1)

同人誌回顧録(freemlから)

Yahoo!ブログと前後してfreemlもサービス終了
先日(2019年12月15日)、10年ほど利用していたYahoo!ブログがサービスを終了した。これと前後してYahoo!ブログ以前に利用していたfreemlもまた、今月(2019年12月2日)でサービスを終了している。Yahoo!ブログ時代の記事はFC2ブログに移行済みだが、freemlの記事はそのまま消滅した。活かしておきたいと思う内容はYahoo!ブログの方に投稿し直しているので、freeml消滅についてはあまり気にしていなかった。公開の場から消滅はしたが、投稿時の文書は保存してある。しかし改めて振り返ってみると、懐かしいものもあって、記事として残しておいてもいいかなと思えるものもあったりする。
前置きが長くなったが、今回はそんなfreemlの中から、同人誌・個人誌を作っていた頃の覚書を再掲載してみる。おそらく2009年1月に投稿したものだったはずだ。freemlでは6回に分けて投稿していた記事(文章)を一挙掲載。


①同人誌の頃〜回顧録〜
②《漁人》《むい》の頃〜はじめての同人誌・ガリ版印刷篇〜
③《窓》の頃〜初めての主宰同人誌・軽オフセット印刷篇〜
④《アルファ》の頃〜児童文芸研究会〜
⑤《MON48》の頃〜光瀬教室〜大衆文芸の書き方〜
⑥《チャンネルF》の頃〜ワープロの登場〜コピー誌(紙)篇〜

①同人誌の頃〜回顧録〜
今はこうして自分のタイプした文を活字表記でき、多くの人に見てもらえる場に気軽にアップする事ができるが、昔は自分の書いた文章が活字になるということも、多くの人に読まれる機会を得るということも容易には叶わなかった。だから、趣味で文芸作品を書く人は、「活字化」や「発表の場」に憧れる。そこで【自費出版】や【同人誌】を考えるわけである。
僕が作品を書き始めた頃も、やがては自費出版をしてみたいという夢を抱いていた(商業出版は到底無理だと思っていた)。実際に書きかけの長編童話の原稿を持って印刷所をめぐり、冊子の体裁にするのにとれだけ予算が必要か見積もりを立ててもらったこともある。ワープロなど無い時代だから、活字を組むだけでかなり金額がかかる。学生だった僕にはちょっと手が届かなかった。
単独での【自費出版】は難しい……。そこで【同人誌】を考えた。多くの人で制作費を分担すれば、個人の負担は軽くなるはずだ。また、同じような志を持った人たちが、何を考え、どういう作品を書いているのかにも興味があった。
そうして踏み出した同人誌だったが──もう古い話になってしまった。
忘却の彼方となってしまう前に回顧録として記しておく次第。


②《漁人》《むい》の頃〜はじめての同人誌・ガリ版印刷篇〜
01漁人むい
当時投稿作品を多く載せていた『詩とメルヘン』(サンリオ)という雑誌があった。この読者投稿欄(1976年3月号)に「同人誌を一緒につくりませんか」という呼びかけが載っているのを見つけ、これに応募してみたのが高2〜高3になる春。同人誌に参加するのは初めてだった。
この呼びかけには全国からたくさんの参加があったらしい。しかし呼びかけた主宰者が、なんとしたことか活動不能の事態となってしまい、初めての同人誌活動はスタートからつまずくことになる……。
せっかく多くの人たちが集まったのに何もせずに解散してしまうのは惜しい……そう感じた人たちの中から有志が立ち上がり、同人会としての運営を継続する事になる。僕も初参加で何も判らないまま、いきなり運営スタッフとしてお手伝いする事になった。スタッフ間で密に連絡を取り合い、何度も会合を設け、とりあえず創刊号を出す──それを当面の目標に同人誌活動はスタートした。

同人誌名は《漁人(すなどりびと)》と決まり、実現可能な方法として、創刊号(1976年)はガリ版印刷で出す事になった。
「ガリ版(謄写版)」はかつて学校のプリント等で普通に使われていたが、国内ではもはや絶滅状態!? その存在を知らない人も増えたことだろうから簡単に原理を説明しておく。
インクがしみないように表面加工されたロウ原紙(これが原版になる)をヤスリ板の上に置き、鉄筆と呼ばれる先端が尖ったペンで字や絵を描く。すると鉄筆で描いた部分のコーティングが削られ、この部分をインクが通過できるようになる。
このロウ原紙をネット付きの枠に貼付け、ロウ原紙の下に紙をセット。そしてロウ原紙(を貼ったネット)の上でインクをつけたローラーを転がす。インクはロウ原紙の表面全体に広がるが、コーティングされた部分ではインクを通さず、鉄筆でひっかいた部分からのみインクがしみて下の紙に印刷されるという仕組みである。発明者はトーマス・エジソンだそうだ。印刷の種類としては、プリントゴッコやシルクスクリーン印刷などと同じ孔版印刷と呼ばれるものである。

さてスタッフは同人会員から原稿を集め、手分けして原紙を切った。当然手書きで1文字1文字書いていくわけである。「活字化」の夢は先に伸びたが、「発表の場」を実現できるのは嬉しい。僕らは労力をいとわず創刊号の実現めざして頑張った。当時は、ヤスリ板&鉄筆不要の「ポールペン原紙(ボールペンで書ける)」なる便利なものがでていたので、これを使用したのが、それでもそれなりの労力と時間を要した。
手軽に安価でできるのがガリ版印刷の利点だが、キレイに印刷する為には原紙を切るさいにいくらかの技術を要する。筆圧が弱ければ原紙のコーティングが充分削られず、印刷がかすれてしまう。逆に強すぎると原紙そのものに穴をあけてしまい、インクが必要以上にもれて紙を汚してしまうことになる。このあたりの加減が経験の無い人には難しい。
せっかく切ってもらった原紙が印刷時点で不充分だった事(印刷した文字がかすれて読めない)が発覚し、やり直しになったページもあったように記憶している。

そうした皆の努力で、なんとか自分たちの同人誌を作る事には成功した。
が、出来上がった創刊号は、レイアウトはボロボロ(詩が見開きに収まらず、ページをまたいでしまったり)、落丁があったりなど、苦労をした割には失態も目立つものだった。制作にタッチしていないメンバー──作品だけ提出してステキな同人誌が仕上がってくるのを楽しみにしていた人たちにしてみれば、ちょっと(かなり?)ガッカリだったかもしれない……。
同人誌のできとしては──冊子の体裁も、発表した自分の作品も今ひとつだった感は否めないが、僕としては同人誌活動に<参加>したことで感じたり考えたりできたた事も多く、その意味においては意義深かったし、ある意味充実していた。
この時期の試行錯誤や反省は、その後の同人誌活動や創作活動にとって、そして大げさに聞こえるかも知れないが人生にとっても影響を与えたといっても過言ではない。

創刊号が完成した後、合評会のようなものがあったが、内容はあまり覚えていない。あまり噛み合なかったのではなかったか……という印象がある。
同人誌の方向性が決まらずに人が集まってきたので、作品のジャンルや傾向がバラバラだったこと、自分で書くのは好きだけど、批評したりされたりすることに馴れていない人・関心が薄い人が多かった気がする。
一方「詩を書くことに生命を懸けている」と豪語する会員もいて、喫茶店でテーブルを叩いて激高されたこともあった。彼にとって詩は神聖なもので、「お遊び」程度に考えてもらっては困る──みたいな事を言っていたように思う。きっと求めていた同人誌はもっと崇高なものだったのだろう。彼は捨て台詞を吐いて去って行った。

僕自身は創作のなんたるかが全く判っていない頃で、しかしながらこの時期、よく友人(小説版ミラクル☆スターの悪島)のプレハブ部屋に泊まり込み、徹夜で作品について語り合ったりしていた。自分が温めいてる作品の構想だとか、好きな作品のどういった点が良かったなど、飽きる事無く話していた。
「<描写>と<説明>の違いは<風景画>と<地図>のようなもの」みたいな話を夢中になってしていた記憶がある。
当時僕が目指していたのはファンタジー──いわゆる(?)空想物語(現実次元の物語に対して)だったが、《漁人》のメンバーの中にはやはり非現実の起こる空想物語を描くメンバーが何人かいた。
自分ひとりで描いていたときはファンタジーとは何か?──などと深く考えた事はなかったが、同じ空想物語を描く人たちが現れたことで「僕の描こうとしてるものとは、また違う」ことに気づき、他者の描くものとの違いを考えることで、自分の目指すものを自覚するようになった部分もあった。

「例えば、主人公の目の前にオオカミが飛び出してきて、
 『お前を食べちゃうぞ!』と言った時──、
 主人公がまず《オオカミがしゃべる》点に驚くのが(狭義の)ファンタジー、
 《オオカミに食べられる》こと(のみ)に反応するのが(広義の)メルヘン」

ざっくりした例えだが、そんな見方もできるのではないかなどと考えたりするようになったのもこの頃だった。同人誌づくりにしても作品づくりにしても、それまで意識することがなった視点を発見し、考える事に目覚めた時期でもあった。

《漁人》は創刊号を出した後、幽霊会員(?)が淘汰されて少しスリムになったこと、スタッフたちも創刊号の経験値を得たことで、第2号はだいぶ洗練された感じのものとなった。第2号もガリ版印刷ではあったが、印刷機がプリントゴッコ式に1枚1枚手作業で刷っていた創刊号と違い、輪転機になった(借りもの)という画期的な進歩があった。輪転機の作業効率の向上度には一同驚愕したものである。「これぞ文明の利器!」──そんな実感があった。

そして《漁人》3号では、ついにタイプ印刷となり、初めて「活字化」が実現したのである。
形の上では、軌道に乗ってきたようにもみえる《漁人》だったが、会の運営をめぐっては、当初の(雑誌で仲間を募った)主宰者とは別のグループが運営することになったがための「今ひとつスッキリしない部分」が尾を引いていた。そして、けじめをつけるために《漁人》を一度きちんと解散し、有志によって新たな同人誌を再結成しようという動きになる。
《漁人》は3号を出した後に解散。そして同じスタッフによって新たに《むい》という同人誌が立ち上げられた。僕も引き続き《むい》に参加し、童話(ファンタジー)を書き、創刊号の表紙を描かせてもらったりした。

《漁人》の時代だったか、あるいは《むい》へ移行してからだったか……正確な時期はハッキリ思い出せないのだが……この頃の同人誌メンバーの一人・Oさんの部屋にスタッフらが泊まり込んだ事があった。同人誌発行の打ち上げか、新年会・忘年会だったかもしれない。この時、《ますむら ひろし漫画》との運命的な(?)再会があった。
Oさんの部屋で見つけたハードカバー本。何気なく手にとり開いてみたら漫画だったのでちょっと驚いた──というのが第一印象だった。漫画と言えばペーパーバックのイメージがあったので意外だったわけだが……それが『アタゴオルは猫の森』の愛蔵版だった。その不思議な世界に魅かれて、皆が寝てしまった後、朝まで一睡もせず一気に読んだ記憶がある──言わずと知れたますむらひろしさんの名作である。
僕は中学時代にも、ますむらさんの漫画──デビュー作の『霧にむせぶ夜』(第5回手塚賞・準入選)を読んで強烈な衝撃を受けている。当時マンガのまねごとをしていた時期もあったのだが……『霧にむせぶ夜』を読んで、こんな人たちがしのぎを削っている漫画の世界には、とても自分が入り込める余地などない、努力したところで到底太刀打ちできっこない──と漫画心(?)が萎えてしまうほどの圧倒的なインパクトを受けていた。その後僕の創作活動は漫画から文芸へと方向転換をすることになる。
そして方向転回した文芸の同人誌活動をしている中で、再びますむら作品と出会い、朝まで読まされてしまうことになるとは……、後になってふり返ってみると奇妙な縁を感じる。というのも、この後、僕が同人誌(《窓》第2号/1979年)に書いた作品が出版され、そのデビュー作単行本の挿絵をますむらさんに描いていただく事になるからなのだが……もちろん、『アタゴオルは猫の森』を夢中になって読んでいた時には、そんな展開など夢にも思っていなかった。

さて、再生した同人誌《むい》の活動だが──2号の前後で僕は退会を決断。
いくつかの同人誌を出してきたが、その総括というか──発表した作品についての合評会がいまひとつ盛り上がらず、雑談に流れ、不完全燃焼に終わることが原因だった。せっかく同人誌を作ったのに、発表した作品についての総括が無いのは気持ち悪い──個人的にはそうした気持ちが強かった。書き手は作品を完成させる迄の間、色々試行錯誤を繰り返し、何度も練り直しているので、自分の作品について第一印象が持てない。自分の描いた作品が他者にどう読まれたのか、どんな印象を持たれたのかは興味のあるところである。また、他の人がそれぞれの作品について、どういう意図で描き、どんな苦労や工夫があって「そのような作品にたどり着いたのか」などについても知っておきたい。自分の創作活動に還元できるヒントがあるかもしれないからだ。そうした互いの作品や創作姿勢に対する活発な意見交換があってこそ、同人誌を出す意義があるのではないか──そんな気持ちもあったのだ。
しかしながら、書き手の中には互いの作品を批評し合うことに関しては熱心でない人もいる。
「作品は、自分が楽しいと思ったものを楽しんで書く──それでいい」「他人の批評にはあまり興味が無い」そういった空気を感じ、《むい》で合評を充実させたいと望むのは僕の独り相撲のような気がしてきて、未練を感じながらもここを去ることにしたのだった。

陳腐な言い方だが、同人誌活動は僕にとって青春だったのだと思う。《漁人》はその出発点であったこともあり、特別な思いもある。当時のメンバーの幾人かとは現在も年賀状のやりとりをしているのだが……ふり返ってみると『詩とメルヘン』にあの同人誌の呼びかけが載っていなかったら、僕らは知り合う事もなかったはずで……そう考えると縁というのは不思議なものだなぁと実感する。


③《窓》の頃〜初めての主宰同人誌・軽オフセット印刷篇〜
02窓2号
《むい》は退会したが、同人誌活動に飽きて辞めたわけではない。自分なりの納得のいく同人誌が作りたいという思いは持ち続けていた。そこで軽オフセット印刷機と製版機を買い込んで、同人誌を主宰することにした。
簡単に印刷のしくみを紹介すると──、
版下原稿を特殊なフィルムに密着させ、強い光で焼き付けたものを紙のような原版に転写。すると原版に水をはじく部分(原稿の黒い部分)と、水分が乗る部分(原稿の白い部分)ができる。この原版を印刷機にセットし湿し水を塗布すると、印刷時に余白となる部分には水が乗り、印刷部では水がはじかれる。そこに油性のインクが供給されると、水がのった部分(余白部分)ではインクははじかれ、水がない部分(印刷部分)にのみインクが乗る。原版に乗ったインクはブランケットと呼ばれるゴムのドラムに転写され、それがさらに紙に転写される仕組みである。
原版と紙が直接触れず、一度ブランケットに転写させる工程があることでオフセット印刷と呼ばれるらしい。

冊子の形体は手描きの原稿から原版を起こす形(手書き文字&イラスト)をとったが、版下となる原稿は普通の紙に普通のペンで描けるので、ガリ版印刷(原紙に鉄筆で描く)に比べればキレイに仕上がる。
同人誌名は《窓》とした。ファンタジーやメルヘン系の童話を想定していたので、非日常の風景がのぞける窓/(同人誌は)内なる世界と外の世界をつなぐ枠──そんなイメージがあった。
この同人誌は童話・児童文学に限定するつもりでいた。ジャンルを限定しなかった《漁人》で、趣味が違いすぎる人たちか集まると話が噛み合ないという教訓を得ていたからだ。互いに相手の作品に興味が持てるような人たちで同人誌メンバーは構成すべきだと考えたわけである。
さらに同人誌を立ち上げるにあたって、まず方向性をまず打ち出しておくのがいいだろうと考え、創刊号の前に、創刊準備号として「ふたば号」なるものを作った。僕の掌篇と《漁人》スタッフでメルヘン系ファンタジーを描いていたKさん、Hさんのゲスト作品で構成した。
本文は2段組だったが、巻末には「作者の窓」なる3段組のあとがきページを設けた。ここでは収録された作品一つ一つに対して作者自身に思いを述べてもらう。作品本意で考えれば作者のコメントなど蛇足かもしれないが、「書いた作品を載せるだけ」でなく、それを生み出すまでの[創作過程]・[創作背景]をも大事に考える──そんな姿勢を打ち出したかった。

《窓》は、ふたば号(創刊準備号/1978年1月1日)のあと、やはり《漁人》のメンバーだったSさんとその友人Oさん(イラスト担当)をお迎えてして創刊号(1978年4月1日)をだすことができた。第2号では、Oさんに変わってやはりSさんの友人Tさんがイラストを飾ってくれた。

第2号巻末のお便りを紹介する頁(ぽすと)では、《窓》読者からの手紙の一部とSさんのコメントを僕が手書き文字&イラストでレイアウトした。「まど」の郵便受けに届いた手紙を、《窓》の作品に登場したメンバーたちが集まって読んでいる──という図案。お便り文と手紙文では手書きながら書体を変えてある。
03窓2号ぽすと製版
《窓》を手書き文字にしたのは予算の関係からだったが(活字を組むと高くつくので)、出来上がった誌面を見ると、これはこれで手作り感があってなかなかいいものだなぁ……などと感じたものである。
発行した《窓》は地元の書店に交渉して置いてもらったり、同人誌マーケット(今のコミケの原型だろうか。当時は文芸誌・ミニコミ誌・マンガ同人誌が混在した即売会だった)に参加して売ったり、《漁人》で知り合った仲間たちに送ったりした。当時の仲間たちの中にはそれぞれ同人誌を立ち上げた人もいて、互いに同人誌を送ったり送られたりし、それが楽しかったし刺激になった部分もある。

第2号(1979年7月1日)を出した後、《窓》は活動停止となるが──この第2号に掲載した僕の長編ファンタジー『クロカニ号の冒険』(400字詰原稿用紙換算232枚)が、児童書出版の金の星社で公募していたコンテストに入賞し、出版化が決まるという信じられないような出来事が起こった。入選してから出版までは5年ほどかかってしまったが、挿絵はますむらひろしさん、解説は光瀬龍先生に飾っていただくことができた。
この『クロカニ号の冒険』の入選を機に、創作に対する姿勢や考え方にいくらか変化があったかもしれない。「読んで面白い作品を」という目指すところは同じだか、真剣度は格段にアップした。自分が面白いと感じるものを追求するのは当然ながら、さらに他の人が読んでも面白いと感じさせるためには何が必要か──そんなことも思案するようになった。

そして「楽しみのための(遊びとしての)同人誌」活動は《窓》の廃刊をもって一時休止する。この後も僕はいくつかの同人誌や勉強会に参加したが、それらは文字通り「勉強のための」活動であった。そうした同人誌活動で学んだ事はもちろん多いが、ふり返ってみると、僕にとってより愛着が深いのは「楽しみのための同人誌」の方であった気がする。


④《アルファ》の頃〜児童文芸研究会〜
04アルファ児童文芸
初めて書いた長編ファンタジー『クロカニ号の冒険』を金の星社の公募に応募した頃、僕は「児童文芸」という雑誌を発行していた日本児童文芸家協会が児童文芸研究講座を開催している事を知って、これに参加してみることにした。児童文学に興味がある人なら一般の素人でも参加できるようだし、プロの作家がどんな創作活動をしているのか、話を聞いてみたかった。また、ここに集まってくる、まだ見ぬ創作活動家(?)たちがどのような作品を書いているのかなどにも興味があった。

児童文芸研究講座は月1回の割合で開かれていた。前半は児童文学者の講義で、後半は受講生たちの書いた作品の合評というスタイル。受講生たちがあらかじめ提出していた作品は簡易タイプ印刷で「作品集」として冊子にまとめられ、それを何回かかけて合評する。
ここでは僕が望んでいた合評会がしっかり行われていて、大いに刺激になった。楽しかったし、勉強になった。
自分の意図する作品を書くためには、作品を客観的に分析する能力が必要なはずだが、自作を客観的に見る事はなかなか難しい。しかし他人の作品なら比較的客観的に眺める事ができる。他者の作品をどう評価するのか──僕の意見と、他の人たちの意見を比べる事で、自分の作品分析力がいかほどのものなのか判断する手がかりになるのではないかと考えた。
自分の作品に対する評価にはもちろん興味があったが、他者の作品をどう評価すべきか──他者の作品を通して分析力を磨くことにも力を入れた。

合評会は神楽坂(東京)で行われていたが、香川県からわざわざ出向いて来る熱心な方もいて驚いたことがあった。彼女が後に偕成社からデビューする須藤さちえさんである。ちなみにこの児童文芸研究講座を受講していた同期メンバーの中からデビュー(商業出版)を果たした人には、河野貴子さん・矢部美智代さんなどもいる(他にもいるかも知れない)。規模は決して大きくない勉強会だったが、充実した有意義な活動だった。

やがてこの児童文芸研究講座は終了する事になるのだが、受講生メンバーたちは合評会の場の継続を求めた。《アルファ》という同人会をつくり、日本児童文芸家協会の支部という形で認めてもらうことになる。児童文芸研究講座や《アルファ》で作られた作品集は合評用テキストという意味合いが強かったが、これも「同人誌」と言えなくもない。
創作を志す仲間たちのと交流が楽しく僕はしばらく皆と行動を共にしていたが、勉強会がいくらか派閥的な色合い変質していくような違和感を覚えるようになり、やがて《アルファ》を離れることになる……。


⑤《MON48》の頃〜光瀬教室〜大衆文芸の書き方〜
05MON48画面
『クロカニ号の冒険』入選の通知を受けたのは、児童文芸研究講座に参加するようになって間もない時期だった(入選から出版まで5年かかった)。その頃、児童文芸研究講座の浜田けい子先生の紹介で少年文芸作家クラブ(現・創作集団プロミネンス)の先生方と知り合うチャンスをいただいた。SFマガジン初代編集長・(故)福島正実先生が立ち上げたクラブで、そこにいたのは僕が中学生時代に愛読していたSFジュブナイルを書いておられた先生方だった。その縁で光瀬龍先生には大変光栄な事に『クロカニ号の冒険』出版(金の星社/1984年)の際には解説を書いていただき感激した。

その光瀬龍先生が、朝日カルチャーセンターで《大衆文芸の書き方》という講座を開くというので第1期生として参加(1984年7月スタート)。ここにはすでに著書を数冊出している方・雑誌に書いている方など、プロも参加していた。一般のサラリーマンながら、毎週50枚の新作を提出するなどという恐ろしく熱心な人などもいて、活気があった。光瀬先生は、毎回講義の後に受講生たちと喫茶店によって気さくに色々な話をしてくださった。受講生らも仲良くなり、教室の外でも先生を交えて旅行などが企画されたりした。

そして、受講生らの作品を集めて同人誌を出そうという話がもちあがる。
創刊号にはなんと光瀬龍先生が書き下ろし作品を提供して下さるという! これは下手なものが作れない──。僕が見まわしたところ、同人誌活動をしてきた人はいないようなので、いささか心もとない気もしたのだが……働き者でテキパキと対応できる人がいて、話はトントンと進んだ。
同人誌のタイトルは皆で候補を出しあい、その中から《MON48》が決まった。光瀬教室(大衆文芸の書き方)が開かれるのは毎週月曜(MON)住友ビル48階であったことに由来する──これは僕の思いつきだった。ちなみに表紙のイラストも僕にお鉢がまわってきた。図案は書き手の象徴であるペンが翼を広げ、光瀬教室(住友ビル)から飛び立つ──というものにした。
フリーハンドでアウトラインを描いて、色指定できるようにしたつもりだったが……ちょっと計算違いがあった。もう少しキレイに仕上げておけば良かった……とこれは後になって反省したことだが……とにもかくにも、同人誌《MON48》は創刊にこぎつけた。
そしてこの創刊号に書いた『ねこにかかったでんわ』は後に岩崎書店から出版していただくことができた。

※同人誌《MON48》6号までのラインナップは──、


■MON48 創刊号(1985年3月)
書き下ろし作品
『蓮屋蓮吉捕物控 討入りの朝』・・・・光瀬  龍
『家紋』・・・・・・・・・・・・・・・武生 義史
『日だまり』・・・・・・・・・・・・・篝  真子
『ねこにかかったでんわ』・・・・・・・星谷  仁
『マスメディア・ジャック』・・・・・・津久江 隆
『夕暮れの道』・・・・・・・・・・・・きたちひろ
『雲の峠』・・・・・・・・・・・・・・如月  薫
『捨てられていた幸運』・・・・・・・・森永ぐり子
『賭け』・・・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
「門出を送る」・・・・・・・・・・・・光瀬  龍

■MON48 第2号(1985年12月)
書き下ろし作品
『リトルバラ:三一八七・ソラリヤ』・・光瀬  龍
『不倫電話』・・・・・・・・・・・・・卯杖 遊子
『横顔』・・・・・・・・・・・・・・・柄沢真紀子
『宮本武蔵異聞』・・・・・・・・・・・津久江 隆
『水銀灯』・・・・・・・・・・・・・・山崎  玲
『怪我の功名』・・・・・・・・・・・・如月  薫
『サリバイ市はおおさわぎ』・・・まつみやもりかつ
『ぽんたの川』・・・・・・・・・・・・きたちひろ
『隣の席』・・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
『夢寓話』・・・・・・・・・・・・・・尾上 華子
『コバルトヴァイオレットペール』・・・江戸 主水
『ラスト ワルツ』・・・・・・・・・・篝  真子
「第二号発行に寄せて」・・・・・・・・光瀬  龍

■MON48 第3号(1986年12月26日)
書き下ろし作品
『仲買人たちの夜』・・・・・・・・・・光瀬  龍
『夕暮れ』・・・・・・・・・・・・・・篝  真子
『がんばれ! おばけ先生』・・・まつみやもりかつ
『半導体ヤクザさらにスパイ』・・・・・北松  誠
『虹色のクワガタ虫』・・・・・・・・・正田  太
『流れ星』・・・・・・・・・・・・・・如月  薫
『ノアの末裔』・・・・・・・・・・・・津久江 隆
『山は夕暮れ、なみだ色』・・・・・・・きたちひろ
『サクランボを棄てる女』・・・・・・・瑞木  晶
『名探偵と牛若丸』・・・・・・・・・・藤谷はるか
『二百年後の結末』・・・・・・・・・・水木 萌映
『小岩界隈』・・・・・・・・・・・・・卯杖 遊子
『備前七幅』・・・・・・・・・・・・・東山 令子
「第三号発行に寄せて」・・・・・・・・光瀬  龍

■MON48 第4号(1988年12月1日)
『十五夜無情』・・・・・・・・・・・・如月  薫
『ラブストーリー1986』・・・・・・・・津久江 隆
『歯医者さんと魔法の火』・・・・・・・紺野 加奈
*特集*「課題作品について」・・・解説:光瀬 龍
「田岡屋騒動」・・・・・・・・・・・・松宮 守克
「あたりくじ」・・・・・・・・・・・・筒井 和子
「終わりよければ」・・・・・・・・・・藤谷はるか
「ベター・ハーフに乾杯!」・・・・・・武内 淑郎
「だから九時まで」・・・・・・・・・・瑞木  晶
『野げいとうの怨み』・・・・・・・・・長谷 圭剛
『ミルクキャラメルをほおばって』・・・神崎 静華
『SHE・IS』・・・・・・・・・・・由井 宏道
『恋人はスペースキャット』・・・・・・木部恵利子
『左利きの乳房』・・・・・・・・・・・江戸川町子
「第四号によせて」・・・・・・・・・・光瀬  龍
「MON48の奇跡」・・・・・・・・・・星谷  仁

■MON48 第5号(1990年11月3日)
『国試無双』・・・・・・・・・・・・・由井 一光
『最後の天使』・・・・・・・・・・・・藤谷はるか
『車人形・影法師』・・・・・・・・・・岡  光子
『ブクと』・・・・・・・・・・・・・・茂木 陸子
『金魚の意気地』・・・・・・・・・・・三ノ杉圭祐
『蝿』・・・・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
『裸身群像』・・・・・・・・・・・・・松井 栄子
『アーマが帰ってきた』・・・・・・・・関口 和利
『歪んだ伝言』・・・・・・・・・・・・津久江 隆
『見合い結婚しましょ』・・・・・・・・木部恵利子
『花がけろうの家』・・・・・・・・・・江戸川町子
『主婦の使命』・・・・・・・・・・・・松宮 守克
『幻燈の中』・・・・・・・・・・・・・吉田 汀子
「女の時代」・・・・・・・・・・・・・星谷  仁
赤いクモ──夢の前兆──」・・・・・星谷  仁
「新人賞ブームについて思う」・・・・・光瀬  龍

■MON48 第6号(1992年4月)
『ネオテニー』・・・・・・・・・・・・津久江 隆
『夏の曲』・・・・・・・・・・・・・・松井 栄子
『かたき大福』・・・・・・・・・・・・紺野 加奈
『呪いの譜』・・・・・・・・・・・・・新発田 実
『月をねだる』・・・・・・・・・・・・茂木 陸子
『ダイアンの瞳』・・・・・・・・・・・今川 智志
『祭りのあと』・・・・・・・・・・・・吉田 汀子
『芳香』・・・・・・・・・・・・・・・宇津木玲子
『白菊抄』・・・・・・・・・・・・・・如月  薫
『連鎖〈チェーン〉』・・・・・・・・・由井 一光
『明日を作る人々』・・・・・・・・・・鈴木 孝昭
『本日、朝野早紀は人を殺します』・・・山本真梨子
『召集令状』・・・・・・・・・・・・・瑞木  晶
「誰がそれをプロと呼ぶ」・・・・・・・光瀬  龍

そして余談だが……この《MON48》は映画にも登場(!?)している。第3号が『文学賞殺人事件〜大いなる助走〜』という邦画のエンドロールで流れていく同人誌の中に映っているのだ。知らずにこの作品をテレビで見ていてビックリした。
文学賞殺人事件〜大いなる助走〜』(1989年アジャックス)は筒井康隆・原作の文学界をパロった作品。同人誌に載った無名の新人の作品が大きな文学賞にノミネートされたことから起こる騒動を描いたもので、筒井康隆自身がSF作家役で出演して文壇バーで暴れるシーンがある。
同人誌とパロディといえば……僕がふざけて書いたミラクル☆スター・復活篇も内輪ネタ・パロディで、《MON48》や《漁人》の同人誌メンバーが(仮名で)登場している。そして舞台は文壇バーだった……。


⑥《チャンネルF》の頃〜ワープロの登場〜コピー誌(紙)篇〜
06CF1&通信8
ワープロ──日本語ワードプロセッサは、パソコンに取って代わられ、もはや絶滅寸前(?)だが、この機械が登場したときは、すごいものが現れたものだとビックリした。当初は1台数百万円(そのくせ印字はかなり粗雑)──それでも、この夢のような機械にあこがれた。
今でこそパソコンで文章を自在に編集できるのは当たり前になったが、当時は原稿用紙に手書きで文章を書いていた。まず下書きし、それを推敲する。すると原稿はゴャゴチャしてくるので、再度書き直す──このようなことをくり返した。
僕は筆圧が強かったので、人差し指の腹の指紋はすりへり、中指にはしっかりペンだこができた。推敲本来の労力ばかりではなく、原稿の書き直し・修正・ときには切り貼りなどの物理的な労力で時間をとられ、それがわずらわしい。
ワープロを使えば、その物理的労力から開放される……。まさに夢のような「未来の機械」だった。
ワープロが出た当初は「高嶺の花」とあきらめ、このような高価な機械を持つ事は自分には生涯ないだろうと思っていたが……ワープロの進化と普及のスピードはめざましかった。数年で値段もぐっと庶民的になり、僕も結局4台も使っていた。その花形だったワープロも今やすっかりみかけなくなった……爆発的に普及したワープロは廃れるのも早かった……。時代の移ろうスピードには驚くばかりである。

さて、このワープロを手に入れた事で、「活字化」の憧れは気軽に実現できるようになった。そこで、遊び感覚で気ままに作ったのが同人誌ならぬ個人誌《チャンネルF》だった。
作品やら覚書やらエッセイやら……思い付いつくままにまとめ、ワープロで編集してプリントアウトしたものを版下にし、コピーをとってホチキスでとめる──それだけの粗末な個人誌で、発行部数も知人数名に配布する程度のものだった。作ってみたものの誰にも見せていない号もある。しばらく離れていた「楽しみのための」個人誌の再開だったともいえる。
《チャンネルF》の「F」は「ファンタジー」「フュージョン(現実と幻想の<融合>)」そしてちょっと強引だが「FUSHIGI」の頭文字。不思議でファンタジックなチャンネル──という意味合いである。第1号表紙はラジオのチューナーをイメージしてデザインした(不思議でファンタジックなチャンネルにチューニングするイメージ)。当初は創作ファンタジー&覚書・エッセイをまとめていた。
07CF表紙7&12
7号は100年に一度開花する竹の花とクダギツネの伝説、さらにかぐや姫とクロマドボタルとをからめたファンタジー(『月からきた小さなきつね』のタイトルで<子どもと読書>に連載)。12号は自選ショートショート集。表紙は「運命の赤い糸をあやつるクモ」のイメージ。
そのうち飼っていたフェレットのレポートやフェレット漫画など、創作・文芸路線以外のものも登場させる。
08CF13&9
関係者しか判らないパロディ小説を載せたり、そこから発展した実写ビデオミラクル☆スターを撮ってテレビで紹介されるなどといったこともあった。
また《チャンネルF》とは別に冊子の形をとらず、内容を1枚の紙にまとめた個人紙《チャンネルF☆通信》も、ちょくちょく作っていた(第8号の『団地さいごの日!?』『きえた大はつめい』は朝日小学生新聞の読み切り童話として描いたもの)。
このようにワープロの登場で「活字化」は手軽に実現できるようになった。イラストを張り込めば同人誌もどきのようなものが作れる。ただ、コピー誌(紙)の場合は配布できる相手や数がかなり限定される。

そうした事を考えると、パソコンの登場、ホームページやブログ、SNSの登場は画期的だ。多くの人が閲覧可能なネット上に自分の「表現」ができるのだ。自分の文章を活字化でき、カラーのイラスト・写真も掲載できる。画像ばかりか動画までも──これは同人誌では不可能だったことだ。しかもタダで──。
自費出版にあこがれ、同人誌を始めた頃からは想像もできないことだ。
なんともスゴイ時代になったものである。


個人誌《チャンネル☆F》(コピー誌)
【VOL.1】「雨の日の通信」「金色の首輪」「しゅっぱつ!ゆうれい探偵団」「占い師の予言」「ワラ人形のききめ」「魔法使いをたずねた男」「脱獄をくいとめた男」を収録(1987年)
【VOL.2】「SFはポケットの穴から…」(1988年)
【VOL.3】「恋の魔法は手作りチョコで」「愛しいまぼろし」を収録(1988年)
【VOL.4】創作の周辺・折り鶴/<ねこにかかったでんわ>着想・創作過程/<小さなまじょのさがしもの>発想・創作過程/<ヒョウタン池の仙人・後記>をふり返って/物語は心のシミュレーション/書き手のショーマンシップ/釣りとテンプラ・アイディアの捕捉/を収録(1988年)
【VOL.5】「まほうのチョコボール」「プテラノドンと男の子」まぼろしの迷作誕生!?「恐竜のカプセル」収録(1988年)
【VOL.6】「オレは野良犬」「ハム・スタ子と芳男」「六番目の感覚」「不思議なサンドイッチ」「たこあげ」「ヒョウタン池の仙人」収録(1988年)
【VOL.7】「むぎわら帽子の竹の花」収録(1988年)
【VOL.8】「だれかの<声>が…1/心の<声>」収録(1988年)
【VOL.9】「ミラクル☆スター・激闘篇」他収録(1989年)
【VOL.10】「ミラクル☆スター・復活篇」収録(1989年)
【特別号】「雨の日の通信」「プテラノドンと男の子」「金色の首輪」「ワラ人形のききめ」「愛しいまぼろし」<ねこにかかったでんわ>着想・創作過程/<小さなまじょのさがしもの>発想・創作過程/釣りとテンプラ・アイディアの捕捉/収録(1989年)
【別冊 臨時増刊号】ミラクル☆シリーズ 秘密大百科(1992年)
【VOL.11】掌篇集&4コマ漫画/収録(1993年)
【VOL.12】自選<奇妙な味の>掌篇集(1994年)
【VOL.13】わが家のフェレット・レポート/収録(1996年)
【VOL.14】漫画「フェレットinジャケット」収録(2002年)
【VOL.15】漫画「ふぇレッツ・ゴー」収録(2002年)
【VOL.16】漫画「フェレットのいる風景」収録(2002年)
【VOL.17?】漫画「虫屋な人々」収録(2007年)

個人紙《チャンネルF☆探偵団》(コピー紙)
【VOL.1】邦画「文学賞殺人事件 大いなる助走」エンディングに同人誌《MON48》(表紙画:星谷 仁)が映っていたことの報告(1992年)

個人紙《チャンネルF☆通信》(コピー紙)
【VOL.1】自主映画祭&ロケ参加報告/カメレオンTV出演(1992年)
【特別号】ミラクル☆シリーズ スペシャル 資料(1992年)
【VOL.2】ジュラシック・パーク感想/ロケ(エクシーザー)報告(1993年)
【VOL.3】「守護霊」&覚書(1993年)
【VOL.4】「地震の予知」&覚書(1993年)
【VOL.5】朝日小学生新聞連載報告(1993年)
【VOL.6】「人面ガエル」(1993年)
【VOL.7】人面ガエル・覚書(1993年)
【VOL.8】「団地さいごの日!?」「きえた大はつめい」(1993年)
【VOL.9】「おふろの海ぼうず」「ペットよけボトルのひみつ」(1994年)
【VOL.10】肩乗りイタチ・フェレット(1995年)
【VOL.11】東京ディズニーランド紀行(1995年)
【VOL.12】「リサイクル」「証拠」(1995年)
【VOL.13】「宇宙観」(1995年)
【VOL.14】「暗示効果人はなぜ宝クジを買うのか(1996年)
【VOL.15】「モニター」Myフェレット雑誌に登場!!(1997年)
【特別号】略歴

実写版ビデオ
ミラクル☆スター】(1991年)
ミラクル☆キッド】(1991年)

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境内の座敷童子(頭の体操)

01境内の座敷童子

座敷童子の謎
子どもたちが遊んでいると、いつの間にか1人増えている。しかし、どの子が新たに加わったのか誰にもわからない……。この《謎の「+1」》が座敷童子である。
「顔ぶれは同じなのに人数だけ増えている/あとから加わったのがどの子なのか誰にもわからない」という現象はミステリアスでおもしろい。この《座敷童子現象》を演出するトリックがあるとすれば、どのようなものだろう……。
脳内シミュレーション(頭の体操)で思いついた着想を、簡略化した図を使って「おはなし」仕立てで記してみることにする。


境内の座敷童子
A君の小学校では「神社で遊んでいると座敷童子が現れる」という噂があった。境内にある木を利用して鬼ごっこ(木鬼)をしていると、いつの間にか人数がひとり増えているというのだ。それも奇妙な話だが、さらに不思議なことに、メンバーはみな最初からいた顔ぶれで、だれが後から加わった子なのか誰にもわからないらしい。神社の裏には墓地があって、死んだ子どもの霊が、神社で遊ぶ子どもたちに加わりたくなって現われるのだろうなどと言われていた……。
この噂を確かめるためにA君は学友たちを引き連れて、問題の神社にやってきた。そして一行は木鬼(木にタッチしている間はオニに捕まらない鬼ごっこ)を再現して境内の木に散らばった……。
説明をわかりやすくするために内容を簡略化して──神社の境内には東西南北にそれぞれ図のように1列に木が植えられているとする。
02境内略図&配置
ここで木鬼遊びをしていると《座敷童子が現れる(人数が1人増える)》というのだが、誰も新顔に気づかないというから、《座敷童子が現れた》ことは人数の変化で確認するしか無い。しかし境内の中心には建物があるためその反対側までは目が届かない。そこでA君たちは手分けをして境内の子どもたちの数を確認し合うことにした。4つの班に別れ、東・西・南・北のどの側で遊ぶかを決めて、各自がカバーするエリアを出ずに、そこにいる人数を確認し合うのだ。
子どもたちはカバー・エリア内で移動できるが、その動きも簡略化して──イチョウ(黄)の木にタッチしていた子が1人、時計回りで隣の木に移動したとする。この移動のプロセスを1つずつ順を追って確認していくと……。
03A北側班図解
04B東側班図解
05C南側班図解
06D西側班図解
07座敷童子準備
08座敷童子出現
──いつのまにかひとり増えている!?
これが、《座敷童子現象》を成立させるトリックとして思いついたもの。
バレバレかもしれないが、「ひとり増えたように見える」のは、重複カウントによるもの。正方形の角にあたる木にいる子は重複してカウントされており、このエリアに移動した子がダブってカウントされることで数が増える──というしかけ。4つの班(正方形の辺上)に「それぞれ10人」というと、なんとなく全体で40人いるような錯覚をしがちだが、今回の配置では子どものは全部で31人しかいない。班(辺)内で移動しても班(辺)内のカウントは変わらないが、一番端(角)に移動すると、そこを共有するとなりの班(辺)内のカウントが加算されるというわけだ。

(配置する子どもの代わりに)碁石などを使って披露するなら──碁石の移動を繰り返し、その動きの中で重複ゾーン(角)に碁石を置くことを行えばバレにくいかもしれない。しかし、図解でそれをやると解説が煩雑になってわかりにくくなってしまうので、今回はこんな形で着想をまとめてみたしだい。


座敷童子の怪!?
僕が座敷童子について知ったのはいつ、どのような状況でだったかは覚えていない。ただ、「子どもたちが遊んでいると、いつのまにか1人増えている/それが誰なのかわからない」という現象が不思議で「増えているのに、どうして特定できないのだろう」と子供心に考えをめぐらせた記憶は残っている。
その後、座敷童子について民話などを調べてみたことがあったのだが……座敷童子の言い伝えはあちこちに残っているものの、最大の特徴であるはずの「いつのまにか1人増えている/それが誰なのかわからない」という《座敷童子現象》については、まったく見つけることができなかった。
《座敷童子現象》というユニークな特徴は、本来の伝承にはない「プラス1」の幻だったのか?──特徴自体が《座敷童子現象》のようで、不思議に感じたものである。

しかし、座敷童子といえば、いつの間にか1人増えているという《座敷童子現象》を思い浮かべる人は多いのではないか? この認識は広く浸透しているように思う。それでは、《座敷童子現象》の由来・起源はどこにあるのだろう?
さらに調べてみたところ……どうやら宮沢賢治が1926年に雑誌『月曜』2月号で発表した『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』という童話がその起源っぽい。この作品には座敷童子にまつわる4つのエピソードが記されているのだが、その中に次のような話がある。


「大道(だいどう)めぐり、大道めぐり」
 一生けん命(めい)、こう叫(さけ)びながら、ちょうど十人の子供らが、両手をつないでまるくなり、ぐるぐるぐるぐる座敷(ざしき)のなかをまわっていました。
 どの子もみんな、そのうちのお振舞(ふるまい)によばれて来たのです。
 ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんでおりました。
 そしたらいつか、十一人になりました。
 ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけおりました。
 そのふえた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人が出て来て言いました。
 けれどもだれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼっこでないと、一生けん命眼(め)を張(は)って、きちんとすわっておりました。
 こんなのがざしきぼっこです。


この作品──宮沢賢治の『ざしき童子のはなし』によって《座敷童子現象》が広く認識されるようになったのではなかろうか?
民話に語り継がれてきた地味なエピソードに比べ、賢治の童話で紹介された《座敷童子現象》は謎めいていて印象深い。もし伝承の中に《座敷童子現象》の要素があったとすれば、民話としてもっと広く伝播していてよかった気がする。ということは、世間に浸透している座敷童子の特徴──《座敷童子現象》は賢治の創作だったのかもしれない。

いずれにしても、「いつのまにか1人増えていて、それが誰なのかわからない」という《座敷童子現象》は不思議で心に残った。どう解釈すればそんな現象が成立しうるのか──そんなアプローチで得た着想から、僕も『病院跡の座敷童子』という作品を書いたことがある(*)。今回の【境内の座敷童子】とはまた別の着想だったが……《座敷童子現象》をどのように成立させるか──というテーマは創作のモチーフとしても魅力的だと考えている。


病院跡の座敷童子
ひとり多い!?座敷童子2題
ひとり増える!?座敷童子的トリックアート
1人増える!?トリックアート&解説
1人増える不思議な絵!?座敷童子の紙芝居
ちょっと怖い話!?かごめかごめ〜座敷童子
トリックアート座敷童子は誰だ!?
人数が増減する騙し絵の簡単な解説

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エアポケット幻想
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カメムシの抜け殻落とし記事一覧

脱皮や羽化を終えたカメムシが抜け殻を落とす……この奇妙な行動についての観察&考察を総括したものは【カメムシの奇行!?抜け殻落としプチまとめ】として記事にしているが、脱皮殻落とし・羽化殻落としの個別の観察記事の一覧を作ってみた。
01亀虫抜殻落し一覧
カメムシの奇行!?抜け殻落としプチまとめ
※なぜカメムシは抜け殻を落とすのか?

ハート亀虫羽化 見守るキリスト!?(2012.10.26)
※羽化中のエサキモンキツノカメムシ〜羽化殻落とし
 初めて《抜け殻落とし》を目撃/初めて知る行動(習性)だった

アカスジキンカメムシの羽化(2015.09.08)
※羽化のようす/羽化殻落としの瞬間は確認できず落とされた羽化殻を確認

アカスジキンカメムシの抜け殻おとし(2015.09.14)
※葉上での脱皮のようすと新幼虫による脱皮殻落とし

カメムシの抜け殻落とし行動(2015.10.30)
※擬木での新幼虫による脱皮殻落とし

モンキツノカメムシとエサキモンキツノカメムシ他(2015.11.13)
※ツヤアオカメムシ新成虫による羽化殻落とし

エサキモンキツノカメムシの抜け殻落とし他(2015.11.21)
※擬木で羽化中の成虫〜羽化殻落とし

アカスジキンカメムシの羽化《抜け殻残し》のケース(2017.05.18)
※羽化のようす/新成虫はアクシデントにより羽化殻を残して退散

アカスジキンカメムシ新成虫《抜け殻落とし》のケース(2017.05.21)
※新成虫が羽化殻を落とすために下の葉から移動したと思われる例

アカスジキンカメムシ羽化後《抜け殻落とし》確認(2017.05.28)
※新成虫による羽化殻落とし

アカスジキンカメムシ:羽化〜抜け殻落とし(2017.05.29)
※羽化中〜新成虫による羽化殻落とし

脱皮後の抜け殻落とし@アカスジキンカメムシ(2017.09.03)
※葉裏での新幼虫による脱皮殻落とし

アカスジキンカメムシ羽化後の気になる行動(2018.05.03)
※羽化殻は落とされた(?)が、落とすシーンは確認できず

《抜け殻落とし》の瞬間!?(2018.05.09)
※新成虫と羽化殻落としで宙吊りになったと思われる羽化殻

羽化殻落とし@アカスジキンカメムシ(2018.05.17)
※新成虫による羽化殻落とし3例:2例は頭突き/1例は蹴落とし

アカスジキンカメムシの羽化他(2018.05.20)
※羽化殻が残された例/羽化殻をアリが運び去った例

チャバネアオカメムシの羽化殻落とし(2018.09.06)
※チャバネアオカメムシ新成虫による羽化殻落とし

新成虫vs羽化殻@アカスジキンカメムシ(2019.05.25)
※過去の画像&新たな観察4例(図)

エサキモンキツノカメムシの羽化殻落とし&亀虫臭(2019.11.17)
※羽化殻落としをするが宙吊りになった羽化殻から離れる新成虫(図解)

昆虫など〜メニュー〜
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Yahoo!ブログの亡霊!?

01Yahoo!ブログの亡霊

FC2ブログに来る前にいた古巣Yahoo!ブログは先日──12月15日で完全にサービスを終了した(実際にアクセスできなくなったのは12月16日)。しかし検索していると、なぜか検索結果にYahoo!ブログの記事がヒットする。もちろんクリックしても開くことはできないから、これは実体のない亡霊のようなものである。

Yahoo!ブログ時代、僕のブログでは訪問者のほとんどが検索による《通りすがり》だったろう。《固定読者》が多ければ、新着記事へのアクセスが増えるはずだが、当時のアクセス解析では、過去の記事へのアクセスが圧倒的だった。インディーズヒーロー簡易マスク作製法など、季節を問わずアクセスのある記事もあったが、昆虫や小動物を扱った記事が多いため、該当種の活動時期に合わせてヒットする記事も移り変わっていくといったぐあい。毎年その時期になるとコメントがつく記事もあって、コメント数が100を越えることもあった(FC2ブログに移行できたコメントは20件)。

Yahoo!ブログ時代にはそれなりにあった訪問者数だが、FC2ブログへ引っ越してきてからは激減した。更新しているFC2ブログは閑散としているのに、更新を止めたYahoo!ブログの方は以前と同じように訪問者が多かった……(更新終了後もしばらくは閲覧可能だった)。この偏りは僕のブログでは「検索による《通りすがり》」が多かったためだろう。検索では閲覧実績があるYahoo!ブログの記事が優先的にヒットし(そのため《通りすがり》はYahoo!ブログに集中)、同内容の移行記事(FC2ブログ)は逆に検索結果からはじかれるためだろう。
Yahoo!ブログが完全終了すれば(ネット上から削除されれば)、Yahoo!ブログ記事は検索対象から外れ、(順位は下位からのスタートになるだろうが)FC2ブログの記事が徐々に検索結果に載るようになるだろうと考えていた。ネット上から削除されたYahoo!ブログが、その後も検索でヒットし続けるのは利用者にとってわずらわしいし、(Yahoo!ブログがサービスを終了したことはニュースにもなっていたから)検索エンジン側でYahoo!ブログのURLを検索対象から除外するような措置はあるのではないかと思っていた。

ところが、Yahoo!ブログが完全終了したあとも、検索をしてみるとヒットするのはYahoo!ブログ記事の亡霊ばかりで、そのため(?)同じ内容のFC2ブログ記事は検索結果からはじかれ続けているようだ。
Yahoo!ブログでは訪問者数が1日平均3桁、ときに4桁という日もあったのだが(*)、FC2ブログでは(Yahoo!ブログ完全終了以降も)平均1桁というわびしい状況が続いている。僕はアクセス数そのものには関心が無いが、インターネット利用者が知りたい情報を検索したとき、(あるのに)僕の該当記事が見つけられないようでは公開記事にしている甲斐がない。

すでに消滅したYahoo!ブログ記事がヒットし、存在するFC2ブログの移行記事が見つからないという、不本意な現象……Yahoo!ブログの亡霊の影響はいつまで続くのであろうか……?


沈みゆくYahoo!ブログの記録 ※訪問者数比較


エッセイ・雑記 〜メニュー〜
チャンネルF+〜抜粋メニュー〜

古巣Yahoo!ブログの消滅

01YB完全終了
というわけで、10年ほど利用していたYahoo!ブログはサービスを完全に終了した。この終了予告があったのが2019年2月。色々考えた末にFC2ブログに引っ越してきたのが2019年4月5日。それより前の記事はYahoo!ブログ(星谷 仁のブログ)からの移行記事ということになる。
Yahoo!ブログでは、ブログでどんなことができるのか色々試していた。
今ではブログは当たり前に使われているが、インターネットが普及する以前は、一般の個人が不特定多数の人に向けて情報を発信する手段はほとんどなかった。例えば、趣味でマンガや小説を描いても一般の読者に読まれる機会はほとんどない。出版社の作品公募に応募したり、雑誌社に持ち込んだりして、入賞したり採用されたりすれば本や雑誌に載ることもあるが、これは狭き門だ。アマチュアが作品を発表する場といえば、同人誌や自費出版が一般的だった。これには手間ひまかかるし、お金もかかる。苦労して冊子の形にしても、けっきょく読者のほとんどは身内・関係者ということになり、個人の発信力には限界があった。
02窓誌面製版
うまいぐあいにコンテストで入賞したり、持ち込んだ作品が評価されて、本になったり雑誌に載ることができたとしても、全国の書店にくまなく配本されるわけではないし、書店に並ぶことができてもその期間は短い。作品と一般の読者と出会いは一期一会といった感が無くもない。
その点、ブログで発信した情報は、不特定多数の人がアクセスできるし、インターネット上にある限り、いつでも誰もが見ることができる。これは画期的なことだ。テレビやラジオ・雑誌・新聞など、マスメディアが発信する情報はどんどん移り変わっていくものだった。これに対し個人がブログなどで発信した情報は同時にそこに保存される。かつての憧れだった《自分の文章を活字化する》ことが実現するだけでもありがたいのに、総天然色画像や映像まで添付できるのだから恐れ入る。しかも、この個人発信ツールは、タダでも利用できるというのだからスゴイ時代になったものである。
同人誌や個人誌を作ったことがある者からすると、ブログは夢のようなツールといえる。これを使って、どんなことができるのか……僕が利用し始めた頃は、むかし撮った映像や、マンガ・文芸作品などをまとめたり、ローカルヒーロー・ショーを実写版マンガのようにまとめるのに使ってみたり、色々試しながら、《気ままな個人誌》のようなつもりで続けてきた。
03ブログ色々試行
「いつでも見ることができる」というのがブログの大きな魅力の1つだが、Yahoo!ブログがサービスを終了してしまえば、投稿し続けてきた記事は、もう見ることができなくなる……そうなる前に記事をFC2ブログに移行することができたのでホッとしている。

僕は拙作小品や関心があることをまとめ、いつでも見られるように整理しておきたいという考えで──また、同じような関心のある人にも面白さを伝えられたらという思いもあってブログを利用してきた。自分でおもしろいと感じることを記事にしてきたのだから当然なのだが……たまに昔投稿した記事を読み返してみると、おもしろい。ただ、記事が増えてくると、「見たい」と思い立ったときに、該当記事を探しだすのが難しくなってくる。そこで、過去に投稿した記事とリンクしたタイトル一覧のメニューをいくつか作ってある。


ブログ引っ越し騒動:ひと区切りついて
沈みゆくYahoo!ブログの記録


エッセイ・雑記 〜メニュー〜
インディーズ&ローカルヒーロー目次
創作童話・ショートショート・漫画メニュー
作品評・感想など(映画・本)〜目次〜
エアポケット幻想
【冗区(ジョーク)】〜メニュー〜
昆虫など〜メニュー〜
小動物など〜メニュー〜
チャンネルF+〜抜粋メニュー〜

松本清張『ゼロの焦点』感想:小説と映画の比較

松本清張・作『ゼロの焦点』(新潮文庫)を読んでみた
01ゼロの焦点新潮文庫
少し前に邦画『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観ておもしろかったので(*)原作(小説)の方でも読んでみたいと思っていたところ、ブックオフで文庫版をみつけたので購入。それが『ゼロの焦点』(松本清張/新潮文庫/昭和46年2月20日発行/平成16年4月20日百刷)で、カバーの裏表紙側にはこのような文章⬆がそえられていた。
内容を知らずにカバーの紹介文を目にした、これから読者になるかもしれない者に「《失踪した夫の鵜原憲一》は《自殺として処理されていた曽根》だった」という重要な謎の一端をバラしてしまうのはどうかと思う。このカバーを読んだ読者は作中で明かされる前に、失踪した鵜原憲一が死んでいることを知ってしまうことになり、「曽根」という名前が出てきた時点で、(主人公・禎子は気づいていないのに)それが失踪した禎子の夫だとわかってしまう。本来であれば主人公の禎子がその真相に気づいた時点で読者にもわかる方が新鮮な驚きが伝わるはずで、作者も当然そのつもりで書いていたはずだ。本編後の「解説」で内容についてある程度ふれるのは仕方が無いが、本編を読む前に(本を買う前に)読まれるだろうカバーに「しかけ」を明かすネタバレは不適切な気がする。

僕は原作(小説)を読む前に映画(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)で『ゼロの焦点』を見ているので、当然、カバーのネタバレ内容についても知っていたし、(映画化で改編された部分はあったにしても)内容のアウトラインはすでにわかっている状態で小説を読んだ。だから内容を知らずに読んだ場合の第一印象とは、また違った感想ということになるが……映画(松竹/1961年)を観たあとに小説(原作)『ゼロの焦点』を読んで感じたところを記してみたい。


小説版(原作)『ゼロの焦点』の感想
読み始めてまず感じたのは、映画(1961年松竹版)を観ているので、小説(原作)の『ゼロの焦点』はおもしろく読み進むことができた──ということだ。ストーリーのアウトラインは映画でだいたいわかっている。もちろん映画にするために改編された部分はあるにしても、人物関係や流れは頭に入っているので、「どんな展開になるのか、やきもきして先を読み急ぐ」必要もない。そのため「その場に置かれた鵜原禎子(主人公)の心情」をじっくり味わいながら読むことができた。映像よりも文章の方が登場人物の心の変化を的確に描くことができる。心理描写の味わいは映画以上のものを感じた。小説にしろ映画にしろ、ストーリーは大事だが、そのドラマの中に置かれた登場人物たちの心情(驚きや葛藤などのリアクション)に読者や視聴者は共感する。

主人公の(旧姓・板根)禎子は、鵜原憲一と見合い結婚をしたが、夫という身近な存在になった10歳年上の男について、まだ未知の部分が多い。ある日を境に夫婦になった見知らぬ男女が、どのように互いを感じ、知っていくのかという意識の変化を新婦の禎子の視点で描いていく展開が、小説では新鮮に感じ、興味深かった。
そんなわけで、読み始めてしばらくは小説(原作)もいいなと感じていたのだが、後半は事件を整理するための「説明」が増えていき、前半にあった小説としての味わいはどんどん薄れていく……終盤になると、それまでの展開に整合性をもたせるための辻褄合わせに追われて小説的な広がりが失われてしまった印象がある。
映画(松竹/1961年)では最後に犯人の自白でことの真相が明かされるシーンがあったが、小説ではその場面はなく、事件の真相については全て「鵜原禎子の解釈(推理)」で語られいる。この推理が「なるほど!」とストンと納得できるものであれば良いのだが、憶測が多く長いばかりの説明は説得力に乏しい。その推理のどこまでが真実なのか不明瞭なところがあって読後感もスッキリしない。
モチーフ・着眼・テーマなどはおもしろいし、心理描写も前半は良かったのに、後半は冗漫な説明に流れ、最後はぐだぐたになってしまっているのが残念でならない──というのが、小説『ゼロの焦点』を読んでの全体的な感想。具体的に気になった部分・疑問などについては、あらすじを記したあとに述べてみたい。


『ゼロの焦点』(松本清張/新潮文庫)あらすじ ※ネタバレあり
主人公は見合い結婚をしたばかりの鵜原禎子。夫となった鵜原憲一は大手広告代理店の北陸(金沢)出張所主任で、結婚を機に東京本店に栄転、東京で禎子との生活をスタートさせるはずだった。憲一は業務引き継ぎのため、最後の金沢出張に出かけるが、そのまま行方知れずになってしまう。
東京で夫の帰りを待っていた禎子だが、予定の日をすぎても憲一は戻らず、連絡もとれない。憲一の会社でも憲一の所在がつかめず困っていた。禎子は夫が消えた北陸へおもむき、憲一の後任・本多良雄とともに夫の行方を探す。憲一の得意先で懇意にしていた耐火煉瓦会社の室田儀作社長の自宅を訪ねたとき、その家の外観が憲一の所持していた写真と同じであることに禎子は気づく。禎子は憲一の出張中、彼が所持する法律関係の洋書にはさまれていた〝2枚の家の写真〟をみつけ、怪訝に感じていたのだが、その1枚が室田の家を撮ったものだった。室田家では、結婚が決まって幸福なはずの憲一がふさぐような様子をみせていたという話を聞かされるが、憲一の行方につながる糸口は見つからない。
当初は楽観していた憲一の兄・鵜原宗太郎も金沢へやって来るが、弟の行方を追っているうちに宗太郎自身も行方不明になってしまう。そして宗太郎は遺体となって発見される。青酸カリ入りウィスキーによる毒殺であった。憲一の失踪にからんだ殺人事件が起きたのである。
宗太郎が殺害された事件では、派手な服装の女が容疑者に上がっており、この犯人と思われる女がパンパン(米兵相手の売春婦)風だったことから、禎子は憲一の前歴──風紀係巡査として立川でパンパンを取り締まっていた過去とのつながりを考える。憲一の取引先である耐火煉瓦会社をたずねた禎子は、受付嬢が外国人と交わす英会話を耳にし、それがスラング混じりのパンパン英語だったことに気づいく。
受付嬢は田沼久子──最近、内縁の夫・曽根益三郎を亡くしていた。それは遺書を残しての自殺で、曽根益三郎の自殺は憲一の失踪と時を同じくしていた。
禎子と本多良雄は田沼久子を調べ始めるが、今度は久子が姿をくらましてしまう。本多良雄は某かの情報を得て、東京へ高飛びした田沼久子を追って上京し、その間、禎子は久子の内縁の夫だった曽根益三郎の情報を求めて、田沼久子と曽根益三郎が暮らしていた家までやって来る。そこで禎子が見た久子の家は、憲一が所持していた〝もう1枚の家の写真〟に合致していた。禎子は「田沼久子の内縁の夫・(自殺した)曽根益三郎」と「禎子の夫・(失踪した)鵜原憲一」が同一人物であったことを確信する。
金沢の宿に戻った禎子を待っていたのは本多良雄が死んだという知らせだった。田沼久子を追って上京した本多良雄は宗太郎と同じ方法──青酸カリ入りのウィスキーで毒殺されていたのだ。殺害現場は東京のアパートで、前日に部屋を借りた杉野友子という女は事件の発覚前に現場から逃げ出している。

禎子は、杉野友子が田沼久子であると推理するが、その田沼久子も崖下に転落死しているのが発見される。警察は東京で〝杉野友子〟の偽名でアパートを借りた田沼久子が本多良雄を殺害し、警察の追及が迫っていることを知って自殺したものと判断した。

姿を消した鵜原憲一。その行方を追っていた鵜原宗太郎が毒殺され、その犯人と思しき田沼久子を追っていた本多良雄もまた毒殺された。そして、犯人かに思われた田沼久子までも死体となって発見された……いったい何がどうしてこのようなことになったのか。
手がかりを求めて禎子は、かつて憲一が風紀係巡査として勤めていた立川署へでかけ、憲一の同僚だった葉山に、死亡した田沼久子の顔写真が載った地方紙を見せて見覚えがないかたずねる。すると同じ写真を持って同じことを聞きにきた者がいると言う。耐火煉瓦会社の社長・室田儀作であった。

禎子は推理をめぐらせ、一連の事件の背景には憲一と懇意にしていた耐火煉瓦会社の社長・室田儀作がいたのではないかと考え始める。室田儀作を疑った禎子だが、偶然目にしたテレビ番組──終戦直後の婦人問題をテーマにした座談会で、当時GI相手をしていた女性は今どうしているのか……案外立派な家庭におさまっているのではないか──という話を聞いて、社長夫人の室田佐知子が真犯人だったのではないかと思い当たる。地方の名士であり知的で華やかな佐知子に禎子は好感をもっていたのだが、この佐知子が田沼久子同様に元パンパンで立川時代の鵜原憲一と接点があったと考えると、すべてのつじつまがあうと禎子は考えた。
地方の名士となっていた室田佐知子にとって、過去の秘密(パンパン時代)を知っている鵜原憲一は潜在的脅威だった。そこで、鵜原憲一が(禎子と結婚したことで)田沼久子との関係を清算するのに悩んでいたとき、〝曽根益三郎〟の自殺擬装を持ちかけた。憲一に〝曽根益三郎〟名義の遺書を書かせて崖縁に置かせ、背後から突き落として殺害──こうして投身自殺を擬装したのではないか。憲一の死体は、残された遺書から〝曽根益三郎〟の自殺として処理された……。
それが真相であろうと確信した鵜原禎子は、室田邸へ向かうが、室田夫妻はでかけていた。その行く先を追って禎子がたどりついたのは、憲一が殺害された海辺の断崖だった。そこには沖を見つめる室田儀作が立ち尽くしていた。彼の見つめる先には、儀作に一連の犯行を告白した後、荒れた海に小舟で漕ぎ出した室田佐知子が消え行こうとしていた。


2枚の家の写真の意味?
一番最初にでてくる手がかり(?)らしい《謎》が、鵜原憲一が法律関係の洋書の間に保存していた「2枚の家の写真」だ。1枚は立派な家で、もう1枚はみすぼらしい民家という対照的なもので、写真の裏にはそれぞれ「35」と「21」という数字が書き込まれていた。思わせぶりな数字だが、この意味については結局最後まで明らかにされていない。立派な家は鵜原憲一が懇意にしていた室田儀作・室田佐知子が住む家で、みすぼらしい家は田沼久子が内縁の夫・曽根益三郎と暮らしていた家だった。「昔パンパンだった女(室田佐知子・田沼久子)が現在暮らしている家」という共通点があったわけで、作者はそういった記号として設定したのだろうが……鵜原憲一がどうしてわざわざ写真に撮って2枚だけ別に保存していたのか、ちょっと腑に落ちない感じが残った。

メイントリックの不備!?
この作品を支える主要なアイディアの1つが次のようなものだったろう。

・地方に出張していた男Aが出張先で偽名を使い、Bとして、女Cと同棲していた。
・Aは東京に栄転し結婚することになり、Cとの関係を清算しなければならなくなる。
・ところが、Cとの別れ話がもつれ、AはBの自殺を擬装してCとの関係を断ち切ることを考える。
・万事上手く解決かと思われたが、この擬装に乗じてA(B)は実際に殺害されてしまう。遺体はBとして処理され、Aは失踪したことになる。


面白いアイディアだ。『ゼロの焦点』では、鵜原憲一(A)が出張先で〝曽根益三郎(B)〟として田沼久子(C)と内縁関係を結んでいたという設定をとっている。この二人が、憲一の出張先で初めて知り合った関係であれば、このアイディアは成立するのだが、『ゼロの焦点』ではテーマにからめてだろう──田沼久子をパンパンあがり女として設定し、過去に立川署で風紀係をしていた鵜原憲一と接点があったことにしている(当時は顔見知り程度で久子は鵜原の名を知らなかった)。二人に立川時代の接点が無ければ、偽名の〝曽根益三郎〟が死んだとき、田沼久子は彼の本籍を知ることができず、遺体は〝曽根益三郎〟として処理されてトリックは成立する。しかし『ゼロの焦点』の設定では田沼久子は彼が昔、立川署の巡査だったことを知っている。埋葬の過程で必要となる彼の本籍は久子が立川署に問い合わせれば、簡単に本名とともにわかったはずである。そうなればこのトリックは成立しない。アイディア自体はおもしろいのだが、『ゼロの焦点』では欠陥があったといえる。
この欠陥は映画を見ているときには気がつかなかった。小説では町役場をおとずれた鵜原禎子が〝曽根益三郎〟の本籍についてたずねるシーンがあって、「本籍がわからないので、しかたないから本籍分明届を出してもらって埋葬許可証を出した」という説明を受けているくだりがある。これを読んで、田沼久子なら立川署に問い合わせることで彼の本籍とともに本名を知ることができただろうと想像が働いた。原作小説ではディテールの整合性をとるために細かい説明を書き込んでいるが、読者の意識を「細かいこと」に誘導することで、かえって細かい疑問を生みやすいものになってしまった感がある。


毒殺犯はなぜわざわざ派手な服装をしたのか?
失踪した鵜原憲一の行方を追っていた兄の鵜原宗太郎は、青酸カリを混入したウィスキーで毒殺されてしまう。この事件に関しては犯人と思われる派手な服装の女が鵜原宗太郎と一緒にいたという目撃情報があって、禎子は、派手な服装➡パンパン➡パンパン英語を話す受付嬢(田沼久子)と連想することになる。事件を追う方・読者からすれば、わかりやすい記号だが、その女が元パンパンであったとしても、これから人を毒殺しようとする犯人が、わざわざ人目をひく派手な服装を選ぶだろうか──という不自然さを感じた。後の禎子の推理では、女が持っていたスーツケースの中味は着替えで、派手な服は変装だったと解釈している。しかし、変装だとしても、場にふさわしくない服装は不自然であり、目立つことによるリスクの方が大きいのではないか。目撃情報によって犯人と思われる者が女であることがわかったわけだが、派手な服装をしていなければ鵜原宗太郎と一緒にいても目撃した人の印象には残らず、犯人が「女」だったという目撃情報も上がってこなかったかもしれない。擬装(変装)のためにわざわざ目立つというのは、犯人にとって無謀な気がする。

なぜ本多良雄は犯人の出した毒入りウィスキーを飲んだのか?
鵜原宗太郎を毒殺したと思われる女を追って上京した本多良雄は、その女が出した青酸カリ入りウィスキーを飲んで死んでいる。本多良雄は「鵜原宗太郎が、女の用意した青酸カリ入りウィスキーを飲んで死んでいる」ということを知っている。その犯人と思われる女が出したウィスキーをあっさりと飲むものだろうか?
この展開にも不自然さを感じた。ちなみに映画(松竹/1961年)では本多良雄の殺害エピソードはない。


鵜原禎子はなぜ捜査に協力しないのか?
小説を読んで理解できなかったのが、鵜原禎子が警察に非協力的なことだ。
鵜原憲一の行方を追っている鵜原宗太郎が毒殺されたあと、禎子は受付嬢の田沼久子を疑うが、そのことを警察には告げていない。宗太郎は失踪した鵜原憲一を追っていて殺されたのだ。同じように憲一を探している鵜原禎子や本多良雄が狙われる危険は大いにある(その後、本多は殺されることとなる)。自分の身を守るためにも思い当たる手がかりは何でも警察に話して捜査協力し、一刻も早く犯人を検挙してもらおうとするのが自然ではないだろうか。事件の早期解決が失踪した鵜原憲一をみつけだす近道にもなるはずである。なのに鵜原禎子が警察に非協力的なのが不可解に感じた。

本多良雄が田沼久子を追って上京したあと、禎子は田沼久子の家をたずね、「自殺した田沼久子の内縁の夫〝曽根益三郎〟」が「失踪した夫・鵜原憲一」であったことを確信するが、そのことも警察に告げようとしない。そればかりか、その日、宿に帰った禎子は本多良雄が東京で毒殺されたことを知らされ、刑事から心当たりをたずねられるのだが、禎子は〝心当たり〟を隠して無いと答えている。


刑事はうなずいた。
「そうすると、今度、本多さんが東京で殺されたことには、お心あたりがないわけですね?」
「全然ございません」(『ゼロの焦点』P.281)


さらに、田沼久子の〝自殺〟が報じられた後、禎子はその経緯を説明した刑事から、この件について知っていることはないか尋ねられるシーンがあるのだが、禎子はやはり隠して嘘を答えている。

「この間うかがったことを、もう一度おたずねするようですが、田沼久子と本多さんの関係を、本当にごぞんじないんですか?」
「本多さんのことは、この間も申しあげたとおり、主人の友だちというだけで、私生活のほうは、まったくぞんじあげておりません」
 禎子は答えた。
「ですから、田沼久子さんというひとのことは、全然、私は知らないのです」(『ゼロの焦点』P.313〜P.314)


禎子は作中で何度も警察を訪ね情報を得ているのに自分が持っている情報をなぜ隠すのかわからない。禎子が田沼久子に疑いを持った時点で警察に話していれば、事件はもっと早く解決し、後に起こる本多良雄殺しや田沼久子と室田佐知子の死は防げたかもしれない。
小説前半の繊細な禎子なら、自責の念にかられてもよさそうな気がするが、作者は「説明」に忙しくなって、内省を描く余裕がなかったのか……?


失踪した夫が見つかったのになぜ警察に届けないのか?
この作品における主人公・鵜原禎子の主目的は《失踪した夫探し》であったはずだ。それなのに、「自殺として処理された田沼久子の内縁の夫〝曽根益三郎〟が、失踪した夫・鵜原憲一である」と気づいた後も、禎子はそのことを警察に報告していない。これはずいぶん不自然なことに感じた。警察に届ければ、それが禎子の夫であることが確認されるだろう。その事実は進行中の殺人事件の捜査にも重要な意味を持つことになるはずだ。
また、警察の捜査を別にしても──探していた夫をようやくみつけたのに、他人として、他の女の内縁の夫として死亡した扱いになっている──その状態に、正妻である禎子は何も感じないのだろうか? 遺骨や墓、戸籍の問題をきちんと正したいとは考えなかったのだろうか? 小説の前半では禎子の心理が克明に描写されていたのに、後半は事件の説明に追われ、辻褄合わせに気をとられて、禎子の心理についてはおざなりになっている印象が否めない。


事件の真相は禎子の推理でしかない
鵜原憲一の謎の失踪から始まり、それを追っていた鵜原宗太郎や本多良雄が殺され、犯人かと思われた田沼久子も遺体となって発見される……一連の事件は誰が何のためにどのようにして仕組んだものなのか──事件の核心に迫る真相の解明がクライマックス・見どころということになる──はずだ。物語の中にちりばめられてきた数々の謎がひとつにつながる──いわゆる《謎解き》である。
ところが、小説『ゼロの焦点』では事件の客観的な《真相》については明言されていない。すべて禎子の「こういうことに違いない」「おそらくこうであろう」という推理として描かれているだけで、読者としては、どこまでが《真相》なのか、よくわからない。
たとえば──、


室田夫人を犯人としても、少しも矛盾はない。ただ、彼女が、立川のGI相手の特殊な女性だったという裏づけは何もないのだが、おそらく、この推定には錯誤はないだろう。(P.391)

《室田夫人を犯人としても、少しも矛盾はない》ということをもって《室田夫人が犯人である》と断定することはできない。禎子の推理に矛盾がなかったとしても、それ以外の可能性が否定されるわけではない。《謎解き》としては何ともたよりない解説で、けっきょく読者には客観的な《真相》は明かされず、禎子の推理を肯定するのは、室田佐知子に真相を打ち明けられた鵜原宗太郎が断崖上で発した言葉だけだ。

「もう私からお話することはないでしょう。ここに来られた以上、あなたには、もう、すべてがお分かりになったと思います」(P.398)

「昨夜、和倉に来て、家内を、私は問いつめました。家内は事実を告白しましたよ。もっと早く、私に打ちあけてくれていたら、こんな結果にはならなかったでしょう。私は、あなたにお詫びしなければなりません。あなたのご主人と、ご主人の兄さんを殺したのは、家内です。私は、何も、家内の立場について弁解しません。ただ、私より先に宿を出た家内は、いつのまにか、船を借りて、沖に出ていました」(P.398〜P.399)


鵜原宗太郎は、その場に駆けつけた禎子がどのように推理したかを一切聞いていない。そこに来たことをもって「すべてがお分かりになったと思います」と片付けるのは、強引というより無茶なまとめ方だと感じた。
「あなたのご主人と、ご主人の兄さんを殺したのは、家内です」と室田佐知子が犯人であることを認めてはいるが、禎子の推理のどこまでが真相に合致しているのかは明かされておらず、《真相》の不透明感はいかんともしがたい。
着想もテーマも面白かったのに、どうしてまとめ方がこれほどザツになってしまったのか──先に映画(松竹/1961年)を観ていただけに(映画には犯人が事件の真相を告白するシーンがある)小説では不完全燃焼感を覚えた。

松本清張は売れっ子だったため、多忙で複数の作品を併行して書いていたという話を聞いたことがある。『ゼロの焦点』も連載だったようなので、書きながら前に書いた部分にさかのぼって調整することができず、書いてしまったことを変更できないために後半でつじつつま合わせに四苦八苦することになり、〆切りに追われてザツなまとめ方になってしまったのだろうか……。連載時は仕方なかったにしても、書籍化するときに手を入れることはできなかったのだろうか? とはいっても、手を入れ始めるとかなり大幅に書き換えることになってしまいそうだから、忙しい売れっ子作家の清張にはそれができなかったのだろうか?


タイトルの意味・ふたたび
多忙作家だった松本清張の作品には『波の塔』や『水の炎』など抽象的なタイトルがみられるが、雑誌への連載が決まっていて作品の内容が固まっていない場合──とりあえずタイトルだけは先に決めておかなくてはならないとき、抽象的なタイトルをつけておけば(どうにでも解釈できるので)、作品を考える時間稼ぎができる──という事情もあったらしい。
この『ゼロの焦点』もそのような曖昧さをもつ抽象的なタイトルだったのだろうか?──というタイトルの意味に関する記事を少し前に投稿している(『ゼロの焦点』タイトルの意味)。そのときは映画(松竹/1961年)を観ての意見だったが、今回、原作小説を読んでみて、改めてタイトルを考えてみると……、
一連の事件については、なかなか《真相》がみえてこない。手がかりらしきものを見つけてたどっても、その「線」はなかなか「焦点」を結ばない──それで『ゼロの焦点』なのだろうか? などと、そんな可能性も頭をかすめた。


「解説」にあった平野謙氏の《疑問》
小説『ゼロの焦点』について不備を感じるのは僕だけではないようだ。
『ゼロの焦点』の新潮文庫版(昭和46年2月20日発行)では本文の後に平野謙氏による「解説」が載っているが、この中には次のような記述がある。


なぜ宗太郎や本多は殺されねばならなかったのか、という疑問に十全な解決が与えられているとはいいがたいのである。憲一と久子とが死ねば充分であって、宗太郎や本多を殺す必要はなかった、というのが私のひそかな意見である。
 なぜこんなことをあえて書きとめておくかといえば、『ゼロの焦点』を一種の謎解き小説ととみれば、その謎解きの構造は完璧のものではない、というのが現在の私の意見だからである。(『ゼロの焦点』解説:平野 謙 P.408)


平野氏は、(犯人が)《宗太郎や本多を殺す必要はなかった》と考えたようだが、この点については僕の解釈と違う。犯人は、自殺として処理された〝曽根益三郎〟の擬装工作がバレ、他殺であると発覚することをおそれて犯行に及んだのだろう──僕はそうとらえている。
鵜原憲一の行方を追っていた宗太郎や本多が、死亡した〝曽根益三郎〟と鵜原憲一が同一人物であったことをつきとめれば、東京で結婚した妻・禎子には「十二日には帰れると思う」と絵はがきをよこし、内縁の妻・田沼久子には遺書を残していることから、これが田沼久子と縁を切るための擬装工作(荒海の断崖の上に揃えた靴や遺書を置けば、死体が上がらなくても自殺に見える)だと判断されるのは自明の理だ。しかし、それであれば生きているはずの鵜原憲一(曽根益三郎)が、実際には死んでいる──ということは自殺は擬装工作であったが、これを利用して彼を殺した者がいるということになる。
自殺で片がついていた懸案が殺人事件として蒸し返され、本格的な捜査が始まることを犯人はおそれ、それを未然に防ぐために宗太郎や本多を殺害するに至った──というのが僕の解釈だ。
しかし、「解説」をまかされるほどの人が《疑問》を感じるほどに、『ゼロの焦点』の《謎解きの構造》には難があるということは言えるだろう。


映画『ゼロの焦点』(松竹/1961年)との比較
02ゼロの焦点1961
原作小説を読む前に僕は映画で『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観ている。原作小説と映画(松竹/1961)で感じた違いなどを少し記してみたい。
小説と映画では表現手法が違うので、それぞれにふさわしい見せ方があって、当然、映像化するさいにはある程度の改編が必要になる。
物理的にも長編小説の内容をそのまま映像化しようとすれば、上映時間枠にはとてもおさまらなくなる。映画化するにあたっては、場面数を整理したり、人物の役割り分担を変更することもあるだろう。それにあわせてセリフの変更や再整理も必要になる。映像として魅せるための工夫も加えながら再構築するわけだから、原作小説とは違った部分がでてくるのはしかたない。ちなみに『ゼロの焦点』(松竹/1961年)は1時間35分の作品になっていた。この中に長編小説のエッセンスが凝縮されている。


禎子の旧姓
鵜原禎子の旧姓が、小説では「板根」だが、映画では「岡崎」になっていた。文字で読むぶんには「板根」で問題ないと思うが、映画の音声では「イタネテイコ」より「オカザキテイコ」の方が耳障りが良いと考えたのだろうか?
小説では主人公・鵜原禎子の視点にほぼ限定された展開で描かれており、そのため《謎解き》も禎子の推理でしかなく、それが客観的に確かめられるシーンがなかったため、なんとも歯がゆい幕切れになってしまっていたが、映画(松竹/1961年)では、禎子を主人公にしながらも、禎子の推理を語る場面や犯人が真相を打ち明ける場面では、禎子不在のシーンが描かれている。小説に無かったシーンとしては、ラストの断崖での禎子と犯人の対峙と真相の告白/弟の行方を追う鵜原宗太郎と犯人の対峙/断崖の上で投身自殺を擬装する鵜原憲一が犯人に突き落とされるシーン/曽根益三郎(鵜原憲一)と田沼久子の暮らしなど。そうした部分は小説よりも観客に伝わりやすかったろう。


2枚の家の写真
映画で矛盾を感じたのが、《2枚の家の写真の意味》だった。小説では鵜原憲一が出張先で再開した元パンパンの住む家ということで(?)撮影されたもので、憲一が金沢赴任して間もない頃のものだろうということになっている(憲一は赴任先で出会った室田佐知子と田沼久子を当初から元パンパンだと気づいていた)。しかし映画(松竹/1961年)の方では、憲一が室田佐知子の過去に気づいたのは自殺擬装計画が立てられた後で、室田邸の写真が「元パンパンの住む家」という動機から撮られる機会はなかったことになる。映画では(でも)なぜ2枚の家の写真が撮られたのか明確に記されていない。不自然な気はするが、映画だけ観ると憲一が懇意にしていた家族の家ととれなくもない。家の写真は、禎子が曽根益三郎の家(小説では田沼久子の家)を見て、曽根益三郎=鵜原憲一だと確信するシーンで効果を発揮しており、小道具としては、田沼久子の家の写真1枚で良かったのではないかという気もする。

映画では本多良雄の方が英語力が上
小説では受付(田沼久子)のパンパン英語に気づくのは鵜原禎子だが、映画ではそれを指摘したのは本多良雄になっている。主人公の鵜原禎子が直接気づく方が本多良雄の伝聞で知るより効果的な気がするが……。小説では鵜原禎子が英語を得意とする伏線が描かれているので自然だが、場面を整理した映画ではその伏線シーンはない。それで「いきなり鵜原禎子が英語力を発揮する」よりは広告代理店に勤める本多良雄が気づく方が自然だという判断で変更したのかもしれない。

本多良雄は死なず
小説では田沼久子を追って上京した本多良雄が鵜原宗太郎と同じ手口で毒殺されている。このエピソードが映画(松竹/1961年)にはない。映画では、本多は憲一の捜索に行き詰り警察にまかせて手を引く設定に変更してある。時間枠の制限によるエピソードの整理という意味合いも大きいだろうが、「宗太郎殺しの容疑者を追っている本多が同じ手口でやすやすと毒殺されるのは不自然」という判断もあったのではあるまいか。

鵜原宗太郎の指摘
小説より踏み込んでいたのが(小説には無かった)鵜原宗太郎と犯人の対峙シーンだ。複雑な人間関係をセリフで説明しているのでわかりにくいところもあるのだが、「夫(鵜原憲一=曽根益三郎)は自殺した」と話す田沼久子になりすました室田佐知子に対し、宗太郎は「憲一には死ぬ理由が無い。もし本当に死んでいたというなら殺人だ」とまくしたてる。曽根益三郎が残した遺書があるという主張には「曽根益三郎は遺書を書いたが、憲一は書いていない。本当に自殺するつもりなら鵜原憲一が書いた遺書もなくてはおかしい」という指摘をし、死んだというのは何かの工作で、生きているはずだと迫る。そして、あくまでも自殺と言い張るのであれば、警察の手を借りて徹底的に捜査してもらうと犯人を追いつめる。その結果、宗太郎は毒殺されてしまう。曽根益三郎(鵜原憲一)の擬装死に関してこのような矛盾の指摘は原作小説にはなく、宗太郎が殺されねばならなかった必然性が映画では明確化されていた。

映画では禎子は警察に推理を話している
小説では鵜原禎子が警察に非協力的な点や《鵜原憲一=曽根益三郎》とわかった時点で警察に届けない点について疑問を感じたが、映画では展開が早いせいもあって非協力的な印象は無い。《鵜原憲一=曽根益三郎》と気づいた後、禎子は警察でこの話をし、内縁の妻(田沼久子)が別れ話のもつれから曽根益三郎(鵜原憲一)を殺して、それを隠すために宗太郎を殺した──という推理を話している。
(しかし、警察は鵜原憲一の書いた遺書があり、筆跡も本人のものと確認されているとして、憲一の死は自殺と断定した)


印象的な断崖での対決シーン
小説にはなかったシーンで強く印象に残ったのが、クライマックス〜ラストシーン──海辺の断崖(鵜原憲一が殺された場所)で、鵜原禎子と真犯人・室田佐知子が対峙するシーンだ(室田儀作を含め崖の上には3人が立つ)。ここで、禎子の推理と佐知子の語る真相が交錯する。強風と荒波にさらされた断崖は映像的にも見せ場の効果を高めていた。
禎子の推理では自殺の擬装をもちかけたのは室田佐知子だったが、室田佐知子の告白では憲一主導だったとしている。他にもいくつかの点で禎子の推理とは違っていた事実が、小説には無かった解釈・アレンジを加えながら描かれている。真相を語り終えた室田佐知子は走り去り儀作がそれを追って、断崖には鵜原禎子が独り残される(佐知子は自害したことが禎子のナレーションで流れる)。
小説を読む前にこの映画を観た時は、説明的で長い《謎解き》シーン(1時間35分の作品のうち最後の37〜38分が断崖シーン)が「スマートでない」と感じたが、原作小説のぐだぐだぶりに比べれば、むしろ「原作をよく、ここまでまとめたな」という気がした。
いくらか強引と感じるところもあったが、『ゼロの焦点』を原作とする映画としては、この作品(松竹/1961年)は成功していると言えるだろう。


『ゼロの焦点』のおもしろさ
僕がこの作品で面白いと思ったのは──、
《葬り去りたい過去を持つ者が、現在の自分の成功を守ろうとして講じた策によって、かえって身を滅ぼすことになる》という皮肉な構図だ。
ことの発端はといえば、結婚して東京に栄転したエリート社員・鵜原憲一が、出張先での同棲生活を葬るために自殺の擬装をはかったことだった。同棲していた相手をだますのだからひどい話ではあるが、これは暴力を行使するような凶悪なものではない──殺人とは次元の違うゴタゴタだった。しかし、憲一がニセの遺書を書いたことで、これが「葬り去りたい過去」を持っていた室田佐知子に実行(殺害)の機会を与えることとなってしまい、室田佐知子は秘密を守るために、さらに殺人を繰り返し、結局、自害するはめになってしまった……。鵜原憲一も室田佐知子も、現在の幸福を守ろうとして、その足をひっぱりかねない過去を葬る工作をし、自らの足をすくわれた形だ。憲一の策謀に同じ動機の佐知子の策謀を重ねた着想に因数分解のような美しさと巧さを感じた。
小説の中では、鵜原憲一・鵜原宗太郎・本多良雄・田沼久子・室田佐知子が死んでいるが、鵜原憲一が内縁の妻と縁を切るための擬装を画策しなければ、これら5人が死ぬこともなかった。そう考えると、何をきっかけに人生が大きく変わるかわからない……人の弱さ・愚かさ・切なさ・やるせなさを感じさせる作品でもあった。


『ゼロの焦点』タイトルの意味

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《学力》と《賢さ》

《学力》と《かしこさ》
子どもの頃、学力が高い──つまり、勉強ができる成績優秀な生徒というのは頭が良い(かしこい)のだろうと思っていた。テストで良い点をとる子は、授業内容を良く理解し習ったことをよく覚えている──理解力もしくは集中力があって記憶力にすぐれているのだろうという解釈。もちろん、成績を上げるには努力も必要だろうが、「元々かしこい子」はテストの点も高めになりがちだから勉強を「得意分野」と自覚して熱心になるのだろう。スポーツにしろ趣味にしろ、誰でも自分が「得意」と感じるものに熱心になるのは自然なことだ。勉強が得意だと先生や親から褒められるし進学・就職にも有利になる。趣味やスポーツよりも実益がともなうのだから、打ち込み甲斐だってあるだろう。成績の良い子は、ますます勉強に精進し「賢さ」に磨きをかけることになる……優等生から遠いところにいた僕は、そんなふうに考えていた。

だから、かつて怪しげなカルト教団が起こしたテロ事件に、高学歴の信者が数多くかかわっていたことを知ったときはとても驚いた。特に論理的な思考をしているはずの科学畑のエリートが、どうしてそんな胡散臭い教義を信じて道理を外れた行為に走ってしまったのか、とても不思議だった。「賢い人」なら「ちょっと考えれば、それが正しいことかどうか解りそうなものだろう?」という気がしてならず、当時しばらくは理解できなかった。

しかしその後、高学歴の人書いたものを読み、発信した意見などを見聞きしているうちに、「高学歴」ということと「頭が良い(賢い)」ということは必ずしも一致しない──むしろ逆のケースも少なくないのではないかと考えるようになった。科学畑の人が、必ずしも論理的な思考をするわけではないと感じることも、しばしばあった。

学力優秀な人というのは、教師が教えたことをすんなり受け入れられる人──ある意味、洗脳されやすい人ということもできなくはない。教わった知識・ロジック・考え方を、疑問をさしはさむことなく、すみやかに取り込むことが学力向上の近道ならば、「自分の頭で考える」ことをやめ、「人の頭で考えたこと」をなぞる──実質「脳内コピペ」で、手っ取り早く必要情報(設問に対応する正解)を学習する方が効率的ということになる。そうした効率性を優先する学習スタイルをとり続けていれば脳もそうした使い方に適応していき、「自分の頭で考える」能力が低下していくことになるのではないか。

以前、読書感想文の解答マニュアルを配布した小学校があるというニュースを知って驚いたことがある。このマニュアルによると──《書き出しでは小説の一部を抜き出し、自分の考えを書く。次いで本を選んだきっかけや読み始めたときの感想を書き、自分の体験を書く。最後に書き出しの部分に戻り自分がどう変わったかを書く》といった流れなどが説明されていたらしい。本来なら本を読んで自分で感じたことを意識化し、それをどうまとめれば他者に伝わる形になるのか、考えを整理して文章の構成や表現を考える──というのが読書感想文であり、自分の頭で考えて論脈を構築するという「考えをまとめる訓練」に意味があると僕は考えていた。だから、最初から「自力で考えをまとめる」ことを放棄し「雛形にあてはめて考える」という安易な方法を教える小学校があることにあきれた。

確かにマニュアルに従って感想文を作成すれば、効率よく無難に読書感想文という課題をクリアするノウハウを得られるかもしれない。見かけ上の「学力」はこうした指導で短期的に向上するのかもしれないが、「自力で考えをまとめる」努力を放棄するのだから「賢さ」は育たない。こうした指導で学力を高めたマニュアル頼りの生徒が将来、短絡的な雛形構図でしか物事をとらえられないリテラシー(情報をうのみにせず主体的な判断に基づいて読み解く能力)の欠如した人に育っていくのではないかという危惧を感じずにはいられない。

こうした人は、時間をかけ自力で論脈を組み立てて考えることをせず、「他人の頭で考えたロジック」にあてはめて解釈することで自分で「考えた」気になるのだろう。脳内コピペした雛形ロジックにあてはめることで「正しい判断ができた」と錯覚しているふしがある。本人の自覚としては学習した多くの知識を活用して判断しているのだから「自分は賢い」と思っているのかもしれないが……形を見なければいけないとき色をみていたり、重さを測らなければいけないときに物差しを持ち出すような、トンチンカンな捉え方をしていることに気がつかないでいたりする。
「脳内コピペ」で得た知識に当てはめてものごとを判断するのは、もはや「思考」とは呼べない気がする。「他人が考えた構図ににあてはめる作業」でしかない。「思考」を《絵画》に例えるならば、「他人が考えた構図ににあてはめる作業」は《塗り絵》のようなものだろう──他者が作った枠に合わせて色を塗っていくだけ。それでは自分で絵を描いたことにならない。同様に「他人が考えた構図ににあてはめる作業」は自分で考えたことにはならない。

件のカルト宗教にハマってしまった高学歴者は、世の中への不安や疑問を感じながら自力で考えを整理・解決することができずにいるリテラシーの低い人たちだったのではないか。教団内では地位を設け、教祖の教えにどれだけ従順かを信者間で競わせることで「自分の頭で考える」余地を破棄させ、教義への親和性を高める修行を行っていたのかもしれない。そのために高学歴の人が「他者の(教祖の)ロジック(教え)にあてはめて解釈する」ことしかできなくなり犯罪に加担することになってしまったのではないか……今ではそんなふうに考えている。

本来なら物事をきちんと理解し納得するには時間がかかるものだ。しかし面倒な「自分の頭で考えること」をサボって効率化に走り、「脳内コピペしたロジックに当てはめて判断する」という短絡的な学習スタイルを身につけてしまうと、「学力は高まるが、賢くない」という人ができてしまうのではなかろうか?

個人の意見が世間に向けて発信できるようになった(インターネット時代の)昨今──マトはずれな短絡コメントを見かけることは少なくない。未熟な思考をする人たちの中には意外にも高学歴者が含まれているのではないか……と感じることがあるが、《高学歴》が必ずしも《賢さ》を示すものではないと考えると、合点がいくのである。



Twitterと短絡思考化?
《思考のクラウド化》と《web集合自意識》
点と線…テンで理解できまセン
読書感想文の解答マニュアルに疑問
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