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2019年09月の記事 (1/1)

『ゼロの焦点』タイトルの意味

謎めいたタイトル『ゼロの焦点』の意味
ゼロの焦点@松竹
邦画『ゼロの焦点』(監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次/松竹/1961年)を観た。言わずと知れた松本清張の同タイトル推理小説を映画化した作品。テレビを離脱する以前にWOWOWで放送されたものをDVDに録画していたのだが、それを久々に鑑賞してみたしだい。『ゼロの焦点』は松本清張自身も気に入っていた作品だそうで、これまで何度も映像化されている。僕が観た松竹1961年版は、主人公が夫の殺害現場である断崖絶壁で犯人と対峙し謎解きを語る見せ場(?)が説明的でスマートではない気もしたが……「葬り去りたい過去の秘密を持つ人たち」によって引き起こされた殺人事件という作品の意図(着眼)や筋書きは面白いと感じた。内容は込みいっていて感想を記すには行数を要すし、作品評はすでに多くの人がしていると思うのでここではスルーして……今回は作品の内容についてではなく、タイトルについて取り上げてみたい。

『ゼロの焦点』──このタイトルの意味するものは何?
小説にしろ映画にしろ、この作品を読んだり観たりした人の多くが抱く疑問ではあるまいか?
謎めいたタイトルであっても、読んだ(観た)後に「なるほど!」と合点がいくのが本来ならば理想のタイトルというものだろう。しかし、『ゼロの焦点』に関しては作品を鑑賞したあとにも、そのタイトルの意味するところが釈然としない。作品の内ではきれいに謎解きがなされているけれど、タイトルの謎は残されてままだ……。

有名な作品だし、興味を引くタイトルなので、その由来については明らかにされているだろうと思ってインターネットで検索してみたのだが……ヒットする「解釈」は、どれもピンとこない。『ゼロの焦点』の明確な由来はわからずじまいだった。
松本清張の作品には他にも『波の塔』や『水の炎』など抽象的なタイトルが存在するが、こうした抽象度の高いタイトルについて清張自身が時間稼ぎの苦肉の策(?)だといようなことを語っているそうな。雑誌への連載が決まっていて作品の内容が固まっていない場合──とりあえずタイトルだけは先に決めておかなくてはならない状況(予告号のタイトル〆切は実際の作品の〆切りより早い)で、どのようにも解釈できる抽象的なタイトルにしておけば、作品を考える時間稼ぎができる──ということらしい。
『ゼロの焦点』もそのような曖昧さをもつ「あまり意味の無いタイトル」だったのではないか──というような説(?)もあって、僕が目にした中では、これが一番「そうかもしれないな」と思える解釈だった。

『ゼロの焦点』というタイトルがどのようにして決まったのか、清張自身がどこかで明言していてもよさそうな気もするのだが……僕はその情報を知らない。そこで、僕なりの推理を記してみたい。あくまでも僕の思うところであって、これから述べる解釈が正しいかどうかはわからない。

タイトルの意味を考えるにあたって、『ゼロの焦点』の内容についてチラリと触れておくと──、


主人公は新婚間もない鵜原禎子(久我美子)。夫の鵜原憲一(南原宏治)は見合いで知り合った大手広告会社のエリートサラリーマンで、結婚を機に金沢出張所から東京本社営業部に栄転──二人は東京に新居を構える。結婚して一週間目、憲一は禎子を東京に残して、仕事引き継ぎのため最後の金沢出張に出かける。ところが、憲一はいつまで経っても戻ってこない……というところから事件が展開する。謎の失踪をとげた夫を追って禎子は初めての北陸の地を踏む。夫の足取りを追っていくうちに、憲一は禎子と結婚する以前に、出張先で曽根益三郎という偽名を使って内縁の妻・田沼久子(有馬稲子)と暮らしていたことがわかる。憲一はその虚構の生活を隠蔽・清算をするために曽根益三郎(偽名の自分)の自殺を擬装しようとするが、実際に(憲一が)殺害されてしまっていたのだ……。

ところで、『ゼロの焦点』は連載開始当初のタイトルが『虚線』だったという。こちらは『ゼロの焦点』に比べれば、ちょっとわかるような気がする。「実線」に対する「虚線」という意味だろう。
その人がたどってきた人生の軌跡を「実線」とするならば、偽名を使って生きた虚構の軌跡は「虚線」と言える。鵜原憲一(実名)が禎子と暮らした東京でのくらしを「実線」とするなら、曽根益三郎(偽名)が田沼久子と暮らしていた虚構の軌跡は「虚線」というわけだ。また、禎子がたどった夫の足取り──虚構の人物・曽根益三郎の軌跡を「虚線」とみなすこともできる。
あるいは、実際に確かめられたストーリーを「実線」とするなら、禎子が想像(推理)したストーリーを「虚線」とみることもできるだろう。この「虚線」は展開の中で移ろい違った様相を見せていくことになる。

というように『虚線』というタイトルであれば、観終わった(読み終わった)あとに、「そういう意味だったのか」と思い当たらないでもない。ただ、『虚線』という単体の単語は、タイトルとしては、ちょっと弱い……。
そこで清張は、連載メディアを変更したさいに、もっと気のきいたタイトルに差し替えようと考えたのではないか……。創作をしたことがある人ならわかるだろうが、書き進めている作品タイトルの善し悪し(気に入っているか否か)は創作意欲にも反映する。タイトルなんて作品を書き上げたあとに決めてもよさそうなものだが、とりあえず仮にでもタイトルを決めておかないと気持ちよく書き出せない・書き進めにくい──という人は多いはず。タイトルをつけることによって作品のイメージが明確化し描きやすくなるからだろう。

松本清張の抽象度が高い作品タイトルを見ると『波の塔』『水の炎』『点と線』『壁の眼』『蒼い点描』『砂の器』『球形の荒野』など複数の単語で構成されたものが多い。『虚線』もこれにならって変更するなら……「虚線」をたどって事件の真相に近づいていく禎子の行動は「虚線をフォーカス」することと言えなくもない。「フォーカス」で絞られるのは点であるから、線はなじまない……とすれば「虚線」ならぬ「虚点」だろうか? 「虚点のフォーカス」というような方向でタイトルが検討されたことがあってもおかしくはないだろう。清張の感覚で言えば「フォーカス」より「焦点」がなじむ。しかし「虚点の焦点」では「点」が重複する。そこで「虚点」=「虚しい点」を「ゼロ」に置き換え、「ゼロの焦点」というタイトルに到達したのではないか?
正確なプロセスはわからないが、いずれにしても、タイトルとして見た場合、『ゼロの焦点』の方が『虚線』よりも響きは良いし、謎めいたニュアンスが強まる。読み終わった読者(観終わった観客)にはわかりづらいうらみはあるものの、総合的に判断してキャッチの良い『ゼロの焦点』を採用したのではないか──というのが僕の推理なのだが、真相はどうだったのだろう……。


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絶滅危惧!?消えゆく本屋と雑木林

僕が学生の頃──今から半世紀ほど前、本屋は今よりずっと多かった。僕がよく利用する駅の出口付近には多い時で4軒の本屋が立ち並び、家から駅へ行く途中にもさらに2軒の本屋があった。
当時、友人と外で会うときの待ち合わせ場所は、たいてい本屋だった。喫茶店でお金を使って退屈な時間つぶしをするより、書店で本や雑誌を物色していた方が有意義だ。僕は決して本をよく読む方ではなかったが、本屋で「なにか面白いもの」を探すのは好きだった。
当時はインターネットもまだ無く、娯楽メディアといえば、テレビや書籍・レコードなど限られていた。テレビはチャンネル数が少なく、いつでも見たい番組が観られるわけではない(家庭用ビデオデッキもまだ普及していなかったからお気に入りの番組も放送時にしか観ることができない)。いつでも楽しめる個人の娯楽といえば読書やレコード鑑賞が一般的だった。それで書店やレコード店が今よりずっと多かったわけだ。

本は今より売れていたが、書籍情報はあまり多くなく、新聞の広告欄で新刊を知る程度。実際にどんな本が出ているかは書店に行ってみないとわからない。本屋に通い書架をながめて気になる本を探す。気になるタイトルを見つけたら手に取ってパラパラめくってみて購入の可否を決める。書店は《本との出会いの場》であった。とはいっても書架スペースには限りがあるから出版された書籍が全て本屋にならぶわけではない。本屋によって若干品揃え(在庫)が違う。当時本屋はあちこちに点在していたから書店開拓や本屋のハシゴをすることも多かった。
本屋めぐりをして気に入った本を見つけ、手に入れたたときのゲット感は──小学生の頃、雑木林めぐりをしてカブトムシやクワガタを見つけたときの気分の高まりに似ていなくもない。本屋の書架にすまして並んでいた嫁入り前の本が、見初めた自分の所有物になる──これは樹液を吸っていたカブトムシやクワガタを発見しゲットしたときの高揚感に通じるものがある。

お気に入り作家の新作や注目しているシリーズの新刊など、待ちわびた本との出会いも「!」感があるが、自分でも全く予想していなかったたぐいの本との思いがけない出会いというものもあった。これは本屋通いをしていなければかなわなかった《本との出会い》である。運命的な出会いが本屋にはあったりする。

もちろんいつでも気に入った本が見つかるわけではないし、予算も限られていたけれど、購入に至らなかったとしても、書店で色々な本を眺めるのは、それだけで楽しい。タイトルを見ているうちに「こんな話だったら、おもしろそうだな」などと想像がふくらんだり、インスピレーションが刺激されたりする。書店は脳味噌を活性化する想像空間でもあった。だから、実際に本を買う・買わないにかかわらず、本屋をのぞくことが好きだった。これはもしかすると(?)女性が好むウィンドウショッピングに近い感覚なのかもしれない。
当時は駅周辺には、たいてい何軒か本屋があったので、ときには自転車で鉄道沿いに走り、駅ごとに点在する群島ならぬ群書店めぐりをした。日に20軒近く本屋をハシゴすることもあった。

余談だが……学生の頃、本屋でよく待ち合わせをした友人が、その後移り住んだ別の地で、パチンコ屋ばかり多くて本屋が少ないと嘆いていたことがある。「パチンコ屋に対して書店がどれだけあるかで、その地域の文化度がわかる」などと彼はぼやいていた。冗談まじりではあったが、ちょっと説得力を感じないでもない。

さて、そんなわけで僕の学生時分は、あちこちにあった本屋をめぐり歩くのが楽しみの1つだった。しかし、本屋のサービスに関して不満が無いわけではなかった。何か欲しい本があって注文しても、届くまでにずいぶん待たされてしまう。本の価格は、かなりの割合が流通コストに当てられているが、そのわりに客のリクエストにすばやく対応できる体制はできていないのが不満だった。
また、品揃えの点では在庫に面白い本が少ない……おもしろそうな本が売れて、書棚にはつまらない本が売れ残っているのではないか……と感じることも少なからず。本の宣伝は出版社まかせ、配本は流通機構まかせで、本屋自体が努力している姿勢が、あまり感じられない。「客商売なのに、これで良いのだろうか?」と思うこともしばしばあった。しかし読書が娯楽のある程度を占めていた当時は、本の販売を独占的に行っていた書店は、ただ店を構えているだけで経営が成り立っていたのだろう。

それが今では便利になって、本屋にでかけなくてもインターネットで本を探したり注文することができるようになった。本屋に行かずとも本が自宅に届く。本屋を利用する場合は営業時間が限られているが、インターネットを利用すれば24時間いつでも注文できるし、おまけに本屋よりも早く入手できる。本屋を通さずとも本が買えるようになったことで、独占市場の上にあぐらをかいてきた(?)本屋が衰退するのは致し方ない状況である。
また、昔にくらべて娯楽が多様化した昨今、人が本を読む時間そのものも減少しているのだろう。そうした状況も、書店の経営が難しくなっている理由の1つに違いない。
僕の学生時代に4軒あった駅前の本屋は、今では小ぶりな1軒を残すのみとなってしまっている。《本との出会いの場》であった本屋はずいぶん減って、今や絶滅危惧種ならぬ絶滅危惧職状態!? レコード店に至っては地元ではとうに絶滅している……。
本屋めぐりが楽しみだった僕としては、本屋には消えてほしくないという思いがある。それで保全活動のつもりもかねて、なるべく書店へ出向いて本を買うようにしている。本屋を《本との出会いの場》と考えるのは望郷的感傷なのかもしれないが、僕としてはやはり本屋文化はあり続けて欲しい。

きっと今では、本屋めぐりをせずともインターネット上での《本との出会い》があって、書店めぐりをするより早く確実に本を入手できるようになっているのだろうが……個人的には、やはり本屋で実際に本を手にとってみて買うか否かを決めるスタイルが好ましい。その方が《ゲット感》があるような気がする。

例えば……昆虫が欲しいとき、時間をかけ交通費を使って生息地に出かけても、捕れるかどうかの保証は無い。今ならインターネットを利用して購入すれば、手っ取り早く確実に手もとに届くだろう。ネットを利用した方が便利だと解っていても、僕なら、やはりフィールドに出て手間ひまかかる不確実な虫探しを選択したくなる。
同様に本の入手も、便利なネットを利用するより本屋で探したくなる。虫さがしと本さがしは本質的には全然違うものだが……感覚的にちょっと似たところがあるような気がする。

虫屋さんは、標本を見ると採集した時の状況が脳裏に浮かぶというが、僕は自分の本棚に収まった本を見ると、どこの書店でその本を見つけたか……手にとった第一印象から買うことを決断した経緯、実際に読んでみてどう感じたかなど、《本との出会い》の状況がよみがえったりする。
昔、そんな《本との出会い》があった本屋が、ひとつ・またひとつと姿を消していくのは寂しい。子どもの頃に虫とりをした雑木林が開発でなくなっていくような喪失感がある……そんな気がするのは僕だけであろうか?


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ありふれた奇跡:昆虫

昆虫は驚くべき能力を備えたふしぎな存在だ。しかし決して珍しいものではなく、我々の身のまわりには数多くの種類があふれている。中には益虫もいるが、大半は特に人の役に立っているわけではない。それどころか邪魔者扱いされたり嫌われたりして、駆除の対象になっていたりもする。あまりに「ありふれた存在」であるため、人はその不思議っぷりに見向きもしないし、ありがたみなど感じないというのが実情だろう。
そこで、この「ありふれた存在」である昆虫が、もし「ありふれた存在でなかったら」……と、想像してみる。この世界に、昆虫がいなかったら……誰もが昆虫を見たことも聞いたこともないとう仮想世界を思い描いてみよう。昆虫という概念が存在しない──そんな状況下で、初めて昆虫を見たとしたら、あなたは、どう感じるであろうか?
もちろん、生態系の中で大きな役割りをはたしてきた昆虫がいなければ進化のようすも今とはだいぶ違ったものになっていたはずだから「今の世界から昆虫だけがいなかったとする」という仮定は科学的にはあり得ないわけだけれど……これは頭の体操──ちょっとした思考のシミュレーション。今の暮らしの中で、昆虫だけがいない(昆虫を知らない)世界を想像してみよう……。


■リビングデッドならぬリビングシット!?
 ここはあなたの家の裏庭。あなたはサンショウの前にたたずみ枝先をのぞき込んでいる。キレイに並んでいるはずのサンショウの葉──その一部が欠けているのに気づいたからだ。本来ならば、アゲハの幼虫の食痕だとすぐに見当がつくところだが、ここは昆虫の概念が無い仮想世界なので、あなたには判らない。
(どうして、ここだけ葉が無くなっているのだろう?)
 首を傾げたあなたは、近くの葉の上に鳥の排泄物を見つける──黒っぽい糞に白い尿(尿酸の結晶)が混じったものだ。この排泄物を残していった鳥が葉を食べたのだろうか? よく見ると欠けた葉の上にも同様の排泄物が付着している。どんな鳥かはわからないけれど、食べかけの葉の上に糞を残していくとは行儀が悪いやつだ──そう思ったとき、信じられないことが起こった。葉のふちに付着している鳥糞がうごめいたのだ!
(まさか!? 鳥のフンが動くなんて──!?!)
 あなたは鳥糞を凝視する──見間違いでも、目の錯覚でもない。この鳥糞は動いている……あきらかに自律的な運動だった。
「そんな、バカな……」あなたの口から思わず声がもれる。「これはゾンビだ……ゾンビうんこだ!」
 よみがえった死者・ゾンビを「リビングデッド(living dead)」と呼ぶけれど、これは「リビングシット(living shit)」であろうか!? ゾンビもおぞましいけれど、生きた(living)うんこ(shit)だって充分におぞましい。ゾンビ映画に『バタリアン』なんてのがあったけれど……言うならこれは「糞(ババ)タリアン」!? こんなものが存在して良いものだろうか!?!
 あなたは「もしや」と思って、最初に見つけた葉の上に鎮座する鳥糞に目をもどす。落葉の柄でつついてみると、これも、やはりうごめいた……。ということは……生きたうんこをひりだす親玉ゾンビ(?)がいるということになりはしないか!? あなたは激しく動揺する。

01ゾンビ&アゲハ幼虫
 気を落ちつけて観察してみると、なんとリビングシット=ババタリアンが、サンショウの葉を食べている!? 葉の上でじっとしていると「普通に鳥のフン」そのものなのだけれど、そこから枝先へ移動して葉を食べているらしい。鳥糞体の先端には頭のようなものがあって、それが葉の縁をえぐるように動くと頭が通過した部分で葉が欠けていく。よく見ると短く小さな脚が何対かあって、これを使って葉をつかんだり、枝を移動したりしているようだ。
 どうやらこれは《生きているうんこ》ではなく、《うんこ似の生き物》らしい……。「《生き物ちっくなウンコ》か《ウンコちっくな生き物》か」なんて「《「カレー味のウンコ》か《ウンコ味のカレー》か」みたいな気もするけれど……《ウンコちっくな生き物》ならば、まだ受け入れやすい。
 とはいっても、どうしてわざわざ(?)鳥糞そっくりなのか不思議である? あまり気持ちが良いものではないけれど、珍しさから「証拠写真」を撮っておこうとあなたは思い立つ。被写体を接写しながら、ウンコを激写しているようで、なんとなく「気恥ずかしい」思いをするあなたなのであった。


■大魔神に変身!? さらに…
 この《う○こもどき》が庭のサンショウを食害していたことはわかった。ルックス的にも、とても好きにはなれないけれど、駆除のために手をくだすのも気色悪い……ということで、あなたはこれを放置。そして奇怪な姿が気になり、ついついサンショウをのぞき込んでしまうようになる。
 鳥糞そっくりのルックスであなたを驚かせた生物は、ある日とつぜん緑色にカラーチェンジして再びあなたを驚かせた。そしてその2週間後には、枝の途中で形を変えて動かなくなった。ベルトバイブレーターを使用している人のように、糸のベルトを背にかけて不動の姿勢をとっている。その姿は邦画『大魔神』の武神像に見えなくもない……。

02大魔神アゲハ蛹再
 ミイラにでもなったように動かなくなった武神像に変化が起こったのは、さらに2週間ほど経った頃だった。武神像に黒と白のもようが浮き上がっている!?──変化に気づいたあなたがのぞき込むと、武神像が身じろぎを始めた。
 驚愕の大変身は武神像の顔にあたる部分から始まった。《武神像の顔》が裂けて、その下にあった黒い体の一部がのぞく──映画『大魔神』で、動き出した武神像の顔が変わるシーンが脳裏に浮かぶ。裂け目は広がり、それを押し広げるように中から黒い体がはみだしてきた……。
 2〜3分ほどかけて武神像の殻から出現した生物は、《う○こもどき》とも《大魔神の武神像》ともまったく異なる姿をしていた。
 長い6本の脚で枝にとまり、頭部には長いアンテナが2本つきだしている。大きな1対の眼を持ち、背中にはしおれたマントをまとっていた。抜け殻のすぐ上に移動した生物は、枝に斜め懸垂をするような姿勢でとまり、やはり見たことが無いゼンマイのような口(?)を伸ばしたり丸めたりしていた。
 色や形、質感、器官・体の構造──どれをとっても、それまでとは、まるで違う……こんなものが武神像の殻を破って出てきたなんて、たった今見ていた光景がとても現実とは思えない。
 はたしてこれは武神像の新たな変身形態なのだろうか? それとも武神像の体内に巣食い内蔵を食べつくして出てきた全く別の寄生生物なのだろうか?
 あなたが呆然と眺めているあいだに、ヨレヨレだったマントが少しずつ広がっていく。マントには美しい模様がほどこされていて、カラフルな花びらのように見えなくもない。いったい、コレはどういう生き物なのか?
 あまりの劇的な変化に驚きにしばらく放心していたあなただが、この驚異的なな状況を記録しておくべきだと気づき、家からカメラを持ち出して撮影をはじめた。

 抜け殻や変身形態(?)を撮っているあいだにも、謎の生物の背から生えたマントは、徐々に伸びていく。最初はヨレヨレだったものが、やがて張られた帆のようにパリッと展開した。突然出現したこの器官は何なのだろう? 表面積を広くとるための構造であることは確かだ。植物の葉が太陽の光を受けて光合成するように、このマントも太陽光を受けて養分に変えるソーラーパネルのような役割りをするのだろうか? 表面に施された美しい模様には何か意味があるのだろうか? 頭から突き出した2本のアンテナも初めて見る器官だ。まさか、本当に受信アンテナで何者かにリモートコントロールされているわけではあるまい? この奇妙な生物が、じつは別の惑星から送り込まれた宇宙人が操るバイオロボットだったりして……などと妄想しながら、あなたは被写体にカメラを近づける──と、そのマントがとつぜん激しく動き出した。そして──、
「飛んだ!」
 高速で羽ばたく謎の生物の体は宙を舞っていた。マントは飛翔するための器官──翅だったのだ。
 あなたが、あっけにとられているうちに飛翔体は庭の上を不規則な軌跡で一まわりし、屋根の向こうに姿を消した。
 接写モードで近づいていたあなたは、突然の展開に驚くばかりで、謎の生物の驚くべき特徴──飛翔するシーンを1枚も撮ることができなかった。ただただあっけにとられて飛翔体が飛び去った空をながめて立ちつくすことしかできなかった……。


■カモノハシ以上の珍種/ネッシー以上のUMA!?
 元は鳥糞のような姿で枝を這って移動していた生物……それが成長の段階で色や姿を変えていき、しまいにはその外皮を破ってまったく異なる美しい飛翔生物にトランスフォームする!?──こんな劇的な変化が、あって良いものだろうか? 想像をはるかに超えた奇想天外な生物である。
「この驚愕のトランスフォーマーは何なのだろう?」
 あなたはインターネットで検索してみるが、(昆虫がいない仮想世界では)該当する情報を見つけることができなかった。そこであなたはSNSやブログに、撮った画像とともに謎の生物について見てきた経緯をあげて、この生物についての情報を求めることにした。
 しかし、期待した情報は寄せられず、「そんな生き物など、いるわけがない!」という批判のコメントがいくつか返ってきただけだった……。
 ガッカリしているところにテレビ番組の制作をしているというスタッフからメールが届く。ブログ記事を見て謎の生物にいて番組で取り上げたいとのことだった。テレビで取り上げられれば、正体だって判明し「ウソでないこと」が証明されるだろう──そう期待してあなたは取材に応じ、撮った画像を提供する。しかし放送された番組を見ると、情報バラエティーの1コーナーで、雪男やネッシー、カッパ、ツチノコといったUMA(Unidentified Mysterious Animal:謎の未確認動物)のような扱いだった。放送後、あなたのブログやSNSの投稿記事にはコメントが激増。そのほとんどが懐疑的・批判的な内容だった。あなたが弁明すると、これが批判コメントをあおる逆効果となって、辛辣な反論をさらに呼び込み、炎上状態となってしまう。
「鳥のフンそっくりなんて、おもしろすぎ。画像はよくできているけど、つくりものでしょ」
「あなたは飛翔生物が抜け殻からでてきたと言うけど、画像をみると、抜け殻よりもそこからでてきたという飛翔生物の方が明らかに大きいですよ。こんなものが抜け殻の中に収まっていたなんて物理的に無理だ」
「オタマジャクシがカエルになるように徐々に変化するというなら、あり得るかもしれないけど、いきなり全く違う姿に変化し、飛び回るなんて、ありえない」
 あなたのブログには「ウソだ」「フェイクだ」「捏造だ」という批判があふれ返った。「閲覧数稼ぎの詐欺行為だ」などと決めつけられてしまう……。

 実在の生物だということをあなたは懸命に説明しようとするのだけれど、(この仮想世界では)他の人は昆虫を見たことも聞いたこともないので、説得は至難のワザだ。考えてみれば、こんな奇想天外な生き物がいるなんて信じろという方が無理なのかもしれない。
 あなたはカモノハシというユニークな動物のエピソードを思い出す。卵を産み母乳で育てるカモノハシは、オスが後脚の蹴爪に毒を持つという哺乳類としては珍しい特徴を備えている。その姿もなかなか風変わりで、発見された当初、イギリスの科学者たちは標本が剥製師による偽物(ビーバーのような動物にカモのくちばしを縫い付けた物)だと疑っていたという。
 カモノハシのユニークさは、初めて見る科学者に「にわかに信じられない」と思わせるに充分だったのだろう。このカモノハシにくらべても、あなたが目にした謎の変身飛翔生物の奇抜さは飛び抜けている。標本があるのにカモノハシが存在を疑われてしまったのだから、それより奇想天外な変身飛翔生物が信じてもらえないのも無理は無いのかもしれない……。
 しばしば話題になるUMAに比べてだって、生き物としての「信じられなさ」の度合いは謎の変身飛翔生物の方がはるかに勝っている。あなた自身だって、自分の目で見ていなければ……伝聞でこのトランスフォーマーを信じることはできなかったろう。これに比べれば、ネッシーやカッパ、ツチノコが実在したというニュースの方が、まだ納得しやすいというものだ。

03UMA河童他
 反論すればするほど批判が高まるばかり……現状では信じてもらうことは難しい。世間に理解してもらうためには、もっと確かな証拠が必要だった……。

■アゲハ長者!?
 あなたは説得のための反論をあきらめ、炎上したブログ記事を封印してこの話題を打ち切った。しかし中にはしつこく、関係ない記事にまで批判コメントを投稿し続ける人がいて、あなたはうんざりしてしまう。
 そんなとき、あの謎の飛行生物がふたたび庭に現われた。サンショウのまわりを舞い飛ぶ姿を目にしたあなたは急いでカメラを持って庭に飛び出す。飛翔生物はサンショウの葉にとまって腹を折り曲げていたが、あなたが近づくと飛び去ってしまった。撮れたのはあわててシャッターを切った数枚だけだった。
 あなたとしては、飛び去るところを撮った証拠写真を公開したいところだけれど……画像を確認してみるとビミョ〜な感じ。翅はブレているので動いていることはわかるけれど……自律的に飛んでいるようにはあまり見えない。今これを証拠写真として投稿しても、「作り物を宙に放り投げて撮ったのだろう(だからブレている)」などと難癖をつけられそうだ。生半可な証拠ではかえって疑惑や批判をあおることになりかねない……。あなたは、はやる気持ちを抑えて、もっと証拠をかためてから発表すべきだろうと思い直す。
(それにしても、あれは何をしに庭に戻ってきたのだろう?)
 ふと疑問が浮かび、あなたは飛翔生物がとまって腹を曲げていたサンショウの葉を調べてみた。すると葉の裏には1mmほどの球体が貼りついていた。
(これは、あの生き物の卵!?)
 飛翔生物が産んだ卵だとすれば、ここからリビングシットが孵れば、姿も機能もまったく違う両者は同一種のトランスフォーマーということになる。
(この卵を飼育し飛翔生物まで育てることができれば──それを克明に記録することで、この生物が実在することを立証できる!)
 あなたはそう考え、飼育観察を決意する。周辺を探すと、他にもいくつかの卵と、この卵から孵ったと思われる小さなリビングシットが見つかった。

 あなたは1ヶ月ほどの観察で、謎の生物が卵から《う○こもどき》や《大魔神の武神像》を経て《飛翔生物》へと大変身をとげることを確かめ、その詳細を画像や動画に記録することに成功した。これは一代の間に信じられない超絶変態を見せる驚くべき生物だった。
 まとめた成長記録を発表するにあたって、あなたはこの生物を「あり得ない・劇(げき)的な変化をする・翅(はね)をもつ生物」の頭(文字)をとって「アゲハ」と名付けた。
 さんざんバッシングされ炎上したSNSやブログに雪辱投稿すると、予想をこえた反響があった。詳細な観察や証拠写真・証拠動画に説得力があったのだろう。今回は捏造説コメントもあったが、事実として受け止め驚くコメントが支配的だった。
 中には、少し前まで辛辣な批判コメントを繰り返していたのに、てのひらを返したように賞讃して、卵をわけて欲しいなどと虫の良いことを言い出してくる人もいた。無視していると有償でゆずってほしいと高額の提示をしてきた。
 あなたとしては自分が発見した新生物が、いろいろなところで研究され、解明が進んで、不思議さの共感が広がることは、むしろ望むところである。しかし、あなたを嘘つき・詐欺師よばわりした人たちが、あなたの発見を横取りして利益を享受するようなことになるのであれば、おもしろくない……。
 あなたは法律に詳しい人をたずね、アゲハの知的財産権を取得できないものか相談する。発明には特許権があって、小説など芸術作品には著作権がある。農作物などの品種には育成者権という、知的財産権がある。その権利を持つ人に無断で、第三者がコピーしたものを横流して荒稼ぎすることを規制するものだ。あなたがアゲハを登録することができれば、これを勝手に繁殖させて商売をすることを法的に規制できる。そしてあなたが発見したアゲハは、他では全く情報がないことから、知的財産権が認められることになった。これによってアゲハの子孫が売買・譲渡されるごとに一定のロイヤリティーがあなたに入ることとなったのである。
 知的財産権が登録されるあいだにも、あなたはアゲハの歴代飼育を続け、飼育ノウハウを確立していった。アゲハは年に5世代ほどが育ち、1匹のメスが100個ほどの卵を産む。この卵をつけた飼育セットを売り出してみると、瞬く間に完売した。《アゲハ飼育セット》は事業化し大ヒット商品となった。

 珍獣カモノハシは、生きた実物を見るのは難しい(オーストラリアでしか見られない)。しかし、生態的にはそれ以上の奇想天外さをもつアゲハは、飼育セットを購入すれば、自宅でその驚くべき生態をいつでも鑑賞することができるのだ。ネッシーやカッパ・ツチノコなどのUMAは実際にみることなどできないが、それよりはるかに風変わりなアゲハは飼育セットを購入すれば手軽にその生態を観察することができる。《アゲハ飼育セット》は世界的に大ヒットした。拡散したアゲハはネズミ算式に殖えていき、それが譲渡・販売されるたびにロイヤリティーが発生するのだから、あなたはネズミ講の元締めのようなものだ。ねずみ講は違法だけれど、この場合、実際にアゲハという商品が売買されるので合法のマルチ商法ということになる。もちろん、末端では野良化したり不当な譲渡・売買などもあるだろうが、きちんとした観察・研究・展示をする場では正規の手順で入手したアゲハが使われることになるので正規ルートの収益が途絶えることは無い。あなたはアゲハ事業で莫大な財産を築いたのであった。


昆虫は《ありふれた奇跡》
さて、《昆虫がありふれた存在でなかったら……》という脳内シミュレーション・仮想世界では、あなたを大富豪にしたアゲハ(ナミアゲハ)だが、これは現実世界では、ごくありふれた昆虫のひとつ。一般的にはあまり「ありがたみ」を感じることはない存在だろう。しかし、その驚くべき生態は、仮想世界と何ら変わりない。ありふれているというだけで、その価値が見過ごされているような気がする。生物としての不思議さを純粋に考えてみれば、これは奇跡のような存在として、もっと賞讃があって良いのではあるまいか。
また、花を愛でる園芸家には、植物を食害するものも多い昆虫は嫌われがちだが、花粉を媒介したり、ときに食害する昆虫との関係の中で植物は進化してきた。美しい花も昆虫を呼ぶために発達したわけだし、今の植物は昆虫なしには実現していなかった。園芸家も時には、そうした「ありがたみ」を思い出して昆虫に敬意をはらうことがあってもいいのではないか……そんな気がしないでもない。


昆虫の何に魅かれるのか?
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沈みゆくYahoo!ブログの記録

01YB終了から移行
FC2ブログに引っ越してくる前の古巣であったYahoo!ブログが完全消滅するのは2019年12月15日(それまでは閲覧可)。しかし記事の更新ができるのは8月いっぱいまで──9月1日には記事の投稿や編集ができなくなり、アクセス解析の機能も終了するとのこと。そこでYahoo!ブロガーにとって実質最後の月となった8月の訪問者数の記録を移行先のFC2ブログとの比較でまとめておくことにした。
02訪問者数比較2019AUG
Yahoo!ブログの方で僕が最後に記事を投稿したのは6月19日。それ以降はFC2ブログの方で記事を更新しているのだが、移行先のFC2ブログよりも移行元のYahoo!ブログの訪問者が圧倒的に多い傾向(*)は続いている。
8月は日ごとの集計で、FC2ブログでの訪問者数は最低3人〜最高でも15人という低水準であるのに対し、Yahoo!ブログでは最低でも441人〜最高は1275人。この月は訪問者が千人を超えた日が2度あった(ページビュー数では千を超えた日が7回)。僕のブログでは、過去に投稿してきた昆虫や小動物関係の記事が(おそらく検索で)閲覧されることが多く、昆虫の活動が盛んな夏になると訪問者が増え、冬になると減るという傾向が顕著だった。
Yahoo!ブログでは、これまでの訪問者数の累計が67万8千人を超えている(9月1日現在/8月末の時点で677530人)。僕は個人誌の延長のような感覚でブログを更新してきたが、同人誌や個人誌を作っていたときの発行部数や読者数に比べれば、膨大な訪問者数だ。資金や労力を費やして同人誌を作っていた経験のある者からすると、ブログというツールのすごさ、ありがたみを強く感じる(*)。そんなYahoo!ブログが消滅するのは残念だが、とりあえず記事はFC2ブログへ移行することができた。
同じ記事があるのに訪問者数に格差があるのは、FC2ブログでは最新記事が検索されにくいのと、(今のところ?)実績(?)のあるYahoo!ブログの記事の方が検索でヒットしやすいということなのだろう。

Yahoo!ブログが完全終了したあと、移行先のFC2ブログがどの程度閲覧されることになるのかわからないが、記してきた記事が、内容に関心のある検索者の目にとまる機会が増えればと思っている。



ブログ引っ越し騒動:ひと区切りついて
ブログの訪問者数比較
Yahoo!ブログの可能性
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