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2019年01月の記事 (1/2)

永久ライセンス!?

ペーパーライダーにして、えーきゅうライセンス!?

僕の運転免許証には「平成34年05月08日まで有効」と記されている。
「平成34年05月08日」が来るまで有効ということであろう。
ところが、ちまたのウワサでは「平成」は今年(平成31年/2019年)の4月30日までしかないらしい。つまり「平成34年05月08日」が来ることは永遠にない!?
ということは……僕の運転免許証はこの先、ず~っと有効なのであろうか?
これぞ、A級ライセンスならぬ永久ライセンス!?

2019年5月1日から新しい元号に変わるらしいが……免許証に限らず元号表記のものは、それが西暦でいうといつに当るのか判りづらくていけない。
また、元号は刷新されても日付はリセットされない──平成元年が1月1日からではなく1月8日から始まったというのも、なんだかややこしいし、次の新元号がいきなり5月から始まるというのも中途半端な感じが否めない。

元号が変わることで、システム改修など色々面倒なこともあるだろうし、国民は負担を強いられることになる。これからも、改元のたびにドタバタしなければならないことを考えると……このさい西暦で統一することはできないものか……などと、思ってしまうのは僕だけではあるまい。

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カメムシの奇行!?抜け殻落としプチまとめ



羽化や脱皮をしたカメムシが自分の抜け殻を落とす──この行動を僕は《抜け殻落とし》(もしくは《羽化殻落とし》・《脱皮殻落とし》)と呼んでいる。冒頭の画像↑は2018年5月に撮影した羽化後のアカスジキンカメムシ。新成虫が《抜け殻(羽化殻)を落とし》をした瞬間──ではなく、落とした抜け殻がクモのしおり糸にひっかかって宙に浮いているシーン。カメムシの《抜け殻落とし》については、これまで幾度も記事にしてきたが、ここで少しまとめておくことにした。

カメムシの《抜け殻落とし》とその意味

自分の抜け殻を攻撃して落とす──初めて目にした時は奇異に感じて、この行動にはどんな意味があるのだろうとあれこれ想像をめぐらせた。
抜け殻には、その虫が存在することを示す痕跡(例えば──羽化や脱皮のさいに分泌される離型剤のようなもの?)が残っていて、そのニオイが寄生蜂や寄生蠅、アリなどを呼び寄せてしまうことがあるのではないか? だとすれば抜け殻がカメムシの近くにあると、自分や仲間が天敵に見つかる危険が高まる……そこで、これを回避すべく生活圏の外に(災いの元となる)抜け殻を落とすのではないだろうか──今は、そのように考えている。
イモムシなどでは孵化後に卵殻を食べたり、脱皮後に脱皮殻を食べるものがいるが、これも1つには「天敵の指標となる抜け殻を隠滅する」という意味があるのではないかと思う。カメムシは口の構造上、抜け殻を食べて隠滅することができないので、生活圏の外に落とすことで処理しているのではないだろうか。
セミやチョウ・蛾などは羽化殻を残すが、羽化後その場から離れてしまうので抜け殻を残しておいても問題がないのだろう。セミは羽化する時に地中から出てきて木に登るし、チョウ・蛾は蛹になる前に食草を離れて移動するものがいる──こうした行動で「天敵の指標となる抜け殻を仲間から遠ざける」ことをしていると考えることもできそうな気がする(あるいは、ハチやハエに寄生されていた場合にも仲間から離れたところで蛹になることで、羽化した寄生蜂や寄生蠅を仲間から遠ざける効果があるのかもしれない)。
素人の考えたことで、この解釈が当っているのかどうかはわからない。しかし、カメムシが《抜け殻落とし》をするシーンは何度も目撃している。

エサキモンキツノカメムシの羽化殻落とし



成虫は背中のハート・マークが目をひくエサキモンキツノカメムシ。僕が初めて《抜け殻落とし》を目にしたのは、2012年10月──擬木で羽化する、このエサキモンキツノカメムシ↓を観察している時だった。


①擬木支柱で羽化するエサキモンキツノカメムシ。②羽化殻から離脱すると頭を上にし羽化殻と向き合う。③頭突きをするように羽化殻を攻撃し始め、ついに落としてしまった。羽化殻への攻撃が始まったのは新成虫が羽化殻から離脱して9分後のことだった。このときのことを記した記事→【ハート亀虫羽化 見守るキリスト!?】)。
2015年11月に、やはり擬木で羽化していたエサキモンキツノカメムシの羽化殻落とし↓。


①擬木支柱にとまった羽化後の新成虫と羽化殻。②羽化殻に頭からぶつかっていく新成虫。③羽化殻を落とす。このときは離脱後20分余り経ってからの羽化殻落としだった(※詳細記事→【エサキモンキツノカメムシの抜け殻落とし他】)。

アカスジキンカメムシの羽化殻落とし&脱皮殻落とし



《抜け殻落とし》はアカスジキンカメムシで観察することが多かった。といっても必ず行うわけではなく、葉の裏に抜け殻だけが残されていることもある(地面に落とされている抜け殻の方が多い)。また羽化中や羽化直後の新成虫を見つけて羽化殻シーンを撮影しようと近づくと、(警戒して)固まったままなかなか始まらなかったり、アクシデントで他の昆虫と接触して羽化殻を残して逃去る新成虫もいた。近くで待機していると《抜け殻落とし》が始まらないし、離れていると《抜け殻落とし》が始まっときに接写が間にあわず、画像での記録は失敗が多かったが……とりあえず記録ということで……。


2018年5月に撮影したもの↑。ムクゲのやや高い位置にとまっていたのできれいに撮れなかったが……①葉の裏で羽化中のアカスジキンカメムシ。②離脱した新成虫が向きを変える。③羽化殻と頭をつき合わせるような形。この時点で羽化殻の脚は葉から外れかけていた。④しばらくじっとしていた新成虫が動き出す。⑤頭で羽化殻を押しながら前進。⑥前進して寄り切るように羽化殻を落とす(この直後に羽化殻は落下)。⑦羽化殻落としを終えたアカスジキンカメムシ新成虫。※【羽化殻落とし@アカスジキンカメムシ】より↑。
《羽化殻落とし》を目の前で確認しながら、肝心のシーンが激しくピンポケになってしまった例……↓。


2017年5月に撮影↑。羽化中のアカスジキンカメムシが古い殻から離脱して2時間ほど経ってからの《羽化殻落とし》だった(※詳細→【アカスジキンカメムシ:羽化~抜け殻落とし】)。《羽化殻落とし》を接写しようと近くで待機していると、警戒して(だろう)なかなか始めてくれない。待たされることが多かった。


2017年5月に撮影↑。①を撮影した後、少し離れたところから監視を続けて《羽化殻落とし》を待っていた。②《羽化殻落とし》の瞬間──フレーミングもピントも間に合わず、角度も悪くてこんな画像しか撮れなかった(①から50分が経過していた)。③羽化殻を落とした後の新成虫(※詳細→【アカスジキンカメムシ羽化後《抜け殻落とし》確認】)。



2018年5月に撮影↑。①新成虫は孵化殻から少し離れたところに移動していて体色もだいぶ濃くなってきている(時間も経過している)。もう《羽化殻落とし》はしないのだろうか……とあきらめかけていると、した──が、その瞬間は撮り逃し、その直後の画像が→②羽化殻落とし直後の画像(1秒前にはフレーム内に羽化殻があった)。目の前で《羽化殻落とし》を確認していながら、またしてもその瞬間は撮り逃してしまった(※詳細→【羽化殻落とし@アカスジキンカメムシ】)。



2018年5月に撮影↑。これは《羽化殻落とし》のシーンを確認していない。葉の裏で羽化殻と対峙している羽化直後の新成虫(左画像)。2時間40分後に見に行くと、新成虫はすでに葉の表に移動しており、葉の裏の羽化殻はなくなっていた(右画像)。新成虫は、おそらく《羽化殻落とし》をしたあとに葉の表に移動したのだろう(※詳細→【アカスジキンカメムシの羽化他】)。
アカスジキンカメムシの《抜け殻落とし》は幼虫の脱皮でも確認している(《脱皮殻落とし》)。


2015年9月に撮影↑。①コブシの葉で脱皮中のアカスジキンカメムシ幼虫。②触角や脚が抜けていく。③最後に腹端が抜けて新幼虫が抜け殻から離脱。よくこのサイズの体が小さな抜け殻に収まっていたものだといつも感心する。④向きを変えて抜け殻と対峙。⑤抜け殻に頭突き攻撃。⑥抜け殻の下にもぐることで抜け殻の前脚を葉から引き剥がす。カメラを近づけたためこの姿勢で触角を倒し、静止してしまった。この2分20秒後の画像が→⑦接写するカメラを離していたわずかのスキに脱皮殻は落とされてしまった(※詳細→【アカスジキンカメムシの抜け殻おとし】)。
こちら↓は2015年10月に撮影した《脱皮殻落とし》。


①擬木の支柱で脱皮殻落としを開始したアカスジキンカメムシ幼虫。葉の裏ではすんなり落ちる抜け殻が、擬木では徘徊する蛾の幼虫やクモが残した糸がひっかかってなかなか落ちない。②頭突きをし抜け殻を押し上げる新幼虫。③なかなか落ちない脱皮殻を持ち上げ、このあとようやく落としたのだが……。④擬木に残されていたしおり糸(?)にひっかかった脱皮殻は宙吊りになっていた。⑤脱皮殻がまだあることに気がついた新幼虫は……⑥わざわざ支柱をおりていき脱皮殻を落とそうと頭突きをする。⑦脱皮殻は再び落ちかけて途中で宙吊りに──この後、風にあおられて、ようやく落下した(※詳細→【カメムシの抜け殻落とし行動】)。
宙吊りになった脱皮殻に追い打ちをかけにいく行動に《抜け殻落とし》に対する執着のようなものを感じた。
《抜け殻落とし》への執着は羽化でも感じるケースがあった。


2017年5月に撮影↑。ふつう羽化後の新成虫は羽化殻と同じ葉にいるものだが、上下の葉に分かれてしまった羽化殻と新成虫。①では羽化殻と新成虫がとまった葉は離れているが、羽化は羽化殻のある上の葉で行われたはず。そのときは上の葉(羽化殻がある葉)は終齢幼虫の重みで下がり、下の葉(新成虫とまっている葉)は(新成虫の体重がかかっていないため)もっと上がっていて上の葉と接していたのだろう。羽化の過程で新成虫が、接していた下の葉につかまり、そのまま体重がかかってこの状態(上下の葉が離れる形)になったものと思われる。この状態で下の葉に移ってしまった新成虫が羽化殻を落とすために、わざわざ上の葉まで戻るのかどうか──興味があったのでしばらく近くにスタンバって観察していたが、警戒してかなかなか動かず。少しその場を離れ、22分後に戻ってみると→②新成虫はすでに上の葉に移動しており、羽化殻は落とされた後だった。羽化殻はこの枝の下でみつかったので、風で落ちたわけではなく(風に飛ばされたのであれば直下には落ちない)、新成虫がわざわざ上の葉に移動している事からも《羽化殻落とし》が行われたことは、まず間違いない(※詳細→【アカスジキンカメムシ新成虫《抜け殻落とし》のケース】)。
羽化や脱皮をしたあとのカメムシが労力を要して行う《抜け殻落とし》には、やはりそれなりの意味があるのだろうとあらためて感じた。
僕が想像した《抜け殻落とし》の意味の一端を裏付けるようなシーンもあった。


2018年5月に撮影↑(※詳細→【アカスジキンカメムシの羽化他】)。葉の裏で羽化していたアカスジキンカメムシの羽化殻落としを接写すべく、ずっと近くでスタンバっていたが、(警戒して?)なかなか羽化殻落としは始まらない……。そのうちアリがやってきてしまい、アカスジキンカメムシ成虫は羽化殻を残して別の枝へ移動していってしまった。羽化殻はアリによって運び去られた↓。


これで、羽化殻を放置すればアリが来ることは確認できた。アリがくるのだから、寄生蜂や寄生蠅など、他の天敵が嗅ぎ付けてくることも充分ありそうだ。こうした天敵を生活圏に誘引しないように抜け殻を落とすというのは理にかなっているように思われる。もちろんカメムシが「効果を考えて」こうした行動をとっているわけではいだろうが……進化の中で、何らかのきっかけによって抜け殻を落とす行動が生まれ、それを行う個体の生存率が高かったことから、その子孫にこの行動が受け継がれ定着していったのではないか?

ツヤアオカメムシ・チャバネアオカメムシの《羽化殻落とし》



エサキモンキツノカメムシやアカスジキンカメムシの他には、ツヤアオカメムシとチャバネアオカメムシで《羽化殻落とし》を確認している。



2015年11月に擬木で撮影したツヤアオカメムシの羽化殻落とし↑(※詳細→【モンキツノカメムシとエサキモンキツノカメムシ他】)。



2018年9月にケヤキの幹上で行われていたチャバネアオカメムシの羽化殻落とし↑(※詳細→【チャバネアオカメムシの羽化殻落とし】)。

謎めいたカメムシの《抜け殻落とし》

何の予備知識も無くカメムシの《抜け殻落とし》を目にした当初は理解しがたい光景のように思われた。つい今しがたまで自分の体の一部だったものを攻撃する!?──自分の体から離れたとたん、《自己》だったものが《非自己》と認識されてしまうのだろうか? それにしても、エサキモンキツノカメムシは母虫が卵~若齢幼虫集団を守ることで知られているし、アカスジキンカメムシも葉の裏に数匹が体をよせあって集まっていたりする──仲間と協調できる昆虫が、どうして少し前には自分の体だった抜け殻を攻撃するのか、とても不思議だった。
最初に記した通り、今では「天敵に嗅ぎつけられる危険を避けるため」に《抜け殻落とし》をするのだろうと僕は考えている。長い進化の中で、抜け殻を放置するものの中から落とすものが現れ、その一群の生存率が高かったことで《抜け殻落とし》の習性が自然選択されたのだろうという解釈なのだが……それでは、最初の《抜け殻落とし》はどのようにして起こったのだろう? カメムシが「天敵を避けるため」と意識して始めたわけではないだろうから、きっと何か別の行動システムの副産的な(あるいはエラー?)発現がきっかけになってのことではないかという気がするが、そのあたりのことはまだ想像がつかずにいる。
僕の解釈がどの程度当っているのか、まるっきり的外れなのかはわからないが……いずれにしても脳味噌を刺激し続けるカメムシの《抜け殻落とし》は、気になる《謎めいた生態》の1つである。

※追記:風変わりなハリサシガメの脱皮殻剥ぎ

ちょっと(かなり?)変わったカメムシ──ハリサシガメの《抜け殻落とし》に相当すると思われる行動について追記。ハリサシガメは捕食性カメムシでエサはもっぱらアリという変わり種。しかも幼虫は捕食後のアリの死骸を背中にデコレーションして擬装するという風変わりな習性を持っている。背中にデコるのは狩ったアリばかりでなく、おそらくアリのゴミ捨場から拾ってきたのではないかと思われる虫の残骸等も混じっていたりする。さらにハリサシガメは脱皮も奇想天外で、古い殻を破って出現する新幼虫は脱皮殻が背負っていたデコレーション素材をそのまま引き継ぎ、背負いながらでてくる↓(*)。




画像を90度回転しているが、実際は石垣の鉛直面に頭を下にして脱皮している↑(画面左が下)。この脱皮のさいに、引き継いだデコレーション素材とともに、これにくっついていた自分の脱皮殻もいっしょに背負ってしまうことが起きる。
自分の脱皮殻を背負って擬装する昆虫(セモンジンガサハムシなど)もいるのだし、ハリサシガメ幼虫は他の昆虫の残骸をわざわざデコレーションしているのだから、自分の抜け殻だってデコっても良さそうな気がするが……ハリサシガメ幼虫は自分の脱皮殻だけは嫌って、引き剥がそうとする。先に紹介したカメムシの《抜け殻落とし》が、基本的には頭を使って──頭突きで押し出すように行われていたのに対し、ハリサシガメ幼虫の、いわば《脱皮殻剥ぎ》は後脚を使って行われるようだ。




別の脱皮後と思われるハリサシガメ幼虫↓。


ダンゴムシかワラジムシの殻(白く見える物)を背負っているが、その後ろに脱皮殻も付着している(腹の背面がデコ素材にくっついている)。この30分後、すでに脱皮殻は引き剥がされていた↓。


アリの死骸やアリが廃棄したと思われる虫の残骸などは積極的にデコるのに、自分の抜け殻はデコレーションから排除しようとするのが興味深いところ。擬装がアリの嗅覚を欺くためのものだとしたら、自分の(ニオイがついた)脱皮殻を排除するのは理にかなっている。

★ハリサシガメ記事一覧

1月16日は《ヒーローの日》

1月16日は《ヒーローの日》

きょう──1月16日は「ヒーローの日」だとか。1(ヒ)1(イ)6(ロ)→「ヒーロー」いう語呂合わせらしい。
めでたい記念日ができていたので周知を兼ねて(?)、僕も昔──もう28年も前に制作&頓挫したインディーズ・ヒーローをあらためてあげておこうかと。



ミラクル☆スター~実写版~
変身ヒーロー・怪人・撮影を1人で兼ねて撮った極小規模ビデオ作品。
ミラクル☆キッド~実写版~
ミラクル☆スターの続編を撮り始めたものの、ケガで中断。ケガをしたミラクル☆スターに代わって小学2年生のヒーローが誕生・活躍する番外編。



幻のインディーズヒーロー・アクション
【ミラクル☆スター】に続いて三宅裕司のえびぞり巨匠天国(TBSテレビの映像作家発掘番組)への再登場をもくろみ、番組スポンサー商品・ポカリスエットをネタに考えた《1本のポカリスエットが日本を救う続編》。撮影はケガで頓挫したがその絵コンテ。

『カメラを止めるな!』感想(ネタバレあり)


カメラを止めるな!
http://kametome.net/index.html

何かと話題の邦画『カメラを止めるな!』──低予算のインディーズ映画で、ミニシアター2館で上映をスタートさせたところ、口コミやSNSで評判が広がり、大ヒット作となった作品らしい。絶賛する記事が多い中、「評判なっているので観たが、どこが面白いのか全然わからなかった」という感想もあり、いったいどんな映画なのか気になっていた。レンタルDVDを鑑賞してみたので、感じたことを記してみたい。
《最後まで席を立つな。この映画は二度はじまる。》というキャッチフレーズや、ちまたの評判からして、構成の妙や斬新さが売りの作品かと思っていたが、実際に鑑賞してみると「思い描いていたイメージ」とは違う作品だった。

内容を簡単に説明すると──(※ネタバレあり)、
《山奥の廃墟でゾンビ映画を撮っていた撮影クルーが​本物のゾンビに襲われる──というサバイバル・ドラマをワンカットで生中継する》──という無茶なテレビ企画が、テレビの下請け等で細々と映像制作をしている映像監督・日暮隆之のところに持ち込まれる。腰が低く人の良い日暮監督は断ることができず、引き受けてしまう。

映画本編はいきなりヒロインが元恋人のゾンビに襲われるシーンから始まるが、これが「無茶な企画のゾンビドラマ」の冒頭で、ここから37分、ワンカットで撮影された「生中継ドラマ」が丸々展開される。冒頭のシーンで「カット」の声がかかると、監督(役)がヒロインにつめより恐怖の演技が本物ではないと激高する。「本物の恐怖」を求める監督が選んだ撮影現場は「ガチでヤバイ場所」で、スタッフが次々にゾンビ化してヒロインらを襲うという恐ろしい展開になるのだが、「本物の恐怖」を求めていた監督は嬉々としてカメラを回し続けるというもの。ワンカットシーンのラストでエンドロールが流れた後、画面が変わって、1ヶ月前にさかのぼって、この「無茶な企画のゾンビドラマ」がどういう経緯で作られていったのかが「現実側」で展開する。これがこの映画の「二度目の始まり」ということになる。

無茶な企画を引き受けてしまった、人の良い日暮隆之・映像監督には元女優の妻と映画監督志望の娘がいた。妻は役に入り込みすぎてトラブルを起こす癖があって女優を辞めていたが、他に熱中できるものを模索している状態。夫が請けたゾンビ・ドラマの脚本を何度も読んでいることから、本当はまだ女優に未練があるらしい。映画監督志望の娘は、情熱家で妥協が許せない性格。作品作りには妥協も必要だとする父を軽蔑しているふしがあるが、父が監督することになったゾンビ・ドラマにお気に入りの男優が出演することを知って母と撮影現場を見学に訪れる。

不安要素を抱えながら迎えた生中継本番当日──重要な役回りの監督役とメイク役が事故を起こし来られないとの連絡が入って現場は騒然となる。番組の放送開始時間は迫っており、代役を調達する時間もない。しかし番組の中止は許されない。せっぱつまった状況の中で、日暮隆之監督は、みずから監督役をやることに。メイク役は台本が頭に入っている元女優の妻が演じるというドタバタ決定で、とりあえず(?)生中継ワンカット・ドラマはスタートする。次々に起こるアクシデントにてんやわんやの撮影現場がこの映画の核心で、お気に入りの男優見たさに見学に来ていた監督の娘も加わって、なんとか作品を完成させようと奔走する現場スタッフの奮闘ぶりが見せ場となる。

この作品の特徴は、完成したワンカット・ドラマを最初に見せ、後にその製作過程を見せるという倒叙形式になっていることだ。最初に生中継された映像をそのまま見せ、その後のメイキング・パートで、舞台裏側からもう1度ワンカット・ドラマの製作風景を見せるという形をとっている。

本来なら「無茶な企画のドラマが持ち込まれ、これをどう成功させるか」という時間軸に沿った展開の構成を考えるのが自然だろう。「生放送中、次々に起こるアクシデントで現場がてんやわんやする」という邦画では『ラヂオの時間』が思い浮かぶが、『ラヂオの時間』は進行形で展開しており、「放送を無事に終えることができるのか!?」という最大の緊迫感が、おもしろさを成立させていた。しかし『カメラを止めるな!』では倒叙形式をとったために、観客はワンカット・ドラマを観て「番組は無事に終了する」ことを知った上でメイキング・パートを見ることになる。どうなるか結末が判っているのだから、ハラハラドキドキ感はだいぶ薄れてしまうことになる。
そんなデメリットがあるのに、なぜわざわざ倒叙形式をとったのだろう? インパクトのあるシーンを冒頭に持ってくることで一気に観客をひきつけようという狙いがあったのだろうか? ゾンビ映画で緊迫感を盛り上げであとに、「本物のゾンビが襲ってくる」シーンも含めてドラマだったという種明かしをして意外性を演出するつもりだったのだろうか?
しかし、冒頭37分の「本物のゾンビが襲ってくる」という設定のパートで、監督(役)が画面に向かってカメラ目線で叫ぶシーン(添付画像の右上のシーン)があったり、画面(レンズフィルター?)に飛び散った血しぶきが拭き取られるシーン、役者とぶつかってカメラが転倒するシーンなど、意図的に「これも撮影されている映像(作り話)」であることを示すシーンが入っている。これによって「本物」の緊迫感はそこなわれ、観客は「どういうこと?」とプチ混乱に陥って、画面への集中力が落ちる心配がある。冒頭37分のドラマの中には不自然・不可解な「間」や場面がちりばめられていて、これが後のメイキング・パートで「そういうことだったのか」とわかるようになっているのだが、「《本物のゾンビ・シーン》もドラマだった」──という種明かしをするには、きわめて不適切なタイミングでのバレ演出はどうかという気がする。

『カメラを止めるな!』公式サイトではこの作品について《他に類を見ない構造と緻密な脚本、37分に渡るワンカット・ゾンビサバイバルをはじめ、挑戦に満ちた野心作となっている》と記しているが、《他に類を見ない構造と緻密な脚本》というのは、どうなのかな……と首を傾げたくなる。倒叙形式の作品は珍しくないだろうし、作品の中で劇中劇と現実を重ね合わる手法(三谷幸喜の『マトリョーシカ』など)も目新しいものではないはずだ。脚本で色々と工夫が盛り込まれているのはわかるが、不可解な部分や不充分な部分(ゾンビ・ドラマのラストシーンの意味付けが解りにくい等)もあって、《緻密》というには上手く処理できていない課題が残る脚本だった気がする。
《37分に渡るワンカット・ゾンビサバイバル》についても──映画で37分をワンカットで撮影するというのは、確かにすごい(撮る側は大変だ)とは思うが、純粋な観客からすれば、観ているシーンが何カットで構成されているかはどうでもいいことだろう。この「37分ワンカット」も実際は生中継ではないわけだから、失敗すれば撮り直しができる。また「37分ワンカット」といっても、内容はゾンビとの追いかけっこがほとんどとなり、特に難しい撮影だとは思えない。さらに生中継の番組はドラマの設定では実は「30分」ということになっている。しかし実際には「37分」かかっているので、7分もオーバーしているわけで、これが本当の生放送だったらアウトということになる。
ちょっと脱腺するが──海外ドラマの『ER 緊急救命室』では第4シリーズの第1話(45分)が(アメリカでは)生中継で放送されたという。狭い病院の中で大勢の役者が動き回り、カメラも彼らを追いかける。セリフも多く役者の動きも複雑なドラマをどうして生放送で行うことにしたのか不思議だが、あれこそ「挑戦」だったのではないかと思う。しかもその回は、東海岸(EAST)と西海岸(WEST)の時間差で1日に2回行われたという。比較するのは可哀想だが、それに比べれば『カメラを止めるな!』の、実際は生放送ではなく、7分も予定をオーバーしているワンカット・シーンが特に難しい挑戦であったとは思えない。

それでも、この作品を多くの人が称賛したのは、冒頭(ワンカット・ドラマ)の中で怒鳴りちらしていた「イヤなパワハラ監督」が、後半のメイキング・パートで本当は腰の低い「いい人」だったということがわかり、「殺伐としたB級ホラー」だと思って観ていたら、実は低予算で無茶を強いられている弱小映像制作クルーが力を合わせアクシデントをのりこえるという「いい話」だったことから、(嫌悪からの反動で)印象が好意的な方向に傾いたためではないかと思う。
また、撮影現場のてんやわんやの中で監督の妻が密かに望んでいた女優復帰がかなったり、監督の窮地を娘がサポートし、作品づくりを通して父娘の絆を再構築するといった「いい話」も盛り込まれている。映画の最後は無事に生中継を終えることができたスタッフ・俳優・監督家族らの笑顔が次々に映し出されるが、達成感と安堵が入り交じった表情に力を合わせて1つの作品を作り上げる映画愛のようなものが感じられ、観終わったあとの印象は良い作りになっている。

限られた予算(低予算)等の制約がある中で面白い映画を撮ろうチャレンジは誰もが応援したくなる。『カメラを止めるな!』も無名の人たちがそうしたチャレンジをし、この制約を逆手に取って「制約の中で作品作りをする人たちの奮闘」を描いた──ふつう低予算によるチープなつくりは欠点になりがちだが、この設定によって、チープな部分はドラマ上の必然となり、「制約の中で作品作りをする人たちの奮闘」にむしろリアリティを持たせる利点となっている。『カメラを止めるな!』が多くの人に好感を持たれたのは、奇抜さや構成などのテクニカルな部分ではなく、(弱小映画製作グループが「制約を逆手に取って」)「制約の中で作品作りをする人たちの奮闘」を描いたことを「アッパレ!」と感じた人が多かったからではないかという気がする。

一方、「評判なっているので観たが、どこが面白いのか全然わからなかった」という感想も、なんとなくわかる気がしないでもない。前半のゾンビ・ドラマ部分では、ゾンビ映画としてはありきたりでこれといった「見どころ」はない。メイキング・ドラマ部分でも、中継が無事に終わることはわかっているし、特に奇抜な仕掛けもなかった。「期待していた《何か》が起こらないまま終わってしまった」と感じたのではないか?
評判になっていることで、特別な仕掛け(?)があるのだろうと期待して観た人の中には肩透かしをくったような思いになった人がいてもおかしくないかもしれない。
評判にはなっているが、あまり過度な期待(?)をもって観ない方がいいのかもしれない。普通に観れば好感の持てる映画ではないかという気がする。

余談だが、『カメラを止めるな!』のDVDをレンタルするさいに、ハズレだった時の口直し用に『ジュラシック・ワールド』も借りてきた。『ジュラシック・ワールド』は「金がかかっているんだろうなぁ」と思いながら観たが、心に響くものはなかった。
『カメラを止めるな!』と『ジュラシック・ワールド』のどちらが面白かったかといえば、僕は躊躇無く『カメラを止めるな!』を挙げる。


●邦画の感想
映画『七人の侍』の巧みさ

https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-110.html

映画『生きる』について
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-111.html

映画『ゼブラーマン』感想
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』感想
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-525.html

久しぶりの『文学賞殺人事件 大いなる助走』
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-837.html


■エッセイ・雑記 ~メニュー~
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冬尺蛾の他人の関係

フユシャクの『他人の関係』

フユシャクの時期になると脳内再生される曲がある。
カメラが壊れているので過去の画像から──。





(※【振袖フユシャク【卒】を探せ~トギレフユエダシャク♀】より↑)


(※【ヒロバフユエダシャクのツーショットより↑)
フユシャク(冬尺蛾)ウォッチをしていると、オスとメスがすぐ近くにとまっていることがある。おそらく交尾後のペアなのだろう。フユシャクはオスとメスで、まるっきり姿が異なっているということもあるのだろうが……互いに別々の方を向き、他人のようによそよそしく見える。そんな姿を見ると思い起こされるのが金井克子の歌う『他人の関係』──。距離を置いてとまるフユシャクの映像に、「バンバンババンバン」というスキャットがBGMのように脳内再生されるのである。




ツーコーラスの歌い出し──「愛した後 おたがい 他人の二人 あなたはあなた そして 私はわたし」というフレーズが、この状況に、妙に合っている気がするのは僕だけであろうか?

調べてみると金井克子の『他人の関係』は1973年──46年も前の曲。僕はこの歌が好きだったわけでもなく、金井克子のファンでもないのだが、虫見をするようになり、フユシャクを見るようになって、突然この歌が脳内再生されるようになった。昭和のヒット曲はけっこう耳に残るものなのかもしれない!?

※金井克子 他人の関係→https://www.youtube.com/watch?v=sVoZOmbu7Iw

カメラが壊れた…

さて、どうしたものか……ここ5年ほど昆虫撮影などに使ってきたコンパクトデジタルカメラ── OLYMPUS STYLUS TG-2 Tough が起動しなくなった。このシリーズは後継機種がTG-5まで出ているようだが、しぶとくTG-2を使い続けてきた。値段分の役目は充分果たしたといえるだろう。
撮影を趣味にしている人ならすぐに新しいカメラを調達するところだろうが……どうしたものか思案中。
ブログにはずいぶん昆虫画像を添付してきたが、僕はカメラに興味があるわけでもなければ撮影が好きというわけでもない。フィルム・カメラを使っていた時代に写真撮影に対する苦手意識にさいなまれ、いまだに撮影を楽しいとは感じられずにいる。自分の興味の対象を記録するためには必要だから、しかたなく面倒くさい作業(撮影)をしているという感覚に近い。狙いどおりに記録できれば嬉しいけれど、ガッカリすることの方が多い。「(芸術)作品としての写真」ではなく、「説明素材としての画像」を撮ってきた。作品としてのクオリティの追求は最初からあきらめ、自分の撮れる範囲で、言わんとすることがわかる程度の画像が撮れればいいや──という低いハードルでカメラ任せに撮り続けてきたから、撮影技術はいっこうに進歩しない。そんな「素材」をそのまま人前に出すのは、いくらなんでも閲覧者に失礼だから、撮った「素材」はトリミングしブログ用にリサイズし、ワイプ画像を入れたりキャプションを付けたりして、なるたけ「状況や言わんとするポイントがわかりやすいように」加工し、本文とセットで投稿する──ブログ記事としてまとめた時点でやっと(?)撮った画像が活かされる。
昆虫採集で集めた虫も標本にしてきちんとラベルをつけなければただの虫の死骸──というのと同じで、撮影した昆虫画像(素材)もブログ等にまとめなければ、ただのゴミ──という感覚が僕にはある。
だからブログ等で役立てることができなかった(しかし、それなりの情報が含まれているので捨てられずに保留にしている)画像がどんどん貯まっていくのは、消化不良というか……やり残した宿題がたまっていくようで、気が重かった。

カメラがあれば出会った記録価値のあるシーンは撮らねばならないが、カメラが壊れてしまってはそれもできない……しなくて済む……苦手で面倒な撮影&その後の編集から解放された感がなくもない。

昆虫は素材として面白いので、「身近なところにこんな虫がいるのか」という個人的な好奇心をTG-2で撮って記事にしてきた(*)。TG-2である程度のことはできたのではないかと(低いハードルではあるけれど)満足している部分もある。
ただ、僕の虫見エリアは限られているので、似たような画像・記事が重複するようになってきて、これも、どんなものか……と感じているところでもあった。お気に入りの虫や興味のある種類には、機会あるごとに「こんな虫もいるんだねぇ~」感をアピール(ぷち布教?)しておこうという気持ちもある。しかし一方、新しくカメラを調達しても、同じような記事の繰り返しになったのでは、あまり進歩が無いのではないか……という迷いもある。

僕はブログを個人誌の延長のようなつもりで続けきた。昆虫ネタが多くなってしまったが、もともと昆虫ブログのつもりで始めたわけではない。自分が興味を持ったものについて、感じたこと・考えたことをまとめ、整理して記録する場としてブログを利用してきたわけだが、身近なところにあるおもしろいもの──ということで昆虫を取り上げる機会が多くなっただけだ。

もちろんカメラが壊れたというだけで、昆虫に対する興味が尽きたわけではないし、昆虫周辺について思うことも色々あるわけだが……今後、どうしたものか、今のところ明確なプランは無い……。

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イチモジフユナミシャクのキューティクル

《飛べない空色の翼》をもつ妖精!?



サクラの幹にとまっている可憐な昆虫はイチモジフユナミシャクのメス。冬の一時期にしか見られないフユシャク(冬尺蛾)の1つ。僕の中では、この時期の「主役」的存在なので、ついついホストのサクラを探してしまう。


なんとも不思議な姿をしている。オシャレなミニサイズの翅は退化したもので、メスは飛ぶことができない。《飛べない空色の翼》をもつ妖精──そんな雰囲気もないではない。前翅の淡い水色(空色)は、イチモジフユナミシャク♀がよく見られるサクラの樹皮に散在する地衣類の色あいによく似ている。


イチモジフユナミシャク♀を探してサクラッチ(桜ウォッチ)をしていると、地衣類に反応してしまうこと(地衣類がイチモジフユナミシャク♀に見えてしまうこと)があるが、これは幹上のイチモジフユナミシャク♀が地衣類に見えるということの裏返し──鳥などの捕食者に対して隠蔽擬態の効果もあるのだろうと考えている。


ちなみにイチモジフユナミシャクのオスは形も色もメスとはずいぶん違っており、枯葉色をした普通の蛾といった感じ。


オスも交尾のさいにはメスがとまった木にやってくるようだが(夜行性)、この画像↑のように日中、木の幹にとまっているオスは(メスに比べると)少ない。昼間のオスは落葉の中に隠れているようだ(*)。
イチモジフユナミシャクが見られるのは(僕のフィールドでは)12月後半~1月初め頃──種としての成虫活動期間も短いが、個体としてのメスの見頃期間もめっぽう短い。新鮮なメスはぷっくら張りのある腹をしていてプロポーションも良く、鱗粉も整っていて美しいのだが、産卵後の♀はしおれて体型が変わってしまう。産卵前の比較的新鮮と思われる個体であっても、鱗粉は荒れやすく、強風にさらされたりすると体表面がザラついた感じになってしまう。
イチモジフユナミシャク♀は美しいけれど痛みやすい──そんな印象があるので、見られる時期に美しい姿のメスを見ておきたいという気になる。

イチモジフユナミシャク♀のキューティクル的鱗粉



サクラの古木でみつけたイチモジフユナミシャク♀。ぷっくら張りがあって美しいプロポーションの個体だ。別の角度から──、


アップでも色々撮ってみた。




プロポーション・色・模様とも良い感じのおそらく新鮮なメスだったのだが……この日は風が強く、そのためだろう──鱗粉の状態がじゃっかん荒れていた。


鱗粉がめくれ、痛んだ髪のキューティクルのよう↑。大晦日に見た美麗個体の整った鱗粉↓と比較すると違いがわかる。


鱗粉コンディションの違いは、健康な髪と痛んだ髪(ダメージヘア)のキューティクルの違いのよう。整った鱗粉の♀は「健康な髪」のようなツヤがあり、光のかげんできらめいて見える。この鱗粉コンディションの良い大晦日の美麗個体は──↓。


元日に見た新鮮なイチモジフユナミシャク♀↓。


これが産卵後の個体では、ずいぶん印象が変わってしまう。


今シーズンも産卵後の個体が増えてきた。やがてイチモジフユナミシャクも姿を消すのだろう。発生時期以外では、もちろんサクラの幹をいくら探したところで、その不思議な姿を見ることはできない。いないのがあたりまえの時期になると、本当にここ(桜の幹)に、あの不思議で可憐な生き物はいたのだろうか……と実感が薄れていき「《飛べない空色の翼》をもつ妖精」の幻想感を深めることになる。そして、翌冬、再会したときに「やっぱり、こんな生き物がいたんだなぁ」と実感するのである。



年賀状雑感

先日ある方のブログ記事が目にとまった。部下や同僚に年賀状を出したが、相手からは届かなかったことを嘆く内容だった。その人にとっては、そうした部下や同僚は「礼儀知らず」で、年賀状をもらっているのに出さないことは「仁義を欠く」行為と映るらしい。
僕は年賀状を廃止して、もう10年ほど出していない。僕から年賀状が届かなくなった人の中には、このブロガーさんのように感じている人もいるのかも知れないなぁ……と色々思うところがあった。
年賀状に関しては、感じ方・考え方は人それぞれで、その人なりのルール(?)に従った選択をすればいい──他人がとやかく言うことではないと思っているが、僕の年賀状観のようなものを少し記してみることにした。

僕は子どもの頃から2009年までずっと年賀状を出し続けていた。小学生の頃はゴム版を彫ったり、中学生ではシルクスクリーンを使ったこともある。プリントゴッコが出てからはこれを使っていた。図案を作成して業者に印刷してもらったこともあるし、その後はパソコンのプリンターで出力するようになった。
あわただしい年末に手間ひまかけて年賀状を作り発送するのはそれなりに大変なわけだが、それでも出していたのは、年賀状が《楽しみ》だったからだ。どんな図案にするか考えたり作って出すことが楽しみであり、どんな年賀状が届くかも楽しみだった。《相手を楽しませたい》という気持ちも当然あって、年賀状を出す動機は《好きだから》という自分側の都合だったといえる。
ところが、届く年賀状の中には市販の年賀葉書があったり、僕の年賀状が届いたのであわてて(?)返したと思われる年賀状も混じっていたりする。とても好きで出しているようには見えない……言ってみれば「義理年賀状」。《楽しみ》で描かれた年賀状は出すのももらうのも嬉しいが、《義理》で書かれた年賀状が届くと心苦しい。「(楽しくないなら)無理して出さなくてもいいのに」と思うと同時に、僕が好きで出した年賀状で「返信の義理」を生じさせたのだとしたら申し訳ない気分になる。義理の返信年賀状なら、もらわない方が気が楽だ。

しかし、前述のブロガーさんのように、出した相手から年賀状が届かないと「無礼」だと感じる人も少なからずいるのかもしれない。
そのブロガーさんは、「年賀状が届かなかった部下や同僚には、来年は年賀状を出さない」そうだ。しかし、相手が気遣って年賀状をよこしたら、「仁義を欠きたくない私も年賀状を出すことになる」と記している。
こうなると《自分の「仁義」を守るため》に年賀状を出し続けているようにも感じられる。

「もらった相手には年賀状を出すべき」と考えている人は、(相手も同じ考えなら)自分が年賀状を出すことで相手に返信ストレスを生じさせることを心苦しくは感じないのだろうか? 自分もその負担を負っているのだから、相手もそうあるのが当然という感覚なのだろうか?

年賀状を返さなければ「礼儀知らず」の烙印を押されてしまうのであれば、これは、「出さないと不幸になる」とプレッシャーをかけるプチ不幸の手紙みたいなものではないか。
これは少なくとも僕の年賀状観とはだいぶ異なる。年賀状は出す人ももらう人も楽しくなくては──というのが僕の感覚だ。年明け早々、仁義でプレッシャーをかけあい、「礼儀知らずでないことを示す行事」になってしまっていたのだとすると、おかしな気がする。それはもはや迷惑イベントではなかろうか?
送った相手から返信がないいことを気にするのは、いわゆる「既読無視」を気にかける人(*)と同じ心理なのかもしれない。

僕も以前は出し続けていた年賀状を現在は廃止しているわけだが、自分の中ではこの判断は理路整然としている(今年の年賀記事*にも記している)。
僕の考え方が正しいとか、他の人もそう考えるべきだというつもりは全くない。年賀状を出す人も出さない人も、それぞれの考え方でそうしているのだろう。
人それぞれ──その1つとして僕の年賀状観を記してみたしだい。


*「既読無視」で苛立つ風潮!?

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*謹賀新年2019亥年
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「既読無視」で苛立つ風潮!?

以前、コミュニケーション・ツールの「LINE」で「既読無視」がトラブルの原因になっているという記事があった。メッセージを送った相手がそれを開くと送信者には「既読」のマークが付くが、相手が既読したにもかかわらず返信をしないことを「既読無視」「既読スルー」などと呼び、嫌がらせの対象になることがあるという。自分が送りつけたメッセージに相手が返信しないと腹を立てる者が、けっこういるらしい。こうした風潮に対して感じたことを記したのが後述の文章。何年も前に某SNSに投稿したものだが、最近、年賀状に返信がこないことを嘆くブログ記事を読んで、ちょっと似た心理なのかもしれないと思って、改めてブログ掲載してみることにした。


《既読無視》のバカげた風潮

《既読無視》や《読み逃げ》といった概念自体がバカげている。相手が返信をよこさないと気になる・いら立つというのはその本人の問題であって、本人の欠陥に由来するストレスを返信をよこさない相手のせいにするのは身勝手以外の何ものでもない。こうした《既読無視》問題が増えてきたのだとすれば、身勝手な人が増えてきたということなのだろう。

メッセージを発信するのは基本的には本人の都合であり、それをいきなり相手に送りつけることに遠慮の気持ちを持つのがたしなみというものではないか。相手に「読ます」という負担をかけることを心苦しく思わないどころか、返信を求めることを前提にメッセージを送り続けるような人こそヒンシュクをかってしかるべきだと思う。

用件によっては返信を必要とすることもあるだろうが、基本的には《相手に返信の負担をかけさせない配慮》こそが必要だ。「既読」が確認されればそれで完了できる(する)ように心がけるべきだし、返信が必要な場合でも1度の返信で用件が完了できるようにちゃんとまとめてから送信すべきだろう。

相手の時間をダラダラ浸食するような通信のやり取りを求める方こそどうかしている──というのがマトモな感覚だと僕は考える。



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昼間のオスは?イチモジフユナミシャク

昼間は姿を隠す!?イチモジフユナミシャク♂

フユシャク(冬尺蛾)というと、ついユニークなメスの方ばかりに注目してしまい、ちょっとぞんざいに扱われがちなオス……。イチモジフユナミシャクはメスが美しいだけにその傾向も強い(……と思うのは僕だけ?)。


そんなわけで、あまり気にしてこなかったのだが……イチモジフユナミシャクのオスは日中(桜ウォッチで見つかるメスに比べて)目にする機会が少ない。クロスジフユエダシャクでは、日中目にするのはオスが圧倒的に多かったのに……。昼行性(クロスジフユエダシャク)と夜行性(イチモジフユナミシャク)の違いはあるにせよ……メスより大きく目立ちやすいオスを見る機会が少ないというのは考えてみれば、ちょっと不思議だ。イチモジフユナミシャクのオスは昼間、どこでどうしているのだろう?
そんなことを考えながらサクラッチ(桜ウォッチ)をしていたときのこと──落葉の上を歩くイチモジフユナミシャク♂の姿を見つけた。翅はきれいで弱っているようにも見えない。元日には日が昇ってからも交尾していたペアがいたが……仕事を終え、メスから離れたオスだろうと思った。
どうするのか見ていると、彼は落葉の下にもぐり込んでいった。クロスジフユエダシャク♂がメスを求めて羽ばたきながら落葉の下にあわただしくもぐり込むシーンは何度も見ているが、イチモジフユナミシャク♂の動きは落ち着きはらっている。隠れるために落ち葉の下に入っていったのだろう。オスがもぐった落葉のあたりを探すと、落葉のふちからわずかに頭部がのぞいているのが見えた。


落葉に隠れて停止モードとなったようだ。少し角度を変えると胸のあたりまで見える。


先日、落葉の上に飛来したイチモジフユナミシャク♂とおぼしき蛾を確認しようとして近づいたところ、飛び去られてしまうということがあったが……あの蛾も落葉の下にもぐり込もうとしていたのかもしれない。今回はおどかさないように気をつけながら、イチモジフユナミシャク♂を隠している葉を取り除いてみることにした。落葉の隙間からのぞく頭部を見ると触角はたたまれて停止モードに入っている。






イチモジフユナミシャク♂は飛ばずに停止モードでいた。


イチモジフユナミシャク♂は日中、こうして落葉の下などに「隠れている」ものが多いのだろう。どうりで見かける機会が少ないはずだと納得した。