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2017年10月の記事 (1/1)

スズメバチ対策の記事に疑問


スズメバチ対策の記事に疑問

スズメバチ被害を伝えるニュースは度々目にする。スズメバチに限ったことではないが、いわゆる危険生物を扱った報道は視聴率やアクセス数をかせごうとしてなのだろうか……必要以上に危険性を強調したり危機感をあおるような演出がされていることが多い気がする。こうしたニュースに求められるのは、「ではどうすれば被害を避けることができるか」という情報だろう。いたずらに視聴者・読者の危機感・不安を煽るのではなく、安心に繋がる対策情報を周知するべきではないかと疑問に思うことも少なくない。

スズメバチはよく見かける昆虫の1つ。状況によってはかなり近づいて接写することもあるが、スズメバチに刺されたことは一度も無い。スズメバチの攻撃は基本的には避けられるものだと僕は考えている。報道されているスズメバチ事故の多くも、予備知識があれば──適切な対応をとっていれば避けられた・もしくは被害を少なく抑えられたのではないかと思っている。そういった意味で「正しい対策」の周知が大切だと常々思っているのだが……昨日ニュースに上がっていた《プロに聞く正しい対策》の記事を読んで首を傾げてしまった。


■スズメバチは「黒だけ攻撃する」は誤解 プロに聞く正しい対策〈週刊朝日〉
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171027-00000019-sasahi-life

「この記事を信じて実践する人がいたら危険ではないか……」と感じたので、あくまでも個人的な意見としてだが、僕が疑問に感じたところを記しておくことにした。
記事を読んで疑問に感じたことを順に記していくと──(《》内は記事の引用)、


《愛媛県大洲市で車いすに乗った87歳の女性がスズメバチの大群に50分間刺され続け、多臓器不全で死亡してしまった事実が判明したのが10月初旬。》

この悲惨なニュースは僕も読んでいた。知ったのは10月6日の報道でだったが、車いすの女性がスズメバチに刺されたのは9月11日。被害にあった時期ではなく報道された時期を示す意図がよくわからない……生態の情報として被害にあった時期を示すのが適切な気がする。

《スズメバチ駆除の専門家・小川世紀さんは、秋以降こそ危険で、注意が必要だと訴える。
「この時期のスズメバチは生存競争に勝ち残った生命力の強いものだからです。中には、寒くなっても活動を続ける場合もある」》


秋以降のスズメバチを危険だとする理由が《生存競争に勝ち残った生命力の強いものだから》というのがよくわからない。
夏の終わり~秋にはスズメバチの巣は大きくなり、扶養家族(?)が増える。相対的にエサとなる獲物が少なくなるので攻撃性が高まるのだと僕は認識していた。種類によっては他のスズメバチやミツバチの巣を襲撃することもあるそうで、防衛のための警戒が強化される時期でもある。そのために巣に近づく人が攻撃(防衛行動)される機会も増える──僕はそう解釈している。


《「もしもスズメバチに遭遇してしまったら、下手に逃げたりせず、ゆっくりしゃがんで、石のように動かずにハチが通り過ぎるのを待つしかありません。ただし、それで100%防御できるという保証はありません」(小川さん)》

スズメバチに遭遇するのは巣の近くや、餌場(樹液が出ている木など)の周辺であることが多い。スズメバチの姿を見かけたらすみやかに離れるのが無難だと僕は考えている。もし、近くにスズメバチの巣があるのに《下手に逃げたりせず、ゆっくりしゃがんで、石のように動かずにハチが通り過ぎるのを待つ》ことをしてたら、攻撃の集中砲火の的にもなりかねない。前述の「車いすに乗った高齢女性がスズメバチの総攻撃を受け亡くなる」という事故も、近くにスズメバチの巣があるのにその場を動かず(動けず)にいたことが被害を深刻にした。スズメバチが威嚇してきたり攻撃してきたら、とにかく急いでその場から離れることが最優先だと僕は考えている。スズメバチが人を攻撃するのは巣や餌場を守る防衛行動であることが多い。威嚇や攻撃があった場合、スズメバチの警戒域の外へ出ること──これをしない限り攻撃は続きエスカレートする危険が高い。

《小川さんによると、最も気を付けてほしいのは土中にできた巣。「これは地雷のようなもので、うっかり踏んでしまったら、数百匹に襲われてしまう。一度刺されると、“警報フェロモン”によって仲間に警報が伝わるので、一斉に攻撃してくる。こうなったら、なすすべはありません」(同)》

《なすすべはありません》といわれても……これが「プロに聞く正しい対策」なのだろうか? オオスズメバチの巣を踏んでしまったら、そのまま死ぬまで刺され続けるしかないというのだろうか?
こんな状況でその場にぐすぐすしていたら、スズメバチの総攻撃を浴び続けることになる。とにかくスズメバチの巣からいち早く離れること──それが被害を少なくすることにつながるはずたと考えている。


《スズメバチは人を襲撃する前に「カチカチ」という警告音を鳴らすので、音が聞こえたら慌てずにゆっくりと後ずさりしてその場を離れろといわれるが、これは正しくない。スズメバチの警告音の多くは、耳を澄まさないと聞こえないほどの小さい音。警告音が聞こえないからと安心して身動きしたら、その瞬間に襲われてしまうこともある。》

まるで「スズメバチの警告に気づくのは無理」「下手に身動きすれば襲われる」とでも説いているようにも読めるが……たとえ「カチカチ音」が聞こえなかったとしても、まとわりついて「威嚇」してくれば、それが警告行動であることは判るはずだ。「警告」の段階ですみやかにその場(おそらく近くに巣がある)を離れ、スズメメバチたちの警戒域の外へ出てしまえば「攻撃」は回避できる。
「警告」を無視してその場にとどまればハチの緊張は高まり「攻撃」段階に突入する──ひとたび攻撃のスイッチが入れば、増員部隊を招集しての総攻撃につながりかねない。《身動きしたら、その瞬間に襲われてしまうこともある》からと「警告」を受けているにもかかわらず、その場(警戒域内)に留まるのはきわめて危険な行為だと思う。この状況で記事に記されているように《下手に逃げたりせず、ゆっくりしゃがんで、石のように動かずにハチが通り過ぎるのを待つ》ことを実践した人がいたら、深刻な被害を受けることになりはしないかと、そんな心配をしてしまう。

また、気になったのが──、


《ハチは白黒で物を見るので、濃い色はハチにとって黒と同じで、攻撃してくる》

──という部分。
昆虫の多くは色視物質を持っているという話は聞いたことがある。ハチにも色覚があるという認識でいたが……《ハチは白黒で物を見る》というのは、何を根拠にしてのことだろう?
この「プロ」の話には、疑問に感じることが多い……。

ちなみに僕は、ススメバチの攻撃を受けやすいといわれている黒い服を着て緑地を歩くことも多い。攻撃が始まれば黒いものが狙われやすいという認識はあるが、黒い色が攻撃を誘発するとは考えていない。黒い服でスズメバチに近づくこともあるが刺されたことは無い。危機感を煽る報道で、「動くと襲われる」「黒を着てると攻撃される」と思っている人もいるかもしれないが、僕は状況を見極めていればスズメバチはさほど怖い虫ではないと考えている。

スズメバチというと危険性ばかりが強調されがちだが、彼等だって闇雲に人を襲うわけではない。スズメバチにも生活があって、生き物としての生存戦略上、無用な闘いを望むはずが無い。スズメバチがヒトを攻撃するのは、巣や餌場を守ろうとしてのこと──「警戒域に侵入した脅威を排除するため」の防衛行動だと僕は理解している。多くの場合、威嚇の段階で警戒域の外へ逃れることで危険は回避できるはずだ。

ただ、人の往来が頻繁な場所に巣が作られていた場合、前に通った人の刺激で警戒態勢にあったスズメバチの警戒域に次の人が通りかかったことで(その人にとっては)いきなり攻撃を受ける──ということは起こる得ると思う。なので市街地ではスズメバチの巣を撤去するのは妥当な措置だと思う。

スズメバチ被害のニュースが報じられると、「そんな危険なものは絶滅すべし」という意見が出てくるが……市街地の巣の撤去はやむないとしても、緑地の巣まで排除すべきだとは思わない。
スズメバチも生態系の一部。ヒトとの関わりで言えば、害虫を退治する益虫としての面もある。生態系の中でそれなりの役割りを果たしているはずの生き物を短絡的に「絶滅すべし」と考える人が多いのは、危険ばかりが強調されて報道され、その行動(人を攻撃することがある)の意味するところ──生態的な理解がきちんと伝えられていないからではないだろうか?
ズズメバチはどこにでも普通に見られる昆虫の1つだ。「絶滅」というのは現実的ではないし、できたとしてもするべきではない。それよりも被害を避ける・あるいは最小限にとどめる情報を周知するのが現実的であり効果も期待できる適切な方法だと思う。
だからこそ「正しい対策」の報道には期待しているが……今回の《正しい対策》記事には疑問があったので、個人の感想として思うところを記してみたしだい。


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擬装する蛾の幼虫など

天気が荒れたあとの緑地には落ちた枝や葉が散乱している。一緒に落ちた虫も多かろう。落ちた樹上性昆虫は生活の場に戻ろうと上を目指して移動する。このとき、たまたま擬木を登ってしまうと、支柱のてっぺんまでのぼりつめたところで行き場を失う。飛ぶことができない幼虫などは立ち往生──上へ続く道を探して支柱の上面をぐるぐる回ったり、少し戻って擬木の横木をつたって脱出を試みるが、隣の支柱にたどり着くと、またそのてっぺんに登って行き詰る……こんなことを繰り返すことになる。「高いところを目指す」虫が擬木から抜け出せなくなることを僕は《擬木遭難》と呼んでいる。
嵐のあとには《擬木遭難》する虫が増える──ということで、台風の後のギボッチ(擬木ウォッチ)コースを見に行ってみた。

擬装するアオシャク(蛾)の幼虫など



予想通り擬木では色々な虫が見られたが、この日一番注目したのは、この幼虫。極細の棒(?)やゴミ(?)を体にまとって擬装している。異物をまとって擬装する虫は色々見てきたが、蛾の幼虫では初めて。アオシャク(シャクガ科の蛾)の仲間にはゴミをまとう幼虫がいるそうなので、その中の一つなのだろう。どういう仕組みで異物を付着させているのか知らないが……このこの擬装工作には、それなりの手間(エネルギー)が費やされているはずだ。わざわざ無駄なことにエネルギーを浪費するとは考えにくいから、手間をかける行動にはきっとそれなりの──生存率を高めるような効果が隠されているに違いない。その効果とはカムフラージュ(隠蔽擬態)だろう。擬木の上で動いていたから見つけることができたが、じっとしていたら、きっと気づくことはできなかった。




蛾の幼虫には奇抜なデザインのものが少なからずいて、体自体がカムフラージュ(隠蔽擬態)仕様のデザインになっているものも多い。それはそれで興味深いが、擬装素材を外部調達して身にまとう──というスタイルもおもしろい。自らの体がカムフラージュ(隠蔽擬態)仕様であれば、ポージング程度で(さして労力を要さずに)擬態が完成するわけだが、これを「ハードの擬態」とするなら、外界の物資を調達して擬装工作するタイプは「ソフトの擬態」といえるかも知れない。こんな小さな虫に「擬装行動」のプログラムがちゃんとインストールされているのだから感心する。
外部素材を身にまとうアオシャク幼虫の行動──この延長にミノムシ(ミノガの幼虫)があるのだろうか?──ふと、そんなことを想像した。考えてみればミノムシの蓑(みの)もアッパレだが、これは子どもの頃から見慣れているせいか、これまであまり注目したことはなかった。
アオシャク幼虫からの連想で、あらためてミノムシの蓑について考えてみると……ミノムシの蓑の原型は「繭」なのではないか──という気がする(素人想像)。蛾は蛹化が近づくと繭を作るものが多い。繭に周辺の葉などを取り込む形になるものもいる──これがミノムシの繭の原型なのではないか? 普通は繭を作ったあと、その中で幼虫は蛹になり、安全に羽化を待つ。ミノムシの場合は、この「安全な繭」作りを前倒しして、成長期にある幼虫時代もこの中で過ごすという生存戦略を獲得したのではあるまいか?……そんなイメージが展開した。
ミノムシと、このアオシャク幼虫では「外部素材を調達しての擬装」という点では似ているが、見た目の印象はちょっと違う!? ミノムシをヤドカリに例えるなら、このアオシャク幼虫は(海藻を身にまとう)イソクズガニ──といったところだろうか? 似ているようで、もしかすると習性の獲得プロセスは全く違っているのかもしれない……。
蛾の幼虫つながりで……やはり擬木の上を這っていたユニーク系↓。


背中の突起がユニークなギンシャチホコ(蛾)の幼虫。擬木の上ではバレバレだが、葉にとまっていれば緑色の部分は葉の緑に溶け込み、茶色の模様は葉の枯れた部分見え、ボディーラインが分断・隠蔽される。


この個体はよく肥えているので、台風で落ちて《擬木遭難》しているのではなく、蛹化の場所を探して徘徊していたのかもしれない。ときどきコナラの幹で繭を見かけるが、擬木で繭を作っていることもある。

擬木上の昆虫



台風通過後の擬木では色々な昆虫が見られたが、シギゾウムシの仲間も多かった。


前の記事でちょっと触れた「ドングの実から出てくるイモムシ」の1つが、このシギゾウムシ。おもしろい虫なのだが、擬木の上ではせわしなく歩き回っていることが多く、なかなか思うように撮れない……。
同じ支柱のとまっていたミミズクの幼虫↓。こちらはじっとはりついていた。






ミミズクは幼虫・成虫ともにユニークなので何度もネタにしている(*)。ちなみに、コミミズクという和名の昆虫もいて、その幼虫はこんな姿↓。


コミミズクも平たくて、枝に密着できるようなデザイン。ミミズクもコミミズクもギボッチで見かける昆虫だが、出会う頻度はコミミズクの方が多い。
そんなわけで擬木では色々な虫が見られるわけだが……《擬木遭難》した虫が集まる擬木上部は捕食性の虫にとっては良い狩り場にもなっているようだ。


この日は捕食中のヨコヅナサシガメ幼虫をあちこちで目にした。


クロシタアオイラガの幼虫の体液を吸うヨコヅナサシガメ幼虫。今年はよく観察したハリサシガメに比べると口吻がやけに長い。ハリサシガメの獲物はもっぱらアリだったが、毛足が長いケムシなども捕食するサシガメでは口吻も長い方がつごうが良いのかもしれない。
考えてみれば、イモムシの中で、わざわざ毛をはやした──ケムシが多いのは、捕食者(クモや昆虫)のアゴや口吻を届きにくくしたり、寄生蜂・寄生蠅などから体表面を遠ざけるような防衛的な意味があってのことなのかもしれない。


2時間後戻ってみると、クロシタアオイラガの幼虫の体液を吸うヨコヅナサシガメ幼虫は2匹になっていた。1匹の獲物に複数の捕食性カメムシ幼虫が群がっているシーンはたまに見かける。消化液を注入しながら体液を吸っているだろうことを考えると、複数の幼虫が共同して消化液を注入した方が獲物の内蔵溶解(?)や消化効率は向上するはずだ。幼虫にとって大きな獲物はシェアした方が効率的なのかもしれない。
擬木の上にはアオマツムシの姿も多かったが、アオマツムシを捕えたヨコヅナサシガメ幼虫もいた。




アオマツムシは絶命していたが、例によって「偽瞳孔はカメラ目線」で写る(偽瞳孔自体が動いているわけでははない)。
擬木支柱の鉛直面では、(幼虫時代のアリ擬態がアッパレな)ホソヘリカメムシ(*)が羽化していた↓。


カメムシつながりで──見ようによっては両前脚を広げた黒猫やソンブレロ仮面に空目できるウシカメムシ幼虫↓。


擬木にはカメムシの仲間も多い。






「今年も、これを見る時期になったか……」と感じたのがケンモンミドリキリガ↓。


個人的には「プレ・フユシャク(冬尺蛾)」のイメージがあるケンモンミドリキリガ。狭山丘陵では、このキレイな蛾が見られるようになると、まもなくフユシャク(冬にだけ成虫が出現するシャクガ科の蛾の総称)の季節となる。



虫はなぜ毛嫌いされるのか?

昆虫はなぜ毛嫌いされるのか?
~好きな理由・嫌いな理由~Part2~

昆虫は人によって好き嫌いがかなり分かれる存在だ。同じ昆虫に魅かれる人もいれば嫌悪する人もいる。飛行機に乗ってわざわざ採り(撮り)に行く人もいれば、写真で見るのもおぞましいという人もいる。この差は何によって生まれるのだろう?
よく「子どもの時は平気で(昆虫に)触ることができたのに、大人になってダメになった」という話を聞く。これが逆に「子どもの頃ダメだったものを大人になって克服した」というのなら解るのだが……「子どもの時は平気だったものが、大人になってダメになる」という現象は、どう理解したら良いのだろう?

「昆虫に魅せられるのはナゼか?」というのは興味の一つで、前の記事(*)に示したが、逆に「虫が毛嫌いされるのはナゼか?」というテーマも気になるところ。

《昆虫に対する嫌悪感は「未知なるモノ」への不安に起因している》のではなかろうか──僕はそう考えている。というのも、僕には次のような体験があるからだ。
子どもの頃、ドングリ拾いにハマったことがあった。宝探しの感覚でドングリを見つけてはポケットへ。家へ持ち帰ると机の引き出しに貯めこんだ。あるとき、ポケットに手を入れて「!?」と思った。ポケットの奥底に「ぷにゅん」と触れる軟らかいものがある……。何だろうと思ってつまみ出してみると、ウジのような小さなイモムシだった──しかも生きて動いている。
予想もしなかった謎のウジ様幼虫!?!──得体の知れない侵略者(!?)がポケットというプライベート空間から出現したことに激しく動揺した。傷に貼ったガーゼを剥がしたらウジムシが湧いていた──みたいな衝撃。そのときの嫌悪感は忘れられない。
ドングリを溜め込んだ机の引き出しを開けてみると、宝物だったドングリには無惨に穴があき……引き出しの底には、ポケットに潜んでいたのと同じおぞましい侵略虫たちの姿が……。「楽しかったドングリ集め」が脳内で大暴落──コレクションを全て捨て、ドングリ拾いもきっぱりやめた。それ以来このドングリから出てきた幼虫にはずっと嫌悪感を抱いてきた。
このおぞましい謎のイモムシの正体が判明したのはそれから20年以上たってからのこと。虫見を始め、よく出会うシギゾウムシやチョッキリの幼虫であることを知った。「なんだ、こいつらの幼虫だったのか」と判ってみるとイメージは一転──嫌悪感は解消し、むしろ親しみすら感じる存在に変わった。
出会ったときは「わけのわからない未知なるモノ」ということで「不気味」に感じ嫌悪感を抱いたが、正体を知ったことで「わけのわからない未知なるモノ(=不気味)」ではなくなり、嫌悪感も解消されたということなのだろう。

虫の中には毒を持ち、刺したり噛んだりする危険にものもいるし、病原体を媒介するものもいる。ヒトにとって有害なものを嫌悪するのは理にかなっている。無害な種類であっても、十把一絡げ(じっぱひとからげ)の「同類感」から虫全体を嫌悪するような傾向はあるのかもしれない。
無害なものもふくめ、(とりあえず?)虫全体を嫌悪しがちな現象は、もしかするとベイツ型擬態のようなもの? 毒を持つ種類に似たベイツ型擬態の昆虫は多いが、捕食者の鳥だって実は完全に騙されているわけではなく(擬態昆虫を擬態元の昆虫と錯誤しているわけではなくても)、共通する特徴に「同類感」を覚えることで嫌悪を引き起こし、それが忌避効果につながっている──なんてことも、あるいはあるのかもしれない?

「ヘビの中には毒を持つ種類がいる」ということで(とりあえず)「ヘビ全体を嫌悪する」傾向がある──というのは、危機管理的には防衛本能としてあってもよさそうな気がする。同様に「虫の中には有害種がいる」ことから「虫全般を嫌悪する」傾向がある──と考えれば、納得できなくもない。
漠然と十把一絡げ(じっぱひとからげ)で昆虫やヘビをみているうちは、こうした嫌悪が引き起こされがちなのかもしれないが、その生き物の正体を個別にしっかりイメージできる程度に意識化できれば(得体の知れないモノでなくなれば)、僕のシギゾウムシやチョッキリの幼虫に対するイメージが変わったように、必要の無い嫌悪は解消されるのではないか……そんな気がする。

ヘビを引き合いに出したついでに記しておくと……僕は小学6年生の頃にヘビに興味を持った。「手も足も爪も吸盤もないのに、自由に木を登ったりできるなんて、すごいことではないか?」──ヘビのユニークにしてあっぱれな特徴に感心してヘビを見に行ったり関連本を読むようになった。飼育してみたいと思うほどに惚れ込んだヘビだったが……興味を持つ以前は、他の多くの人と同じように「気味悪い生きもの」のカテゴリーに入っていたような気もする。これも「ドングリから湧いた謎の幼虫」と同じで、知識が無いときには「わけのわからない未知なるモノ」として「嫌悪」カテゴリーに振り分けられていたものが、どんな生き物なのかを知ることで「嫌悪」が解消し、「未知なるモノ」が「不思議で興味深い存在」に変わったのだろう。

こうした経験から、僕は《怖れる必要の無い生き物を怖れるのは、無知からくる不安》だと考えるようになった。その生き物が無害だと知った上で、まだ怖いと感じることがあるとすれば、ベイツ型擬態の影を引きずっているか、「無害情報を仕入れた後の脳内再整理がきちんとなされていない」からではないかと考えている。

ちょっと昆虫の話からそれるが……「怖れ」について、個人的な経験を記すと……僕は小学校に上がる前、「ヒトは必ず死ぬ」ということを知って「死」に対して激しい恐怖を覚えた時期がある。「ヒトはどうして死ぬのか・死なねばならないのか?」「死んだらどうなるのか?」「やがて死ぬのになぜ生まれてきたのか?」「死ぬと判っているのに、なぜ生きるのか?」等々、就学前に真剣に考えていた。これらのテーマは以後もずっと僕の関心事の柱のひとつだった。
ヒトが死ぬのはこの世の必然──この現象が真理であることは間違いない。しかし、それを受け入れがたいと感じるのはなぜだろう? 真理を受け入れられなかったり解せないのは、自分の受け止め方──認識や理解が間違っていることになる。そう感じて、このテーマについてはずいぶん深く考えた。僕が求める解答は宗教的なものでも哲学的なものでもなく、自然科学ともまた少し違ったものだったが、時間をかけて正解にたどり着いた──つもりでいる。いずれにしても、自分なりの理解ができてからは、「死」に対する「怖れ」は解消した。
「死」は必ず訪れる真理だが、一方、それを怖れる人が多いというのも事実だろう。ヒトはどうして「死」を怖れるのか──ということについては、「死」を簡単に受け入れる者より、「死」を怖れて「生」に執着する者の方が生存率が高くなる──生存率の高い者の遺伝子が受け継がれやすく「死を怖れる」資質が濃縮・固定したのだろうと単純に考えている。

「ヒトは必ず死ぬ」ということは子どもにもわかる。それを知って就学前の僕は「怖れ」にとらわれたが、よく考え正しく理解できるようになると(脳内の再整理が完了すると)それは解消した。
そんなこともあって、「不要な怖れを抱くのは、きちんと理解(脳内整理)されていないからだ」と考えるようになった。逆に(基本的には?)「理解が進めば不要な怖れは解消する」と考えている。だから、「子どもの時は平気で(昆虫に)触ることができたのに、大人になってダメになった」という現象がよくわからなかった。

不思議なのは、昆虫に対して理解が深いはずの虫屋さんの中に、イモムシ・毛虫などの特定の虫が苦手という人が少なからずいることだ。それも、その毛嫌いっぷりが尋常でなかったりする。いわゆる生理的な快・不快は誰にだってあるだろうが、昆虫さんの「苦手な虫の嫌いっぷり」は、ちょっと度を超えている感じがして──虫のことを熟知しているのに(無害だと解っている)虫を不必要に怖れるのが不思議でならない。

虫屋としても知られる養老孟司氏はゲジが大嫌いだそうだ。その苦手っぷりを記した養老氏のエッセイを読んだことがあるが、実害(咬害)のあるムカデよりも、基本的に無害なゲシの方が苦手だというのだから解らない……。

養老氏は自己の好き嫌いの感覚は、生理的な振り分けのようなものと捉えているらしい。「ものすごく好きなもの」を選別する脳は同様に(?)「ものすごく嫌いなもの」を一定量選別するようにできている──というようなことが件のエッセイには書かれていたように思う。それまで苦手だったものがある日苦手で無くなるということはあるが、そのぶん新たに苦手なものができてくる──何か明確な基準があって苦手になるのではなく、脳の生理的機能によってたまたま(?)苦手カテゴリーに振り分けられているにすぎないという考えらしい(僕の解釈)。

《好(快)⇔嫌(不快)》のカテゴライズは明確な基準にもとづくものではなく、生理的なバランス配分──という解釈は、ちょっと説得力がある。
「子どもの時は平気で触ることができたのに、大人になってダメになった」という変化も、「明確な基準」によるものではなく、選別対象が(たまたま?)変わっただけ──と解釈すれば、納得できなくもない。

似た構図(?)として免疫システムが思い浮かんだ。
免疫は寄生虫やバイ菌などから自己を守るシステムだが、これが過剰に働き暴走するとアレルギーをひきおこす。清潔志向が高い先進国でアレルギーが多いのは、免疫システムが本来向かうはずの寄生虫やバイ菌などが少なくなったため──という考え方がある。本来撃退すべき寄生虫やバイ菌などを失ったために、その攻撃対象を無害な食べ物や自己に振り向けてしまう──ということらしい。免疫システムに攻撃対象を選出するバランス配分のような仕組みがあるとすれば、攻撃対象カテゴリーを埋めるために(本来の攻撃対象がなければ)代替ターゲットが選択されてしまうという現象も理解できる。

「好きな虫」と「嫌いな虫」がいるのは、脳の生理的なバランス配分──養老氏の場合はゾウムシが《好(快)》に、ゲジが《嫌(不快)》に振り分けられた──そうなんだから、しかたない──といった認識のようだ(と僕は解釈した)。
虫屋さんは虫が好きだが「なぜ虫が好きなのか?」(あるいは「なぜ(例外的に)嫌いなのか?」)といったことには、あまり関心が無いのかもしれない。
虫屋でない僕には虫に対する反応──《好(快)⇔嫌(不快)》がどうして生まれるのか、気になる。生理的なバランス配分であったとしても、それでは何によって振り分けられるのか──と考えてしまう。

僕にとって最大の(?)謎は「子どもの時は平気で(昆虫に)触ることができたのに、大人になってダメになった」という話。僕自身には経験が無いので、どんな感覚なのかよくわからない。
「正しい理解が進めば(無害の虫への)嫌悪は解消する」はずだというのが僕の考えだが、昆虫への理解は子どものときより成長してからの方が深まっているはず……なのに、知識としては無害とわかっていながら、どうして嫌悪するるようになるのだろう……。

今考えている仮説(?)を記すと──、
虫に対する理解(知識)自体は子どもの頃とさして変わっていないが、大人になるにつれ《ヒトの言語(ヒトの脳が理解しやすいフォーマット)》化が進み、相対的に《自然界を構築している言語》で描かれたものへの違和感を強くして、「得体の知れぬもの」感が高まり、それを怖れ嫌悪するようになるのではないか?──というもの。昆虫はヒトからみると「異形」感が強いのかもしれない。

ヒトが制御・管理しやすい人工物の中で暮らし、《ヒトの言語》で物事を測ることにすっかり慣れてしまうと、《ヒトの言語》の管理下にない(フォーマットの違う)自然物は「異物」と見なされてしまうことがあるのではないか?
《ヒトの言語》化が過度に進むことで、《自然物》を「異物」とみなすようになり、排除したがるようになる──とすれば、これは良いことではないだろう。人工環境で暮らし《ヒトの言語》の中に生きていても、生物としてのヒトは《自然物》だ。それなのに《自然物》を異物と見なし排除したがるという状況は、ある種の自己否定・自己矛盾──免疫に例えれば、自己の細胞を異物と見なし攻撃するような過敏反応状態のようなものではないかという気もする。

昆虫に対する《好(快)⇔嫌(不快)》は個人差も大きい。それがどうして生まれるのか──本当のところはまだよくわからない。しかし虫見をしていると、ついそんなこともあれこれ考えてしまうのである。


*昆虫の何に魅かれるのか?

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■エッセイ・雑記 ~メニュー~
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昆虫の何に魅かれるのか?

昆虫ブログのつもりで始めたわけではないのだが、昆虫に関する記事がだいぶ貯まってきた。昆虫は姿や生態それ自体もおもしろいが……それをどうして面白いと感じるか──という自分の認知についても興味がある。そのあたりのことを少し記してみよう思う。

昆虫の何に魅かれるのか?
~好きな理由・嫌いな理由~Part1~

僕は虫屋ではないが、子どもの頃には夏になるとよくカブトムシを捕りに行った。見つけたときの「!」感も忘れられないが、早起きをして雑木林でゲットしたカブトムシやクワガタを、部屋の中でじっくり眺めるのも好きだった。お目当てだった虫をのぞきこんでいると、それを探し歩いたことが夢のように脳内に再生される。明け方の雑木林・甘酸っぱい樹液のニオイ……樹液がしみ出すクヌギ幹に目的のモノがしがみついている姿を見つけたときの感動と興奮──そんな光景を思い返しては不思議な気持ちにひたったものだ。
虫とりから帰還した《僕の住む世界》──部屋という人工空間でながめるカブトムシは、《全く違う世界からやってきた存在》感をかもしだしていた。

ヒトは人工物に囲まれ──いってみれば、《ヒトの言語》で描かれた世界の中で暮らしている。慣れ親しんだ部屋は直線や平面で構成され、置かれたもの──人工物も単純な形でデザインされがちだ。曲線や曲面があっても曲率が一定であったり変化率が一定であったり、やはり単純な形になりやすい。しかし、捕ってきたカブトムシは《全く違う様式》でデザインされている。とても複雑な形をしている……しかし複雑でありながら決して無秩序なわけではない──不思議な調和を感じさせるデザインで独特のカッコ良さがある。「よくこんな形が実現したものだ」と感心せずにはいられない。しかも、これがまるで意志をもっているかのように動く──何のために作られたのか知らないが、ちゃんと自己活動の機能を備えている。これはもちろんヒトが作ったものではないし、ヒトが作れるものでもない──製造者も製造目的もわからない人智を超えた精巧な自家繁殖型ロボット!? いったいどうして、こんなものが誕生したのか……自然の創造物(《自然界を構築している言語》によって描かれたもの)に対する神秘性・畏敬のようなものを子どもながら漠然と感じていた。
人工物(《ヒトの言語》で描かれたもの)とは全く異なる様式の存在──《自然界を構築している言語》のようなものの存在を理屈ではなく、うっすらとながら実感していたように思う。

ヒトは自分たちが住みやすいように環境を改変してきた。自然環境を構築してきたフォーマットを全く別の《ヒトの言語》に書き換え、人の支配下に置いて制御しようとしてきたとも言える。人工環境の中で生活していると、《ヒトの言語》以前に《自然界を構築している言語》があったことを忘れてしまいがちになる。しかし、生物としてのヒトを創ったのは《自然界を構築している言語》に他ならない。ヒトは生物として進化し脳を発達させ、その末に自意識に目覚め、《ヒトの言語》を獲得した。そして《ヒトの言語》で世界を見る(認識する)ようになった──構図としては《ヒトの言語》は《自然界を構築している言語》の下位末端に派生したローカルなフォーマットにすぎない。
進化の末端で生まれたローカルな《ヒトの言語》は、例えてみれば、銀河の中心から外れた小さな星(地球)に生まれた我々と同じ。そこは《全体》からすれば辺境の地なのだが、そこで覚醒したヒトは、そこが中心・基盤であるかのように認識してしまいがちになる……これは《天動説》的視点なわけだが、自然物を見、その背景に《自然界を構築している言語》を感じること、《上位の根幹的言語》の存在を再確認することで、《天動説》的世界観を《地動説》的世界観に修正することができるのではないかと思う。

《ヒトの言語》で構築された世界の中どっぷりつかって《ヒトの言語》至上主義に染まってしまうと、《自然界を構築している言語》を忘れ・拒絶するようにもなりかねない……その端的な現象の一つが、虫を見て「コワイ」「キモイ」と拒否感を示すことではないか……という気もする。そうならないうちに──子どもの頃から昆虫などの自然物に接すること──《上位の根幹的言語》の存在を感じることは大切なのではないかと僕は思っている。

昆虫に対する興味や好奇心の本質は、「《ヒトの言語》ではない《自然界を構築している言語(フォーマット)》をかいま見ること」に起因しているような気がする。単純な言い方をすれば「自然が創りだしたものはスゴイなぁ」と感じること。昆虫の姿(生態も含めて)は、複雑系の中で生まれた均衡の結果──《自然の言語》の結晶ともいえる。
小さな昆虫を通してその背景に、この世界を構築した(《ヒトの言語》よりも上位の根源的な)《自然界を構築している言語》を感じること……これは自然物でもあるヒトにとって大きな意味があると僕は考えている。


*虫はなぜ毛嫌いされるのか?

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公立図書館の役割り

公立図書館の役割り

先日都内で行われた全国図書館大会──《公共図書館の役割と蔵書、出版文化維持のために》をテーマとする報告会で、文芸春秋社長がおこなった発言が物議をかもしているらしい。図書館で文庫本を貸し出すことが出版社の文庫売り上げ減少に影響している懸念があるとし、公共図書館に「文庫の貸し出しをやめるよう」に要望。読者に向けても「文庫くらい借りずに買ってください」と呼びかけたという。

文芸春秋社長の考え方とは違うのだが……図書館に時流の廉価本が並ぶとことには僕も違和感を持っていた。この機会に《図書館の役割り》について思うところを記してみたい。

僕も以前は調べ物でちょくちょく図書館を利用していた。しかし最近はその機会もめっきり減った。目当ての資料が見つからなかったり(前にはあったのに)無くなっていたりで、ガッカリすることが度々あったからだ。「調べ物をする場」として認識していた図書館は、たよりなく影が薄い存在になってしまった……。

毎年出版される書籍の数は膨大だ。図書館の限られた書架に新しい蔵書を入れるためには、古い蔵書を処分しなければならないという事情も解らないではない。しかし、貸し出し数の多いタイトルを残し、その頻度の低いものから処分していけば良いというものでもないだろう。時流のライトノベル文庫は揃えているのに、児童文学の草分け的な「浜田広介」の本がない……というようなことがあると、「図書館のあり方として、どうなのだろう?」と疑問に思ってしまう。

運営側としては「図書館の利用率」で施設の価値(や予算?)を判断する(される?)ので、限られた予算・限られた書架スペースで、より「来館者数」を増やすために「貸し出し数を稼げる時流の廉価本」を置いて実績を上げようとしているかもしれないが……商業施設ではないのだから、人気にとらわれず、文化的価値の高い書籍──図鑑や事典・全集・専門書など、個人では買いそろえるのが難しい書籍こそ保全し共有できる文化機関であってほしい。

蔵書の優先基準に疑問を感じるようになって、図書館に対する信頼や期待は薄れた感は否めない。調べ物はインターネットですることが多くなったが、ネット情報は変更されたり消えてなくなったりするので、ちゃんとした引用元としては書籍の方が信頼性は高い。そういった意味では公立図書館の《文化資料の保全》の意義は大きいはずだ。それが公共の利益であり、公立図書館の果たすべき役割りだろうという気がする。


というわけで僕は公立図書館では《文化資料の保全》が優先されるべきだと考えているのだが、もちろん図書館には《本との出会いの場》という面もあるわけで、人気作品・娯楽作品を置くことの意義も理解しているつもりだ。廉価本(文庫本)を排除すべきだと言うつもりはない。
本は読んでみないことには内容の評価ができない。廉価本と言えど、内容を見極めてから購入したいと考える人は決して少なくないはずだ。しかし一般の書店では、読んでから買う決定をすることができない。そうしたことを考えると、図書館のように課金を気にせず自由に読める場はあっても良いと思う。ただし、著者や出版社に対しては何らかの還元はあってしかるべきだ。読んでつまらなかった作品は買う必要がないが、面白かった作品は買うように努める──図書館での「タダ読み」が「試し読み」として機能し、「気に入った本を見つけて購入する機会」につながれば、これは読者のみならず著者や出版社にとっても利益となる。

出版物の低迷の一因には、(一般的には)「本は買って読まないことには内容が評価できない」(「ハズレ」を買ってしまうリスクも大きい)ということもあるのではないかと思う。
書店では「アタリ」か「ハズレ」かの見極めができないため購入を躊躇することも多いわけだが……図書館のような「試し読み」自由の場があれば、好みの作品に出会う機会は増え、それが購入に繋がることもあるだろう。これが《本の内容についての正当な評価を売り上げに反映するシステム》として機能するなら……つまらない本は淘汰され、面白い本の購入が増えることになり、読者の本への期待・信頼を高めること(購買意欲の活性化)にもつながるのではないか──という気がしないでもない。
また、図書館は《本との出会いの場》として本好き層を育てるという役割りも果たしてきたはずだ。「借りて読む」ことを制限すれば、そのぶん「買って読む」人が増えていくことになるのか……といえば疑問もある。《本との出会いの場》が少なくなれば、娯楽をゲーム等に求める人が増え、世間の読書率は低下して、「買って読む」人がかえって少なくなる──なんて可能性だって考えられないではない。

そういった意味では文芸春秋社長の主張──「試し読み」自由の機会を制限することが《出版文化維持》になるのかどうか……疑わしい。
しかし、それとは別に──公立図書館の役割りを考えると、限られた予算・書架スペースを、人気取りのための廉価本が占めてしまうことには違和感があって、やはり蔵書の優先順位としては、《個人で買いそろえるのが難しい──発行部数が少なく(読者層は濃いが限定的であるために)コスト高になりがちな、しかし有用な文化資料》の保全をまず優先的に考えて欲しいというのが僕の考えだ。

全国の公立図書館で、貸出率は高くなくとも有用性の高い書籍(引用資料)を備えるようにすれば、個人の購買層だけでは採算的に厳しいジャンルの出版文化の維持にもプラスに働くのではないか……という思いもある。


*こども心にひっかかった《ひろすけ童話》の【善意】

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ハリサシガメの単眼&脛節など

ハリサシガメの単眼と複眼



雨上がりの石垣にハリサシガメ成虫♂が出ていた。背中や脚に水滴がついている。


ハリサシガメがいつ、どんな場所でどのような形の卵を産みつけるのか……卵で越冬するのか孵化して幼虫で越冬するのか……このあたりのことを僕は知らない。運良く産卵のシーンにでも出くわさないものかと密かに虫の良いことを期待しているのだが、ままならず。
とりあえず成虫の姿を見ることはできたので、ハリサシガメの単眼と複眼を確認してみることに。






ハリサシガメの脛節(けいせつ)



ハリサシガメを見ていてユニークだと感じるのは、前脚と中脚の脛節(けいせつ:ヒトでいえば膝から足首にかけての部分)の内側部分。ここに「脛(すね)当て」(レガース)のようなカバー(?)がついている。これまでカバーのある前脚・中脚ばかりに注目してきたが、後脚はどうなっているのか……ちゃんと記録していなかったので、前脚・中脚・後脚それぞれの脛節を比較してることにした。


中脚と後脚は8月に拾った成虫♂の死骸を撮ったもの。
ハリサシガメはエサであるアリを狩ったりコントローするときに前脚と中脚を使う。そのさいにアリを押さえるのは、この脛当て部分だ。アリにフィットし(?)接面積を増やすことでグリップ力を高めているのではないかと僕は想像している。捕食のさい使わない後脚には、この器官はない。





最近石垣で見かけた生きもの



オオモンシロナガカメムシはこの石垣周辺でみられるカメムシの一つ。ハリサシガメより小さく敏捷。
石垣で日光浴していたニホンカナヘビの幼体。


石垣上で見かけることは少なく、葉の上にいることが多い。


この石垣で出会う爬虫類はヒガシニホントカゲが圧倒的だが、ニホンヤモリやアオダイショウの幼蛇と出会うこともある。


成体とはまるで違うルックスのアオダイショウの幼蛇。整然と並んだウロコが美しい。


成体とは異なるこの模様が、しばしばマムシ(の銭形模様)と間違われる。

レガースで獲物を保定するハリサシガメ

石垣上のハリサシガメ♂



9月も半ばを過ぎると見かける頻度が少なくなったハリサシガメ。このところエサとなるアリの活動も衰えてきた感じがする。シーズンも終焉に近づいている気がしないでもないが……10月に入ってからも頑張っている(?)個体がいた。


このハリサシガメ♂は腹端から交尾器がのぞいている。収納ギミックが故障しているのだろうか。よく見ると背中(小楯板)の棘状突起も先端が欠けていた。


前日、ほぼ同じ場所で確認した時は、棘状突起はまだ欠けていなかったのだが……↓。


棘状突起が欠けるというのは、いったいどういう状況で起こるのだろう? 欠けるほどの負荷がかかったということは、この突起にも何らかの働き(役割り)が課せられているということなのだろうか?

レガース(脛当て)でアリを制御するハリサシガメ♀

棘状突起が欠けたオスを観察していると、近くにハリサシガメ♀が現われた。口吻にアリを刺したまま石垣の上を急ぎ足で移動すると、隙間に身を隠して食事を始めた。


ハリサシガメは狩りをするときには前脚と中脚を駆使して獲物のアリを押さえ込むが、口吻を刺し、しとめたあとは脚を離して通常の姿勢に戻る。


前脚と中脚の脛節(けいせつ:ヒトでいえば膝から足首にかけての部分)の内側に「脛(すね)当て」(レガース)のような器官(海綿窩?)がある。これは獲物であるアリをしっかり押さえ込むとき、グリップ力を高める働きをしているのではないか──と僕は考えている。


食事中、針のような口吻を刺しなおすときにも、前脚と中脚を使って獲物をコントロールする。


獲物を保定するさいに、滑らないようにレガース部分で押さえているように見える。
口吻が打ち込まれると、獲物を押さえていた脚を離す。


食事中は位置を変えて何度も口吻を刺しなおすが、そのたびに前脚と中脚を使ってアリを動かし保定する。








画面右側に頭を向けているアリ↑の、向きを反転させた↓ハリサシガメ♀。




食事を続けるハリサシガメ♀だが……その近くには棘状突起が欠けたオスがいる。

ハリサシガメ・ペア不成立



食事中のハリサシガメ♀と、冒頭のオスとの位置関係は、こんな↑ぐあい。
それまで石垣の上でじっとしていたオスが、フェロモンでも察知したのか(?)、突如メスの方に動きだした。


あれよあれよといううちにメスに近づいたオス↑は、あっという間にメスにとびついた↓。


メスは抵抗し、2匹はもつれあって石垣から落下。地面で別々の方向へ走り去って、交尾は未成立に終わった。

ハリサシガメ♂の腹端



少し経つと、オスは石垣の上に戻っていた。腹端(生殖節)の収納ギミックが壊れている(?)のは、あいかわらず。


どういう仕組みで交尾器が展開したり収納したりするのかは僕にはわからないが……正常な収納状態の腹端はこんな↓。


交尾器がきれいに収納されている。今年8月に拾ったハリサシガメ♂の死骸を仰向けにして撮ったもの。


Yahoo!ブログのリニューアル

Yahoo!ブログが《生まれ変わる》という↓。
https://promo-blog.yahoo.co.jp/renewal/

「Q&A」で気になるのは「これまで書いた記事はどうなりますか?」

お客様がこれまで書かれた記事は、リニューアル後のブログに移行されます。なお、ブログのデザインはリニューアル後の新しいテンプレートが適用されますので、これまでの見た目とは変わりますことをご了承ください。

──とのこと。これまで記してきた記事がどのように変わるのか気掛かりだ。

「リニューアル」ときくと不安に感じるのは僕だけではないだろう。ブログやSNSのリニューアルは既存ユーザーの不評を買うことが少なくない。
運営側はリニューアルを「《新たなユーザー》を獲得するため」──という方向で考えがちな気がするが、これまで利用してきた《既存のユーザー》をないがしろにするようでは困る。

テレビ業界では、各局が目先の視聴率をかせぐことばかりに熱心で、ながら視聴者(惰性でテレビを見ているような層)を取り込もうとやっきになって、その結果、(本来大事にすべき)テレビファンの信頼を失って衰退してきた印象が僕にはある(僕もテレビを離脱している)。ブログやSNSでも、新規開拓ばかりに気をとられ、大事にすべき既存のユーザーの意向を無視した形でニューアルを繰り返すようであれば、テレビ業界と同じ道をたどって信頼を失い先細りしていくのではないか……そんな気がしないでもない。



●Yahoo!ブログの可能性
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●うつろう記憶媒体~失われし記憶ハ痛イ~
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