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2015年12月の記事 (2/2)

クロスジフユエダシャクの♂♀比

退化した小さな翅・クロスジフユエダシャク♀

11月後半に出現し始めたフユシャク(冬尺蛾)・クロスジフユエダシャクだが、その後目につくようになってきた。ふつうに見られる種類だが、《昆虫なのに成虫が冬にだけ出現する》ところとか《蛾なのにメスは翅が退化して飛ぶことができない》というフユシャク特有のユニークな部分に魅かれて、つい撮ってしまう。


オスとメスではこれほど違う↑(もちろん♂♀とも成虫)というのもおもしろい。オスは一見ふつうの蛾なので、やはり翅が退化したユニークなメスにカメラを向けがちになる。フユシャクは種類によってメスの翅の退化の度合い(翅の大きさ)にはずいぶん違いがあって、クロスジフユエダシャク♀では4枚の小さな翅が確認できる。翅が消失レベルまで退化した種類もアッパレだが、♀の特徴である《退化した翅》が確認できる、クロスジフユエダシャク♀くらいが個人的にはイイ感じだと思う。
そんなクロスジフユエダシャク♀だが、♂の婚礼ダンスを追って♀探しをすると、たいてい落ち葉の下に隠れている。それで通常の虫見では、♀を目にするのは、たまたま?擬木や手すりなどの目立つところにいる個体ということになりがちなのだろう。今回は12月に入ってみられた、そんなクロスジフユエダシャク♀たちを紹介。
擬木や手すりに登ってしまった個体は上部とまっていることも多いが、上部に近い段差部分に頭を突っ込むようにしてとまっていることもある。




この♀↑は黒っぽい模様が濃く、ひと味違う美しさを感じた。同じ種類の♀でも個体によって、けっこう印象に差がある。
段差ではないが、角に頭をくっつけている♀も──↓。


段差や角あるいは凹みにいる個体は隠れているつもりなのだろうか……。↑個体を90度回転して↓。


木製の手すりの上部にいたクロスジフユエダシャク♀↓。






擬木支柱の側面にいたクロスジフユエダシャク♀↓。




こうした目立つところにいる個体は、比較的みつけやすい。

クロスジフユエダシャクの♂♀比率

虫見を始め、フユシャクの存在を知った頃からしばらくは、クロスジフユエダシャク♀は、上記画像のように、たまたま手すりや擬木、幹などの目立つところにいる個体しか目にすることがなかった。しかし♀を探し出す♂の婚礼ダンス(はばたき歩行)に注目するようになってからは、落ち葉の下に隠れている♀を見つけることができるようになった。これまで婚姻ダンスの♂を追って見つけた♀は全て葉の下などに「隠れている」状態だった。それで自然の状態では「隠れている♀」の方が断然多いのではないかと考えるようになった。多くの「隠れている♀」は見つけにくいから目にする機会がなく、たまたま目立つ擬木や幹にいる♀しか見ることができなかった……ということなのだろう。
あるいは隠れて交尾をした後(擬木や幹などの目立つ所で交尾をしているペアもいるが)、産卵のために擬木や幹を登ってくる♀が目につきやすくなる──ということもあるのかもしれない。

昼行性のクロスジフユエダシャクは、発生時期になると雑木林の地表付近を低く飛ぶ♂(落ち葉の下に隠れた♀を探している)がずいぶん目につくようになる。目につく♂の数に比べると見つかる♀の数は極端に少ない。もちろん「見つかる♀が少ない」というだけで、実際には「見つけられない♀」はもっとたくさんいるのだろうが。

それでクロスジフユエダシャク♂とクロスジフユエダシャク♀の比率について漠然と想像してみた。例によって素人の脳内シミュレーション──。

オスとメスが一組になることで子孫を残せる──とすれば、単純に考えて♂♀の比は1:1が効率が良いことになる。♂が複数の♀と交尾できるとすれば、卵を産むことができる♀が多い方が効率的だ。
しかしクロスジフユエダシャクを見ていると目につくのは♂ばかり(目につきやすいという理由ももちろん大きい)で、♀は少ない(見つかりにくいという理由も大きい)。婚姻ダンスでも、複数のオスが1匹のメスに集中するというシーンがみられる。印象でいうと、クロスジフユエダシャクでは♂が♀よりだいぶ多いように感じる。

♀のおそらく多くが落ち葉の下に隠れているのは鳥などの捕食圧があるからだと僕は考えている。本来なら♀が目立つ所に出ていた方が♂だって見つけやすいだろうし、そこだけ考えれば、その方が繁殖率は高まるはずだ。にもかかわらず、目立たぬところに隠れて♂を呼ぶ(フェロモンを放つ)というのは、目立つとこにいて鳥などに食われやすくなると繁殖率は落ちることになるので、隠れて鳥に見つかりにくくする方がまだ繁殖率を保てる──ということなのではないかと想像する。

もし♂と♀が同じ比率で発生していたと仮定して、その全てがペアになれれば繁殖には効率的だか……隠れている♀が必ず見つけてもらえるとは限らない。♂に見つけてもらえなかった♀は(繁殖の観点からすれば)ムダになってしまう。ムダな♀を減らすためには、♀に対してより多くの♂が必要だろう。あぶれる♂がでたとしても、たくさんの卵を産むことができる♀が、より確実に交尾できる体制であることの方がが繁殖効率的には重要なはずだ。

そうした理由で、クロスジフユエダシャクは♀より♂が多いのではないだろうか?
実際の♂♀比がどの程度のものかは、卵から育てて羽化した成虫で♂♀の比率を調べてみなければ判らないのだろうが……♂にくらべると目につくことの少ない♀を見ながら、そんなことを考えた。

金属光沢がキレイなアカスジキンカメムシ幼虫など

(ユニークではあるけれど)ちょっと地味な画像が続いたので……12月に入って(も)みられた昆虫の中から、キレイなアカスジキンカメムシ幼虫の画像を。黒っぽい部分が多いアカスジキンカメムシ幼虫は地味な印象があるのだが、中には綺麗な輝きを放っている個体もいる──。










このアカスジキンカメムシ幼虫↑は擬木の上を歩いていたが、このところカエデの幹を歩いている終齢(5齢)幼虫をみかける。越冬場所をさがして移動中なのかもしれない。


さらに、ついでに──、平野部では大発生といっていいくらい増えていたキマダラカメムシを狭山丘陵の擬木で初めて見つけたので、その画像↓。


僕が東京で初めてキマダラカメムシを見たのは2011年(Wikipediaによると東京で確認されたのは2010年)。市街地の公園ではすっかり普通種になっていたが、これまで丘陵地帯では(僕は)眼にしたことが無かった。来年は丘陵地帯でも見かける機会が増えるかもしれない……。


点と線…テンで理解できまセン

劣等生・授業のおもひで…点で理解できま線

たとえば「フランシスコ・ザビエル」と言われても、おぼろげに思い浮かぶのは肖像画くらい。「ええと……カッパのモデルになった人?」と答えたくなってしまうのは僕だけであろうか?
「織田信長? 誰だっけ……名前は覚えているんだけど……いつ会った人?」
実際に出会ったことのある人ですら、なかな思い出せないことがあるのに、面識も無い人のことなんて、いちいち覚えていられるわけがない……そう思ってしまうのは僕だけであろうか。
僕は暗記が苦手だ。人物名や年号など、さっぱり覚えられない。覚えもきっとすぐに忘れる。毎年コロコロ変わる自分の年齢すらにわかに思い出せないというのに、どうして自分が生まれる前の年号を覚えていられようか?

そんなわけで、学生の頃も暗記科目は嫌いだった。暗記科目のみならず、学校の勉強はおおむね分け隔てなく嫌いだったが、考えることは好きだった。
小学校で面積の概念を知ったときは、曲線を含む任意の図形の面積を求める方法を考えてみたり(*)、高学年になってからはエネルギーの概念が無いまま永久機関(実際は成立しないことを知らず)のモデルをいくつか考案していたから(*)、理数的な興味はあったのだろう。

それで、中学に入って間もない頃は科学の第1分野(物理・化学)の内容に興味を持った。担当の教師が、ユーモアを交えておもしろい授業をするので「好きな科目」になりそうな予感があった。ところが……その授業内容につて疑問を感じたことを質問したところ、「今はそんなことは考えないでいいかから、教えられたことだけをわかるようにしておきなさい。ちゃんと勉強していけば、おいおいわかってくるから」と、まったく相手にされなかった。自分がしゃべたいことだけ話して、それに対する疑問には答えようともしない──この反応に大きく失望し、この教師への信頼も授業への関心も失った。それ以来、この教師の授業内容はおろかその後の授業風景すら全く思い出せない。教科書に何が書かれていたのか……教科書を開いた記憶すら残っていない。

科学の第2分野(生物・地学)の教師もユニークだったが、授業中に「マムシは口から子どもを産む。生まれてくる子が傷つかないよう、事前に岩などをかじって毒牙を落とす」などと、とんでもない大ウソ(迷信)をしたり顔で教えていて、ヘビに興味を持っていた僕はひっくり返りそうになった。自分の専門分野でさえ、こうしたいいかげんな知識で教えている教師がいるとは……第1分野の教師とはまた違った意味で、これはこれでとても信頼できたものではなかった。

数学は──得手不得手は別にして、好感のもてる教科だった。暗記科目はとにかく勉強して覚えないことには「正解」がわからない。また、「正解」の内容も僕自身が納得するしないには関係ない。この、納得してないことを記憶するというのが僕には難しく感じられた。それに対し数学や物理などは、「なるほど」と納得して進めるから内容が記憶にもとどまりやすい。また、予習復習をしなくても「考えれば解ける(正解にたどり着ける)」可能性があるというのも良い。《正解を知っている者だけが答えられるのではなく、正解を知らない者でも解き得る問題》という部分に開かれたフェアな印象があった。

そんな中学時代の数学で記憶に残るエピソードがある。「点と線」をめぐる騒動(?)だ。
「線は点の集合である」──授業で教わったこの命題が、僕には理解できなかった。僕が思い描いていた「数学の《点》」は、位置を示す大きさを持たないものだった。単純にいえば「長さを持たない点がいくら集まったところで線にはなり得ないし、線がいくら集まっても面にはならない」──そう考えたのだ(※後述)。どうしたら「線は点の集合である」などということができるのか、そう教えた数学の教師に質問したが納得できる回答は得られなかった。一方「線は点の集合」だと考えるとおかしい──という僕の主張を否定する説明もきけなかった。
この問題については、どうにも納得がいかず、その数学教師の自宅におしかけて問答した記憶がある。彼は数学に関する本を何冊かひっぱりだしてきて「線は点の集合」であることを説明しようとしたが、どこにも明解な説明は無い。持ち出してきた本の内容にのっとって考えても「線は点の集合」だとするとおかしなことになる……。数学教師は自分が持ってきた本を読み比べて「う~ん、君の言うとおりになっちゃうなぁ」と最後には「線は点の集合」というのは間違いだと認めた。
僕としては、自分で気づかぬ盲点のようなものがあって「線は点の集合」であることをスッキリ理解・納得できる合理的な数学的説明が示されるのを期待する気持ちもあったのだが……拍子抜けした思いで数学教師の家を後にしたのを覚えている。

その後、別の数学教師の授業で「線は点の軌跡」と教わり、ようやく納得した。
はたして数学的に「線は点の集合」という解釈が成り立つのか否か、くわしいことはよくわからない。
ただ、当時の(?)中学の数学では《便宜的に「線は点の集合」としておいた方がスムーズに教えられる》という判断があって、指導要綱上では(?)「線は点の集合」と《みなす》ということになっていたのではないか──そんな気がしないでもない。
数学教師はそれを鵜呑みにして(教える内容について数学的に疑問を持ったり自ら検証して真偽を確かめようとはせずに)、指導要綱の内容を生徒に教えることのみを考えて授業をくり返していたのかもしれない。
もし《便宜的な見方》であったのなら、それが《数学的真理》であるかのようにゴリ押しせず、特に数学的疑問を抱いた生徒に対しては、ちゃんと《便宜的あるいは暫定的な「見方」》であることを説明して理解を得るべきだと思う。

先日記した「足し算の順序」についても、2つの数の和を求める問題で「増加」という概念で教えたいという教育方針上の便宜的な判断で「9+5」を不正解とみなしていたのではないかという気がしてならない。あるいはこうした便宜的な方針を徹底することで、計算のできない落ちこぼれを減らせているという実積はあるのかもしれない。しかし、大人になっても「5+9」だけが正解で「9+5」は間違いだと信じている人が思いのほか多いということは大きな弊害だと思う。個人的には「5+9」と「9+5」が同じであると捉えられる感覚こそ数学的理解だと考えている。
教える側からすれば「指導要綱にそった考えた方が理解しやすい。教えた通りに覚えることが理解の近道」とか「それが生徒のためでもある」というような言い訳があるのだろうが、それは欺瞞以外の何ものでもない。「その方が理解しやすい」というのは「その方が教えやすい」──もっとハッキリ言えば「管理しやすい」ということに他ならず、それは教える側の都合にすぎない。しかし子どもは十人十色。中には違った捉え方をする生徒がいてもおかしくはないはずだが、「9+5」という答を(数学的には正しいのに)便宜的に×とみなす教育方針は間違っていると思う。
中学の数学教師に(便宜的?と知らされず)「線は点の集合」と教わって納得できず悶々としたことや、科学第1分野の先生に「よけいなことは考えず、教わった通りに理解していれば良い」と言われて失望したことを思い出し、マニュアル・オンリーの指導方針には激しく抵抗を感じる。生徒の数学的あるいは科学的疑問などは適当にごまかして棚に上げ、効率よく指導方針を徹底することが学業にとって有効だという考え方があるのであれば、とても賛同できない。

中学・高校では学年ごとに教科を教える教師が変わったから、数学に関しても複数の教師の授業を受けたわけだが、教師によって教え方にはずいぶん違いがあったように思う。授業内容に(もちろん数学的な)疑問をさしはさむと、あからさまに不機嫌になる教師もいた。
「めんどくせぇ生徒だな。指導要綱に記されていることは正しいのだから、教えた通りに考えてりゃいいんだよ!」と思っていたのかもしれない。

しかし中には、僕の疑問に対し丁寧に答えてくれる数学教師もいた。ときには授業後に、授業の内容と直接関係がないような質問をしても時間を割いて答えてくれた。そのさい僕の質問に窮したときには「わからない」とハッキリ答え「調べておくから」と約束して、後日本当にちゃんと教えくれたりした。科学第1分野の教師に質問を門前払いされたこともあったので、落ちこぼれの生徒の疑問にいちいちつきあってくれたこの対応にはとても感謝している。後から考えると、授業内容から離れた疑問にまでいちいちつき合ってくれたのは、「生徒の数学的関心の芽を摘まず育てたい」というポリシーがあったのかもしれない。この数学教師は僕が出会った数少ない尊敬できる教師の1人だった。

多くの教師にとっては、よけいな疑問を差し挟まず、教えた通りに理解してくれる生徒が優等生なのだろうが、色々面倒くさい疑問を経て本当の理解は深まって行くのではないかという気もする。

誰でも経験があると思うが、僕は幼少の頃、電車に乗り車窓から外を流れる景色を眺めいて「近くの物は早く流れ、遠くのものはゆっくり流れて行くように見えるのはどうしてだろう?」と不思議に感じたものだ。「列車の右側の窓の外では右向きに(あるいは左向きに)流れて行く景色が、左側の窓の外では左向き(あるいは右向き)に流れるのはなぜだろう」など、当たり前のことにいちいち疑問を持って、どう考えれば説明がつくのかを自分なりに考え納得してきた。
「鏡には、そのままの世界が映っているはずなのに、どうして右と左が逆に見える(感じる)のだろう?」──あたりまえといえば当たり前の現象だが、「上下は変わらずに左右が逆に見える」のに「左右は変わらずに上下が逆に見える」と感じないのはなぜだろうと考えたりもした。「左右が逆」が真ならば、(視点を変えれば)「上下が逆」も真となるはずであり、「上下が逆」が偽であるなら「左右が逆」も偽でなくてはおかしい。こうした、ちょっとしたことにも疑問を持ち「ああ、そういうことか」といちいち納得する──そのくり返しが理解を深めることになるのだろうと僕は思う。
そうした個人的な経験を振り返って考えると、効率的な指導マニュアルを疑問なくすんなり理解していくことが本当に良いことなのか懐疑的に思えてくる。
「疑問」は「理解」を深めるためのステップとして、煙たがらず、むしろ大事に扱われるべきではないか……という気がするのだ。

線は点の集合なのか?

正直なところ「線は点の集合である」という命題の真偽についてはよくわからない。中学の時にこの問題で、数学教師とどんなやり取りをしたのかもあまり覚えていないが……「長さがないもの(0)をいくら足しても線にはならない」というのが当時の疑問の発端だった。いったいどうして「線は点の集合である」という話になるのか──その根拠についてどいう説明があったのか思い出せないのだが(納得できなかったことだけは覚えているが内容についての記憶は無い)……「線は点の集合である」を真とする考え方には、たとえば次のような説がありそうな気がする。

「数直線上からある実数1点をとると、数直線はそこで2つに分断する──それはつまり、点が線を構成している──点の集合が線だからだ」
「数直線上の全ての実数をとりのぞけば何も残らないから、線は点の集合だ」

とりあえず思い浮かぶのはそんな説だが……この考え方には疑問がある。
「数直線上には全ての実数が存在する」──というのはわかる。しかし、ある実数1点を取れば数直線がそこで途切れ、全ての実数をとりのぞいたら何も残らない──という概念は成立するのだろうか?

この問題を考えるため、数直線上の「0」から「2」をピックアップしてみる。


「0」と「1」、「1」と「2」は、それぞれ1ずつ離れている。「0」の1右隣は「1」であり、「2」の1左隣は「1」である。

「数直線上のある1点をとると、数直線は2つに分断する」という発想は、例えば「1」という点(実数)をひとつ取り除くと、そこで数直線は分断するというイメージなのだろう。
数直線上から、長さをもたないある1点だけを抜き取るというのはイメージしにくいので、「0」から「1」までの「1」を含む実数(線分)長さ1を切り取るとする。長さをともなう線分を切り取るのだから、そこで数直線が分断するのはわかる。


切り取った実数には「1」が含まれている。すると残った「2」側の数直線(紺の線)の最初の点(紫矢印)には何がくるのだろう? 件の説では「1」を取り除いたのだから(数直線上の「1」の部分が欠けて)「1の次の実数」という発想になるのだろうが……そこ(紫矢印)は「2」の1左隣──だとすればやっぱり「1」でなくてはおかしい。
「0」~「2」のうち「0」~「1」の部分を切り取ったのだから「2-1」で残りは「1」──「1」~「2」の部分が丸々残っていなければおかしい。
数直線上から「1」を含む線分を取り除いても、「2」の1左隣には「1」が存在するのだから、数直線上の「1」1点を取り除いても「0」の1右隣、「2」の1左隣にはやはり「1」という位置(点)が存在し、数直線が途切れることはない。
点はあくまでも位置を示すものであり、大きさを持っているわけではない。大きさがないものを取り除いたところで(大きさのないものを「取り除く」という概念に無理がある?)、そこで線が欠けることにはならない。

そう考えると、少なくとも件の説では「線は点の集合」であることを説明できない。

「線は点の集合である」ことを支持する説は、きっと他にも色々あるのだろうが……とりあえず、小学生から中学生に上がった頃の僕の頭では、「線は点の集合である」と理解することは、とうていできなかった……という話。