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2015年07月の記事 (1/1)

セミとタマムシ

「岩にしみ入る蝉の声」の主は?

夏空にニイニイゼミ・アブラゼミ・ミンミンゼミ・ツクツクボウシなどの鳴き声か響きわたって、このところ「真夏感」満載である。
夏の暑さとセミの鳴き声は経験的にリンクしているので、セミの鳴き声を聞いただけで条件反射で汗がふきだしそうだ。
セミの声があると無いとでは「かき氷」の売れ行きにだって差がでるのではあるまいか?──そう思ってしまうほどセミの鳴き声の印象は強い。

「セミの声」といえば思い浮かぶのが──、
《閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声》という松尾芭蕉の句。元禄2年5月27日(1689年7月13日)に出羽国(現在の山形市)の立石寺に参詣した際に詠んだものだそうだ。
「しみいる」という表現が印象に残っていたので、前の記事(髪はなぜ伸び続けるのか?)ではこの句をもじったものを載せてみたのだが……問題の芭蕉の句では、詠まれているセミの種類をめぐって論争があったそうだ。
《岩にしみ入る蝉の声》の主はアブラゼミだと断定する説が発表され、これに対し「閑さ、岩にしみ入るという語はアブラゼミに合わない」、「その時期(7月上旬)アブラゼミはまだ鳴いていない」などの理由でニイニイゼミ説が浮上。文学論争に発展したらしい。


最終的には実地調査などを経て「ニイニイゼミ」で決着したという。
僕も「岩にしみ入る」というのはニイニイゼミの鳴き声がふさわしい気がする。アブラゼミではしっくりこない。
有名な作品に登場する昆虫の正体については、多くの人が関心を向けうるテーマだろう。アブラゼミだと断定する意見に対し、違和感を持つ人たちがきちんと反論し、調べ・検証して妥当な結論に到達したというのはあっぱれな気がする。

ヤマトタマムシのゴーヂャスな輝き

ところで、ヤマトタマムシも夏の印象が強い昆虫だ。
焼け付くような暑さの中を、もうろうとしながら歩いている時にこのきらびやかな昆虫に出会うと、幻想的とさえ感じることがある。
国宝「玉虫厨子」の装飾に使われたことでも有名な、宝石級の美麗種だ。










僕はこのタマムシを見ると、童謡『黄金虫(こがねむし)』を連想する。
「こがねむしは金持ちだ。金蔵建てた蔵建てた」という誰でも知っている野口雨情の歌詞──ここでうたわれている「こがねむし」は実は「タマムシ(ヤマトタマムシ)」のことだという説があり、僕もこれを支持しているからだ。
「コガネムシ」をヤマトタマムシのことだと思っている人はけっこういるようだ。雨情の故郷・茨城県磯原町(現在の北茨城市)に近い筑波山麓や水戸市でも、「タマムシのことをコガネムシと呼んでいた」という記録があるという。「昔は貴重品のように扱われ、財布の中に入れておくとお金が貯まる」とも言われていたそうだ。
国宝「玉虫厨子」にも使われた、きらびやかなタマムシが『黄金虫』のモデルならば「金持ち」のイメージにふさわしいし、合点がいく。
さらに僕は、野口雨情が《「玉虫厨子」をモチーフに、これを「こがねむし(タマムシ)の金蔵」に見たてる》という着想を得て、この童謡を書いたのではないかと想像している。

ところが世間ではこの童謡に登場する「こがねむし」を「チャバネゴキブリ」だと断定する説が浸透している。発端は「群馬県高崎地方ではチャバネゴキブリをコガネムシとよぶ」という情報と、昔はコギブリがいつくのは金持ちの(食べ物が豊富な)家だったというような話から、「同じ北関東出身」の雨情も「チャバネゴキブリ」をコガネムシと呼び、豊かさの象徴としてあの童謡を書いたのだろう──という憶測記事にあったらしい。
「チャバネゴキブリをコガネムシとよぶ群馬県高崎地方」と「野口雨情の故郷・茨城県磯原町」を「同じ北関東」という強引なくくりで結びつけたのがゴキブリ説だったわけだが、「野口雨情の故郷《北関東》ではチャバネゴキブリをコガネムシと呼んでいた」という拡大解釈が、さらに「《野口雨情の故郷では》」→「野口雨情の故郷《茨城県では》」と変遷してきたのではないかと思われる情報もある。
先日、コンビニで購入した『少しかしこくなれる昆虫の話』(矢島稔・監修/笠倉出版社・刊)という昆虫うんちく話集にも【「コガネムシは金持ちだ」、実はゴキブリ?】と「?」マーク付きではあるがゴキブリ説が紹介されており、「野口雨情の故郷・茨城では、コガネムシとはゴキブリのこと」と記されていた。本当にそうした事実はあるのだろうか?

多くの人が馴染み親しんだ童謡『黄金虫(こがねむし)』だっただけに、ゴキブリ説はイメージのギャップが大きく、インパクトが大きかった……それだけに、この情報の伝播力も大きかった事は想像できる。ネット上ではもちろん、新聞・雑誌・書籍など様々なメディアでゴキブリ説は紹介され拡散した。

有名な作品に登場する昆虫の正体について、諸説でてくるのはわからないではない……しかし、僕が首を傾げたくなるのは、「いや、それは違うだろう。ゴキブリは、あの童謡のイメージにそぐわない」という声が、音楽や童謡にたずさわる人たちの間から、なぜでてこなかったのだろう?──という点だ。

《閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声》という松尾芭蕉の句で、アブラゼミ説がでたときに、「それは作品の雰囲気にそぐわない」と文学論争がおこったように、音楽論争(?)があってしかるべきではなかったか──という気がしないでもない。
実際に音楽家の間から異論が出ていなかったのかどうかは僕は知らない。ただ、童謡集の著者・音楽関係者が、野口雨情の『黄金虫(こがねむし)』を「じつはゴキブリのことなのだ」と何の疑いもなく紹介している本はいくつか見た。
音楽や童謡を愛する者なら、「それは違うだろう!」という声を上げる者がもっといても良さそうな気がするのだが……「蝉の声論争」に比べると、ちょっと関係者の見識に疑問を感じないでもない。


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髪はなぜ伸び続けるのか?

ヒトの髪はなぜ伸び続けるのであろうか?

髪が伸びてくると目にかかり、うっとうしいことこの上ない。夏は暑苦しいし、わずらわしいのでカットする。これまでに何度も・何度も・な~んども切っているのに、それでも性懲りもなくまた伸びてくる髪がうらめしい。
何かを「得る」ためにお金や時間を使うのは意味のあることだ。しかし、用も無いのに伸びてくるジャマな髪をただ「捨てる」ために、散髪代や時間をとられるのはなんとも理不尽でフラストレーションを感じる。
《非生産的》な散髪に時間やお金を費やすのがバカらしくなり、最近は電動バリカンを使って自分でカットしている。アタッチメントで毛足の長さを調整することができるので、僕は10mmの設定にして丸刈りにしている。髪がのびてきてうっとうしくなると電動バリカンで毛足10mmにカット──これを僕は「省エネカット」と呼んでいる。頭を洗ってもすぐ乾くのが爽快だし、シャンプーの節約にもなる。ドライヤーは不要だし、整髪コストもかからない。このあっぱれな電動バリカンには「省エネカッター」の称号(?)を与えている。


省エネカッターを使うようになってからは散髪はお手軽になって、その負担はいくらか軽減した。
昨年の夏には、うっかりアタッチメントを装着し忘れ、はからずしも毛足0mmの瀬戸内寂聴カットになってしまう……なんてアクシデントもあったが、これもスーパー省エネカットということで。
スーパー省エネカットから、すこし毛が生えてきたところ↓。


しかし、これだけカットしても、雑草のごとく再生してくるのだから、頭髪おそるべし……。
適当なところで成長がとまってくれればいいものを……省エネカットするたびに思わずにいられない。

ヒトの頭髪は、どうして、のび続けるのであろうか?

ふつう動物の被毛は適度な長さで安定する。犬・猫・フェレットなど動物を飼ったことがある人なら、彼らの被毛が手術等で剃られてもすぐに通常の長さに生えそろうことを知っているだろう。
なのにヒトの頭髪は放っておけば必要以上に伸び続けるというのが、なんとも合点がいかない。
個々の髪の毛にも寿命があるので永遠に伸び続けるというわけではないらしいが……それにしても放置した場合の髪の長さは他の動物と比べて尋常ではない。
頭髪は生え放題だというのに、その一方ヒトの体の大部分では他の動物のような被毛がほとんどない丸裸状態……このアンバランスはどう考えたっておかしい。他のサルと比較しても異常なことは明白だ。

いったいどうして、こんなコトになってしまったのか?

頭髪は大事な頭を守るためにある──みたいな話を聞いた事があるが、タガが外れたように伸び続ける必要はないだろう。他の獣の被毛同様に適当な長さにとどまるのであればその説も納得できるが、伸び続ける意味が分からない。髪が長くなれば目にかかり視界が悪くなるし、ノミやシラミ・ダニなどの寄生虫も付きやすくなり不衛生だ──生物学的(?)に考えて、デメリットはあるがメリットが思い浮かばない。
もし「頭を守るため」に必要だというなら、「体を守る」ための被毛だってあってよさそうなものではないか。
体は丸裸なのに頭の毛だけが伸び続けるというのは納得がいかない。

ヒトの体に被毛がないことについては、かつて水に入るような生活をしていた時期があったからだとか、幼形成熟だからだというような説(人類ネオテニー説)もあるようだが、それでは頭の毛だけが伸び続けることの説明がつかない。

ヒトは過剰に伸び続ける髪を定期的にカットして破棄するというムダなことをくり返しているわけだが……かと思えば、髪が薄くなってくると、今度は逆にあわててカツラをつけたり育毛・発毛にハゲんだりするのだからワケがわからない。




そういえば頭髪同様に伸び続ける男性のヒゲ──これも多くの人が手間ひまかけて剃り続けている。人生の中で要すヒゲ剃り時間だって累計ればバカにならないだろう。
《散髪もヒゲ剃りも、非生産的な浪費だよなぁ》──そう感じてしまうのは僕だけであろうか?

ヒゲは男性に特有な特徴だから生物としては性的な指標の意味があるのかもしれない。「髭がある方が女性にモテる」というわけではなく「オス同士の闘争行動(威圧効果)」的な意味があるというような記事を読んだ記憶がある。

頭髪も多くの人にとってファッション・アイテムの1つ──髪をいじることもオシャレの1つだということを考えれば、生物学的(?)には性的指標(ディスプレー)に帰属するのかもしれない。しかし、だから頭髪が伸び続けるようになったというより「頭髪が伸び続ける」という現象が先にあって、その結果それが性的な指標に使われるようになったと考えるのが自然な気がする。

それでは、どうして頭髪が伸び続けるようになったのか……?

ここから先は、科学的な根拠のない妄想的想像になるが……、
他の動物と比べて《異常に「頭髪が豊か」なこと》と、《異常に「体毛が貧相」なこと》には何か関係があるのではないか──と無知な僕はひそかに考えている。
2つの《異常》は、ともに毛に関することなのだから、関係があるのではないかと想像するのは、そう不自然なことではないだろう。
頭髪も被毛も体表面をおおう毛いうことでは同じ。共通するシステム(?)が働いているのだろうというのが、前提の想像である。

一般に動物の被毛が適当な長さに保たれているのは、成長促進(アクセル)と抑制(ブレーキ)の働きがあって、これを制御するバランス機構のようなものが機能しているからだろう(と想像)。

動物の被毛は短く刈ってもやがて再生し適度な長さに生えそろう。新しく生えてきた被毛が適当な長さで成長が止まるか、適当な長さになると脱落することで全体の長さが保たれているのだろう。

本来、被毛はこうしたアクセルとブレーキのバランスで「ちょうどいい長さ」に保たれていたとする。
ところがヒトの場合、何らかの理由で頭部分の抑制(ブレーキ)が壊れた。そして髪が必要以上に成長し続けることになってしまった……これを受けてバランス機構が働き、抑制(ブレーキ)指令がより強く発令されることになるが──その指令が抑制(ブレーキ)が壊れた頭髪には効かず、体毛だけが抑制されてしまった……。

あるいは逆に頭以外の体の部分で被毛の成長促進(アクセル)機能に不全が起こり、生えてこなくなった……それでバランス機能が働き、より強い成長促進(アクセル)指令を発令し続けることとなり、その結果、指令を正常に受けることができた頭髪のみが伸び続けるようになってしまった……。

ヒトの異常ともいえる「髪と体毛の関係」については、そんなバランス機構──ホメオスタシス(均衡維持)が絡んでのことと考えれば、説明がしやすいのではないか……などと想像してみたしだい。しかしこの珍説(?)はもちろん「頭の体操」的な解釈遊び。ホントのところは、僕にはわからない。

ホントのところは判らないが……牙が皮膚を突き破って伸び続ける《バビルサの牙》と《ヒトの髪》は、やっぱり異常だと思う……。

エゴヒゲナガゾウムシ:オスの眼はなぜ離れてる!?

エゴヒゲナガゾウムシ(ウシヅラヒゲナガゾウムシ)



エゴノキの実に孔が目立つようになった。これはエゴヒゲナガゾウムシの産卵痕。よく見るとあちこちにエゴヒゲナガゾウムシの姿があった。


メスはエゴノキの実をかじって孔をあけ、腹端をさしこんで産卵する。孵化した幼虫は果皮内側の堅い種子の中で成長するらしい。エゴヒゲナガゾウムシの幼虫は「ちしゃ虫」と呼ばれ釣りのエサとして売買されているとか(「エゴノキ」は「チシャノキ」とも呼ばれる)。エゴヒゲナガゾウムシが発生している場所ではエゴノキの実のかなり多くで産卵痕がみられる。寄生率の高さから、集めやすいということで商品(釣り餌)として取り扱われるようになったのだろう。
エゴノキの実の果皮にはサポニンという有毒物質が含まれているそうだ。毒があることで鳥などに食われにくい実だとしたら、エゴヒゲナガゾウムシにとっても良いホストなのかもしれない(種子はヤマガラが好むらしい)。








ところで、この【エゴヒゲナガゾウムシ】──名前に「ゾウムシ」とついてはいるが全然「ゾウ」に似ていない(※「ゾウムシ」と「ヒゲナガゾウムシ」は科が違う)。僕の手元にある甲虫の図鑑では【ウシヅラヒゲナガゾウムシ】という和名で載っている(ネット情報によれば、この昆虫は触角が長いのでカミキリと誤認されて【ウシヅラカミキリ】なんて呼ばれることもあったとか)。
「ゾウ」にはとても見えないが、「ウシづら」というのも、どうなのだろう……ちょっと首をかしげたくなる。もっと他の名前がついてもよさそうなユニークな特徴がある昆虫なのだが……。

のっぺらぼう虫!?/眼が顔の外にとびだしたオス



エゴヒゲナガゾウムシのおもしろいところは、オスとメスで顔がずいぶん違うことだ。メスも「おしろいをぬった平べったい顔」みたいで愛嬌があるが、オスの顔がなんともユニークなのだ。




オスは左右の眼がおもいきり離れ、顔の外に飛び出している。正面からながめると飛び出した眼はツノのようで(眼がどこにあるのかわかりにくいので)白い顔の「のっぺらぼう」のように見える。「牛づら」よりは「のっぺらぼう虫」「ノツペラボウビートル」と呼ぶ方がふさわしい気がしないでもない。


また、オスは背後からながめると、飛び出した眼は動物の耳介っぽく、《たそがれるハイエナの後ろ姿》に見えてしかたがない。


葉の上に飛来したエゴヒゲナガゾウムシ♂↑。まだ後翅がのぞいている。




顔が平たくオスの眼が離れている理由!?



メスではふつうなのに、オスだけ眼がこんなに離れているのはナゼなのだろう?──これだけユニークな姿を目にすると、そう考えずにはいられない。
オスはメスが産卵作業をしている実の近くに陣取っていることが多い。交尾のため・あるいは交尾したメスに他のオスを近づけないための監視なのだろう。




丸いエゴノキの実の上では、実の反対側にライバル♂がとまると死角になって見えない。眼が顔より外に飛び出していれば、そのぶんいくらか死角を減らせる──実の反対側からスキをうかがうライバル♂からすれば、体を実のかげに隠しながら眼だけをのぞかせる《潜望鏡》のような使い方もできる。そうした利点があるのかもしれない。


ただ、《オスの眼が離れている理由》には他の意味があるのではないかと僕は考えている(例によってあくまでも個人的素人解釈)。
《(メスをめぐる)オス同士の闘争において「離眼距離」が勢力の優劣決定に影響し、より眼が離れたオスが子孫を残す傾向が強まり、その特徴を進化させてきた》のではないか?──そんな気がする。
動物界ではオス同士の闘争行動において「体を大きく見せる」ということはよくある。ライオンのオスは顔がでかいし、たてがみだって顔を大きく見せて相手を萎縮させようというアイテムなのだろう。キッシンググラミーという魚はオス同士がキスするように口をつきだして広げ、その大きさを競い合って優劣を決める。
エゴヒゲナガゾウムシも、《オス同士の闘争行動で「離眼距離」が競われ、「眼の離れ具合が大きい」→「大きい(強い)」との判断基準で勢力の優劣が決められているのではないか》──「闘争行動」によって、ライオンのオスの顔がでかくなりタテガミが発達したように、エゴヒゲナガゾウムシではオスの眼が離れていったのではないか?
そう考えるのは、以前エゴヒゲナガゾウムシを撮っていたとき、オス同士が顔を突き合わせて一方が飛び去るのを目にしたことがあったからだ。初めてこの虫のオスを見たとき、「なんで、こんなに平べったい顔なんだ?」「どうして眼がこんなに離れているのか?」とフシギに感じていたが、《オス同士が顔を突き合わせて「眼のはなれぐあい」を競い合う》ためだと考えると合点がいく。
そして今回も《オス同士が顔を突き合わせて「眼のはなれぐあい」を競い合う》闘争行動を何度か確認することができた。残念ながら鮮明な画像は撮ることができなかったのだが……いちおう、問題の闘争行動を──。




この直後、1匹(♂)が飛び去って決着。闘争行動に勝った♂は左触角が曲がっていたが、眼の離れ具合は勝っていたようだ。




こうした《闘争行動》がエゴヒゲナガゾウムシの顔を平たくし、オスの離眼距離(僕の造語)を発達させてきたたのではないか──僕はそう考えている。

ところで、エゴヒゲナガゾウムシが産卵するエゴノキの実だが……熟すと果皮が裂けてタネが落ちる。早くも果皮が裂けタネがのぞいている実があったので、その画像も↓。





【撮影後記】本当は別の昆虫を探していたのだが……エゴノキの実にたくさんエゴヒゲナガゾウムシが来ていたので、ちょっと迷ったのち、目的を変更してこの虫を撮ることにした。
「ちょっと迷った」──というのは、何度か記してきたが、僕は写真(画像)撮影には苦手意識がある。エゴヒゲナガゾウムシそのものは面白いのだが、小さく(体長:3.5~5.5mm)て、しかも「よく揺れる」枝先の実や葉の上にいるのを撮るのは大変そうだなぁ……という思いがあったから。生態は面白いのに、ちゃんと撮れないとフラストレーションがたまる。
実際、撮りはじめるとやっぱりNGが多い。珍しい虫なら飛び去ってしまえばどうしようもないので「あきらめ」がつくが、エゴヒゲナガゾウムシはたくさんいるので、幸か不幸か?撮影に失敗して飛び去られても、まだまだかわりの被写体はつきない……。
撮りづらい位置だったり、光線の具合がよくなかったり……エゴヒゲナガゾウムシはたくさんいるものの、撮影に向いた条件のところにいるのを探すとやはり絞られてくる。
ようやくOKショットが期待で来そうな被写体をみつけても、いざシャッターをきろうとする瞬間に風が吹いて画面が揺れ「いま撮ろうと思ったのに揺らすんだものなぁ~もぅ!(往年の西田敏行のCM風)」という悔しい思いをくり返した。
撮り始めて途中で止めるのもくやしいので、とりあえず粘って撮り続けるが……気がつけば熱中症になりかけ(?)ヘロヘロになっていて、ちょっとヤバかった……。
というわけで、イマイチな画像も多いが……いちおうまとめてみたしだい。


ルリボシカミキリ~ツインテールヨコバイ

ルリボシカミキリ@狭山丘陵



狭山丘陵でルリボシカミキリを確認。秩父方面で何度か見ているが、狭山丘陵で出会ったはのは、これが初めて。


ルリボシカミキリは美麗種投票をしたら上位に入るのは間違いないだろう美しいカミキリ。ビロードのような上品なブルー地に深みのある黒い模様……よくこんな色彩が実現したものだと思う。触角もブルーで節ごとに黒い毛玉があるのも面白い。


光沢昆虫にも美しいものは多いが、それとはまた違った味わいの美しさを感じるルリボシカミキリの青──なのだが、例によって実際の美しさが充分伝わらないイマイチ画像になってしまったのが残念……。
青いカミキリに対して色合い的に赤いカミキリの画像も……ということで同日撮ったアカハナカミキリ↓。


ルリボシカミキリは埼玉県側で見つけたが、アカハナカミキリを撮ったのは東京都側。ついでに最近何度か見かけているゴマダラカミキリ↓。


「カミキリ」といえば多くの人が思い浮かべるのが、このゴマダラカミキリではないだろうか。そういった意味ではカミキリの代表的存在といえなくもない気がする。先月の【だらだらマダラ…】でも載せたかった昆虫(そのときは今シーズンのゴマダラカミキリ画像がまだなかった)──和名には「マダラ」が入っている。
「ゴマダラカミキリ」の漢字表記は「胡麻斑天牛」──黒地の上翅に白い模様が胡麻(ごま)のように斑(まだら)に入っているためだろう。漢字をそのまま読めば「ゴママダラカミキリ」だが、標準和名は「ゴマダラカミキリ」──「マ」の重複が発音しにくいので「ゴママダラ」→「ゴマダラ」となったのだろうか。チョウにも「オオゴマダラ」というのがいるが、漢字表記は「大胡麻斑」──やはり「マ」の重複が1字分削られている。
さて、「斑」のつく昆虫つながりで……やや強引に↓。

ツインテールなブチミャクヨコバイ幼虫





「ブチミャクヨコバイ」は漢字表記で「斑脈横這」──「斑」の文字が入る。成虫の翅脈が白黒のブチ模様になっていることが和名の由来らしい。ブチミャクヨコバイ亜科というのがあって、この仲間の幼虫にはこのように発達した尾毛があるのだとか。V字型の尾毛も印象的だが、ひょっとこのような顔や眼のデザインなど、まるでギャグマンガのキャラクタターのようでおもしろい。




以前この幼虫を初めて見たとき、(名前を知らなかったので)「ツインテール」という愛称が浮かんだ。「ツインテール」はウルトラマン・シリーズに出て来た古代怪獣のこと(※髪型でも「長い頭髪を左右の中央あるいはそれより高い位置でまとめ、両肩に掛かる長さまで垂らした髪型」の俗称として使われているようだ)。
ウルトラ怪獣ツインテールは幼虫型の怪獣で持上げた腹端から2つの尾が伸びている──これとブチミャクヨコバイ幼虫の一対の尾毛のイメージが重なったワケ。

ところで、和名の「ブチミャクヨコバイ」だが……この文字列を目にしたとき、「ブチミャク」が「ブチャミク」に脳内変換されてしまいがちなのは僕だけであろうか? 「ブチミャク」はちょっと言いにくい……「ブチャミク」の方が音的には落ち着きがいいような!?
ひょっとこ顔でマンガのような顔は「ブチャイク(不細工)」と言えなくもない。「ミク」は……画像検索するとでてくる「初音ミク」──その特徴的な髪型=ツインテールとも符合する。
ということで、「ブチャイク(不細工)」と「ミク(ツインテール)」をかけて「ブチャミク」……。
「ゴママダラカミキリ」が言いにくいので「ゴマダラカミキリ」になったのなら、「ブチミャクヨコバイの仲間の幼虫」も「ブチャミク」の愛称で良いんぢゃね?──なんて思ってしまうのは……きっと僕だけであろう……。

トラフカミキリの印象擬態

スズメバチそっくりのトラフカミキリ



「夏の昆虫」の印象があるトラフカミキリだが、今年は6月下旬から現れていた。パッと見た印象が「ハチにそっくり!?」──危険な昆虫として恐れられているスズメバチやアシナガバチを思わせる。カミキリなのに動きがまたハチっぽい。鳥など昆虫食の天敵に「危険なハチ」だと誤認させることで身を守っているのだろう。


スズメバチを思わせる精悍で美しいいでたち↑。ちなみに本家のスズメバチ↓。




スズメバチとカミキリはまったく別のグループ。なのに、よくここまで「印象」を似せたものだと感心する。




ホストのクワの幹にとまっていたトラフカミキリ↑。本来の(?)カミキリらしい姿との比較ということで、同じ日に見たヤハズカミキリ↓。


トラフカミキリの擬態マジック!?



姿形や色、あるいニオイなどを別のものに似せて敵や獲物をあざむく《擬態》──昆虫ではしばしば見られる興味深い現象だ。《擬態》がうまい昆虫には感心させられるが、その中でもこのトラフカミキリの擬態には面白味を感じる。細部をよく見ると、実はさほどハチに似ているというわけでもない……なのに全体の印象は「スズメバチにそっくり」。このちょっとした《擬態マジック》を僕は(勝手に)《印象擬態》と呼んでいる。

通常、視覚的な《擬態》では、形や色をどれだけ精巧に似せるかがその完成度にかかわってくる。完成度の高い例をあげればホソヘリカメムシ幼虫もそのひとつだろう。この虫のアリへの擬態は素晴らしい。




カメムシでありながら全く違うグループのアリにみごとに姿形を似せている。
「形が似ている」→「(擬態の)完成度の高さ」の良い例だろう。
これに比べるとトラフカミキリの擬態は少し違った印象を受ける。
触角の長さなど、うまく似せている部分もあるものの、基本的な体型はトラフカミキリとスズメバチではずいぶん違う。ハチの特徴ともいえる腰のくびれがトラフカミキリにはないし、翅の形だって全く違う。「黄色に黒のとりあわせ」は《警告色》としては似ているが、黒帯模様はスズメバチが単純な横縞なのに対しトラフカミキリでは「く」の字に曲がっている。個別のパーツを比較するとずいぶん違うのに、全体として見れば、なぜか印象はよく似ている──ここに《擬態の妙》の面白味を感じる。
仮にこのカミキリにスズメバチそっくりの模様をほどこしたとしたら……スズメバチとの体型差が浮き彫りとなり、かえって違和感を生むことになるだろう。黒帯模様だってスズメバチにはない「く」の字型であることによって実際にはない「腰のくびれ」があるかのように錯覚させる効果があるのではないか……あるいは実際にはない「ハチの翅」が「ハ」の字に開いているような錯覚を誘導する効果もあるのかもしれない。パーツの模様を微妙に変えることによって、むしろ体型の違いを目立たなくし、全体の印象を似せているようにも感じられるのだ。


トラフカミキリの《印象擬態》は、個別のパーツの類似性にはこだわらず、全体としての印象を誤認させるように計算された(?)デザインになっている──物理的な形状(ハード)を似せるのではなく、見るものの《認知》にかかわるところ(ソフト)で《擬態》を成立させている(と思われる)ところが面白い。
ホソヘリカメムシ幼虫の擬態を正確なデッサンによる写実的な肖像画に例えるなら、トラフカミキリの印象擬態はデフォルメで似せた似顔絵──ともいうことができるかもしれない。

擬態する者の個々のパーツ(ハード)がそっくりであれば、天敵や獲物を欺くきやすく(誤認させやすく)なる──というのは当然だ。
だが、それを判断する天敵や獲物たちは、擬態者を細部にわたって確認した上で認識しているわけではないはずだ。視野に広がる景色の中から獲物や敵をいち早く探知するためには、確認の手順をなるたけ簡略化する必要がある。検知の処理速度を上げるために、簡略化したイメージ・パターン=印象で判断しているのだと思う。
つまり細部がさほど似ていなくても、この認知基準(印象)をクリアすれば《擬態》は成立する。

擬態というと、(擬態者の)「形の類似性」(ハード)に目を向けがちだが、(擬態者を狙う敵・狙われる獲物の側にとっての)「それがどう見えるのか」という「認知」(ソフト)の問題も重要なはずだ。見る側の認知システムの精度→誤認の発生余地が擬態を進化させてきたのだろうという気がする。そんなことを感じさせてくれるのがトラフカミキリの印象擬態だったりする。