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2014年09月の記事 (1/1)

昆虫のギミック&トリック

昆虫は《身近》でありながら《未知なる存在》を感じさせる生きものだ。バイオちっくでありメカニカルでもある──我々脊椎動物とは違う、植物とは全然違う次元の生命体という感じがする。
そんな昆虫のトリックやギミックに「えっ!?」とか「へぇ!」と驚いたり感心することもしばしば。これまで見てきたものの中からいくつかを改めてまとめてみた。

ウラギンシジミ幼虫の線香花火



先日投稿したウラギンシジミ幼虫のビックリ・ギミック。刺激をくわえると突然、ツノの近くでパチパチと線香花火の火花が散るように何かがチラつく……初めて見た時は何が起こったのか判らなかった。筒状のツノの先端から試験管ブラシのような器官を瞬間的に出しで広げ、またたく間に収納していたのだ。刺激に反応してのことだから、おそらく寄生蜂や寄生蠅などを追い払うような役目でもあるのだろう。緩慢な動きしかできないと思っていた幼虫の、目にも止まらぬ早業にビックリした。

「線香花火」のようなフシギな器官──名称がわからないので僕は勝手に「フラッシュ・ブラシ」などと記しているが、こんな器官をもつ幼虫は珍しいのではないか? いったい、どうしてフラッシュ・ブラシのような器官ができたのだろう?
ウラギンシジミ幼虫はクズの花穂にまぎれて花やつぼみを食す──このこととフラッシュ・ブラシの誕生には何か関係があるのではないか……などと想像が広がった。
花は虫が集まる器官だ。つまり葉を食べる幼虫より、花を食べる幼虫の方が、他の虫と遭遇する機会が多いはずだ。寄生蜂や寄生蠅が体にとまろうとすれば幼虫は寄生を阻止するため抵抗しなければならないが、接触してくる虫が宿主か全然関係ない虫かは幼虫にはわからない(単に花に集まってきた虫が接触する機会も多いはず)。だからといって「抵抗」を怠れば寄生されやすくなる。「抵抗」をサボる幼虫は生存率が落ち、マメに「抵抗」することが生存率を保つことにつながっていたのだとすると、いちいち体を大きくくねらせて抵抗するより、省エネですばやく対応できるフラッシュ・ブラシのような器官があった方が便利だろう。ウラギンシジミ幼虫は花への擬態も完成度が高い。せっかくこれだけ隠蔽効果がある姿をしているのに「抵抗」で頻繁に激しく動けば、天敵に見つかりやすくなってしまうというデメリットだって大きいに違いない。そんな観点からも、動きが見てとれないほどの素早さでフラッシュ・ブラシをふるうことは、隠蔽擬態したまま使える防衛術として理にかなっているように思われる。
そんなふうに考えると筋は通る気もするが……シジミチョウの仲間ではウラギンシジミの他にも幼虫が花やつぼみを食うものがいる。彼らはフラッシュ・ブラシなしでもちゃんと生き残ってこられたのだから、ウラギンシジミだけがなぜこんな器官を発達させたのか……という疑問は残る。
フラッシュ・ブラシはやっぱり謎めいていて不思議な器官である。

紫のピカチュウ!?ウラギンシジミ幼虫の線香花火

ノコメエダシャクの対称性かく乱トリック



1年前にネタにしたが、今年もそろそろ出現する時期ということで。パッと見「枯葉に擬態した蛾」という感じで、このレベルのカムフラージュはめずらしくもないような気がするが……たいていの昆虫の特徴である《左右対称性》を崩して天敵の眼を逃れる(と思われる)──という着眼(?)に感心した。斜めにかしいでとまり腹を曲げて《左右対称性》を壊し、さらに左右対称である翅の形まで違ってみせる──というのがスゴイ。ちなみにこの画像は昨年撮影したもので、腹が向いている方が「下」である。

ノコメエダシャクはなぜ傾いでとまるのか?

まぶたがないのに眼を閉じるシロコブゾウムシの閉眼ギミック



死んだフリ(擬死)をしたシロコブゾウムシが「眼を閉じている」ように見えて、瞼のない昆虫にあり得ない瞑目トリックにとても驚いた。触角がちょうど眼をおおう形でたたまれていたわけだが……擬死で触角をたたむにしても、本来なら視界をふさぐのは外敵のようすを監視しずらくなるという意味でデメリットとなりそうな気がする。しかし、触角が眼をおおう構造になっているのは、そのデメリットより多くのメリットがあったからだろう。シロコブゾウムシはつぶらな眼が目立つ──これを隠すことで天敵に見つかりにくくなり、生存率が高まるという利点があったのだろう(と解釈している)。

仰天!?眼をつむるシロコブゾウムシ/*開閉する眼!?トリック&ギミック

シャチホコガ幼虫の開眼ギミック



シロコブゾウムシが《(本物の)眼を隠す》ことで目立たないようふるまっていた(と思われる)のに対し、シャチホコガ幼虫は《(偽物の)眼を見せつける》ことで威嚇効果となっているのではないかと想像する。目玉模様(眼状紋)を持つ幼虫は少なくないが、開閉する目玉模様のギミックはおもしろい。

シャチホコガ幼虫の威嚇ギミック!?/*開閉する眼!?トリック&ギミック

アシナガオニゾウムシの収納ギミック



オスの前脚が長いことにおもしろみを感じて撮影しているうちに胸の腹側にフシギな凹みがあるのに気がついた。ゾウムシの仲間は長い口吻が特徴だが、それを含め顔をすっぽり収納できる仕組みになっていた。触角をこのくぼみに隠し顔でぴっちりフタをする──たしかに長い口吻や触角を完璧に隠せば天敵から見つかりにくくなるのだろうが、小さな虫がここまでやる必要があるのだろうか?──と思うほど、よくできている。このつくりがメカニカルでおもしろい。擬死モードでは長い前脚もきちんと折りたたんでる。

アシナガオニゾウムシのぴっちり収納術

コノハムシの内蔵消失ギミック







このコノハムシは以前飼育していたタイ産の成虫♀。通常は必ず腹を上に向けて葉にとまる。つまり下からは背面が(逆光で)見え、上からは(順光で)腹面はが見えるとまり方だ。葉に擬態したうすく平たい体をしており、本来なら逆光では透過光で内蔵の影が透けてしまいそうなものだが、通常の姿勢では内蔵の影は見えない。ところが、ひっくり返して(逆光で)腹側から見ると内蔵の影や翅の影までもがクッキリ透けて見えてしまう。そんな姿を見ると通常の姿勢で「光を通すほどの平たい体で内蔵の影を隠している」のがスゴイことなのだと気づかされる。
単に内蔵が透けないようにするだけなら光を通さない構造にすれば良いのだろうが、それでは体全体がシルエット(影)になってしまい、光を通す葉の中では黒くかえって目立ってしまう。木の葉と同様にある程度光を通しながら内蔵の影を消してみせるというのは実にふしぎなことだ。
コノハムシ成虫♀は飛ぶことが出来ず、翅は葉に擬態する役割りに徹しているが、この翅が内蔵の影を隠す役割りも果たしているようだ。
コノハムシの擬態はよく知られている。色や形が木の葉によく似ていることが注目されがちだが、透過光で内蔵の影が透けて見えない工夫というのがまた驚くべきところだと感心するしだい。


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紫のピカチュウ!?ウラギンシジミ幼虫の線香花火

バイオレット・ピカチュウか笑顔の鬼か!?





……というのはもちろんジョーク。これはウラギンシジミというチョウの幼虫。じつは最近ひそかに(?)探していた虫。成虫はちょくちょくみかけるのだが、幼虫となるとなかなかみつからない。クズやフジの花穂(かすい)について花やつぼみを食べるらしいのだが、その姿を見分けるのは難しい。今年は(も)出会えないままシーズンが終わるのか……となかばあきらめかけていたのだが……ようやくクズで見つけることができた。

ユニークなギミックを持つウラギンシジミ幼虫







クズのつぼみにとけこむような鮮やかなバイオレット・カラー──昆虫で…しかも幼虫で、よくこんな美しい色彩が実現できたものだと感心する。一対の(2本の)ツノ状突起もユニークだ。
ちなみに、ツノがあるのは尻で、頭はその反対側にある。


鮮やかな体色やツノも魅力的だが、この幼虫にはさらにユニークな特徴がある。刺激すると特徴的なツノの先端から試験管ブラシのようなものをパッと広げてサッとしまう──目にも止まらぬ早業を見せるのだ。これが線香花火の火花が開くときのようでもあり、ケヤリムシが触手を引っ込めるときのようでもあって、とてもおもしろい。
2年前、そのことを知らずにウラギンシジミ幼虫を撮っていて、「線香花火」を目の当たりにして驚いた。そのときのことはブログ(緑のこびとウサギ!?)にも記しているが、肝心の「線香花火」画像がイマイチだった……それで、いずれ撮り直したいと思っていたのだ。
2年ぶりに「線香花火」撮影をするにあたって、ウラギンシジミ幼虫がとまっていた花穂を摘みとり、クリップに固定した。左手には幼虫を刺激する棒を持ち、右手にはカメラを構えなければならない。花穂が不安定なツタについたままでは撮影しにくいからだ。


そうして準備を整え、カメラをかまえながら、そーっとつついてみたのだが……なぜか幼虫は無反応……くり返してみたが「線香花火」は一度も見られなかった。




しかたなく今回はあきらめて、摘んだ花穂についていた幼虫をツタについた別の花穂へ戻すことにした。そして移動のため指に乗せようとしたところ、ふんばって動かない……。
これはもしや、脱皮前の休眠状態のため動けないのではあるまいか?──そう考えてみるとも刺激しても反応が無かったのも合点がいく。
動けないのにむりやり引きはがして移動に失敗したらかわいそうだし……摘んだ花穂についたまま持ちかえって見守ることを検討。持ちかえれば、脱皮後に「線香花火」が撮れるかもしれない。
ということで、急きょウラギンシジミ幼虫のついた花穂を持ち帰り水差ししてようすを見ることにした。




この日、幼虫は同じつぼみに同じ姿勢で止まったままじっと動かなかったが……翌日のぞくと変化があった。


カラーリングに若干の変更があり、前日は黒っぽかったツノ状突起がパープルになっていた。そして前日じっと動かなかったのに対し、ゆっくりながら動き出した。










ためしに刺激してみると、こんどは「線香花火」を発動!
「よし、これで撮れる」と撮影用の枝をクリップで固定し、これにウラギンシジミ幼虫をとまらせて「線香花火」を披露してもらうことに。


しかし撮影を始めて見ると、瞬間的にくりだすフラッシュ・ブラシ(と仮に呼ぶことにする)をとらえるのが難しい。何度かパパッと出すが、刺激に慣れると(?)出さなくなる……あまり連続してやってはくれないようで、撮影には少し手間取った。

ウラギンシジミ幼虫の線香花火(フラッシュ・ブラシ)











今回もあまり鮮明には撮れなかったが、《なにやら高速で動くブラシのようなもの》──がわかるていどの画像は撮れたので、よしとしよう。
モデルをつとめた幼虫は、ちゃんと元いたクズに帰してきた。




隠し絵@ホソバシャチホコ幼虫

スーパーヒロインvs魔人@ホソバシャチホコ幼虫





自然が描いたスーパー戦士──《ロングヘアをなびかせたスーパーヒロイン》と《謎の一つ目魔人》!? これは何の啓示であろうか!? この意味深なアートの伝道師(?)は……。


──ということで、キアイを入れればきっと見える空目ネタ。緑色のベストが印象的なオシャレなホソバシャチホコ(蛾)の幼虫だが、背中には《一つ目魔人》の姿が!? そしてその下には《スーパーヒロイン》が隠れている。




先日【緑のベストを着たネコ!?】で紹介した個体より若く(小さく)、模様もじゃっかん違う。
個体によって「隠し絵キャラ」の印象も微妙に変化する。








今年も9月に入って何回か見ているが、これまで9月に見かけることが多かったようだ。


追記:その後のスーパーヒロイン@ホソバシャチホコ幼虫

その後もみかけるホソバシャチホコ幼虫。その中から↓。


個体によって《スーパーヒロイン》のイメージが違うので、つい撮ってしまう。


さらに別個体と《スーパーヒロイン》の画像を追加。
















追記:【冗区】書庫であらためてまとめてみた↓



謎の美少女仮面伝説!?@ホソバシャチホコ幼虫


こども心にひっかかった《ひろすけ童話》の【善意】




最近、ふとしたことから『泣いた赤おに』(浜田廣介/ポプラポケット文庫)を借りて読んだ。日本児童文学の草分け的存在である浜田広介(濱田廣介:はまだひろすけ)の童話集で、表題作を含め15編の作品が収録されている。このうち『りゅうの目のなみだ』『泣いた赤おに』『五ひきのヤモリ』は子どもの時分に読んだり聞いたりした記憶がある。実は当時、これらの作品に対して必ずしも共感が持てたわけではない。漠然とした「納得できない感」が残ったものもあれば、印象が薄かったものもある。
今回、長い年月を隔て子どもの頃に接した童話をあらためて読み返してみたわけだが……すっかり忘れていた当時の記憶がよみがえった。そして子供心に漠然と感じていたモヤモヤ(?)の正体が、今になってようやく理解できた気がする。そのあたりのことを記してみたい。

僕の感想の前に、この本の解説(廣介童話の善意とはなにか/西本鶏介)の中に、廣介が自分の作品について語った記述があったので、まずその一部を──。
《わたくしは、自分の作る童話において、いつも善意にもとづいて、その行動がとられることをねらいとした》(『童話文学と人生』昭和44年・集英社)
廣介自身がそう述べているというのだから、《ひろすけ童話》が【善意】をテーマに書かれてきたことは間違いのないところだろう。
それをふまえた上で、作品集『泣いた赤おに』についての僕の感想を記してみたい。

ひろすけ童話の【善意】とは《「悲しさ・寂しさ」からの救済》

収録作品を一読して感じたのは、作者は「悲しい話・寂しい話」が好きな人なのだな……ということ。「好き」というと語弊があるかもしれないが、「悲しさ・寂しさ」に対する反応──共感が特に強い人のように感じられる。おそらくこれは幼年期からずっと持ち続けていた感受性で、これが《ひろすけ童話》の核になっているのだと思う。小さなもの・弱いもの・普段かえりみられることがないようなものを素材にした作品が多いのは、「悲しさ・寂しさ」に執着する傾向と無縁ではないだろう。廣介が(特に子ども時代に)物語にふれたときに「悲しい話・寂しい話」がより強く彼の心をとらえたのではないか。もしかすると幼少期にトラウマの域に達するような「悲しみ」の体験があったのかもしれない。「悲しさ・寂しさ」は深く彼の心に刺さった──それで、彼は「悲しさ・寂しさ」に打ちひしがれた心を救済する話を考える(求める)ようになったのではないか。
《「悲しさ・寂しさ」からの救済》に必要なアイテムとして、廣介は(彼のいうところの)【善意】にたどり着いたのかも知れない。献身的な思いやり・相手をいたわる気持ち──【善意】こそが「悲しさ・寂しさ」を癒す救いになる──そんな思いをもって廣介は童話づくりをしていたのではないか。
浜田廣介という作家の人物像について僕は知識を持ち合わせていないが、今回読んだ作品群から、そんな印象を受けた。
収録作品には個別に色々感想もあるが……とりあえず今回は僕自身が子どもの頃に接していた3作品について記してみたいと思う。

印象が薄かったのにフラストレーションが残った『りゅうの目のなみだ』




『りゅうの目のなみだ』は、僕が子どものころ絵本のようなものが家にあったのだと思う。添えられていた挿絵は漠然と覚えているのだが、どんな話だったのか……内容(ストーリー)については印象が薄く思い出せないでいた。ただ、この作品に対して漠然としたフラストレーションを感じていたのは覚えている。
今回、『りゅうの目のなみだ』を読み返してみて、いちいち「そうそう、こういう話だった!」と当時の記憶が鮮明に蘇った。

まず、どうして内容について印象が薄かったのか──についてだが、この作品の興味の中心がどこにあるのか──つまり面白さがどこにあるのか、子どもだった僕にはよくわからなかった──ということにつきる。作者の廣介にしてみれば【善意】という明確なテーマがあったのだろうが、子どもの読者は「おもしろさ」を追ってストーリーを読む。この作品については「いったい、どこがおもしろいのだろう?」という感じだった。つかみどころのない話だったためにストーリーは記憶に残らず、合点の行かない気持ちだけが残った……ということなのだろう。

『りゅうの目のなみだ』の概要はこうだ──。
《舞台はどこか「南のほう」にある国。そこにはおそろしい龍がいて、人々はみな龍をひどく恐れている。そこに風変わりな心やさしい子が現れる。その子は、皆から恐れられている龍をかわいそうだと言い、友達になりたいと考える。そして誕生日が近づいたある日、龍を招待するために龍に会いに行く。
それまで人から嫌われ続けてきた龍は、独りで自分を訪ねてきた人間の子に驚き戸惑うが、この無垢な子どもの優しい言葉に感動し涙を流す。
龍は長いあいだ人間から忌み嫌われ続けてきたことでひねくれ、人を恨むようになっていた──しかし訪ねてきた子の思いやり触れ、あらためようと決意する。
龍の目からあふれる感動の涙は川になり、龍はその子が溺れないように背中に乗せて川を渡る。そして──、
「わたしは、このまま船になろう。そうして、やさしい子どもたちを、たくさんたくさんのせてやろう。あたらしい、よい世のなかにしてやろう」そう言って、龍は船に姿を変える。
「風変わりな子」としてその子を異端視していた村人たちだったが、その子が立派な船に乗って帰ってくる姿を見て感嘆する──という結末》

まず、舞台がよくわからない(イメージが描けない)。龍を恐れている人々のことが綴られていくが、うわさの羅列で肝心の龍はなかなか登場しない──冒頭から退屈な展開につき合わされる感があった。村人たちの「賢者が現れて龍を退治してくれまいか」というようなうわさ話も実感がなく共感はできない。期待の龍が登場しないまま、主人公と思われる《龍を恐れない子ども》が登場する。「すると、この子が《龍退治の賢者》になる話なのか?」と期待すると、そうでもない。その後の展開で、何の葛藤もなく《子ども》はあっさり龍と友達(?)になり、どうやらそれで「めでたし、めでたし」ということらしい……。「そりゃ、ないだろう」「いったいどこがおもしろいのか」というのが、子どもの頃の僕が感じた不完全燃焼感・フラストレーションだった。子ども心にそう感じたのも無理からぬことだと思う。

作者が「思いやり(善意)の大切さ」を説いていることは漠然と感じていた。しかし、話はちっとも面白くない。『りゅうの目のなみだ』という興味をそそるタイトル──恐ろしいイメージのある龍と涙という意外な組み合わせに、どんな面白い話が展開されるのかと期待をさせておきながら、内容は「これかよ」というもの……。おいしそうなパッケージに包まれていたお菓子──と思って口にしたら、まずい薬だった……みたいな、なんだか「ズルイ」という印象もないではなかった。

僕が子どもの時に感じたモヤモヤ感を今、代弁するとすれば──、
「主人公の子が、友達になりたいと願い訪ねて行ったのは【(生きた)龍】であって、【船】なんかではない。わざわざでかけ、ようやく本物の龍に出会えたというのに、その龍が目の前で船になってしまったら、この子は決して喜ばない」──ということだ。
なのに物語では龍が船になって「めでたしめでたし」のような扱いになっている。これは作者の都合であって、主人公に感情移入して読みすすんできた者(読者)としては納得できない。船なんぞは人が作れるものであって、人智の及ばぬ存在であるべき伝説の龍がそんな人の道具と化してしまうなんてガッカリだ。いったい龍に会いにきた子の気持ちや龍のアイデンティティはどうなっているのか。

作者は《【善意】を描く》という崇高な理念に心を奪われて、龍という存在の意味や意義・価値にはまるで頓着がない。わざわざ龍に会いにきた子(に感情移入する読者)の気持ちだって置き去りにしている──廣介にとって作中のキャラクターは、【善意】を語るための単なる駒・道具にすぎなかったのだろう。【龍】というポテンシャルの高い素材も、この作品では「人から恐れられているもの」という【記号】にすぎず、主人公の子も「優しく・思いやりのある子」という【記号】でしかない。彼らに対する「ないがしろ感」「軽んじられている感」が、子ども心に不満だったのだと思う。
読者には【善意(思いやる心)】を説きながら、作者は作中のキャラクターたちに充分な思いやりを注いでいない──言っている事とやっている事が違うんじゃないか?──というような、なんだかちょっと「ずるい」感じがないでもなかった。
もちろん、子どもの頃にこのように明確に考えたわけではないが、当時の読後の漠然としたフラストレーションの理由は、こうしたところにあったように思う。

今回読み返して新たに感じた事をいえば──、
このストーリーで「龍が船になる」という結末の物語にするのであれば、主人公の子が暮らす村に何らかの懸案を早い段階で提起しておき、その懸案がラストの「船」の出現によって解決する──という形になるよう伏線として用意しておくべきだったのではなかったか……ということ。そうすれば、龍が船に変わった「意味(価値)」がしっかり印象づけられたのではないかと思う。
作者がもう少し読者のこと──読者がどう読むか・読者の意識をどう誘導するかに気を配っていれば(思いやりがあれば)、また違ったものになったのではないか……という気がしないでもない。

納得できなかった『泣いた赤おに』の【善意】

『りゅうの目のなみだ』が内容を覚えていなかったのに対し、『泣いた赤おに』に関してはその内容をきちんと覚えていた。それだけ「わかりやすいストーリー」だったのだろう。しかし……ストーリーはわかりやすかったものの……この作品にも子どもの時分に漠然とした「納得できない感」のようなものを感じていた記憶がある。

『泣いた赤おに』のあらすじはこうだ──、
《主人公は心の優しい赤鬼。赤鬼は人間と友達になりたいと考え、お茶やお菓子を用意して人間を招こうとするがうまくいかない。赤鬼の気持ちを知った友人の青鬼は、赤鬼の願いを叶えるために策を考える。青鬼が(人の)村を襲撃し、頃合いをみはからって赤鬼が現れて青鬼を撃退する──村人を守る芝居をすれば、人間たちも赤鬼のことを良く思うようになるだろうというもの。作戦は実行されるが、その最中に青鬼は思わぬ怪我を負ってしまう。青鬼のおかげで赤鬼は人間と親しくなることができるが、悪役をひきうけた青鬼はそのまま赤鬼の前から姿を消す──という話》

赤鬼のために悪役を引き受けた青鬼の友情・自己犠牲の精神・思いやり・優しさ──こうした【善意】を描くことを意図した作品だったのだろう。
しかし、この作品についても子ども時分に読んで何か「腑に落ちない感」を覚えていた。
子ども心にひっかかっていた部分は、大人になって読み返してみると明白だ。

《仲良くなりたい相手(村の人)をだまして親しくなろうと図ることに良心は痛まないのか?》ということだ。本当に仲良くなるために大事なのは地道に信頼関係を築くことだろう。親しくなりたい相手をだまして接近しようなどというくわだては、本来構築すべき信頼関係をハナから否定する不誠実な行為だ。

たとえば僕に好きな女性ができたとする。親しくなりたいがなかなかうまくいかない……そんなときに《男友達を使って女性を襲う芝居をさせ、偶然通りかかったフリをして彼女を救出し、偽の信頼を得ようとする》──そんな詐欺師のようなことができるだろうか? 赤鬼たちがとった行動はこれと同じことだ。親しくなりたい相手を本当に大事に思い尊重する気持ちがあったなら、そんな卑劣なことは出来ないはずだ。相手をだましてでも仲良くなりたいというのは、ただの身勝手・エゴにすぎない。いってみれば、それはストーカーのエゴと同じであって、(相手を思いやり尊重する)愛ではない。
「騙された」村人たちだって真相を知ったら傷つき嫌な気分になるだろう。嘘の上に成り立つ友愛に疑問はないのだろうか? バレなきゃ何をやっても良いということにはならない。
これはハッキリいって【善意】に反する行いだ。
《わたくしは、自分の作る童話において、いつも善意にもとづいて、その行動がとられることをねらいとした》と述べた廣介の立派な理念はいかほどのものだったのか?──ということになる。

これがもし【善意】をテーマとする作品でなければ、《ずるい作戦》も「嘘も方便」あるいは「とんち」的な機転としてあまり問題にならないような書き方もできたのかもしれない。しかし【善意】をテーゼとする《ひろすけ童話》においては、どうしても看過できない。

廣介が提唱する【善意】にそってこのスートーリーを考えるなら──、
最初に「お茶やお菓子」で人と仲良くなろうとして失敗したとき、《本当の信頼関係を結ぶために大事なことは何か?》《本当の友情とは何か?》というテーマを考え、「手っとり早く、モノでつって仲良くなろうという考えが間違っていた」と気づき反省するのが、あるべき展開だったのではないだろうか。《青鬼の思いやりや献身的な友情》を描きたかったのはわかる。しかし、自分のいいたい事にだけ気をとられ視野狭窄におちいり作中の行為の不誠実さに気がつかなかったのはうかつだとしか言いようがない。【善意】を説く作品の中では致命的なミス(破綻)だと僕は思う。

これは例えてみれば、「毛皮のためにキツネを殺すな!──と訴えている人が豪華なキツネのファーコートを着ていた」とか「自然保護をうったえるイベントの会場が自然林を伐採して作られていた」みたいなものだ。主張主の信頼性が疑われる。

『泣いた赤おに』が【善意】を説いているらしいことは子供心にも感じていたが、それだけに(?)この話にはすんなり受け入れがたいものがある……当時漠然と感じていた「納得できない感」はこのあたりに由来するものだったろう。

まぶたを閉じる『五ひきのヤモリ』

実は今回《ひろすけ童話》を読み返すきっかけとなったのは『五ひきのヤモリ』だった。
少し前にある方のブログで、ヤモリに関した次のような記事(要約)があった。

《戦前。静岡県のある家で改修工事が行なわれ、壁板を剥がしたところ、1匹のメスのヤモリが背中を釘でうちつけられているのが生きたまま見つかった。前年の新築工事のさいに運悪く壁板と一緒に打ち付けられてしまったものらしい。1年間どうやって生きていられたのかというと──オスのヤモリがエサを運んでいたことがわかり、ヤモリの夫婦愛が感動を呼んで新聞記事になったり、記録映画として全国の学校で教育用に巡回放映されたらしい》

このブロガーさんは実際にあったエピソードとして認識していたようだが……似た話を僕は子どもの頃に聞いたことがある。浜田廣介の童話『五ひきのヤモリ』がそれだ。問題のブログと『五ひきのヤモリ』とは違っている部分もあるが(童話では、釘に打たれたのはオスのヤモリで、発見されるまでに要した期間は10年)、この童話が実話と誤認されて記されていた可能性が高い。
そう考えて、久しぶりに『五ひきのヤモリ』を読み返して確かめてみようという気になったわけである。調べてみると、『五ひきのヤモリ』が書かれたのは昭和3年だが、この童話には下敷きがあったらしい。江戸時代に出版された諸国見聞録『煙霞綺談』という本中からヒントを得て書いたと廣介自身が述べているという。

『煙霞綺談』について調べてみると、安永2年(西暦1773年)に西村白烏(にしむらはくう)が発表した本らしい。「綺談」は巧みに作られた、おもしろい話のことだから、「世にも奇妙な話」のようなニュアンスのものだったのだろう。
『煙霞綺談』のヤモリのエピソードを要約すると──、

《宝暦12年(1762年)の春、遠江金谷(現在の静岡県榛原郡金谷町)の民家の雨よけ板を25年ぶりに取り替えることになり、古い板を外してみると釘に刺し通されたヤモリが生きたままみつかり、人々を驚かせる。その状態でどうやって25年間も生きながらえてこられたのか!?──調べてみると板に通った痕跡がみつかり、つがいのヤモリがエサを運んでいたらしかった》

という話になっている。つまりオリジナルでは、《釘に体を刺し貫かれて動きがとれない状態で25年も生きていたヤモリが見つかった》という世にも奇妙な出来事がメインに描かれ、その謎解きとして《つがいのヤモリがエサを運んでいたらしい》という意外な結末でまとめている。推理小説風に言えば、一見不可能に思われるミステリーが提示され、最後に謎解きがある──といった形だ。

一方、廣介の『五ひきのヤモリ』では、釘に打たれる直前からヤモリの視点で描かれており、『煙霞綺談』とは趣きがだいぶ異なっている。推理小説でいうなら犯人や犯行が冒頭で明かされる倒叙推理(刑事コロンボ方式)といったスタイルだ。
おそらく廣介は『煙霞綺談』のエピソードを読んで、《ミステリー》や《謎解き》的な面白さよりも、「誰も知らぬところで、ひっそりと暮らしていたヤモリ夫婦に突然おとずれた悲劇」という「設定」に興味を感じたのだと思う。
廣介が好む、小さく弱いものの「悲しい話・寂しい話」として捉えたのだろう。

『五ひきのヤモリ』の概要は──、
《ある家のあらかべと板の間に夫婦のヤモリが住んでいた。2匹にとっては「このうえなもないたのしい世界」だったのだが──ある日、この家の住人(人間)がずれていた羽目板を直すために打った釘に、オスのヤモリは体をつらぬかれてしまう。命はとりとめたものの、動くことができなくなったオスにメスはエサを運び、献身的に支える。やがてメスは3つの卵を産み、そこから3匹の子どもが孵る。子ヤモリたちが大きくなると、そのうち2匹の兄弟は父ヤモリを自由にする方法を探して旅に出る。2匹は10年後疲れ果てて帰ってくるが、探していた「方法」はみつからなかった。ただ、旅に出て5年目に出会ったガマが「5年待てば自由になれる」と占っていた。兄弟ヤモリたちが帰ったのが、予言されていた年だった。10年間なにも変化がなく、ガマの予言もにわかに信じがたい状況の中で……突然、ヤモリを貫いていた釘ごと羽目板が外される。家の住人が痛んだ羽目板を交換するために剥がしたのだった。その住人は釘に貫かれて生きているヤモリと逃げずにそばにいる4匹のヤモリに気がつき、何があったのか──ヤモリの家族愛を察知。大声で(人間の)家族を呼び集めるというところで物語は終わっている》

『五ひきのヤモリ』は今回再読した作品の中で一番おもしろかった。突然の悲劇で自由を奪われたヤモリがどうなるのか──興味の焦点がハッキリしている。ヤモリには解決できそうにないような問題が、いったいどんな決着をみせるのかという期待も高まる。「ガマの謎めいた予言」のアイディアも面白いし、その予言通りに解決する意外性と必然性をかねた結末もよくできていると感じた。

ただ、僕が子どもの頃この作品に接した時には、そのおもしろさが理解できなかったのか、ストーリーはほとんど覚えていなかった。
子ども心に残っていたのは、「ひどく残酷な話」というイメージだった。「釘に貫かれて自由を奪われて生き続けるヤモリ」があわれで痛々しく、絶望的に思われて、その印象ばかりが強い。当然、「このヤモリはどうなるのか?」と気にして展開を追っていただろうと思うのだが、『五ひきのヤモリ』ではヤモリが釘から自由になるシーンは描かれていない。羽目板をはずした人間に発見されるシーンで終わっているため、おそらく「このヤモリはどうなるのか?」という疑問が解決されないまま終わってしまった──と認識してしまったのだろうと思う。大人が読めば「ガマの予言」どおりの年にそれまでなかったことが起こったのだから、当然「予言通り」にヤモリは自由になれたのだろうと想像することができるが、幼年読者には「ヤモリが助かるシーン」までしっかり確認できるように描かれていないと、きちんと納得・安心できないかもしれない。

『煙霞綺談』のエピソードをヒントに、廣介はヤモリを擬人化して、夫婦愛・家族愛の【善意】を描いたわけだが……廣介がこのエピソードで関心を示したのは、あくまでも《小さく弱いものに突然ふってわいた悲劇》という「設定」であって、実在する(モデルの)「ヤモリ」ではなかった──ヤモリを主人公にした話であるのに、ヤモリについてあまり頓着していないことは作品からうかがえる。
『五ひきのヤモリ』の中には、《》で囲った次のような記述が出てくる。

《だれでも知っているように、ヤモリは、外のあかるい光をおそれます》

ヤモリは夜行性だが、別に光を嫌うわけではない。春や秋などには日中日光浴する姿もよく見られる。

《おすのヤモリは、まぶたがおもくなってきました》
《ねむるにしても、ヤモリでしたから、四つのあしの五本の指を、そのまま板につかまらせ、まぶたを、そっと、とじさえすれば、それでよいのでありました》

ヤモリの仲間は可動式のまぶたを持っていない。したがって「目を閉じる」ことはできない。例外的にペットとして飼われる外国産のヒョウモントカゲモドキなどのトカゲモドキ科はヤモリの仲間であるにもかかわらずトカゲのような可動式のまぶたを持っているが、『五ひきのヤモリ』の舞台はおそらく日本だろうと思われ、登場するヤモリたちはニホンヤモリだろう。まぶたを開閉することはできない。





《めすのヤモリは、たまごを三つ産みました》

ヤモリが1回に産む卵の数は2つ。『五ひきのヤモリ』ではなぜ「3つ」としたのかよくわからない。読み進んでも「3つ」にした必然性は見いだせず(物語上、2つでもかまわなかった)、廣介が単に知らなかっただけ……という気がしないでもない。

つまり廣介はこの作品のモデルであるヤモリについて、ちゃんと観察したこともなければ書く前に調べる事もしていなかった──ということだろう。
作中のヤモリはしっかり擬人化されているが、実際のヤモリについては関心がなかった……「ヤモリ」もまた廣介の【善意】を描くための道具──「小さく弱い存在」という【記号】に過ぎなかったということなのだろう。






今回、何十年かぶりに《ひろすけ童話》を読み返してみたわけだが、あらためて感じたことは、廣介のいう【善意】とは、ものごと謙虚に見つめ「人はどうどうあるべきか」を考えるという前向きなものではなく、もっと個人的な感傷にひたって描かれた内向きなものだったのではないか……ということだ。
廣介にとっては、彼の内面に抱えた「悲しさ・寂しさ」を投影した世界が《ひろすけ童話》であり、その「悲しさ・寂しさ」を癒してくれるものが(彼のいう)【善意】だったのではないか?
子ども心に漠然と感じ、ひっかかっていた事などを、今ふり返ってみての個人的雑感である。


緑のベストを着たネコ!?

緑色のベストを着た猫!?モンクロギンシャチホコ幼虫



「長靴をはいた猫」ならぬ「緑のベストを着た猫」に見えなくもない!? キアイを入れればきっと見える……かもしれない……そんな気もする生物を発見。その正体とは──、




このイモムシが目にとまったとき、《緑のベスト》模様が見えたのでホソバシャチホコ幼虫(後述)かと思った。しかし、よく見ると、ちょっと違う。《緑のベスト》はオシャレなデザインなので、それだけでポイントが加算されるが(何のポイントだ?)、ホソバシャチホコ幼虫にはない「猫耳」までついていたので更に加点倍増!
















モンクロギンシャチホコはシャチホコガ科の蛾で幼虫はバラ科につくらしい。近くにあったサクラの葉にとまらせてみると食い始めた。サクラでは「ギン」のつかないモンクロシャチホコという蛾の幼虫がよくみられるが……こちらはあまり撮影意欲がわかないのであった……。

緑色ベストといえばホソバシャチホコ幼虫





モンクロギンシャチホコ幼虫をみたとき、《緑のベスト》から思い浮かべたホソバシャチホコ幼虫がコレ。ホソバシャチホコもシャチホコガ科の蛾。前記事のシャチホコガ(シャッチー)と違って、尾脚はしっかり枝をつかむことができる。
《緑のベスト》もオシャレだが、複雑な模様が美しい。個体によって模様には違いがあるが、ロングヘアをなびかせたヒロインの顔などが空目できがちで、隠し絵っぽい。そのことは以前投稿したことがある(【緑のベストがオシャレな幼虫】)。


食植物(のひとつ)コナラにうつすと、《緑のベスト》が葉にとけこんでボディラインを分断。残された部分は枯れて変色した葉のようにも見える。
オシャレな《緑のベスト》は、葉にとまると「見えなくなる」隠蔽アイテム──《天狗の隠れ蓑(かくれみの)》ならぬ《イモムシの隠れベスト》みたいなものなのだろう。


開閉する眼!?トリック&ギミック

シャチホコガ幼虫の開眼ギミック&シロコブゾウムシの閉眼ギミック





まずは、またまた怪虫シャッチー(シャチホコガ幼虫)。前回投稿したのは若齢幼虫だったが、今回は終齢幼虫。何度見ても奇抜な造型は、見つけるとやはりカメラを向けたくなってしまう。こんなポーズが披露できる虫はシャッチーくらいのものだろう。












シャチホコガ幼虫の《開眼ギミック》

シャッチー(シャチホコガ幼虫)を刺激すると、くわっと胸脚を広げて威嚇ポーズをとる。そのさい体側面には、それまで閉じられていた目玉模様がカッと見開かれる。そのことについては少し前に【シャチホコガ幼虫の威嚇ギミック!?】でネタにしたが、目玉模様の出現の《開眼ギミック》を改めて↓。


長い胸脚を大きくふりかざし、とつぜん眼(状紋)が見開いたら──これは威嚇効果がありそうだ……と、僕は想像するのだが、実際にこの【開眼ギミック】にどれほどの効果があるのかは定かではない。
ただ……ワームに目玉模様を描いて鳥に与える実験などで《大きな目玉模様には捕食者を驚かす効果があり、小さな目玉模様には攻撃をそこに向けさせる効果がある》ということがわかっているという。
実際に眼状紋(目玉模様)をもつ昆虫は多い。目玉模様を威嚇に使ったり、急所である頭部から攻撃をそらすため(?)体の後ろに《ダミーの眼》を持つものも少なくない(天敵が頭だと誤認して尻を狙えばフェイント効果?で逃げやすくなるはずだ)。
やはり捕食者にとって《眼》は気になるパーツなのだろう。

捕食者に対してアピール力のある目玉模様だが、威嚇効果がある反面、敵の注意を不必要に引きつけてしまう危険もある。ということなのだろう……それで、シャッチー(シャチホコガ幼虫)はふだん目玉模様を隠している──そう考えると、つじつまは合う(ような気もする)。

シロコブゾウムシの《閉眼ギミック》

シャッチーは敵が迫ると《ダミーの眼》を出現させるが、逆に危険を察知すると《本物の眼》を隠す昆虫もいる。
シャッチーの【開眼ギミック】に対して【閉眼ギミック】というべき、トリック&ギミックの持ち主はシロコブゾウムシだ。


黒くクッキリ目立つ眼がチャームポイントのシロコブゾウムシ。つぶらな眼のせいか、僕はこの虫を見るとアグーチという動物を連想する。僕の中では【アグーチ虫】もしくは【落花生虫】というイメージが定着しているシロコブゾウムシだが……よくコロッと落ちて死んだフリをする。擬死は昆虫ではよくみられる行動だが……ユニークなのは、そのさい触角で眼をおおい隠すことだ。初めてこれを見た時は《眼を閉じた》ように見え、「まぶたのない昆虫が、どうして目をつむる!?!」とかなりビックリした(【仰天!?眼をつむるシロコブゾウムシ】)。




落下し擬死モードに入ったとき、畳んだ触角を利用して目立つ眼を隠すことで天敵からみつかりにくくなる(生存率が高まる)ということなのだろう(……と僕は解釈しているのだが)。







ダミーの目玉を出現させたり、本物の眼を隠したり──おそらく生存率を高める工夫なのだろうが、小さな虫もいろんなギミック&トリックを駆使しているものだとあらためて感心する。

※ここでは「眼を開く・眼を閉じる」という意味で「開眼(かいがん)・閉眼(へいがん)」という表記をしたが、厳密には「開眼」「閉眼」は別な意味(や読み)で使われるようだ。
「眼を閉じる」ことを意味する単語としては「瞑目」というのがあるが、ちょっとなじみが薄いのと、反対語(「眼を開く」に該当する単語)がみつからないので単独では使いづらい。対(セット)になった単語で「眼を開く・眼を閉じる」を意味する言葉を探してみたのだが、みつからなかった。そこでやむなく「開・閉」を使った「字面からのわかりやすさ」から、あえて「開眼」「閉眼」を使用したしだい。


若齢シャッチー(シャチホコガ幼虫)

ベイビー・シャッチー(シャチホコガ若齢幼虫)



先日、シャチホコガの若齢幼虫と思われるイモムシが擬木遭難(食樹から離れてしまい擬木上で迷子状態になることを僕はこう呼んでいる)しているのを見つけた。
シャッチーことシャチホコガ幼虫の記事は8月にもアップしているが、今回は初めて見る若齢幼虫。




前回(【シャチホコガ幼虫の威嚇ギミック!?】)撮った終齢幼虫に比べるとだいぶ小さく、ほっそりしている。しかし、ちゃんとシャチホコガ幼虫の特徴を持っているのが可愛らしい。
レスキューして近くのサクラに移したが、そのさいに撮った画像をば。


画像では止まってみえるが、動き回っていたのでブレ画像を量産。特に長い胸脚をせわしなく動かし続けていた。ハチの中には触角をしきりに動かしているものがいるが、それを連想させる。シャチホコガ幼虫の長い胸脚には触角のような感覚器官としての役割りもあるのだろうか?


イモムシとは思えないような長い脚、怪獣のような背中のギザギザ突起、触角をはやしたコブラのような腹端の第2の頭!?──なんともユニークな造型だ。










イモムシの脚は胸脚3対・腹脚4対・尾脚1対が基本らしい。末端に位置する尾脚は体を支えるのに重要な部分という気がするが(腹脚が少ないシャクガ幼虫などは尾脚のグリップ力はかなり強い)、その尾脚の脚としての役割りを放棄し、こんな形──ダミー触角(?)に変化させたということは、それなりの意味があってのことなのだろうか……。
ところで、シャチホコガといえば、やはりその名が示すとおり《反り返ったシャチホコ》ポーズ。若齢幼虫もシャチホコってくれた。(レイバック)イナバウアるともいう──のは僕だけであろうか?






このあと、近くのサクラのひこばえならぬ胴吹き(?)に移したのだが……その翌日↓。






実は撮っているときは気がつかなかったのだが、後に画像を確認すると頭のうしろが大きくふくらんでいた。こんな状態は以前も一度見ていた(【怪獣のような幼虫!?】)ので、脱皮前の兆候だとわかった。
ということで、さらに翌日チェックに行くと、脱皮後のシャッチーをみることができた↓。








シャチホコガの幼虫齢数は7齢まであるらしいが、この個体はまだまだ小さい。
大きなシャッチーは怪獣のような迫力が魅力だが、小さなベイビーもこれはこれで可愛らしくて魅力的だ。

余談だが……よく「動物の赤ちゃんがかわいいのは、(ひとりでは生きられないから、せわをしてくれる)親の愛情行動を引き起こすようにできているため」──みたなことがいわれる。しかし「かわいがられるように《赤ちゃんがかわいくできている》」というのは、ちょっと違う気がする。親が子育てしない種類の動物でも赤ちゃんはかわいい。カメ、トカゲ、ヘビでもベイビーはかわいく見えるものだ。こうしたことを考えると、《赤ちゃんがかわいくできている》のではなく、「子育てする動物は、大人(成体)の側に《赤ちゃん(幼体)をかわいく感じるしくみ》がある」というのが解釈としては正しいのではないかと思う。

ベイビー・シャッチーを可愛いと思うかどうかは、人それぞれだろうが……とりあえず、今回みつけた個体が、無事に脱皮をクリアしていたのでホッとした。
がんばれシャッチー! 大きくなれよ!


※【怪虫シャッチー(シャチホコガ幼虫)イモコレ!2に!】より