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2013年06月の記事 (1/1)

うちゅうのモグラ捕獲!?!

うちゅうのモグラ捕獲!?!

先日、天気予報↓で傘マークが無い事を確認して出かけたのに雨が降り出した。


予報では晴れマークもあったし、雨は一時的なものですぐ上がるだろう……上がらねばならぬ……と思っていたのに、やむどころか雨脚は強くなるばかり。やがて土砂降りとなり雷まで鳴りだす始末!
梅雨入り宣言したとたんに晴れが続いたり、晴れるといったのに雷雨になったり──天気予報は、はずし過ぎ! 天文では何十年も先の月食まで正確に予想できるというのに気象の方は1時間先の雨すら予報できないのが情けない。
こんなこともあろうかと、準備の良い僕はバックの中に折りたたみ傘をちゃんと装備しているのだが、例によって、全身ずぶ濡れになっても傘だけは濡らさずに帰宅したのであった!(*)

雨の降り始めにアサギマダラと思われるチョウを見たものの、土砂降りとなりテンションはダウン……虫見はあきらめて帰路についたのだが──。
バシャバシャ歩いていると、前方約20メートル──浅瀬と化した遊歩道の水面を、こぶのようにもりあがった波(?)が不規則な動きで移動して行くのが目にとまった!
「おおっ!? あの動きは──モグラ!?」とピンときた。はたして水をかきわけて現れたのはモクラであって、せわしない動きで遊歩道わきの草むらにもぐりこもうとしているのが見えた。急な雨でトンネルが浸水し地上に出てきてしまったのだろう。
モグラはたま~に死骸をみかけることはあったが、生きている姿を見るのは珍しい。実はつい先日、そんなレアなモグラの姿を見かけたのにカメラをとりだしている間に植え込みの中のネズミ穴(?)に逃げ込まれてしまうという悔しい思いをしていたばかりだった。
それで今回は逃がすまいとダッシュ! 夢中で草の間を右往左往していたモグラを取り押さえたのであった。

雨中のモグラ捕獲!──人生初のモグラ捕獲であった。
雨で下がっていたテンションは一転して急騰。
素手だったので、いちおう噛まれないように注意はしたが、予想していたとおり、モグラはあまり体がやわらかくないようで、持ち方に気をつければつかんだ指に口が届くことはないもよう。後脚でけったり体をよじって抜け出そうとするので何度も持ちかえながら、どうしたものか考える。

モグラは子供の頃に「飼ってみたい動物」の一つだった。ただ調べてみたら大食漢らしく(絶食に弱くすぐ餓死する)エサの確保が大変らしい……。「飼いたくても(一般向けにはなかなか)飼えない動物」という印象を持っていた。
なので飼う気はなく、とりあえず生きてるモグラの画像を何枚かとって逃がすつもりだった。

しかし土砂降りの中、デジカメを出すのははばかられ、とりあえず家へ持ち帰って撮影することに……ところが、持ち帰るための入れ物がない……。一応、昆虫をキープするためのプチ・タッパーは持参していたが、モグラを入れるには小さすぎる……。
ためしに厚めのビニール袋に入れてみたが瞬時に底を破られた。
で、しかたなしにバッグに入れ、チャックを閉めて監視しながら持ち帰ったのであった。


モグラといえば、土にもぐって生活しているにもかかわらず、どろだらけにならないビロードのような毛が不思議で魅力的だが、今回つかまえたモグラは濡れネズミならぬ濡れモグラ……。タオルで拭いてみたが、きれいにならなかった……。


本当は毛が乾いたところで記念撮影をしたかったのだが、野生動物を長時間ストレス下に置くのは心配なので、とりあえず何枚か撮って逃がしてきた。


ファイバースコープの先端のように(?)よく動く鼻先は、かつて同じ食虫目(モグラ目)だったハリネズミにちょっと似ている。


ちなみに現在、モグラはトガリネズミ目モグラ科に、ハリネズミはハリネズミ目に分類されていて、かつての食虫目(モグラ目)はもう無い。

生きたモグラはジタバタあばれてモデルにならないので、以前撮ったモグラの死骸を──、






ついでに昆虫版のモグラともいえる虫を──、


ちなみにケラ属のラテン語名【Gryllotalpa】は【Gryllo】→【コオロギ】/【talpa】→【モグラ】を意味し、英名の【Mole cricket】も【モグラコオロギ】の意味だとか。
昆虫のケラはバッタ目・キリギリス亜目・コオロギ上科・ケラ科という分類。

天気予報が外れ、全身ずぶ濡れになったが、モグラを捕まえる事ができたのはラッキーだった。
モグラを探すなら土砂降りのとき、あるいは河川近くではその後の水かさが増したときが意外にチャンスかも?



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雨でも傘は濡らさない

●雨でも傘は濡らさない!僕

ぐずついた天気が続が続いている。出かけるときには折りたたみ傘をショルダーバックに入れているのだが……これを取り出すタイミングが意外に難しい。
ほんの一時、パラつく程度の小雨であれば、できれば傘は使わずにやり過ごしたい……折りたたみ傘をひとたび開いてしまえば、雨が上がった後が厄介だからだ。濡れたままバッグに戻すのははばかられるし、かといってずっと手に持って歩くのも煩わしい。おもしろい虫をみつけたとき、バッグからカメラを出したり撮影したり──すんなり動けるように両手は空けておきたいところである。

雨の降り出しが、いきなり強いものであれば、躊躇なく折りたたみ傘を取り出すところだが、ちびちび降り出したときなど、取り出す時期を見極めるのが難しい。
「このくらいなら、まだ傘を使うほどではないだろう」
な~んて思っているうちに、出しそびれて、だんだん服が濡れてくる。そして──、
「うぅむ……これだけ濡れてしまったのでは、今から傘をさしても意味なさそうだしなぁ」
という状態となり、
「服と傘、両方濡らすより、傘だけでも濡らさずに帰った方が賢明というものだろう」
という判断に至る。

以前、土砂降りの中を汗でびっしょりのジョギングウェアを着て傘をさしながら走っている人を見て驚いたことがあった。服がすでに汗で濡れているのに──それ以上濡れようがないのに、なんで傘をさす必要があるのだろうか!?
驚くと同時にあきれてしまったが……雨ですっかり服が濡れてしまってから傘をさすのはコレと同じ。汗にせよ雨にせよ、服がびしょぬれになってしまったら、傘をさす意味が無い。
傘をさせば片手がふさがってしまうし、一度濡れた折りたたみ傘は乾いてから畳まないと気持ち悪い──帰宅後も、乾くまで狭い室内で傘広げておかねばならずジャマくさくてうっとうしい。傘を濡らすと後々面倒だから、意味が無いならわさわざ傘まで濡らしたくはない。

そんな思いがあるから、ついつい傘をだしそびれがちになり、「雨に降られ、服はびしょぬれになっても、傘だけは濡らさずに帰る」というアッパレな状況が生まれるのであった。



●豪雨でも服は濡らさない?母子

というわけで、そんじょそこらの雨に濡れてもびくともしない(?)僕だが……とある夏の日、激しい豪雨にみまわれ、たまらず某駅に避難したことがあった。
雨のカーテンに閉ざされ、雨の音しか聞こえない──そんな孤立した幻想空間ともいえる駅で見たものは!
なんと水着姿の母子!──駅の構内になんで水着を着ているのか!?
あり得ない光景に、リアルな幽霊でもでたのかと我が目を疑った。

彼らは駅のトイレに消えて行った……謎の親子が視界から消えてしまうと「はたして、今みたものはホントだったのだろうか?」という思いにとらわれた。水着姿の母子は豪雨の見せた幻想だったのではなかろうか……!?

(トイレの中には誰もいないかったりして……)
無人のトイレ内の映像が脳裏に浮かんだりもしたが……ほどなく母子はトイレから私服姿となって現れた。
なんのことはない、駅にほど近いプールから「水着のままで最寄り駅まで歩いて来た」のだろう。
プールの更衣室で着替えてから、土砂降りの中を駅まで歩いたのでは服が濡れてしまう。
「どうせ濡れるのなら水着のまま行ったれ!」という判断をしたのだろう。
駅で着替えれば濡れずに電車に乗れる。
考えてみれば理にかなっているといえなくもないが……僕には驚きの発想だった。仮に思いついたとしても僕には実行できないだろう。

《雨でも傘は濡らさない》僕も、《土砂降りでも服は濡らさない》母子には舌を巻いた。
「子連れの母、おそるべしっ!」──そう心の中でつぶやいたのであった。


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わかる気がしないでもない「しゃべらぬ若者」

*話し方マニュアル本大ヒットの陰に「しゃべらぬ若者」の存在
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130623-00000007-pseven-life
を読んで感じたこと。

わかる気がしないでもない「しゃべらぬ若者」

職場で雑談をしない若者が増えているという記事(*)を読んだ。商談中、雑談もせずに沈黙を守っていた部下に青ざめた上司の話や、現場までの移動中、雑談に応じようとしない部下に困惑する上司の愚痴などが紹介されている。
今、ビジネス書として「話し方マニュアル本」が売れているそうで、それにからめての記事だったが、そうした需給とは別に、「しゃべらぬ若者」が増えた──というのは、わかる気がしないでもない。
《話すのが苦手》とか《カッコつけて寡黙を装っている》というわけでもないだろう。

《人が一緒にいればコミュニケーションをとるのが自然》と考える人にとっては《人といるのにコミュニケーションがとれない(とらない)》という状況は、不自然でぎこちない《好ましくない状況》なのだろう。同席者間に流れる沈黙を堪え難いものと感じる【感覚】が《顔を突き合わせているのにしゃべらぬ》ことに平気でいられる若者──“新人類”に対する驚き・あきれ・苛立ちにつながるのだろう。

こうした“新人類”が増えているのだとすると、背景には携帯電話やスマートフォンの普及があるのではないかと僕は考えている。
携帯電話の普及によって《「人と会っているのに、その場にいない人と平気で話す」人》が増えた。つまり、《その場にいる人とのコミュニケーションを断絶することが平気な人》が増えた──あるいはそうしたスタイルが常習化することで《その場にいる人とのコミュニケーション断絶》に感覚が馴らされ鈍感になっていった部分もあるだろう。

小さな子供と散歩中の母親や、犬を散歩させている飼い主さんが、子供や犬の前で《その場にいない人と話す(コミュニケーションをとる)》という姿をあちこちで見かけるようになった頃から、僕にはこの行為が、子供や犬の性格やコミュニケーション形成に悪影響を及ぼすのではないか……という漠然とした危惧を抱き続けてきた。

物心つく前の幼児や犬は、親や飼い主の意識を自分に向けておきたい──それを確認することによって信頼感や安心感を獲得していくのだと思う。
理屈ではなく感覚として親や飼い主との【つながり(コミュニケーション)】を実感している彼らにとって《自分が意識を向けているのに(相手にも向けてほしいのに)、相手が自分以外のところへ注意を向けている》のはすぐ感じ取れるはずだ。

ある程度分別できる年頃ならば、理屈で「(親が)他の人と話す」状況・必要性を理解・納得できるだろうが、幼児や犬など【感覚】としてコミュニケーションをとらえている者には《心のキャッチボール》がしばしば中断することは、不安や不満につながりやすいのではないか。
これは、雑談ができない(顔を突き合わせているのにしゃべらぬ)“新人類”に対して上司が感じる不満や苛立ちと同じ次元のものと言えるのではないかと思う。
こうした状況が常態化した環境で育てば「不満や苛立ち」に対する耐性が生まれ、《その場にいる人とのコミュニケーション断絶》を苦痛と思わない──それが当たり前という【感覚】が育っても不思議は無いだろう。そういう【感覚】の人にとっては《場をつなぐ》ための雑談など必要のないものだ。

昔だったら、人と会っているときに、目の前にいる人を無視してその場にいない人と話をするのは《その場の人に失礼》という【感覚】があったのではないかと思う。
そう考えてあらためてふり返ってみると……僕らの世代にも似たような状況・世代間ギャップがあったのではないか……と思いあたることがあった。テレビの普及による一家団欒の浸食である。
テレビが普及した頃、子供がテレビに夢中になることで、その場にいる家族間でのコミュニケーションが希薄になるという現象はあったのではないか。
当時は《夕食時にはテレビをつけない(見てはいけない)》というルールを強いていた家庭も少なくなかったように思う。これは《一家団欒が浸食されること(食卓にそろった家族を無視して他に注意を向けること/同席者間のコミュニケーションが断絶すること)を良しとしない》という感覚がスタンダードだったからだろう。

それがテレビを見るのがあたりまえとなり、今ではむしろ《(テレビを見ていれば)家族の間の会話の断絶に気を使わずにすむ》という理由で、コミュニケーション不全をカバーするためにテレビを利用している家庭もあるのではないか……という気さえする。
であるなら、《同席者間のコミュニケーション》の崩壊はテレビの普及の頃から始まっていたのかもしれない。

テレビの場合は、その場にいる者が同じ画面を見ることができるため、むしろ話題を共有できるという側面もあったかもしれない。しかし携帯電話の場合は基本的には個人通信だから、同席者とのコミュニケーション断絶度はテレビよりも格段に大きい。

携帯電話の普及で《その場にいる人とのコミュニケーション断絶度》は進み、そうした状況に不安や危機感を覚えない【感覚】が培われたことが、「しゃべらぬ若者」が増えた理由の一つではないかと僕は考える。

さらに言えば、その場にいる人と《無理矢理その場しのぎの雑談をしなきゃならないこと》をむしろ苦痛に感じる人もいるのではないか。
こうした【感覚】の持ち主なら、「自分が嫌なことは、相手だって嫌だろう」と考え《無駄な雑談はしないほうが(先方も)ラクなはず》──という配慮から黙っていることだって考えられる。

同席しながらしゃべらないことに違和感や苦痛を感じ《しゃべらぬ若者》を《非常識》ととらえるのは元来の(?)【感覚】であって、今後“新人類”【感覚】が増え続けて行けば、《しゃべらぬ若者》に対する不満や苛立ちと同じように《雑談がウザイ上司》などと語られることも増えてくるかもしれない。

※2013年7月2日加筆

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眼状紋と眼隠蔽模様

目は災いのもと?

ニホンザルは目が合うと攻撃してくるという。人間でも目が合うと「ガンをとばした」などと喧嘩になることがある。たぶん……ヒトを含む動物の多くで《眼》は気になるパーツ。じっと見つめられると緊張が走る──そんな傾向があるのではないかと思う。

生存競争の厳しい動物の世界では、多くのハンターが最終的には視覚を頼りに狩りをする。獲物を視野にとらえロックオンすることは攻撃の予備動作。狙われる側にとっては見つめられることは、銃口を向けられているのに等しい……《眼》を向けられると緊張が走るのには、ロックオンに対する潜在的な防衛本能のようなものが刺激されるからではないか……という気がしないでもない。
ことに外敵に狙われがちな小動物や鳥たちは、自分たちに向けられる《眼》には敏感なはずだ。《眼》を察知する能力は生存率を左右する──といってもいいかも知れない。
こうした《眼》に対して過敏に反応する鳥(など)が、昆虫の《目玉模様》を進化させてきた──というような記事を読んだ記憶がある(僕の解釈)。

鳥の空目が虫の目玉模様を発達させた?

昆虫には《眼状紋》と呼ばれる目玉模様を持つものが少なくない。




昆虫をエサとする鳥でも《眼状紋》をもつ虫は避ける傾向があるという。ヘビなど天敵の《眼》を恐れ回避するよう本能に深く刷り込まれたシステムが、あまりに感度が良いために昆虫の紋にも反応(誤作動?)してしまう──ということらしい。
昆虫にとって天敵であるはずの鳥が、虫の模様を《眼》と空目(誤認)し、ビビって避ける……すると、目玉模様を持った虫は生存率が高まる……その結果、昆虫の眼状紋はより強調され目立つ特徴として進化してきた……というワケである。

鳥と昆虫の眼状紋の関係を調べた人がいて、《大きな目玉模様には捕食者を驚かす効果があり、小さな目玉模様には攻撃をそこに向けさせる効果がある》と考えられているそうだ。
たしかに大きな眼状紋は我々人間が見てもハッとする。《眼》に敏感なはずの鳥が、大きな《ニセモノの目玉》に反応し、怯えるのも解る気がする。




一方、小さな(ニセの)目玉に対しては──敵(or獲物)を無力化するために眼のある頭部に攻撃をしかけるというのは理にかなっている。

ニセの眼で攻撃を誘導する

これについいては思い当たることがある。
最近見かけるアカシジミ・ウラナミアカシジミ・ミズイロオナガシジミなどには後翅に尾状突起と呼ばれる細い張り出しがあるのだが、その付近には黒い紋があって、これが《眼》に見えなくもない。


これらのチョウは葉に止まっているとき、後翅をこすりあわせるようにして尾状突起をまるで昆虫の触角のように動かすので、その近くにある紋はよけい《眼》らしく見える。


これを見た鳥がニセの触角(尾状突起)とニセの眼(紋)がある方を頭だと認識し、攻撃をしかけたくなったとしても不思議はない。そしてじっさい、このフェイク頭に攻撃を受けたと見られる個体もしばしば見かける。


だから、フェイク頭が敵の攻撃を(頭部から)そらすための陽動術として機能しているのは本当だろう。
尾状突起と小さな眼状紋には、天敵の攻撃を(本当の頭部より)ダメージの少ないフェイク部位に誘導するという働きがあるのだろうが、体の最後尾を頭だと思わせ、そこを狙わせることで、攻撃自体をかわしやすくするという効果も大きいはずだ。
クロスジホソサジヨコバイという昆虫も頭と反対側にフェイクの眼──眼状紋を持っている。天敵が眼状紋のある方が頭だと思って攻撃をしかけると、その予想を裏切る動きで(逆向きに)逃げることで生き延びるチャンスを増やしてきたのだろう。


頭と反対側を狙わせることができれば(その時点で頭部は攻撃圏外にあることになる)、頭を狙われたとき(頭が攻撃をかわせても胸・腹がひっかかる可能性がある)より逃げ延びられる確率は高まることは想像に難くない。
マエムキダマシ!?クロスジホソサジヨコバイは誰を騙すのか?

やっぱり眼は目立つのか

さて、捕食者(鳥)の淘汰圧が、昆虫の《ニセモノの眼(眼状紋)》を発達(選択進化)させてきたという理屈は解った。それでは《ホンモノの眼》の方はどうなっているのだろう?
そう考えて思い浮かぶのが、つぶらな眼がよく目立つシロコブゾウムシのエピソードだ。
以前、葉にとまったシロコブゾウムシをみつけ、カメラを近づけたときのこと。コロンと落ちて死んだフリをした。虫ではよくある行動だが、拾い上げてみてビックリした。《つぶらな眼を閉じている》ように見えたのだ。まぶたなどないはずの昆虫がどうして!?──とよく見ると、触角がちょうど眼を隠すように畳まれていた。
よく目立つ眼を隠しておいた方が天敵にみつかりにくいということで獲得した術なのだろう。そう解釈し感心した。


逆の言い方をすると、昆虫を狙う鳥(などの捕食者)は《眼に反応する》感度の良いサーチ・システムを持っている──だからこそ、それがシロコブゾウムシに眼を隠す術を獲得させた──とも言えるだろう。
《昆虫の眼状紋を発達させたのは、鳥などの捕食者だ》という説(?)は、シロコブゾウムシが眼を隠すことからも後押しできると感じた。

眼状紋と眼隠蔽模様

ところで、昆虫の眼状紋については捕食者──主に鳥との関係で語られる事が多いような気がするが……昆虫側の《ニセモノの眼(眼状紋)》の発達(進化)ばかりに関心が集中するのは、ちょっと片手落ちな感じがしないでもない。
本当に鳥(など)に《眼に過敏に(?)反応する》サーチ・システムがあるというなら、それが本来向けられるヘビなど──鳥を襲う捕食者との関係についても同時に考えてみる必要があるように思う。

鳥が《天敵の眼》に反応し、警戒する能力を高めてきたのであれば、鳥を補食するハンター側にも何らかの対策がなければ、狩りの成功率が下がってしまうはずで、それでは分が悪い。鳥が《眼サーチ能力》を高めたように捕食者側にもなんらかの対応(進化)があってしかるべきな気がする。
そう思ってあらためて考えてみると……例えばアオダイショウの顔には眼をつらぬくような黒い帯模様が走っている。この模様は《眼》を目立ちにくくするためのものではないのか? これが《眼に敏感な獲物(鳥たち)》に気づかれにくくするための対応(進化)だと考えるとつじつまは合う。




ハンターであるフェレットの顔にもくまどりもようがあるが(フェレットは家畜で隈取り模様のない個体もいるが、原種のケナガイタチには隈取りがある)、これも《眼を隠すための模様》──《眼状紋》ならぬ《眼隠紋》《眼隠蔽模様》と言えなくもない気がする。


もっともアオダイショウやフェレットの《眼隠蔽模様》は獲物に気づかれないためのものであると同時に彼らを狙う天敵(の眼サーチャー)から気づかれにくくするため……という意味合いもありそうだが……。

いずれにしても、ハンター側の《ホンモノの眼》は(狩りの成功率を高めるために?)目立たない方向に進化し、狙われる側の《ニセモノの眼(眼状紋)》は目立つように進化しているのだろうか……だとすれば《眼》のオリジナルとダミー(フェイク)は乖離の方向へ進化しているようにも思え、なんだかちょっとフシギな気がする。

ヒトの空目は人面虫を見せる

鳥などが《単なる模様(眼状紋)を眼と空目(誤認)してしまう》シムテムと、どのていど関係があるのかわからないが……ヒトにもランダムな景色の中に、あるはずのない顔を空目してしまうシステムがある──と僕は考えている(*)。心霊写真等やしばしばブログのネタにもしている空目シリーズも、この《強力高感度・顔読み取りシステム》の過剰反応の賜物だろうと考えている。一対の紋を見れば「眼」に見立ててしまいがちだし、3点あれば「目と口」として捉えがちになる。虫の模様を見て、そこに顔をイメージできるのはこのせいだと解釈している。