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2012年11月の記事 (1/1)

枯れ葉そっくりアカエグリバ

枯れ葉そっくり!?!アカエグリバ

この時期、フェンスや手すりなどにはよく落ち葉がひっかかったり貼りついたりしている。そんな中、みつけた擬態の達人(虫?)!






この蛾のことは知っていて、「枯れ葉に擬態した蛾を探していた」ので見つけることができたが……知らなければとても気づくことはできなかっただろう。
先日アップしたノコメエダシャク類(左右非対称な蛾?)もなかなかみごとな化けっぷりだったが、アカエグリバはさらにその上をいっている。
色合いといい、葉脈っぽい模様といい、フチが欠けてよれた感じの枯れ葉そっくり。むしろ、これが蛾だとは思えないほどのつくりである。

翅のフチが虫食い痕のようにえぐれているので「エグリ(抉)バ(翅)」なのだろう。翅に同じような特徴を持つ「エグリバ」類は他にもいくつか存在する。
翅といえば「飛翔するための器官」というイメージがあるが、アカエグリバなどを見ていると「カムフラージュ用に発達した器官」という意味合いも大きいと感じる。
気温が下がってきて外温性(変温動物)の昆虫にとっては動きが鈍くなりがちなこの時期は、枯れ落ちた葉が増える時期でもある。天敵対応策としては、無理して(?)飛んで逃げようとするより、枯れ葉に化けてじっとしていた方が得策なのかもしれない。

アカエグリバを見た日にはニトベエダシャクという晩秋に出現する蛾もみかけた。


ニトベエダシャクの1匹は擬木の手すりの上で翅をふるわせていた。自動車やオートバイの暖機運転のようなものだろうか? 羽ばたき筋肉を動かすことで体を温め、活動(飛翔)に必要な体温を確保しようとしているようにも見える。
カメラを近づけると、これを嫌うように動き(歩き)だしたが、すぐには飛びたてないのかそのままアイドリング状態(?)で羽ばたき続けていた。なんだかプロペラを回しているもののなかなか離陸速度に達せず飛び立てずにいるヘリコプターのようにでもある。
そんな姿をデジカメで十数枚ほど撮ったとき、被写体はようやく飛び立って行った。
蛾の羽ばたきには「飛翔」の他に「体温上昇」のため──という役割りもあるのかもしれない(ミツバチは冬の間、巣の中でかたまり細かい羽ばたきで熱を起こすことで巣内の温度を30℃前後に保っているとか)。

余談だが、他にも「羽ばたき」の役割りはある。カイコガの成虫は飛ぶ事ができないのに♂は♀のニオイを察知すると羽ばたく。羽ばたくことでニオイ物質を含む空気を触覚にたぐり寄せるためである。我々が「ニオイを嗅ぐ」ときに空気を吸い込むのと同じ。カイコガと同じような行動(婚礼ダンス)をクロスジフユエダシャク(*)が行うのを観察したことがあった。

また先日は葉の裏にとまってじっとしているウラギンシジミをみていた。


このチョウは、夏には目が回りやしないかと思うほど激しく飛び回っているが気温が低くなると、こうしてじっとしている姿をみるようになる(成虫で越冬)。

暖機運転(?)するニトベエダシャクやじっと動かないウラギンシジミを見て、やはり寒くなって昆虫が飛翔するのは大変なのだろうと感じた。
このあと、さらに寒くなると出現するフユシャク(*)という蛾の仲間では、♀は飛ぶことをやめ翅が退化していたりする。

さて、アカエグリバにハナシを戻して……、
何枚か撮影しても動く気配がなかったので、指にとまらせて撮ろうとしてみたところ……さすがに飛んで逃げようとした。
しかし、飛翔というより落下に近い感じでらんかんの外側に降りて(落ちて)しまった。


もともと飛ぶのはあまり上手くないのか、それとも気温が低かったためか……?
アカエグリバの成虫出現時期は4月~11月らしいが、成虫は「飛翔」より「擬態」の能力で身を守っているのだろうと実感した。


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トイレの貼紙

4コマ漫画ならぬ4コマ写真:トイレの貼紙













びろうなネタで申し訳ない。
ネタ元となったのは実際にあったという、ちょっと過激な「トイレ内での禁煙を訴える貼紙」(状況が変わらなければ犯人探しをする旨宣言)。
「問題の貼紙をした人は、かなり頭に来ているみたいだけど……トイレ内での喫煙が減らなかったら、いったいどうするつもりだろう?」と想像し、対抗措置を考えてシミュレーション再現してみたしだい(※写真の文面は創作)。

本当はビル内にあるトイレの画像を使いたかったのだが、手近な場所が思いうかばず、とりあえず公園のトイレを使ってみた。

「トイレでタバコ」に匹敵する対抗措置は…

吸殻のポイ捨てがとがめられるのはわかる気もするが……トイレで煙草を吸うことがどれほど悪い事なのか、僕には今ひとつピンとこなかった(僕は吸わないのでトイレで喫煙する人の気持ちもよくわからないのだが)。
しかし、ネタ元の貼紙をした人にとっては「タバコを吸うなら所定の場所」という強い観念があったのだろう。その人にとっては「喫煙所でタバコを吸う」ことは「トイレで用を足す」のと同じくらい《常識》なのかもしれない。
だとするなら「トイレでタバコを吸う」ことは「喫煙所で用を足す」ことと同じくらい《非常識》なことなのかもしれない──そう考えたことが、4コマ目の「対抗策」につながった。

ウミウシのガチャポン



いつもHOUKOさんのブログ(*)で紹介されている海洋生物を拝見してそのユニークな姿や色合いに驚いたり感心しているのだが……たびたび登場するウミウシの仲間がモチーフのガチャポン(カプセルトイ自動販売機)をみつけた。

実は同じものを以前別の場所で見ていて「へぇ!? ウミウシのフィギュアで商売になるのか?」と驚いたことがあった。それまで何となくメジャーな生き物でないと思い込んでいたが……考えてみればウミウシもカラフルでユニークなのがいるから、意外に(?)ファンも多いのかもしれない。

しばらくしてその場所へ行ったときにはガチャポンの内容商品は入れ替わっていたので、もう見られないかと思っていたのだが……きょう自宅近くのダイエーの中に例のウミウシ・シリーズを発見。
今度いつ出会えるかわからないので、とりあえず1つ買ってみた。

200円を投入しダイヤル(?)を回すとカプセルに入ったウミウシのフィギュアとシリーズの説明文がでてきた。フィギュアはマグネット仕様で、アカテンイロウミウシという種類らしい。
他にアオウミウシ・シロタスキウミウシ・ゾウゲイロウミウシ・パンダツノウミウシ・ソライロイボウミウシ・ツノキイボウミウシ・オトヒメウミウシがあってそれぞれにマグネットとストラップの仕様があるようだ。
※商品一覧|奇譚クラブ

http://www.kitan.jp/item.html

*「バリ島ダイビング生活」バリだより
http://blogs.yahoo.co.jp/noblebali

擬態と空目

前回(左右非対称な蛾?)は【擬態】して「枯れた葉」に似ている蛾(ヒメノコメエダシャクorオオノコメエダシャク)を紹介したが、今回は【空目】で「顔」に見える蛾をば。




みつけた瞬間「目を細めて笑むサル顔」に見えてしまった蛾。【擬態】は天敵から「似て見える」ことで生存率を高めてきた進化の結果なのだろうが、【空目】の方は生存率や進化とは関係なく、たまたま全く別のものに見えてしまうもの……。
追記:この猿面蛾──記事をアップした時点では名前がわからなかったのだが、その後【オオトビモンシャチホコ】らしいと判ったので追記。

ついでに、最近見た蛾↓。


これ↑は天地を逆さにした画像。実際↓は頭を上に止まっていた。


ヒメヤママユというヤママユガ科の蛾。
ちなみにヤママユガ(天蚕)の繭からとれる糸は天蚕糸とよばれ珍重される。
というヤママユガつながりで、文字列的空目のエピソードをば。
先日、ニュースのトピック見出しを眺めていたら、

やままゆがセンター

という文字列が目に(脳に?)入った。養蚕関係の記事かと思ってクリックすると……開いた記事は芸能方面!? AKB48の新生チームの話題だった。
「?」と思って、よく読んでみたら……

まゆゆがセンター

の読み間違いだった。「まゆゆ」と呼ばれるメンバーの立ち位置が新しい布陣では中央になったという記事だった……。

蛾関連の文字列空目としては、少し前にアップした「ウコンカギバ」を知人が次のように読見違えて公衆便所を想像したらしい。

うんこ嗅ぎ場

神よ、この者の罪をおゆるしください……。
また、別の某氏はニュース見出しの「ダライラマ14世来日」を「アライグマ14匹来日」と読み間違えたという。
文字列の【空目】もあなどれない……。




左右非対称な蛾?

対称性を壊してカムフラージュ!?

雑木林沿いの遊歩道の手すり(擬木)に「やぶれかけた枯れ葉」がはりついている──と思ったら、蛾だった。


虫を探しながら歩くときは、手すりやフェンスにひっかかった落ち葉や小枝なども注意して見ている(擬態した虫がいないかとチェック)。
景色の中にかくれている昆虫を見つけるポイントは、つきだした脚や触覚だったりするが、「対称性」も大きなポイントだろう。
擬態がうまくても、昆虫のボディラインというのはたいてい左右対称だ。僕の虫探しのポイントの1つは視野の中で対称性のあるパターンを検出すること──といっていい。
今回は「対称性」が認められないのでスルーしかけたが……脚が見えていたので「えっ!?」と二度見して蛾だとわかった。腹を曲げて対称性を壊すことでカムフラージュ(隠蔽擬態)の精度を上げている蛾がいることに感心した。
【ヒメノコメエダシャク】かそれによく似た【オオノコメエダシャク】という蛾らしい。




これが蛾であった事を知って「そういえば、同じ形のモノを最近別の場所手で見て、枯れ葉だと判断してスルーしていた」と思い出した。道の反対側フェンスにとまっていた枯れ葉のようなものに目をとめ「蛾か?」と思ったものの、いびつに「非対称」であることを確認して「《葉に擬態した蛾》に似た葉か……」とスルーしていたのだ。
「あれは蛾だったのだ!」と認識を訂正。虫サーチ・モードの「対称性パータン検知」で「非対称はスルー」を一部訂正した。
するとその後、次々にこの蛾(ヒメノコメエダシャクorオオノコメエダシャク)が目につくようになった。


これまで見つからなかったのは「対称性パターン」で虫探しをしていたからだろう。
天敵の鳥なども同じように「対称性パターン」で餌虫探しをしていたのだとすると、「非対称」に見せることでその検知システムをのがれるという効果はあるだろうと実感した。




とまり方と腹の向き ※追記



「非対称」をサーチモードに入れてから10匹程ヒメノコメエダシャク(orオオノコメエダシャク)を見つけることができた。僕が見た範囲では、この蛾は大きく傾いでとまるのがスタンダードな姿勢のようだ。傾いでとまること自体、左右対称性を読み取りにくくする効果があるのかもしれない。腹はきまって低い翅側に曲げられていた。
「腹を曲げる」ことからバランスの関係で「傾いでとまる」姿勢が安定するのか、あるいは逆に「傾いでとまる」からバランスの安定する「腹を(下側へ)曲げる」という姿勢が生まれたのかはわからないが……とまり方と腹の向きには関係がありそうだ。
いずれにしても、この蛾の「とまり方と腹の向き」から「非対称」なフォルムが生まれ、それが鳥など天敵の「対称サーチ」(があったとするなら)から逃れる技として定着したのではないか……などと想像が展開した。

それにしても、蛾には擬態名人が多い。ということで……。

木片そっくりの蛾・ツマキシャチホコ

隠蔽擬態名人の蛾──つながりで、以前アップしたツマキシャチホコを再録。




木片そっくり【ツマキシャチホコ】より

最近みかけるケンモンミドリキリガ



11月に入ってみかけるようになった蛾。青系・緑系の蛾は美しいのが多い気がするが、このケンモンミドリキリガもキレイ。コケや地衣類で覆われた樹皮にとまっていれば、それなりのカムフラージュ効果があるのだろうが……。


総括なき多鑑賞

僕は映画も小説もあまり多くは鑑賞していない。
ひとつ作品を鑑賞したあとには、その作品をふり返って「どうだったか?」をじっくり考える。創作をするようになってからは「作品」としての「出来映え」はどうだったのか──どこがどう良くて、ダメなところはなぜダメだったのか。問題があるとすればどこか、どうすれば良かったのか?──等々、あれこれ検証することが増えた。そうしたプロセスを経て自分なりの「総括」をする。「総括」までがセットで一区切りという思いがあるので「作品鑑賞は骨が折れる」という感覚があって、なかなか次から次へと気軽に作品鑑賞ができなかったりする。

作品を観て(読んで)単に「好き・嫌い」を言うだけなら簡単だが、真面目に総括し正しい評価を求めようとすれば、それなりに労力も時間もかかる。観(読み)終えた作品の「総括(評価)」に何日もかかる事もないではない。
しかし「けじめ」をつけずに投げ出したり、次の作品へ進むことは、気持ちが悪くてできない。トイレで大きな用を足した後、尻を拭かずに出て行くような──そんな気がするのである。

自分がそういうタチなので、ましてや映画ファン・小説好きな人たちは皆「しっかり作品を鑑賞しているハズ」と信じていた。だから映画をたくさん観ている人、小説をたくさん読んでいる人たちは作品に対する造詣も、当然深いものだとばかり思い込んでいた。

ところが、そうした人たちと具体的な作品の話をしてみると、まともに作品を語る事ができない「空っぽ」の人が少なからずいたりする。
「あなたが好きだと言う映画に対するあなたの感想・意見は、たったそれだけ?」と驚くことが何度かあった。
作品の周辺情報──スタッフや役者、撮影中のエピソード、作者にまつわる逸話や受賞歴などの知識・雑学はどんどん出てくるものの、肝心の「作品について、あなたはどう感じ、どう評価したのか」という点についてまともな意見がまったく出てこない人もいる。
結局、作品に関するうんちくは他者由来の借りもの情報ばかり。自分の意見はいずこ?──「この人は、ちゃんと作品を観て(読んで)きたのだろうか?」といぶかしく思う事もあったりする。

そうしたことがあって「総括なき多読・多鑑賞をする人が存在する」ことに気がついた。総括なしで(平気で?)いられることが、節操のない多読・多鑑賞を可能にする──ともいえるのかもしれない。
鑑賞した作品の評価もないがしろに次々と読み(観)あさることにどんな意味があるのだろう?
「権威付け(ハク付け)」のため「数をこなす」ことが目的となっているのだろうか?
名作・話題作・受賞作などを数多く鑑賞しているという実績をつくることで、文化・芸術方面の造詣を装っているのではないか?(自身への欺瞞も含めて)
個別の作品について、まともな感想を語ることができないのに、制覇した(?)作品の数ばかりを誇らしげに語る人をみると、そう疑いたくもなってしまう。

そうしたブログや日記を目にすると「鑑賞した作品の数を自慢するより、個別の作品についての自身の思いや評価を語るべきではないのか?」と、つい思ってしまう。
それを記したのが──、


●作品批評で評価されるもの
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-220.html

だったのだが、これについて次のようなコメントをいただいた。

> 「感想文」は好きにやればいい・・くらいの扱いでいいんじゃないですか。
> 評論はしょせん好きか、嫌いか・・・というものです。

先の記事でもことわっているが、《もちろん、個人が鑑賞した作品を自分の好みで評価することは悪いことではない。それは自然なことで、それ自体を否定するつもりはない》──これをふまえた上で、公の場(web上)で作品を批評しているファンに対して──、
《ブログなどで作品を論じるのであれば、それなりにブログ主の見識のようなものを示してほしい──と閲覧者が望むのも無理からぬことだと思う》と記しているのだ。

「評論はしょせん好きか、嫌いか・・・というものです」というコメントについては受け入れがたいものがある。
作品は読み手の「好きか嫌いか」(人によって異なる主観的基準)で測るしかないのだろうか?
そんなことはない。作品としての出来・不出来(完成度)をあるていど客観的に測ることは可能であり、そうした判断基準こそが評論では物差しとなるべきだと思う。

映画にしろ小説にしろ、作品は構造物だ──僕はそう考えている。
テーマ・人物・エピソード・場面・ストーリーなど、作品の構成要素が互いに効率的に機能するように無理なく無駄なく配置・構築されているか──構造物として「理にかなったつくり」になっているか否かをみて作品の善し悪しは判断されるべきである。この評価基準は個人的な好みとは別の次元の物差しである。

論文には【査読】というシステムがある。学術論文誌・専門誌に投稿された原稿は、著者とは別の同分野の専門家が事前にチェックする過程があり、その評価内容によって掲載の可否が決定されるわけだ。
「小説の評価」というのは「論文の査読」にあたるのではないか──ちょっと比喩的な例えかもしれないが、そんな気がしないでもない。
論文とは無縁の僕は査読をしたこともされたこともないが、査読による評価というものは「なんとなく良い」「なんとなく嫌い」といった気分や好き嫌いで決めてよいものではないだろう。
論旨が明確か、論脈がしっかりしているか、わかりにくかったり不明な点はないか、矛盾は無いか、不足はないか──論文のテーマや着眼の面白さとは別に「論文としての体を成しているかどうか」が問われるはずだ。
査読者の好みとは別のところで評価される。

小説や映画も同じである。
テーマやアイディアが面白いからといって、あるいは出演している俳優が好きだからといって、だからその作品がよくできている事にはならない。
芸術作品も「作品としての体を成しているかどうか」が客観的に判断・評価されるべきだ。

小説や映画の評価を《しょせん、好きか・嫌いか》──この基準で測れば良いというのであれば、作品の優劣や賞などを決めるさいに選考委員など置かずに、対象層の読者・視聴者に候補作を読ませ(観せ)、好き嫌いの投票をさせて、サンプリングで決めればいい。

しかし、そうした「好みの集計」をもとに作品の評価・優劣を決めていくようなことをくり返して行けば、制作される作品の面白さは「最大公約数」的な方向に誘導され、作品の質は徐々に低下して行くことになるだろう。
視聴率を追い続けることで番組の質を低下させてきたテレビの世界と同じようなことになりかねない。

たとえば1975年に発表された曲『およげ!たいやきくん』は大ヒットした。Wikipediaによれば《オリコン史上初のシングルチャート初登場1位・11週連続1位となり、現在までにオリコン調べで450万枚以上(オリコンにカウントされない売り上げを含めると、実際は500万枚以上ともいわれる)のレコード・CDを売り上げている。日本におけるシングル盤の売上記録としては未だに破られていない(2012年1月現在)》そうだ。
人気投票ではダントツと言える『およげ!たいやきくん』だが、この曲を支持した人たちに「あなたの一番好きな曲は?」と尋ねれば、おそらく大半の人が別に「もっと好きな曲」のタイトルをあげるのではないかと思う。ただ、そのタイトルは人それぞれだろう。「最も好きな作品」は「そこそこ好きな作品(最大公約数的作品)」ほど収斂しない。
「好き・嫌い=好みの投票」を基準にすれば、多くの人にとっての「マイベスト作品」は「そこそこ好きな作品」より低ランクに位置づけられてしまう。これでは本当に面白い(良い)作品が正当な評価を受けることができない。

作品づくりにおいては、より面白いものをより高い完成度で作ろうとする姿勢・気概が大切で、最初から最大公約数を目指すような姿勢は不適切だと思う(作品の質の低下につながる)。
最近の映画は映像技術は素晴らしいが、ドラマの質は落ちてきている感じがしないでもない──それは製作資金を出す側が、客の何割かが「素晴らしい」と絶賛する作品より、大部分が「まあまあ(観るに値するレベル)」と感じる最大公約数的作品を求めがち(作品としての質の高さより観客動員数を求める)だという事情も反映しているのではないか……などと、そんな危惧を感じないでもない。

作品本来の価値は「好き嫌い」の集計で判断すべきものではないし、観客動員数や発行部数で測れるものでもないと思う。
ついでにいえぱ、映画ファン・小説愛読家の価値も、どれだけ多く観たか・読んだかの集計ではないだろう。

僕の好きな邦画に『12人の優しい日本人』というのがある。シリアスな洋画『十二人の怒れる男』を意識して作られたと思われる、ちょっとコミカルでよく練られた法廷物である。
12人の陪審員(法の素人)が殺人事件の有罪か無罪かの判断をめぐって迷走する(?)ありさまを描いた傑作なのだが、その中に、こんなシーンがある。
「無罪」を支持する陪審員にその理由が問われる場面で、気の弱そうな主婦が──、
「……理由がないとダメなんですか?」「なんとなくそんな気がするんです」と答え「有罪」支持者から激しく問い詰められて鼻血がタラーン。
人の良さそうなオジサンは「無罪の理由……フィーリングかなぁ」と答えてあきれられる……。
かと思えば独身OL風の女性が「私は論理的観点から考えてみました」とメモを読み上げるものの、その内容は事件の経緯をまとめただけ。法廷で見聞きした情報の寄せ集めに過ぎず、彼女自身の考えはどこにもない……。

なんともたよりない陪審員たちの言動にたびたび笑わされてしまったが、これは映画や小説を語る人たちにも当てはまる。
作品を評価するのに、理由も無く「なんとなく」好きか嫌いかで判断したり、「フィーリング」で決めてみたり、あるいは借りもの情報を拾いあつめただけで、自分の意見が述べられていなかったり──「いるよなぁ」と思ってしまう。

映画の個人評価なら、それぞれ好き勝手にやっても実害は無いようなものの……本当に映画や小説が好きで、作品について語りたいというのなら、他者にも理解できるように(何がどう良かったのか、どこがどうして悪かったのか具体的に)きちんと考えを整理し「総括」してみてはどうか……と注文を付けたくなってしまうこともある。


●映画『七人の侍』の巧みさ
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-110.html

●映画『生きる』について
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-111.html

●映画『ゼブラーマン』感想
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-108.html

●橋本忍氏の脚本観
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-112.html

iMacも空目する人面虫

顔検索機能の空目

iMacを2ヶ月半ほど使っているが、まだよく解っていない事も多い。
デジカメで撮った画像をiMacに読み込むときに「iPhoto」というのが自動的に立ち上がるので、これを使って画像を管理しているのだが……画像を「情報」モード(?)で表示すると、人の顔を勝手に検索し、画面上に人名入力欄が表示される。
最初は「未設定」と表示されている欄に名前を入れておくと、名前で(その人が写った画像を)検索できるようになるらしい。


とりあえず、いくつか読み込んでいた昔の人物画像に名前を記入してみたのだが……名前がにわかに思い出せない人がけっこういることに我ながら驚いた(特に集合写真)。ふり返ってみれば、昔つきあいのあった人たちが忘却の地平線の向こうに消えつつあるということなのか……。
これは完全に忘れてしまう前に記録しておかねば──とあわてて、昔の記録を引っ張りだして「ああ、そうだった」と記憶を再確認しつつ記入しておいた。

ところで、iPhotoの顔検索機能──人の顔はおおむね検知できるようだが、まったく関係ない画面上の一部を顔と誤認し入力欄が表示される事もしばしばあった。
人でも写真に写った景色の中に「顔」を見いだし(誤認し)「心霊写真」と話題になる事はしばしばあるが……機械にしろ、脳にしろ、「顔」サーチシステムによる誤認──「空目」現象はおこりがちだということなのだろう。

動物の顔も検出できるのだろうか?──と思い、フェレットの画像を表示してみると入力欄は現れたり現れなかったり……やはり「人の顔」に反応するよう作られたシステムのようだ。


それでは「空目」ネタでとりあげた人面虫ではどうであろうか!?
昆虫画像を次々に見て行くと……やはり「人の顔」と誤認されて人名記入欄が表示されたものがあった。


エサキモンキツノカメムシの幼虫──人が見ても人面に空目できるのだから、iPhotoがだまされるのも仕方あるまい。
iMacのお墨付きが得られたようで、ちょっとウレシイ(笑)。

おまけ:空目というより他人のそら似!?