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2012年08月の記事 (1/1)

死んでもタマムシ


雑木林沿いの道に落ちてていたヤマトタマムシの死骸。構造色といわれる光の加減で変化するメタリックな輝きは、死んでも失われない(実物はこの画像よりもずっとキレイ)。だからこそヤマトタマムシの翅鞘は法隆寺の国宝「玉虫厨子(たまむしのずし)」の装飾にも用いられたのだろう。「玉虫厨子」では、2,500個体以上のヤマトタマムシの翅鞘(上翅)が使われていたそうだ(レプリカでは国宝の復元版で6,622枚/平成版で36.000枚の上翅を使用したものがある)。

【腐っても鯛(腐っても鯛が高級魚であることに変わりはない→すぐれた素質や価値を持っているものは、どんな悪い状態になっても、本来の価値を失わないたとえ)】ということわざがあるが……腐ってしまえばタイもダボハゼもいっしょだろう(価値が無くなる)。この意味するところを例えるならば、【死んでもタマムシ】──こちらの方がより適切な表現ではないだろうか。

美しい昆虫は少なくないが、そのすべてが死んだ後も美しさを保っていられるわけではない。
キンカメムシの仲間などにも光沢のある美しい種類がいるが、こちらは死ぬと色あせてしてまうらしい(標本をみると「残念」な状態に…)。

【キンカメムシかタマムシか】──生きて活躍しているときは美しいが死ぬと輝きを失ってしまうキンカメムシに対して、死んだあとも美しさを放ち続けるタマムシか──というような[たとえ]があっても良さそうな気がする。

画像のようにタマムシは死んでいても宝物のような輝きを放ち続ける。この美しさをとっておきたい──と思う人も多かったはずだ。
今なら(僕がしたように)携帯やカメラで画像をおさえ、こうして他の人に見せる事もできるが、そんなものが無かった時代は、ひろったタマムシを持ち帰る人も少なくなかったのではないか?
「タマムシを財布の中に入れておくとお金が貯まる」
「タマムシを長持(ながもち)に入れておくと着物が増える」
「箪笥の中に入れておくと虫がつかない」
などタマムシにまつわる俗信があるが、これは財布や長持・タンスなどで保存されることが多かった事からうまれたものではないだろうか……と、そんな気がしないでも無い。
タマムシは漢字で書くと「吉丁虫」──おめでたい虫として扱われていた。

おめでたい虫といえば……「コガネムシは 金持ちだ」の歌い出しで有名な童謡『黄金虫(こがねむし)』(野口雨情・作詞/中山晋平・作曲)──ここでうたわれている「コガネムシ」とはタマムシ(ヤマトタマムシ)のことだとする説がある。きらびやかで「お金が貯まる」などの俗信もあることから、イメージとしては納得できる。
ところが、この「コガネムシ」は「ゴキブリ(チャバネゴキブリ)」であるとする説がいろいろなメディアで紹介され、広く知られていたりする。

ゴキブリ説の根拠となったのは《【群馬県高崎地方】では「チャバネゴキブリ」を「黄金虫」と呼び、この虫がふえると財産家になるといわれていた》という話をもとに、だから同じ北関東出身の野口雨情の記した『黄金虫』は「チャバネゴキブリ」のことであろうという推論記事だったらしい。しかし、野口雨情が生まれ育ったのは【茨城県磯原町】(茨城県多賀郡北中郷村磯原=現在の北茨城市)であって、この周辺地域では「タマムシ」を「コガネムシ」と呼ぶと記した資料が確認されている(一方、この地方で「(チャバネ)ゴキブリ」を「コガネムシ」と呼んでいたという証拠は確認されなかったという)。
(*月刊むし2010年6月号【童謡"黄金蟲"はタマムシだ!?】枝 重夫)

黄金虫=ゴキブリ説を知ったときは大いに違和感を覚えたが、後にタマムシ説を知って、すんなり納得する事ができた。

ところで、童謡『黄金虫』は「コガネムシは 金持ちだ」のあとに「金蔵建てた 蔵建てた」と続く──このフレーズは一番だけでなく二番にもでてくる。
《金持ちのコガネムシ(タマムシ)が建てた【金蔵】》とは、いったいどんなものだったのだろう?
子どもの頃から漠然と感じていた疑問だったが……うたわれている【金蔵】とはタマムシの翅鞘が装飾された【玉虫厨子】のことのではないのか?──そう考えると納得できる気がする。
野口雨情はきらびやかな玉虫厨子をコガネムシ(タマムシ)の蔵に見立てるという着想を得てこの詞を書いたのではないかと僕は想像している。

ヤマトタマムシの美しい金属光沢を見ながら、これによって装飾が施された玉虫厨子を思い浮かべると、この想像も充分にあり得そうに思われてくる……。

●宝石昆虫タマムシ/玉虫の金蔵とは!?

https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-135.html

●童謡『黄金虫』の謎
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-127.html

●童謡『黄金虫』の解釈をめぐって
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-128.html

■昆虫などメニュー頁
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-902.html

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金縛り考

金縛り(かなしばり)とは…個人的解釈

先日『ステキな金縛り』という邦画をDVDで観た。西田敏行扮する落ち武者の幽霊が登場する法廷コメディという奇想天外な着想の作品。
殺人事件の疑いをかけられた被告が「犯行時刻は旅館で金縛りにあって動けなかった」とアリバイを主張したことから、彼の無実を証明するため、当夜彼の上に乗っていたという落ち武者の幽霊を証人席にひっぱりだすことになる──といった話。

『ステキな金縛り』についての評価については長くなるのでさておき……この作品のタイトルにも使われている【金縛り】について、思うところを記しておこくことにする。

『ステキな金縛り』もそうだが、【金縛り】は【幽霊】同様、心霊現象として話題にされることが多い。
僕自身は【幽霊】の物理的な存在は信じていない(主観的には存在しうると考えている*)が、いわゆる【金縛り】といわれる現象は何度も経験している。

医学的(解剖学的?)には解明されていそうな気がするが調べた事は無い。
実際に【金縛り】を体験した頃から、次のように解釈して納得しているからだ。

人は就寝中、夢を見る。そして夢の中で行動する──しかし、夢の中の意識によって実際に体が動いてしまったのでは大変なわけで(それでは夢遊病患者だ)、通常、夢の中の行動(運動意識)と、実体の体(就寝している)はリンクが切れた状態にある。

それが寝入りばなや覚醒まぎわ……意識が夢の中にあるのか実体側にあるのか曖昧な境界上にあるとき──自分が横たわっている事は自覚しながら、体と意識とのリンクが切れた状態が生じることがある──これが【金縛り】なのだろう。僕はそう解釈している。
身動きとれない中で、その状況を理解しようとし「幽霊が自分の上に乗っている(ため)」などと思いこんで、夢うつつ状態で(半覚醒の夢として)「幽霊」を見たとしてもおかしくはあるまい。
こうして【金縛り】が【幽霊】がらみの現象だという解釈が生まれ、この解釈が広まったことで、【金縛り】を心霊現象のようにとらえる人が増えたのではないか──と考えてきた。

さて、実体の体が動かなくなるのが【金縛り】だが……夢の中で体が思うように動かなくなる事もある。
何者かに追われ、懸命に逃げようとするのだが、体がなかなか前に進まない──そんな夢は時々耳にする。
僕自身も《走ろうとするのだけれど、まるでプールの中を歩いているかのように、体が前へ出て行かない。重心が前がかりにならないために、ゆっくりとしか進むことができない》というはがゆい思いを夢の中で体験したことが何度かある。
【金縛り】ほど強固な拘束ではないから……仮に【綿縛り】とでも呼ぶことにしようか。
この【綿縛り】についても僕なりの解釈を記してみたい。

【金縛り】の説明で《通常、夢の中の行動(運動意識)と、実体の体(就寝している)はリンクが切れた状態にある》と述べたが……正確にいえば、多少は連動していると考えられる。
悪夢(夢の内容)に影響され(うなされて)実体が身悶えすることはあるし、逆に実体の立てた膝が倒れることで、その感覚が夢の中へ伝わり、崖から落ちるシーンとなって慌てて目が覚めることもある。

夢の中で起こる【綿縛り】も、寝ている実体側の感覚が夢に混入することで起こるのではないか……と僕は考えている。
たとえば仰向けに寝ていて《重力が後ろ(背中側)にかかっている》(あるいは横向きに寝ていたとしても《足に重心が乗らない》)という実体側の感覚が夢の中へ伝わっていたとすると、夢の中の意識感覚では《重心が前にかからない》となり《なかなか前に進めない》という状況が生まれたとしても不自然ではないように思う。
立てた膝が倒れる事で落下の夢を見ることがあるのだから、横になっている感覚を反映して重心が前がかりにならない夢を見たとしても、おかしくはないだろう。
これが【綿縛り】の正体だ──と僕は解釈している。

ところで、体操競技に「ロンダート」という技がある。日本語でいうと「側転跳び(側方倒立回転跳び)4分の1ひねり後ろ向き立ち」──後転跳び(バック転)や後方系の宙返りなどへつなげる技で、前向きの助走から後ろ向きの運動へ切り替える技だ。
基本的な技術なのだが、このロンダートを夢の中で行うと、なぜか決してうまくいかない。
回転の中で瞬時に体の向きを変える感覚が得られず(回転とひねりのタイミングがうまく合わない)、いわゆる技が「流れて」しまう状態になってしまうのである。ロンダートのバランスが崩れ、次の後方宙返りが踏みきれない……そんな夢を若い頃にはしばしば見た。

ロンダートのリズム・感覚は頭の中にやきついているが、これを夢の中で行うと、横たわっている実体からの影響(【綿縛り】効果)を受け、正しいタイミングでの再現(夢内再生)が阻まれ、運動のバランスが崩れてしまう──こうした理由で、夢の中ではロンダートがうまくいかないのだろうと想像している。
夢の中でロンダートが「流れる」経験をした人は、きっといるのではないかと思うが……まだ、夢の中でロンダートをしたという話は聞いた事が無い。
他にこんな夢体験をした人がいるものか、いないものなのか……ちょっと気になるところである。

*人はなぜ《霊》を感じるのか

http://blogs.yahoo.co.jp/ho4ta214/25709128.html

■エッセイ・雑記 ~メニュー~
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なでしこジャパンの選択

なでしこジャパンの選択は正しかったのか

昨年のアナログ放送終了を機にテレビを離脱しているので、世間で話題になっている(?)オリンピック中継も見ていない。
しかしロンドン五輪の話題は多い。ちょっと気になる記事が目にとまったので、それについて感じたことを記しておく。

バドミントンの強豪チームが無気力試合をしたとして失格処分になったという。
これはいったいどういうことか?

決勝トーナメントへの組み合わせを決める予選リーグの最終戦で、すでに進出が決まっていたチームが自分たちに有利な組に入るため(強豪国や自国ペアとの対戦をさけるため)わざと負けようとし、このプレーが「無気力試合」とみなされたのだ。
世界バドミントン連盟(BWF)の選手行動規範では「勝つための努力を怠る」「スポーツ精神にもとる、明白に有害な行為」を不適切行為と定めている。「無気力試合」はこれにあたると判断され、該当4ペア(3カ国8選手)に対し、BWFは失格という厳しい処分を下した。

一方、サッカー女子では、日本代表(なでしこジャパン)がやはり次の試合を有利にする狙いで、勝ちにいけるリーグ最終戦をあえて引き分けに抑えて決勝トーナメントとへの進出を決めている。
(勝って1位通過すると離れた試合会場まで長距離移動の負担が強いられ、過去の対戦成績で分が悪い相手と戦うことになるため、これを嫌って2位通過をもくろみ、引き分け狙いの試合をしたとされる。「ドロー狙い」を指示したことは監督自身が試合後のインタビューで認めている)

《トーナメントでの組み合わせを自チームに有利にするため、意図して「勝つための努力を怠った」》という点で、バドミントンで失格処分となったペアと、なでしこジャパンのとった行為は構図として同じといえる。

なのに、なでしこジャパンの件については、IOC(国際オリンピック委員会)は「監督が言ったこと(ドロー狙い)に選手が従ったという証拠はない」として「問題無し」と判断された。
(しかし、なでしこジャパンの沢選手は「試合後に移動がなかったのは(体力的な負担が)全然違って楽」とし、引き分け狙いについても「みんな納得している」と語っている)

同じ大会(ロンドン五輪)で競技によって対応(処分)が分かれたのは、不公平・不平等な感じもするが……判断を分けたのは、それぞれの競技の(ファンを含む)関係者がこの件をどうとらえるか──あってはならない事と判断するのか、これも戦略のうちでアリと考えるのか──の認識(倫理)の違いによるところが大きいのではないかと想像する。

決勝トーナメントでの組み合わせを有利にするために予選リーグで「勝つための努力を怠る」行為を野球の<敬遠>に例える人もいるようだが、<敬遠>はその試合を勝つための戦術であり「勝つための努力を怠る」こととは違う。
多くの観客が遠くから足を運び、わざわざ金を払ってまで見にきているオリンピックの試合で「勝つための努力を怠る」プレーが行われて良いものだろうか?
「オリンピックにふさわしくない」「スポーツマンシップに照らして、好ましいとは思えない」と考えるのが自然だろう。

こうした問題が起こるのはどうしてか。根本的な原因は「対戦システム」にあるのだと思う。
これから行う自分たちの試合の結果によって、その後の対戦が有利になるか不利になるかを事前に想定できてしまう事・そしてその想定を(無気力試合によって)選択できてしまうこと──こうした状況が生まれるシステム自体に純粋なプレーを阻害する不備がある、と僕は考える。

たとえ「無気力試合は失格とする」と明文化したところで、本気で戦っているフリをしながらわざと負けたりドローにしたりという行為は出てくる可能性があり、そうなった場合、その結果が故意であったかどうかを証明するのは難しい。
「無気力試合は禁止」としたところで、それを可能にするシステムが変わらない限り、この問題を根絶する事はできないだろう。

「好ましくない選択が出来てしまう状況」──対戦システムににまずは問題がある……そう思う一方、それとは別に、こうした状況に実際に直面した選手やチーム側の倫理観も問われている──という印象もまた感じた。

主催者側の対戦システムに不備がある事は明らかだと思うが、それを理由に「だから勝つための努力を怠ってもかまわない」ということにはならない。システムの不備に責任転嫁をしてスポーツ倫理の問題から目をそらしたいというサッカーファンも多いのではないかと想像するが……そこはオリンピックなのだから選手や監督の倫理にもふさわしい理念を望みたい。
対戦システムに不備があったにせよ、《その後の対戦を有利に運ぶために「勝つための努力を怠る」か否か》を決めるのは選手や監督の意思である。
「試合のルールには違反していない(からOK)」と無気力試合を正当化する意見もあるようだが、これは「法律上の禁止薬物に指定されていないのだから脱法ドラックの使用は許される」という解釈と同じ理屈のように感じられる。

「勝利に向け最善を尽くす」ことがスポーツの大前提だと僕は考える。だから、バドミントンの無気力試合やなでしこジャパンの選択には疑問が残る。
そういうと、《彼らの選択は「決勝トーナメントを有利に戦うための選択であって、(決勝トーナメントでの)勝利に向け最善を尽くそうとする【戦略】》と主張する人もいるだろう。
しかし、最終的な勝利を目指すのだから、その過程でスポーツマンシップに反する試合があってもいい──とする考え方には疑問がある。
もし、「決勝トーナメントを有利に戦うための【戦略】」が認められるのであれば、予選(1次)リーグの最終戦で互いのチームが(2位通過するために)負け狙いでオウンゴール合戦をくり広げるなどといったケースもよしとしなければならない。
そんな試合があって良いものだろうか?

スポーツマンシップにのっとってプレーする選手やチームが、そうでない戦い方をするものによって不利益を被るようなことがあってはならない──そんな手法があったとすれば、それは間違っている(とるべき手法でない)──と考えるのがスポーツ倫理ではないかと僕は思う。

オリンピックにおいては、競技が違ってもスポーツマンシップ・スポーツ倫理の基本は同じだと(同じであるべきだと)思うのだが……今回の五輪ではバドミントンとサッカー女子で対応(処分)が分かれていることに、釈然としないものを感じた。

もしかするとスポーツには競技それぞれの事情に対応する便宜的な「常識」が存在し、これは政治家たちの(永田町の)常識や電力会社の(身勝手な)常識と同じような──実は身内内でしか通用しないローカルな倫理なのかもしれない。

五輪で起きた同じ構図の問題について、バドミントンの世界の常識では「容認できないこと」と判断され失格処分となったが、サッカーの世界の常識では「この程度はあり」として決勝トーナメントへ進んでいる……スポーツ倫理として正しいのかどうかということより、競技の(ファンを含む関係者たちの)「常識」が是非の判断基準になっている気がしないでもない。

サッカー女子では、なでしこジャパンが決勝トーナメントに進出し準々決勝でブラジルに勝ってファンの期待を集めている……。
このまま勝ち進み、優勝するようなことになれば、なでしこジャパンは賞賛され、予選リーグ最終戦でとった【戦略】も正しかったのだと言う論調が支配的になるだろう。

しかし、個人的には「それで良いのだろうか?」という思いが払拭できない。

小学校の運動会では、徒競走でタイムが近い子ども同士を同じ組にして競わせているそうだ。そこで編成を決めるタイム測定ではわざと手を抜き、弱い組に入っておいて運動会で1位を狙う──そんなことを考える子がいるらしい。

なでしこジャパンの活躍(やそれに対する賞賛)を見た子が、こういう【戦略】をマネしたとしたら……褒めてあげられるだろうか。

スポーツでは勝つこと(目標の達成)も重要だが、負けた選手に価値はないのかといえば、もちろんそんなことはない。その時々に自分に出来る努力をしてきたかどうかが大事にされるべきだと思う。
結果(成績)ばかりに執着するのだはなく、競技に取り組む姿勢やプロセスを大事にする──そうあるべきだと思う。
良い成績を得るためにはその過程でズルをしてもかまわない──という倫理観を、特に子どもにはもって欲しくない。
オリンピック選手には子どもの手本になるような高いスポーツ倫理をもって競技に臨んでもらいたいものである。