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2012年01月の記事 (1/1)

【ヒバカリ】名前の由来考


日本にはヒバカリというヘビがいる。「咬まれるとその日ばかりしか命が持たない(毒蛇)」という迷信が名前の由来とされる。しかし実際には無毒のおとなしいヘビで人を咬むことはめったにない。

僕は子どもの頃からヒバカリにあこがれていて、実際に飼育したこともあるのだが(*)、このおとなしいヘビにどうして恐ろしい猛毒蛇のレッテルが貼られ、そうみなされてきたのか、不思議でならなかった。

無毒なのだからヒバカリに咬まれて(それが原因で)死んだ人はいないはずだ。
しかしながら一度「猛毒蛇」の噂がたってしまえば、めったに人を咬むことがないことから、その間違いが確認される機会もないまま、誤認に基づく名前が広まり定着してしまった──ということはあったのかもしれない。

それではどうして、めったに人を咬むことがないおとなしいヘビに「猛毒蛇」の噂がたったのだろう。
ここからは僕の想像なのだが……反撃してこないことをいいことにヒバカリを虐待するわんぱく坊主たちがいて、それをいさめるための方便が噂の起源となったのではないだろうか。

ヘビは嫌われがちな生き物だ。目にすればちょっかいを出したくなるわんぱく坊主はどの時代にもいただろう。ヒバカリは比較的小型のヘビだしおとなしい。こわくないヘビだと判ればわんぱく坊主たちは攻勢に出てヒバカリをオモチャにしたりいたぶったりしたに違いない。

その様子をみかねた優しい大人が「かわいそうだから、やめなさい」と注意する事だってあったろう。しかしそんなストレートな説得などきかん坊には通用しない。そこで「めったに人を咬むことはないが、ひとたび咬めば、咬まれた者はその日ばかりしか命がもたない」と脅かすことで虐待をやめさせた──そんなことがあったのではないだろうか?
「毒蛇」という恐怖イメージは、わんぱく坊主たちの悪戯心を萎縮させるに充分なインパクトだったろう。

これが攻撃的な毒蛇であれば危機管理のために見つけ次第殺してしまえということにもなりかねないが、「めったなことでは人を噛むことをしないおとなしいヘビ」ならば、人がちょっかいを出さなければトラブルは回避できる。「触らぬ神に祟りなし」でヒバカリに手を出すのはやめておこう──という認識がわんぱく坊主たちの間に広まったとしてもおかしくはあるまい。
危機感をあおる「毒蛇」情報は伝播力も強かったはずだ。

こうした経緯で、おとなしい小ヘビを救うための方便=有毒説(?)が広まり、無毒蛇であるにもかかわらず(あえて?)毒蛇の印象を強調する「日ばかり」の名前で呼ばれるようになったのではないか……そんな可能性を僕は思い描いている。

具体的な根拠があるわけではなく、この想像が正しいのかどうかは判らない。ただ、ほかに説得力のある説は見いだせず、こう考えるのが自然なような気がしている。


方便がうみだした伝説や迷信といったものは、きっと少なくないはずだ。
例えば「カッパ」などもそうかもしれない。

危険な場所で川遊びをしている子どもたちに「危ないからそこで遊んではいけない」と注意しても今までそこで遊んでいた子は「へいっちゃら」と聞く耳を持つまい。仮に強く命じてその場で言う事をきかせることができたとしても、子供たちは大人の目を盗んでまた来るだろう。
そこで「あのあたりは妖怪(カッパ)がいて、近づくとに引っ張られる」と恐怖感にうったえる手法をとれば子供たちも恐れを抱いて近づかなくなる。

カッパ伝説に関しては誕生の起源は色々な可能性が考えられそうだが、「きかん坊を制御するための方便」として利用されることもあったのではないかと想像する。

なかなか言う事を聞かない子供たちをどうやって従わせるか──そんな立場になって考えてみれば、こわい毒・たたりやオバケ・幽霊・妖怪などをもちだして恐怖感にうったえる手法が効果的だという結論に至るのはごく自然なことだと思う。
秋田県のナマハゲなどもその一例だろう。

ちなみに僕も甥っ子が小さいとき、大声で泣くのを止めさせるために「泣いているとゾンビが脳みそを食いにくる」と言ってみたことがある。脳みそを食うゾンビは当時流行ったホラー映画『バタリアン』がモデルである。
「涙はしょっぱいだろう。泣いていると涙と一緒にしょっぱさ(塩分)がどんどん流れ出して、そのぶん脳みそは甘くなる。だから泣いてる子の脳みそはゾンビにとって大好物。大声で泣いていると、その声をききつけたゾンビが脳みそを食いにやってくる」
効果はてきめんだった。


*ヒバカリ(ヘビ)の飼育プチ記録

https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-155.html

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空耳くしゃみ「Head Action!」

くしゃみの音は「Head Action!」

今日は東京でも今年初めての雪が降った。
寒くてクシャミをした人も多かっただろう。
某所で「くしゃみの音」をネタにした記事があがっていたが……僕が以前からイチオシしていたのが「Head Action!」である。

クシャミが放たれるときには頭が動く。
「へっ…へっ……へっだぁくしょん!」
音としぐさの両方を表した「Head Action!」──この空耳表現こそクシャミを表すのに最も適した言葉だろうと僕は以前から考えていた。

これまで漠然とクシャミをしてきた人も、今後はクシャミがでそうになったときには、「Head Action!」を意識し、正しい発音になるようこころがけやう。
それでは皆さん、リピート アフター ミー
「Head Action!」
「Head Action!」
「Head Action!」

ツッコミ風合いの手

あと、クシャミのオプションとして流行らせたいのが「合いの手」だ。
クシャミをした人がいたら、周囲の人が間髪入れずかぶせるように「ァどっこいしょ!」と合いの手(ツッコミ?)を入れるのである。

インフルエンザ流行時や混雑した通勤電車の中など、ときにヒンシュクを買いがちなクシャミだが、「合いの手」ひとつでギスギスした空気が笑いに変わる。場を和ませる「合いの手」は「愛の手」と言っても良いかもしれない。
恵まれない風邪ひきさんに「愛の手」を!

ということで、誰かがくしゃみをしたら、反射的に「ァどっこいしょ!」──これを流行らせてみてはどうか。

この「愛の手」運動が定着すれば、満員電車の中などでは迷惑クシャミの抑止力(合いの手ツッコミが恥ずかしくてクシャミができなきなる)になるかも知れない。

ところで、くしゃみをするのは人間だけではない。動物の「くしゃみの音」はどんなだろう?
以前飼っていたフェレットの場合は「ケシッ!」という感じだった。人のくしゃみに比べると小さくかわいらしい。
ちなみに「けし」には「きわめて小さい」という意味もあるので、これも「小さなくしゃみ」にふさわしい空耳音(?)といえるかもしれない。


フェレット漫画:最後っ屁対決!?より

Myカメレオン映像TVに…ならず【追記あり】





これらの画像↑は僕が以前飼っていたカメレオンのビデオ映像から抜き出した体色変化に関連するシーン。

■以前飼っていたカメレオンの映像がテレビに!?
2012年1月12日(木)テレビ朝日系列で19:00~21:48に放送される
【超タイムショック 芸能人最強クイズ王 決定戦スペシャル14】

http://www.tv-asahi.co.jp/t-shock/

この番組↑の中で、僕が以前飼っていたカメレオンの映像が使われる(予定<追記:だった>)──ということで、素材ビデオ(8mmビデオで撮影&編集)の中からいくつかのシーンを抜き出してみたしだい。
カメレオンは周囲の色に合わせて体の色を変えると思われがちだが、必ずしもそうではない。光や気分などの影響もうける。

さて前述の番組だが、1分間に12問の設問があり正解率が低いと解答者席が回転する形式のクイズ番組。問題は「国語」「算数」など教科ごとに出題されるそうで、「理科」出題の中にカメレオンに関する設問があるのだとか。出題後、グループ交代時にカメレオンの体色変化についての解説があるそうで、このとき映像素材として僕が撮影したカメレオンの体色変化のようすを記録したビデオが使われることになっている(<追記:なっていた>)。

カメレオンはおもしろい動物で、だれでもその名前は知っているが、意外に実態は知られていない気もする。そんなカメレオンの魅力やふしぎの一端を多くの人に知ってもらうために、僕が記録していた映像が少しでも役に立てるとすれば嬉しい。

※【追記】昨年12月に番組制作担当の方から連絡があり、僕が撮影したカメレオン映像を使わせて欲しいとの事だったので快諾。さっそく映像を収めたDVDを発送し「映像は有効に番組内にて使わせて頂きます」との返信をいただいていたので、採用されるものだと思っていた。ところが1月10日になって担当の方から、カメレオン映像の採用が見送られたと通知が入った(解説部分はフクロウのミミズクに差し替えられたとか)。
年末年始に監修にあたる大学教授(専門家)とコンタクトがとれなかったことが理由だそうだ。それでもカメレオンを飼育している動物園の獣医に監修してもらっていたらしいが(僕の観察記録と認識が違うためか?)「見たことの無い種類のカメレオンまでは責任が持てない」ということになってしまったのだとか。
ということで、残念ながら今回は「以前飼っていたカメレオンの映像がテレビに」は無かった事に……。


カメレオンに関する記事は↓
●カメレオン~捕食・体色変化&観察動画~

https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-37.html

ちなみに僕が飼っていたカメレオンの映像がテレビで放送されことは以前にもあった(今回の映像とは別)。
やはりテレビ朝日で放送されていた『ビデオあなたが主役』という投稿映像番組に当時猿の【反省】が流行っていたのを受けてカメレオン版の反省シーン(?)を投稿し採用されている(1992年5月19日放送【反省カメレオン】)。

Twitterと短絡思考化?

■140字思考が短絡思考を助長する?
僕はツイッター(Twitter:140字以内の短文ブログを投稿できるコミュニケーション・サービス)をやっていない。
ツイッターには(ツイッターの利用者には)あまり良いイメージが無いからだ。

もちろんツイッターは道具に過ぎず、これ自体が良い悪いという事はない。
適切な使われ方をしていれば役に立つツールだろうという事は理解できる。
また利用者についても、賢い人は適切に利用するだろうし、アホはアホなりの使い方をするだけ──ツイッターを利用している者を1つにくくって悪く言うつもりはない。
これはツイッターに限らず、ブログやSNSでも一緒だろう。ツールはツールであり、利用者の人格(人間的価値)とは関係ない──そうしたことを踏まえた上で、ツイッターには問題のある書き込みが集中しやすいのではないか……もっと踏み込んで言えば「ツイッター思考」とでもいうような短絡思考を助長する危険があるのではないか──という漠然とした危惧を抱いている。

今どこで何が起きているのか──その時々の情報をいち早く伝達する手段としてはツイッターは便利なのだろう。
しかし、140字以内という少ない字数制限は、しっかりと「考え」を伝える手段としては言葉足らずになりがちで向いていない──「議論」には不向きなツールだと思う。
それなのに、このツールに入り浸っていると(?)、ツイッターの中で、つい「意見」を語ろうとする者が出てくる(のではないか?)。多くの人が注目しているテーマ・デリケートなテーマについての「(言葉足らずな)意見」は、波紋を広げやすいだろうし、議論に不向きなツイッターで議論(?)が白熱すれば、トラブルに発展する可能性も高い──そんな印象がなくもない。

扱われるテーマに対して読み手側と共通認識があり、論点がハッキリしていれば、短文でも「判る」ツイートというのも成立しうるとは思うが、基本的に「論証」の必要がある「意見」を短文(140字以内)で表現するのは困難だ。

にもかかわらずツイッター依存者(?)は、字数制限に合わせるため、元情報を脳フィルターを通して単純構図に加工して意見しようとする。その結果、自分が勝手に簡略化した改ざん情報に対して自分が文句をつけるというようなひとりよがりなツイート文に陥りがちな気がしないでもない。
この「単純構図化」に問題があり、ピントのズレた勝手な「見なし議論」が一人歩きして暴走、炎上に繋がるといったケースも少なくはないのではないだろうか。

少し前に、某日本人俳優がツイッターでフジテレビと韓流を批判したとして騒動になった事があった。
騒動を報じたニュース記事ではこの俳優がいったい何をどう批判しているのか「原因」がわからなかったが、続報によると、本人は韓流を批判してはいないと発言しているそうだから、この役者のツイートに「反韓流派(?)」が乗っかり「見なし議論(論点がズレた韓流批判)」が一人歩きして炎上・騒動に至ったのだろう。

ピントのズレた「見なし議論」については論評するに値しないが……騒動元の某日本人俳優が何を批判したかったのかについては興味があったので、本人が騒動後に開設したというブログ(騒動について本人が語ったという記事)を読んでみた。しかしテレビ業界に対する漠然とした不信・不満が語られているものの、フジテレビの(あるいは韓流の?)何がどう問題なのか、どうあるべきなのかについて「自身の考え」を読み取る事はできなかった。
彼の論点が整理されていない「不満」ツイートに読者が自分の不満を重ね合わせ、別の論点でツイートが展開し加速し炎上に至った──ということは充分起こり得ただろう。

Wikipediaによれば、「twitter」には「さえずり・興奮」「無駄話」の他に「なじる人・嘲る(あざける)人」の意味もあるというが、無責任に他者をなじったり嘲るには(も)都合の良いツールなのかもしれない。

ツイッターで「意見」めいたことを書き込む人は、他者が考えた意見(記事やブログ)をなぞって読む事で、自分の頭で考えたような気になり、自分の理解が正しいのかどうか充分な検証もせずに、その時点で反射的に(好き嫌いの次元で)自分の感覚に馴染まない点があると反応──その違和感を説明するための短文ロジック(屁理屈)をみつけ、書き込んでいるだけに過ぎない──そんな「つぶやき」が多い気がする。

問題の本質をきちんと理解・検証しようとせず、生理的な違和感を覚える部分についてのみ拾い上げ、それを埋める理屈をみつける事で「自分なりの意見(考え)を持った」と錯覚し満足している人が少なからずいるのではないか──そんな気がしてならない。

本来なら、ある意見に対し、批判・あるいは賛同でもよいが……自分の意見を述べる場合、元意見と自分の意見をそれぞれ検証できる形で提示するのがフェアだろうと思う。
自分が他者を批判するように、自分が提示した意見に対しても反対意見が出るかもしれないし、それを受けて立つ覚悟も当然必要だろう。その覚悟が無ければ、他者の意見を(不特定多数の人が閲覧できる場所で)批判などすべきではない──僕はそう思うのだが、そうした覚悟もなしに感情論(おそらく本人はそれが感情論とは気づいていない)だけで気軽に何かを批判して、「自分の考え方を持っている」と錯覚しているツイッター利用者が多いのではないか……。

ツイッターのコメントを読んでイラッとくるのは「批判」しているのは判るが、その批判が本当に妥当なのか否かを検証できる情報が示されていないときである。
140字以内の総括(?)では論証プロセスが抜け落ちており、投稿者自身がきちんと自負分の頭で必要な検証プロセスを確かめた上での「意見」なのか怪しい事も多い。
自らの考えをきちんと構築しまとめあげて説明する努力をせず、他者の記事に乗っかる形でお手軽に短文で片付けたがるだけの人は、思考も短文(短絡)仕様になっているのではないか──と疑いたくもなる。
「自分の考え(批判の論拠)を示さずに、他者の考え(記事)をああだこうだ言うのは失礼だしアンフェアだよなぁ」と感じる事がしばしばある。

そんなことがあって、ツイッターには「お手軽で無責任なプチクレイマーのツール」的なイメージが(僕には)あり、これがツイッターを好きになれない原因の1つだったりする。

最初に述べた通り、ツイッターは道具に過ぎず、問題はそれを使う人間次第だということは僕も承知している。実際「ちゃんとした」ツイッター利用者がたくさんいることも知っている。
しかしその一方で、ツイッターの140字思考になれてしまう事で短絡思考が助長されることはあるのではないか……といった危惧も捨てきれずにいる。
また、そんな疑いを感じさせるツイートを乱発する投稿者には「短絡思考」におちいっている自覚が無いばかりか、むしろTwitterで色んな意見に接する事で知見を広めたつもりになっているフシがうかがえたりして、これも気がかりだ。
自分の頭で考えきちんと検証する習慣を忘れ、感覚的な「短絡思考」で物事を判断する人たちが(も)ツイッター利用者の中には多いのではないかと心配になる。

さらに言えば、短絡思考で結論づけた「意見」ツイートに同調する人たち同士がつながりを作る事によって、「自分と同じ意見の人たちが、たくさんいる」→「賛同者が多いのだから自分の意見は正しい」という気になってしまい、「自分の頭で考え、論理的に検証する」という面倒なプロセスを怠って、共感や感情論をものさしに物事を判断する人が、ますます増えるのではないか……という懸念もある。

冒頭で書いた通り僕自身はツイッターをやっておらず、ツイッターについてよく知っているとはいえない。だからこの(僕が抱いている)イメージが当たっているのかどうかは判らない。
ただ、ネット上で僕が触れた範囲で感じている「よくない印象」をあくまでも個人的感想として記しておくしだい。

賀正~空目は視覚的ダジャレ!?


■年賀状にかえて…謹賀新年
今年も年賀状を出さなかったので……。
僕は長い間、年賀状を生存表明のつもりで出していたが、2009年を最後に止めている。

インターネットが無かった時代は年始に届く年賀状が知人の動向を知る通信の第一報だったが、今ではEメールで簡単かつ迅速に連絡がとり合えるし、年賀状が届く前にブログなどネット上で年始の交流は始まっているのがあたりまえとなっている。
年賀状を出さずとも必要な情報はネット上でやりとりができている──年賀状を出し続ける意味が薄れてきたカンは否めない。

また、年賀状を個別に1枚1枚発送すれば、作成コストやハガキ代もかかるし手間もかかる。個人的な負担もさることながら、社会全体でみれば年賀状習慣による紙資源の消費量・配達時に排出される二酸化炭素の排出量(エネルギー消費量)などは、それなりの環境負荷になっていそうな気がしないでもない。

いろいろ考えた結果、個別に送付する年賀状はやめ、かわりにブログに年賀用図案をアップして新年の生存表明(?)とさせていただくことにしたしだい。


■空目は視覚的ダジャレ!?
さて、今回の年賀用図案だが、西暦の「2012」と干支の「辰」をからめた記号デザインを検討。「2012」を龍の体に見立て、「辰」は飛び辰(たつ)ための翼──というイメージで図案化した。

「飛び辰(たつ)」は「飛び立つ」のダジャレだが、「辰」を翼に見立てたのは、普段から鍛えている(?)空目力を駆使してのことである。
そう考えると【意図的空目】というのは【視覚的ダジャレ】ということができるのかもしれない。

テーマに統一感の無いブログだが、今年もおもしろいと感じたもの、まとめておきたい事などをちびちびとアップしていければと思う。


●空耳ならぬ空目アワー
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-178.html

●空目文字:ハングル編
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-181.html

●空目 木の眼!?
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-182.html