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2011年08月の記事 (1/1)

『ツノゼミ ありえない虫』とツノの謎!?



深度合成写真(被写体を層状に何枚も撮影しピントの合った部分のみをコンピュータで合成する)という特殊な技術で撮影された美しいツノゼミの写真がふんだんに使われたツノゼミ図鑑といった本。
画像はこの本(カバー)の表紙と裏表紙だが、これを見ただけで内容のスゴさが想像できるだろう。これは本文で紹介されているツノゼミのごく一部。
ハチやアリに擬態したもの、植物のトゲやキノコ、コケ、カビ、イモムシの糞に似せたものから、なんだかワケがわからない造型まで、とにかく奇抜な姿はバリエーションが豊富。
人の想像を超えた造型は、自然の不思議さを実感させてくれる。
眺めるだけで楽しいツノゼミのデザインカタログのような本だ。

僕は虫屋ではないが、ツノゼミがいったいどうしてこんな容姿が実現できたのだろうと不思議に思っていた。
この本によると、ツノゼミの前胸の付属物(ツノ)は翅の遺伝子が働いてできたもの(3対目の翅にあたる?)だという最新の学説があるそうだ。
なぜそのような形になったのか学者の間でも解明されていないことも多いらしい。

学者ですら解き明かせずにいるツノゼミのツノの謎。生物を学んだ事も無いド素人の僕が解けるはずもないのだが、写真を見ていると、「どうしてこんな造型が実現したのだろう?」と思わずにいられない。この虫には想像力を刺激する不思議な魅力がある。

ということでド素人が想像(妄想)するツノの秘密!?

表紙に一番大きく紹介されているヨツコブツノゼミを初めて知った時はインパクトがあった。他の種類ではツノがハチやアリに見えるツノゼミもいるが、ヨツコブツノゼミの場合、ツノは発達しているわりに、何かに擬態しているようには見えない。


こんなにかさばるデコレーションをしょっているのには、きっと生存率を高める何らかの理由(役割)があるからに違いない。その用途はいったい何なのか?
僕の思い描いた「ツノの役割」について記してみる。ここから先は、ド素人の根拠の無い、たあいない想像(妄想)遊びとして読んでいただきたい。

(1)体表面積が広いことに意味があるのかもしれない?
   →放熱あるいは集熱器官としての役割?

(2)コブと柄の部分が共鳴機的な役割を果たすのではないか?
   (固有の振動をひろったり増幅する共振装置?)
   →同じ枝にとまった仲間との振動コミニュケーションに使われる?


ツノの謎については「どんな役割を持っているのか?」という機能としての興味ととは別に「どのようにしてこんな形が形成されたのか?」という形成プロセスへの興味もある。
これについては、ヨツコブツノゼミのツノはなんとなくフラクタルに増殖中な印象を受け、イメージが広がった。

体の形成される過程で、体表面を形作るための細胞分裂が本来ならストップすべきところで停止せず、増殖を余分にくり返したことでフラクタルな形で余剰分が形成されたのではないだろうか──というイメージ。
昆虫の体がどのように形成されるのかは知らないので、そんな解釈は成り立つのかどうかはわからない。あくまでも素人の想像(妄想)ということで。

ヨツコブツノゼミのツノを見て、人間の脳のイメージが重なった。
人間の脳は大脳新皮質の表面積が異常に(?)増えてしまい、それを狭い頭蓋骨の中に納めるためにあのような複雑な折りたたみ皺ができたそうな。
ヨツコブツノゼミのツノを見ていて、体の外側に体表面の余剰分が形成されたら、こんな形になり得ないだろうか……などと漠然と思ってしまった。
余剰表皮──広い体表面積を少ない体積で処理しようとしたら、こんな形もあってよさそうな!?

そもそも、昆虫のツノはどのようにして出来たのだろう?──そんな疑問はずいぶん昔から漠然とあったような気がする。僕が子どもの時には夏にはカブトムシをとりに行ったし、オスにはツノがあること、そのツノは他のオスやクワガタなどとの闘争で使われることは知っていた。
しかし、あれば便利なツノも最初からあったわけではないだろう。ツノはどのようにして誕生したのだろう……という漠然とした疑問である。

昆虫学はおろか生物学も学んだことがないので、僕にこの謎は解けるはずもないのだが、最近、ツノのある虫の話題に触れることで、この謎が再び浮上してきた。
そして、漠然と浮かんだツノ誕生のイメージがあるので、おそらく的外れであろうけれど「思いつき」として記しておく。

この思いつきのきっかけになったのは、たぶん20年以上前にテレビで見たゴキブリの脚の再生実験だった。
その実験を図に再現してみたのだが……ゴキブリの脚だと気持ちが悪いという人もいるかと思い、人間の足に形を変えて描いてみた(この方が気味悪い!?)。




再生は、ギャップがあると連続性のある隣接パーツで埋めるように起こるらしい──ということから広がったイメージである。
アルファベットは連続性を示す便宜上の記号ということで……、







ツノゼミの場合、連続性が完結できる接合部を模索して余剰形成があのような複雑な形をとったのではないか……というイメージが頭の中に展開した。

あくまでもド素人の思考シミュレーション遊び。

無知なド素人の妄想に過ぎないが、色々と想像をたくましくしてくれるのが、自然の造型物の極み・昆虫であり、その最たるものの1つがツノゼミではないかと思う。

ということで、『ツノゼミ ありえない虫』(丸山宗利/幻冬舎)は、虫屋から一般の人まで楽しめるオススメの1冊である。

※昆虫ネタですが書評なのでカテゴリーは【エッセイ・雑記】ということに
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ムダの意義を再発見!?『働かないアリに意義がある』


奇をてらったようなタイトルにはちょっと胡散臭さを感じないでもなかったが、少し前にOhrwurmさんのブログで書評*を読んでいたので(「本書はアリなどの社会性昆虫の生態を一般の人向けに易しく解説したものである」とのこと)買ってみた。
*長谷川英祐著『働かないアリに意義がある』:自然観察者の日常
http://ohrwurm.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-d3e4.html

読みやすく、素人でもわかるように丁寧に書かれた、真面目で興味深い内容だった。

さて、表題の『働かないアリに意義がある』とはどういうことか。
アリといえば『アリとキリギリス』の寓話ではないが「働き者」のイメージがある。
しかし、ふだん我々が目にする「(地表に出て)働いているアリ」は全体からみれば一部に過ぎず、実際は「7割のアリは休んでいる」(第1章)らしい。
その「休んでいるアリ」すなわち待機中の「働かないアリ」を置くシステムがアリ社会をうまく機能させている──というのがタイトルの意味するところである。

それではなぜ「働かないアリ」(待機アリ)がいて、それがどういう意義を持っているのか。これをうまく説明したのが【反応閾値(いきち)モデル】という考え方である。
【反応閾値(いきち)】という言葉を僕はこの本で初めて知ったのだが、「刺激に対して行動を起こすのに必要な刺激量の限界値」のことだそうだ。本書では「仕事に対する腰の軽さの個体差」と説明されており「腰の軽さ(重さ)」として記されている。

例えば、ある働きアリが1匹では運びきれないエサを見つけたとする。処理するには仲間の応援が必要なわけだが、応援要請の刺激に対して、全員が(同じように腰が軽くて)駆けつけてしまったのでは、1ヶ所に必要以上の労働力が集中し、作業効率がかえって落ちてしまう。そればかりか、他の仕事が手薄になって、緊急事態が生じた時など社会全体に損害を与えることにもなりかねない。

しかし実際には、同じ巣の中の働きアリには「腰が軽い」ものから「腰が重い」ものまでいて(反応閾値にバラつきがあることで)、「腰が軽い」ものから順次応援に応じ「腰が重い」が待機する事によって必要な仕事量に応じた労働力が投入できるようコントロールされているのだという──これが【反応閾値モデル】の考え方だ。

東日本大震災では一時期、全国から駆けつけたボランティアが被災地に過剰に集中して混乱を招いたことがあった。アリの社会ではこうした事態が起こらないように、必要に応じた労働力が過不足無く充てられるよう、シンプルにして効率的な仕組みができあがっていたわけだ。

人間とアリは、高度な社会を築いているという点で、よく比較されたりする。しかし人間のような大きな脳(情報処理器官)を持たないアリが社会を営むにはヒトとは全く違うシンプルなシステムが採用されているはずだ。僕は漠然とそう思っていたのだが、【反応閾値モデル】という概念には「なるほど!」と納得。新鮮な驚きを感銘を覚えた。

この本には他にも社会性昆虫にまつわる興味深い話を中心に色々と面白い昆虫ネタが紹介されている。僕が概要を説明するより本書を読む方が、解りやすくて面白いだろう。
また、紹介されている社会性昆虫のシステムもスゴイが、それを解き明かしてきた(解き明かしつつある)研究者の努力や洞察にも感心してしまった。

昆虫の多様性には感心する事が多いが、それにしても巨大な脳(情報処理器官)を持ち得ない昆虫がシンプルなシステムで高度な社会性を築くに至ったのはスゴイことだと思う。
進化の歴史の長さや世代交替の回数、一度に産まれる子どもの数などから見れば、人間よりはるかに進化を極めた昆虫ならではのことだろう。

逆の見方をするなら、人間よりはるかに進化を極めた昆虫が獲得した社会性──これに劣らない(?)社会性を、人間は全く別のシステムながら、(昆虫に比べれば)わずかな進化の中で(?)獲得できたというのもフシギな気がする。
人間になぜそんなことができたのだろう──と、本書を読みながらそんな事をあにためて考えてしまった。

ヒトは「概念」を理解し共有することで、昆虫とは全く違うシステムで複雑な社会を構築し営んでいる。そうとうざっくり言って──これを可能にしたのは、膨大な情報を処理する器官=脳の発達だろう。
他の動物と比べ過剰に増えた脳細胞──おそらく増殖時点では無駄に発達した脳細胞の余剰分──いってみれば脳の「空き容量(?)」が増えたことで、ヒトは意識や言語を獲得し「概念」の理解ができるようになった……と僕は理解している。

考えてみれば、ヒトの「脳細胞の余剰」は「働かないアリ」とちょっと似ている。
その時点では役に立っていないムダに見えるが、実はこれが大変重要な意味(意義)を持っていたわけだ。

無駄が無く効率よく機能しているシステムは一見理想のように見えるが、そこには創造性や次なるステップアップが生まれる余地はない。

そう考えると、せわしなく効率化を求め、無駄を排除したがる現代の風潮に対して、あらためて色々思わないでもない。
「ムダに意義がある」──そんなことは人生においても言えるそうな気がする。