2011年06月の記事 (1/1)
- 2011/06/23 : 『ザ・フェレット』&ノーマルフェレットのマーキング [フェレット]
- 2011/06/20 : 刺さない蜂!?ライポン [昆虫など]
- 2011/06/08 : ヒバカリ(ヘビ)の飼育プチ記録 [小動物など]
- 2011/06/05 : 極小ツタンカーメンの季節!? [昆虫など]
- 2011/06/04 : 人はなぜ《霊》を感じるのか [エッセイ・雑記]

ペット・ガイド・シリーズ ザ・フェレット
待望の最新刊フェレット飼育書『ザ・フェレット』である。飼育方法について実にきめ細かく丁寧に記されており、さらに生態・医学・歴史などについても詳しく解説されている。アカデミックな最新情報を紹介する一方、愛鼬家たちの飼育経験なども具体的にとり上げられていて、フェレットに対する知識と愛情がつまった充実の一冊となっている。これから飼おうと考えている人にも、すでに飼っている人にもオススメしたいフェレット飼育書の決定版。当時、ノーマルフェレットは一般家庭で飼うには不向きとされていたのだが、グランジは問題無く飼いつづけることができ、信頼関係もしっかりと築くことができた。そんなノーマルフェレットの飼育経験をイラストとともにちょこっと紹介させていただいた。
ノーマルフェレットの散歩のようすは下記のプチアルバムやフェレット漫画でも紹介しているので、ご覧ください。

こんなステキなフェレット飼育書に微力ながら協力させていたくことができ、とてもうれしい。著者の大野瑞絵さんには2007年発行『小動物ビギナーズガイド フェレット』(大野瑞絵・著/井川俊彦・写真/田向健一・監修/誠文堂新光社・刊)でも、折り紙フェレットやグランジの写真を紹介していただいており、感謝しております。
ノーマルフェレット♂のマーキング

※↑『ふぇレッツ・ゴー』より
マーキングに適した掲示板をみつけると、またぐようにしてニオイの書き込みをしていく。

百聞は一見にしかず──ということで、そのようすを動画でも紹介してみよう。尻尾が上がっているときがマーキングしているときである。
場所によってはつかまり立ちするようにして「書き込み」をすることもある。
嗅覚の世界に生きているフェレットにとって、マーキングのもつ意味は大きいのだろう。
ちなみに、ちょこっと出てくるもう1匹は、散歩仲間のニューターフェレット♂。ノーマルフェレット♂のグランジと体長は変わらないが体格(太さの)差があるのがわかっていただけるだろうか。
◎しっぽの役割:編(フェレット:尾の役割&しっぽ振りの意味)
◎超魔術イタチ:編(&動画【超魔術イタチ】/ケバエ幼虫との遭遇)
◎グランジ目線で散歩:編(&グランジが散歩した距離/動画【快走!散歩派フェレット】)
◎イタチと迷信!?:編(イタチは不吉!?)
◎ニオイでほんろう:編(最後っ屁対決!?/&【イタチのさいごっぺ】について)
◎すっげ~:編(最大のハプニング!?)
◎忍者イタチ:編(&忍者イタチ動画)
◎『フェレットinジャケット』(フェレット漫画第1作)
◎ハムスペ新人まんが大賞受賞作:編
◎『フェレットのいる風景』
※フェレット掌篇童話★『チョコといっしょのおるすばん』
「ライポン」という刺さないハチ。これを素手でつかまえたり、リードをつけてペットのように散歩させる──そんな遊びが昭和の後期、一部の地域の子どもたちの間で流行ったという。
「ライポン」が吸蜜におとずれる白い花には子どもたちがこぞって集まり、その木(ネズミモチ)は「ライポングサ」とか「ライポンの木」と呼ばれていたそうだ。
ネット検索して得た情報を総合すると昭和40~50年前後、東京の城南地区といわれる大田区、目黒区、品川区あたりでは「ライポン」を知らない子はいなかったらしい。
コマルハナバチの♂が「ライポン」と呼ばれ、ある時期、限定的な地域で子どもたちに大人気だった──ということを僕が知ったのはだいぶ後の事である。
なんだかちょっと面白い話だと心に残った。
ライポンは「刺さない蜂」として子どもたちの間には広まっていたようだが、正確には「蜂の♂だから刺さない」というべきだろう。ハチの毒針は♀の産卵管が変化したものだ(全ての種類のハチが「刺す」わけではないそうだ)。だから同じ種類のハチでも♂は刺さない。コマルハナバチも♀は針を持っていて刺すが、刺さない♂(ライポン)とは、まったく違う色(黒い体に尻が黄色)をしているので間違える事は無い。むしろ一見別の種類のように見える(コマルハナバチ♀はクマバチとよく間違えられる)。それで全身黄色っぽく見える「コマルハナバチの♂」が「刺さない(種類の)蜂」として知られ、広まっていったのだろう。
それにしても、ハチを捕まえて糸につないで「空中散歩させる」なんていう遊びがどうして流行ったのだろう。
ハチといえば一般的には「毒針で刺す」イメージから恐れられたり嫌われる存在だろう。実際にスズメバチに刺されて死ぬ人も毎年後を絶たない。
昆虫の中には毒を持たないカミキリやガでハチに擬態して身を守っているものさえいる──ハチは「敬遠される虫」である。
※ハチを思わせる蛾/https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-65.html
※ハチそっくりのカミキリ/https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-66.html
そんな恐れられ、嫌われている存在を遊び相手にするというのは──ちょっと意外な感じもするが、その「意外性」が逆にウケたのかもしれない。
おそらくその頃人気だったTVアニメのキャラクターに「オバQ(オバケのQ太郎)」というのがあった。
オバケも、もともとは恐れられたり忌み嫌われたりする存在である。しかし、それを友達としてしまう設定の意外性──これが子どもたちにはウケた理由の一つだったろうと思う。
「ライポン」にも「オバQ」同様、ハチの怖いイメージを払拭しペット化して迎え入れるという意識改革による快感(?)のようなものがあったのではないだろうか?
さて、そうした「嫌われ者が一転して人気者になる」という意外性にブームになり得る要素が潜んでいたとして……疑問なのが、どうして1地域に限って大流行したのかという点である。
コマルハナバチは城南地区限定の昆虫ではない。分布は全国的であり、当然「黄色い♂は刺さない」という条件(生態)も全国一緒である。なのに、大ブームが限定的だったという点が不思議な気がする。
城南地区で子ども時代を過ごし「ライポン」で遊んだことがある人達は、その後別の地域で育った人に「ライポン」が通用しない事を知って大きく驚くようだ。
実は「ライポン」というネーミングにブームの秘密があったのではないか──と僕はひそかに(?)考えている。
「ライポン」という愛称の可愛らしい響きは、このハチにピッタリである。そしてこの愛称によって、このハチの可愛さが強調されて子どもたちの注目を集める効果をはたしたのではないか。
「コマルハナバチ」では一般的なキャッチは良くない。標準和名で子どもたちが感心を示す事も無いだろうが、「ライポンをとりに行こう」と言えば「それは何?」と感心が呼び覚まされるのではないだろうか。そこで「刺さないハチ」「空中散歩ができるハチ」という意外なキャッチフレーズ(?)が認識として浸透・広まり、ライポン遊びのブームにつながったのではないか?
狂牛病やクロイツフェルト=ヤコブ病の病原体として浮上した仮説の感染単位が「プリオン」という名前の発明によって、脚光を浴び確固たる概念を構築したように、キャッチの良いネーミングは革新的なイメージを構築することがあるのだろうと思う。
城南地区に「ライポン」ブームがおこったのは、そこに「ライポン」という呼び名が生まれたからだ……という気がしないでもない。
そこで「ライポン」というネーミングの由来について知りたいところなのだが……これがよくわからない。
本当の所は「ライポン」と呼び始めた人たちにしか判らないのだろうが……その情報をみつけることができないので、無理矢理想像するに──、
「ライポン」の「ライ」あるいは「ライ○ン」の部分は「ライオン」に由来するのではないかという気がする。
「ライポン」は別名「キグマ」とも呼ばれていたらしい。これは「黄熊」つまり「黄色い熊蜂(クマバチ)」という意味だろう。
体の(腹の)黒いハチを「熊」蜂と呼ぶのにならって(?)、黄色い蜂に「ライオン」を当てはめるのは発想としてあっても良さそうな気がする。
「ライオン蜂」では長いし語呂も悪いので「ライポン」になった……と想像するのは不自然ではないだろう。
では「ポン」にはどんな意味があるのだろう? まず思い浮かんだのが「ポンポン」──玉房状の飾りである。Wikipediaによれば、服飾用語で毛糸やリボン、毛皮などで作った小さな飾り玉のことを「ポンポン」(フランス語のpomponからの外来語と考えられているとのこと)と呼ぶという。
「ライポン」の毛羽立ったフワフワの体は「玉房状の飾り」を思わせる。「ポン」の由来がここにあったとしても違和感は無い。
次に想像したのが「蜂」という漢字は「ポウ」とも読めることから「ライオン蜂」が縮められ「ライ蜂(ポウ)」→「ライポン」と呼ばれるようになったという可能性である。
「蜂」が「ポウ」と読まれるケースには、ミツバチの「分蜂(ぶんぽう)」などがある。
「ポウ」ではないが「ボウ」で呼ばれるハチもいる。メタリック・ブルーが美しいセイボウは漢字で書くと「青蜂」である。
※メタリックに輝く虹色のハチ/https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-28.html
「青色の蜂」が「青蜂」と呼ばれているのだから「ライオン色の蜂」が「ライ蜂」と呼ばれ、それが「ライポン」になった──という説があっても、おかしくはあるまい。
また調べてみると、「ポン」にはアイヌ語で「小さい」という意味があることがわかった。地名の「ポンピラ」は「小さい(ポン)崖(ピラ)」、「ポンモシリ」は「小さい(ポン)島(モシリ)」というアイヌ語に由来するそうだ。
余談だが「ポン」の反対語は「ポロ」で、「札幌」はアイヌ語の「乾いた(サッ)大きな(ポロ)川(ペッ)」とする説もあるそうな。
「ポン」を「小さい」という意味でとらえると「ライオンっぽい小さなハチ」を「ライポン」と呼ぶのは実にピッタリくる(と個人的には感じる)。
ただ、東京でなぜアイヌ語なのか……という疑問は浮かばないでもないが……。
当時は「ライポンF」という家庭用台所洗剤(現在は業務用のみ)があってテレビCMも放送されていたので、単に響きの良い耳に残るこの「ライポン」とかけて(?)こう呼ばれるようになっただけなのかもしれない。
いずれにしても想像の域を出ないだけに「ライポンの謎」はずっと解けずに残ったままである。
「ライポン」と初めて呼び始めた人やネーミングの経緯を知っている人は、まだ生きているのではないか?
生き証人がいるうちに誰かがこの源泉をつきとめ「ライポンの謎」を解明してくれないものだろうか?──そう思わないでもない。
全然話は違うが、一時期流行った「ピーマン」という言葉の語源──野菜のピーマンに由来するとの認識が一般的だが、僕はある人物のあだ名「プチコンマン」が源泉ではないかと考えている。
※【追記】「ライポン」の由来につついて、kz_**さんより貴重なコメントをいただきました。
《ライポンは触ったあとの手の匂いが洗剤の匂いに似ていることから着いたニックネームだったと思います。音感もハチのイメージとマッチしたので(この地域では)定着したのでしょうね。》
ニックネームの由来が、香りにあったとは……貴重な情報をありがとうございました!
※昔流行った「ピーマン」語源/震源地は僕ら?
https://hoshtani.blog.fc2.com/blog-entry-115.html
「噛まれると、その【日ばかり】しか命が持たない」というのが名前の由来だそうだが、実際は無毒のおとなしい和ヘビである。
※このあとヘビの画像が出て来るので、嫌いな人は注意されたし
ヘビの不思議&魅力
ヘビが嫌い、あるいは怖いという人は多い。「風変わりで未知なるもの」に対する「不気味さ」がその理由の1つだろう。しかし、この「風変わりで未知なるもの」という点が、不思議で興味深いところでもある。
まず一見してわかる特徴が「ヘビは脚を持たない」ことだ。進化の途上で地中に潜っていた時期があって退化したという。その容姿も風変わりだが、さらに驚くのは「脚がないのにスムーズに移動できる」ということだ。
ヘビにはいくつかの歩き方(?)があるが、よく見かけるS字に体をくねらせて滑るように進む「蛇行運動」は見事である。地面に描くS字の形を変えずに頸部が通ったあとを胴・尾と続いて通っていく。草のかげにその一部がのぞいているときなど、ホース状の物体がふくらんだのち細くしぼんでいき消えていく──そんなふうに見える事もあって「四次元物体が三次元空間を通過したかのようだ」などと感心したこともあった。
このヘビの蛇行運動は、まるで意志をもった小さな川の流れのようでもある。この小さな流れは下から上へも移動できるし、木にさえ上る。手足が無いのにスムーズに移動するようすにはマジックを見せられているような驚きさえ感じる。
蛇行運動では複雑な力学運動で体を一定の方向に滑らすことで移動している。ざっくり言えばアイススケートのようなものだ。マイケル・ジャクソンのムーンウォークを初めて見たときは驚いたが、ヘビの蛇行運動にもそんなトリッキーな面白さが感じられる。
●自分の頭より大きな獲物を丸呑みにできる!
(もちろん手で押し込んだりできない)
●頸より太い獲物を丸呑みにできる!
●口を開けずに舌を出し入れできる!
等々。文章にしてみると、なんだかちょっと眉唾ネタのような感じがしないでもない。
まるで「正座をしたまま頭の上に置かれたリンゴを蹴落とすことができる」みたいなジョークのようだ。
しかし、もちろんこれらは本当のことだ。
ヒバカリの飼育プチ記録



下あごの骨は左右つながっておらず(先端が弾力のあるじん帯でつながっているだけ)、クワガタの大顎のように左右に広げることができる。左右独立した下あごの片側で獲物をしっかりおさえ、もう片方の側で深くくわえ直してひきよせる。この動きを左右交互にくりかえすことで、次第に獲物を深くくわ込み食道に送り込むことができるわけだ。
また、獲物が喉につかえて窒息しないように気管が下あごまでのびてきている。

魚をとらえた時は頭から呑み込むものだと思っていたが、必ずしもそうではない。ただし、頭から呑み込むときより尾から呑み込む方がずっと時間がかかる。
ヘビは獲物を丸呑みするため、頸や胴は大きく広がる。ひろがった部分では、ふだんウロコの下にたたまれている皮膚がのぞく。
餌には魚やオタマジャクシを与えていたが、幼蛇にはミミズを与えたこともあった。ただ、釣具店で市販されているシマミミズは毒成分(ライセニン)を持つので餌には不適。当時それを知らずに与えたところ、呑み込んですぐ吐き出してしまった。
ヘビの眼を覆ったコンタクトレンズのような透明なウロコも脱皮のさいには古い皮といっしょに脱げる。脱皮で表面の古いウロコがきれいに剥離するための準備なのだろう。脱皮が近づくとヘビの眼は白っぽく濁ってくる。

脱皮は吻端からめくるようにおこり、反転した頭部が自分の体を呑み込んでいくように進む。この様子も他の動物では見られない不思議な光景だろう。
脱ぎ終えた抜け殻は裏返ったストッキングのような形で残る。


卵は柔らかく、水分を吸って膨らむ。孵化のさい子ヘビは卵を「割って」出て来るのではなく「切って」出てくる。






この飼育槽に♂と♀の2匹を入れており、シェルター(小箱)も2つ用意したが、2匹はたいてい同じ箱に入っていた。
[追記]我流飼育方法
上の記事をアップした後、「ヒバカリ」を検索して下記サイトをみつけた。http://allabout.co.jp/gm/gc/69803/
http://allabout.co.jp/gm/gc/69803/2/
http://allabout.co.jp/gm/gc/69803/3/
僕のヒバカリ飼育方法とは違っているところがあり(僕のは我流なので当然といえば当然なのだが)、ちょっと驚いた箇所もあった。そこで上記サイトの飼育法とは違う点について僕の飼育方法と考え方について少し加筆しておくことにした。
※どの飼育方法が正しい──ということではなく、僕はこう考えて飼育環境を作ったという説明である。
湿度を保つことを重視してのことのようだ。
土を使い、しかも湿度を保つとなると、雑菌の温床になりそうな気がしないでもない。
ヘビは消化力が強くて丸呑みにした餌を見事に消化してしまう。糞はアンモニア臭がするのできれいに取り除いておきたいものだ。マットや土では染み込んでしまうのでキレイに取り除くのは難しいのではないか?
新聞紙なら「しみた部分ごと」丸ごと交換してしまえば良いのだから、手っ取り早くて衛生的だと考えていた。
「冬眠」が生き物にとって大きな負荷をかけることは容易に想像できる。
自然界では冬眠をしないと生き残れないので選択肢はそれしかないわけだが、健康・体力に問題がある個体だと冬を越せずに死んでしまうケースも少なくないのではないか。
飼育下では人が温度や湿度・餌の管理ができるのだから、なるべく負荷をかけない方法を選択した方が無難だろう──というのが僕の考え方だ。
そうしたことと関係があるのかもしれないが、うちでは冬眠をさせずに飼育していたヒバカリは、年々産卵の時期が早まっていった。
ツタンカーメンとキアシドクガ
先日、キアシドクガとその蛹をみかけた。この蛹の抜け殻を見ると思い出すのが人気漫画『とりぱん』(とりのなん子/講談社ワイドKCモーニング)。この第3巻に「天然超ミニツタンカーメン」(第63羽)、「極小ツタンカーメン」(第65羽)として登場するのが、キアシドクガの蛹だと思われる。

成虫が羽化した後のキアシドクガの蛹(抜け殻)は半透明になって、ちょっと「透き通った金色」に見えなくもない。

虫のぬけがら1つとっても、よく見ると面白い。
身近な自然の中には、いろんな「おもしろさ」が隠れている。
「人はなぜ、お化けや幽霊を信じるのか?」
前日記の「人はなぜ宝くじを買うのか?」と同様にしばらく謎に思ってきたことのひとつである。
いわゆる心霊現象やお化け・幽霊の類い──これも「道理」で考えれば信じる事が難しい。しかし実際はといえば、信じている人が意外に多い。
「道理」では「いない」とわかっていても、いざ独りで寂しい場所に置かれると「出そう」な気配をリアルに感じ、(頭では否定している)幽霊の存在に怯えてしまう──そんな経験をした人は少なくないのではないだろうか。
これは人が比較的新しく獲得した「理性(による否定)」よりも、本能に近い「感情(による肯定)」がより優位に(強く)働くことで、「《霊》が存在する」という認識が生まれる──ということなのだろう。
僕は《霊》を昔から「物理的には存在しない」と考えていたが、あるときから「心理的(主観的)には存在する概念」とも考えるようになった。
ちょっと妙な例えだが《霊》は「重心」のようなものではないかと思う。
人が物理現象をとらえるとき、物体の質量を「重心」という点でイメージすると判りやすいことがある。しかし、実際に「重心」という点が物理的に存在しているわけではない。「重心」は人の脳が円滑な運用(理解・納得)をするために作りあげた便宜的なイメージに過ぎない。
《霊》もまた、物理的な存在ではなく、脳が運用上の都合(?)で生み出したイメージなのではないか。
では、物理的には存在しない《霊》のイメージが、なぜ人の心に生まれるのか?
これには人が獲得してきた社会性と深く関わりがある──と僕はみている。
人は強い社会性を築く事で生存率を高めてきたといっていいだろう。
しかし社会性を築くためには個体同士が同調できるよう「つながっている」必要がある。
ところが個体同士は神経が繋がっているわけではないから、本来ならそれぞれの感情は互いに伝達しない。そこで、自分の心を他者に投影するシステムが発達したのではないか。つまり、自分が感じている他者の心というのは相手の本当の心(神経が繋がっていなければわからない)ではなく、自分の中に作り上げられた相手の心のダミーイメージだということである。こうした「心の投影システム」によって人は他者の《気持ち》をおもんぱかる事ができるようになったのではないか。
人は自己の内部にダミーイメージを作り、それを他者の心として認識する投影システムを発達させる事で、(みせかけ上の)「共感」を得、個体同士の「つながり」を強化・シンクロ化できるようになったのだと僕は想像している。
他者の存在として感じる気配は、実は自己の心の一部(の投影)だということである。
例えば子どもは作り物の人形にあたかも魂があるかの様にふるまう。これは「心の投影システム」によって人形にも「心」があると認識(誤認)・実感するためだろう。
この「人にとって必要な」投影システムの誤作動・過剰反応が、本来そこに存在しない「心」を認識(誤認)させる──これが《霊》の正体だと僕は考えるようになった。
余談だが「ダンゴムシにも心がある」と考えそれを研究している人もいる(※)。『ダンゴムシにも心はあるのか』の著者は、著書の中で「ダンゴムシの心」どころか「石の心」についても触れている。
人が感じる「心」の気配は、無機物にも投影され得る──ということなのだろう。そう思えないでも無い。
人が生存率を高め繁栄する基盤となった社会性──それを構築する上で必要だった心理システム──これが一見「道理」では説明がつかない《霊》を認識(誤認)させるのだろうと考えるに至ったわけである。
《霊》の認識やその意味については他にも色々な要素・パターンが絡んでいそうだが、いずれも、この「ダミー投影システム(?)」が根っこにあってのことだろうと考えている。
心霊現象を積極的に(?)信じている人は、世の中の理不尽な出来事、説明がつかない現象を、こうしたツール(?)を使う事で解釈できる(納得できる)心理構造ができあがっているのではないかと思う。「心が納得するための便宜的なイメージ」という部分では、ちょっと共通する感じがしないでもない。
※【ダンゴムシの心?】
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