2011年04月の記事 (1/1)
原発事故の影響をうけ電力不足への危機感が高まり、節電が求められる昨今である。
計画停電が行われた当初、近所のダイエーに行ったら1階と2階をつなぐエスカレーターのうち《下り》だけが止められていたことがあった。
「節電にご協力ください」というようなプレートがかかっていた。
《昇り》を止めてしまうと2階へ行く客が減り、それでは売り上げに影響がでるという判断で《昇り》は止められなかったのだろう。
いずれにしても、節電対策で下りエスカレーターだけが止められていた。
このとき思ったのは「《下り》ならば電力を使わずに動かせるだろうに」ということだ。
高い所から低い所への移動ならば、電力など使わなくても重力を使ってできるはずだ。ステップに乗った人の「重みで低い方へ移動する(下がる)」ようにすればよい。
安全のためスピードが出過ぎないようコントロールすることは必要だろうが、それは機械的なしくみでも(電力を使わずに)可能だろう。
もっといえば、《下り》で人が降りるときの力を使って発電機を回し、電力を生み出すことだってできるはずだ。「落差」を利用して発電する水力発電と原理は同じ。
例えば下りエスカレーター天井の照明などは人がエスカレーターを使用しているときに点灯すればよいわけだから、人の降下運動によって生み出された電気を利用して点灯するようにすれば、外部からの電力は使わずに済む。
さらに、駅のエスカレーターなど時間帯によって《下り》が《昇り》よりも明らかに利用率が高い状況では、多くの人(重い)が降下する力を利用して、《昇り》側の少ない人(軽い)を上昇させるなんてこともできないではない。シーソーで重い方が下がり軽い方が上がるのと同じ原理だ。(※イラスト)
こんなシステムができれば、ずいぶん節電になるのではないだろうか?
重力を利用した(下り)エスカレーターを使えば、とりあえず電力を使うのは《昇り》だけで済む。
その《昇り》も《下り》の重さを利用すれば、電力をある程度(重力で)カバーできるだろう。
さらに想像を広げれば、供給電力に余裕のある夜間に、例えば(重り用の)水をくみ上げておき、この水(重り)を《下り》側に使って《昇り》側を動かす事も(理屈としては)できるはずで、電力需要の高まる時間帯の節電になるし、割安な夜間割引を利用する事で電気代も節約できるかもしれない。
もっとも夜間にくみ上げた重り用の水を貯めておくスペースや設備の強度なども必要だろうから現実的かどうか検討する余地はあるだろうが……。
ダイエーの節電対策で止まった下りエスカレーターをみて、そんなことを考えてみたしだい。
森山氏は主観的には「心」は「内なるわたくし」であり、客観的には「その(内なるわたくしの)気配」を察することで「心」を感じる事ができると考えた。
「内なるわたくし」はふだん外からはみえない「隠れた活動部位」の存在であり、それは「抑制された行動」である。
この(心が)抑制していた行動は、思いがけない局面に遭遇した時に表に出てしてしまうことがあり、それが「未知の状況」における「心の働きの現前」であると著者は考えを進めた。
観察者は、観察対象を未知の状況に遭遇させ、予想外の行動を観察することで、その心の存在を確かめることができます。(『ダンゴムシに心はあるのか』P.159)
以前、量子論で心を説いた仮説(?)があったが(かいつまんでいうと、素粒子の不確定性がその個体の行動決定に関与し、そこに心・自己が発生するという理論)、その説を知った時は「着眼はおもしろいけど、飛躍に過ぎる」と感じた。
森山説は、それに比べると、さほど突飛ではないけれど、説得力が今ひとつという気がする。
それは「心」なのだろうか?──そんな基本的な疑問が、ずっとついてまわった。
無生物にまで心があるとみなす「心の定義」というのは正しいのだろうか……。

一例をあげれば、「環状通路実験」(↑)──水を張った堀に囲まれたリング状の通路に障害物を配し、そこにダンゴムシを置いて行動を観察する実験では、ダンゴムシは通路の外周に近い部分を歩く(水を張った堀に阻まれるため)ようになるが、行けども行けども水に行く手を遮られるという「未知の状況」に置かれたダンゴムシは障害物に「乗り上がる」という「予想外の行動を発現」した──故にダンゴムシには「心」がある──と森山氏は解説している。
次第に通路中央部の障害物へ「乗り上がる」という行動を発現しだしたのです。個体は障害物をしっかりつかみ、数秒間滞在します。また、アンテナを盛んに、そして大きく旋回させます。
この乗り上がり行動は、さしあたっては、何かの役に立つようには見えません。なぜわざわざ障害物に乗り上がったのでしょうか。初めてこの行動を見ときの率直な感想は「わけがわからん。でも、何だか意味深長だなあ」でした。しかし、それでこそ、実験成功です。このように、観察者である私たちが理由を見いだせない行動こそ、「予想外の行動」なのですから。(P.123~P.124)
僕にはこの実験結果──ダンゴムシのとった行動は、しごく当然ことのように思われた。
リング状の通路に放たれたダンゴムシは「その場から離れようとして歩き回る」が、行く手が水をはった堀で阻まれるため、結果として外周にそって(交替性転向でジグザクしながらも)歩かされる形となるのは当然だろう。
しかしそうした行動をくり返していても、通路から逃れるルートはみつからない。現行行動ではその場から離れることができないことは生体フィードバック(?)で確認できるだろうから、それを受けて、やがて出力に変化(修正)がおきる──行動可能性範囲が広がり、障害物に「乗り上がる」行動がみられるようになったではないか……僕ならそう解釈する。
野外で小さな石に出合うたびにそれへ乗り上がっていては、移動がままなりません。また、悠長にその上でアンテナを振り回すことは、捕食者の標的になるだけです。(P.129)
とし、むしろダンゴムシにとって不利益な意味不明行為に走ったことから「(通常では抑制されている)予想外の行動」があったと解釈している。
平面上に歩いていたのでは通路から逃げ出せないことを学習したダンゴムシが、立体方向へ脱出ルートを求めて障害物に登ったとも考えられる。登って触角をさかんに振っていたというから、その先に伝って脱出できる足場を探していたと考えるのが自然な気がする。これも自律的な運動(行動)だが、これをもって「心」があるとするのは飛躍というものだろう。
森山説では「心」を認める基準──「予想外の行動」が、観察者によって変わる主観的な物差しである点に(科学的実験としては)問題があるように感じる。
もし、乗り上がり行動がいわゆる学習によって獲得されたならば、その出現率は次第に増加し、そしてある一定の値に保たれるでしょう。しかし、そのような単純な学習は、心を持たないようにプログラムされた機械が得意とするところです。
一方、現実のダンゴムシは心を持っています。したがって、乗り上がり行動の発現率は、初めは確かに増加するのですが、その後は減少と増加を、「意味深長に」続けました。それは、まさしく「心のうつろいの証」なのです。(P.131~P.132)
「乗り上がり行動」の最初の増加は学習だろう。しかし、それをくり返しても、そこに脱出ルートが見つからないということを学習すれば、その後減少に転じる事は自然に思える。
森山氏は「乗り上がり行動」を「さしあたっては、何かの役に立つようには見えない」と記しているが、ダンゴムシも「乗り上がり行動」をくり返すうちに、その行動が「役に立たない(脱出できない)」ことを「学習」したのだろう。
僕はド素人なので、僕の側の理解不足が原因でそう感じるのかもしれないが……「別解釈」を否定するには、まだ色々な実験が必要な気がした。
しかし「心はある」と感じたり考える人がいてもおかしくはない。
僕が考える「心」でいうなら、「(人形などの)心が無いもの」にも「心があるかのように反応(錯誤)してしまう」──それが「心」である。